妄想・老人自衛官

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 防衛力の増強を打ち出した政権は人材確保のため自衛官の採用可能年齢の上限を撤廃する法律改正を行った。これで、法理上は90歳でも100歳でも自衛官として採用できるようになった。

 意外にも、将来に希望の持てぬ老人達が志願に殺到してきた。防衛省としては定年で退職した元自衛官の志願を内心目論(もくろ)んでいたのだが、思いのほか一般の定年退職老人たちまでもが群れをなして志願票を投函してきた。

 老人たちの心中はといえば、これは単純な愛国心や義勇ではなかった。5倍に増えた防衛費を背景とする1千万円の年俸と死亡時の償恤(しょうじゅつ)金1億円は、老い先短い者にとって死亡保険金代わりの家族への遺産と見れば魅力という他なかったのである。しかも、用無し老人として家族から嫌われながら余生を送るより、いっそ戦争に行って射殺でもされたなら「じぃじはあなたたちのために命をかけて戦って死んでくれたのよ(泣)」などと、日頃冷たい息子の嫁が涙ながらに孫に語るかもしれないではないか。とどのつまり、言うならば、「(うと)んじられて百歳の天寿を全うするよりもいっそのこと戦死した方がマシ」という身も蓋もない自暴自棄である。

 そんな折も折、遂に発動されたのが樺太(からふと)攻略作戦である。

 この頃、長期化するウクライナ戦争にケリを付けようとして一挙にロシアへの攻勢を試みた米欧基幹の多国籍軍は、思いのほか粘り強く抵抗するロシア人特有の罠に(はま)ってしまっていた。歴史的にロシア人は広大な地形縦深を有利に使い、時間をかけてじりじりと下がりながら敵をすり減らすのが得意なのだ。クロス・ドメインの現代戦においてもこれは同じで、ロシア人は広大なサイバー空間、多数の人口をも活用して歴史の教訓通り戦線をわざと泥沼化させ、これに米欧多国籍軍を()め込んでしまった。米欧は戦局を打開しようとしてさまざまな手を打ったが、これはかえって国際情勢を複雑化させ、諸国の離脱や非協力を招き、結局は第三次欧州大戦にまでエスカレーションしてしまったのである。のっぴきならない欧州戦線に手いっぱいの米欧諸国は、日本に側背よりするロシアへの牽制を要求し、日本政府はこれに屈したのだった。

 投入されたのは多数の臨編(りんぺん)老人連隊からなる5個老人師団で、隊号はそれぞれ第15・16・17・18・19師団が付与され、防衛大臣から隊旗が授与された。同時に既存の北部方面隊よりなお北方においての戦闘が期待されたから、杜撰な臨時国会で方面隊の編制案が通ってしまったことで「極北部方面隊」の隊号が与えられた。最高齢者は陸士(陸軍士官学校)57期出身の100歳老人、階級は陸将、職務は第15老人師団長である。勿論、単なる名誉であって、脳の溶けかかったこんな者に師団の指揮など()れる筈もなく、かてて加えて幕僚も皆70歳~90歳の老人となるとその戦力への期待度など推して知るべしである。

 極北部方面隊司令部の幕僚の中で、最若年の3佐は65歳だったが、彼は「こういうことは若い人にやってもらわないと」などと、七面倒くさい事務を老人幕僚や老人部隊長からパワハラさながらに押し付けられ、防大一桁期の先輩後輩の間柄では断れず、そのため、戦後になってから老人性鬱病を(こじ)らせた挙句ついには躁転(そうてん)し、絶叫しつつフル全裸でフル携行弾数かつフル装填の64式小銃を()()げ所属駐屯地の営門を走り出していったものだ。乱射事件となり90人以上を射殺、戦後最悪の連続殺人――戦後、と言っても、戦後とは一体どの戦後を指すのかいまや不明というほかない――となってしまった。この一件は後を引き()り、今でも社会問題として人々の悪夢と苦悩になっている。

 さておき。

 主力3個師団は大勢力を威に借り敢然亜庭(あにわ)湾からの上陸を企図した。その他残余の一部については側背から樺太を牽制しつつ国後(くなしり)島を孤立させることが期待された。

 そこで、歴史にその名も(しる)択捉(えとろふ)島・単冠(ひとかっぷ)湾から、掛け声だけは突撃精神軒高に、しかしいかにも老人そのものの足どりでヨタヨタと上陸した老人2個連隊であった。同じく老人ばかりからなるスクラップ寸前の護衛艦・輸送艦を寄せ集めた海上自衛隊臨時極北警備区担任の主力と、やっぱりこれもスクラップからサルベージしたF-4主力の航空自衛隊臨時極北部航空方面隊の、一応は手厚い掩護を受けてはいる増強2個戦闘団編成で、戦車・砲迫・高射などが配属され、数字だけでいえばなかなかの壮容(そうよう)である。だがしかし、当然と言おうか、上陸直後から頑強なロシアの火力に射すくめられ、前進は停滞、前方に見える標高200メートルあまりの高地を抑えさえすれば砲迫をはじめとする各種火力によって攻撃は進展するはずであったが、その高地の奪取は思うようにいかなかった。

 そもそもこの無謀な作戦は、政府が少子高齢化による年金政策や健康保険政策に行き詰まり、老人を一掃してしまおうとして考え出したものだ。だから、政府としては老人が全員討ち死にしてくれれば、失政の糊塗と同時に米欧への軍事的言い訳も立ち、一石二鳥というものだったのである。

 そうしたある日のことだ。ひいては作戦全般に影響を与え、欧州の戦局をも変転させる椿事(ちんじ)が起こった。

 戦車大隊からの戦闘団配属ということで普通科連隊に来ていた数両の61式戦車のうち、配置変更のため後方地域を静かに走行していた1両――「どうせ老人が乗るんだから、戦車も襤褸(ボロ)の老戦車でよかろう」と考えた陸上幕僚監部の愚策である――が、突如、敢然(かんぜん)砲身を敵の蟠据(ばんきょ)する高地山脚へピタリと向け疾走し出したのだ。

 どうせ機甲戦力の突進などありえまいと高をくくっていた1個機械化中隊マイナス程度、せいぜい3個小隊弱のロシア側は対戦車火器の管理運用が杜撰(ずさん)で対処が間に合わず、突如現れた61式戦車の突進に動揺した。

 勿論、戦車の周囲で待機していた日本側老人普通科連隊の連中も、指を(くわ)えて見ていたわけではない。「おおい!や、やめろ!」「止まれ、止まれーッ!」「自殺する気か、ダメだストップ!」と叫びながら61戦車を止めようと後を追って走ったが、なにしろ老人のことだから、叫んでいる内容も呂律(ロレツ)が回らず、絶叫にしか聞こえない。

 対する高地側陣地のロシア側は次のように受け取った。すなわち、見よ、日本戦車の玉砕攻撃(カミカゼ)だ!周囲に多くの歩兵を随伴してきている、これぞ噂に聞く、歴史に名高い日本人の万歳突撃(スーサイド・アタック)だ、ついに来たか!日本の歩兵たちの目は血走り、雄叫びを上げながら捨て身で突入してくるではないか!!……遠目のロシア側からはそう見えたが、それは老人普通科連隊の一同が戦車を止めようと「やめろー、止まれー」と叫びながら後を追ってヒィハァゼィゼィと()けつ(まろ)びつ死に物狂いで走っているだけなのであった。

 だがしかし、ロシア側は慎重だ。「まずい、日本が捨て身の攻撃を発起したぞ!下がって引き込み、両側から挟み込んで退路を断ち、そこに機動打撃を加えて一挙に始末するのが得策だ」と判断し、陣地変換のため後退した。これはロシアの得意な戦い方で、特段敗退したわけではない。しかし、旧軍出身者に薫陶(くんとう)を受けた世代の二人の日本側老人連隊長は、この混乱を戦機と見、相次いで攻撃前進を命じた。

聯隊(レンタイ)ハ現戦機ニ乗ジ高地右翼ヨリ(スミヤ)カニ突進、敵正面戦力ノ減殺(ゲンサイ)ヲ図リツヽ当面ノ敵ヲ高地背後地域ニ包囲殲滅(センメツ)セントス」

……などという旧帝国陸軍じみた文語体調の命令は、如何に旧軍出身者に鍛えられた両老人連隊長といえども、両者とも戦後生まれであるからそんな命令下達はしなかったのが実際のところだったが、しかしその心たるやこの通りには違いなかった。

 (くだん)の61式戦車の操縦手は陸曹長山下梅吉(82)、車長は准陸尉田中清次郎(91)。

 戦機を現出すべく勇猛果敢に独断突進したかに見えるこの奇矯(ききょう)驀進(ばくしん)はしかし、一体なんであったろう。

 これは、いわば「ブレーキとアクセルの踏み間違い」であった。

 後に操縦手山下曹長が述懐したところによると、

「いやあ、クラッチを切って操向レバーを押しても押しても、もう、どんどんスピードが出るんですわ、なんですか、この、最近の車によくある、コンピューターの故障でしょうなァ、近頃の機械はネットワークだのAIだのホザくばっかりで、人間をないがしろにしておって、まことにケシカラン(以下略)」

 当然、これは逆である。止まりたければ操向レバーは引かねばならぬ。それに、山下曹長が力の限り踏み続けていたのは左のクラッチではなくて右のアクセルであった。しかもなお、そもそも61式戦車にはコンピューターなど1ミリも搭載されていない。ましてや、ネットワークはおろか、AIなど一寸一分たりとも搭載されている筈があろうか。故障していたのは山下自身の(コンピューター)なのであって、こうなるともう、山下の脳は完全に溶解していたとしか言いようがない。

 その間、ハッチから半身を乗り出していた田中准尉は、「ああ、もうハスカップの花が。うふふ」などと北方の花鳥風月を微吟していて、単車指揮の責務は何ら果たしていなかった。

 「ブレーキとアクセルの踏み間違い」(正確に言えば操向レバーの逆押し操作)で爆走する61式は、まごついていた哀れなロシア兵を3人ばかりも蹂躙(じゅうりん)轢殺(れきさつ)し、山頂手前の人工障害にぶつかり「ぷしゅううう……」とオーバーヒート気味の煙を吐いて止まった。普通、障害には火力が向けられているものだが、混乱したロシア側が火器を放置して後退していたので、なんら損害を(こうむ)らなかった。そして、青息吐息のよろめく足取りながら、陸続と随伴してきた2個並列老人普通科中隊が高地の空際線手前まで来て日の丸を押し立て、塩辛声で万歳を叫び出すのを見ては、ロシア側も気を飲まれて唖然とせざるを得ず、「Почему нет…!(なんでやねーんッ……!)」とツッコミを入れながら、再構成と遅滞のため更に後退していくのであった。

 無論、思いがけず棚牡丹(たなぼた)式の塩梅(あんばい)で観測点を手中にした日本側特科大隊と重迫中隊が、高地山巓(さんてん)砲隊鏡(ほうたいきょう)を蟹の目玉よろしくちょいと突き出した。後方の砲列の、アラウンド70歳の戦砲隊長と重迫中隊長が塩辛声で「てぇええーッ」と号令一下、屁っ放り(ヘッピリ)腰かつ公算誤差5割増しの(クソ)精度ながら、155mm榴弾砲FH-70・旧105mm牽引榴弾砲・旧107mm重迫撃砲・120mm迫撃砲RTからなる骨董品ごちゃ混ぜの支離滅裂でヤケクソみたいな火力の乱射が勢いよく弾着しはじめ、これがなかなかどうして効果を上げた。再編成を期したロシア側は、このどこを撃っているのかすら判然としない馬鹿のような火力に混乱し、「Пожалуйста, подождите немного……(ちょ……待てやオイッ……)」などとボヤきつつやむなく更に5kmほども後退せざるを得なかった。

 そんな挿話もありつつ、しかし、50年以上もの平和な時代を全国各地の弾薬庫の地下で惰眠を(むさぼ)り熟成されていたと(おぼ)しいM107榴弾やら緑や白の薬包、重迫の装薬やM557瞬発信管、M520時限信管その他は、2割くらいは不発の腐ったカス弾薬で、地面に穴を開ける程度の効果があればまだマシなほうだった、と日露双方の戦闘要報に記録されている。

 以上が後に「新・203高地の戦い」と呼ばれることになる情けない戦いだったのであるが、その情けなさとは裏腹に、これを契機として始まった思いもよらぬ樺太攻略作戦の進展によって欧州全般の戦況が変わってしまったこともよく知られるところだ。

 今では、新・203高地の戦いにおける認知症(ボケ)老人、山下曹長のブレーキとアクセルの踏み間違いは、旧陸軍の香港島攻略における若林中尉の独断専行・突進に匹敵するようなものであったと考えられている。

投稿者: 佐藤俊夫

 50代後半の爺。技術者。元陸上自衛官。2等陸佐で定年退官。ITストラテジストテクニカルエンジニア(システム管理)基本情報技術者

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