オスマン帝国の版図

投稿日:

 それで、トルコややこしくなってるよなあ、こりゃもう、アラブ~イスラム圏とかだってさー、そもそもサイクス・ピコ協定がさー、……などと知った風なことなどホザきつつ、そういや、オスマン帝国の一番デカかった時代って、どれくらいあったんだっけ、とか思って、当時のオスマン帝国の版図の画像をGoogle Earthにマッピングしてみたら、いやもう、……

赤いところがオスマン帝国の領土
オスマン帝国の領土

 ごめんなさいメフメトⅡ世様っ、てくらいデカいですね。ちょっとカスピ海のへんとかフランスの形とかがピッタリ合ってないですけど、投影図法が違うもんで、ピッタンコにゃ合わないんですよ。でも、地中海周囲の雰囲気はだいたい出てますわ。

 はあ~……。西はリビアとかエジプトのあたり、東ははるか湾岸のへんまで、北はグルジアやらウクライナのあたりからバルカン半島、クロアチアとかセルビアとか、あの辺まで、ぜ~んぶオスマン帝国だったんだなあ。

 これ、第1次大戦で、アラビアのロレンスとかが工作して、アラブの鎮め石みたいになってたオスマン帝国を倒してしまったもんで、もう、そっからアレなことになってしまったんだったよなあ……。

ほんっと、ややこしいのう

投稿日:

 トルコとロシア。

・ 今々のここらへんのニュース

 ここであらためて、シリアのややこしさをすごく雑に書くと、

  •  アメリカはシリアの現アサド政権を倒したいから、反政府勢力を支援した。
  •  その中に、マズいことに「イスラム国」連中がいて、そいつらまで強くしてしまった。これは、昔アフガンの連中を支援して、タリバンを強くしちまって9.11につながったのと同じ図式。
  •  アメリカにとって、イスラム国はビミョーに敵なような味方なような、ややこしい事態。反政府勢力を支援しつつ、同じ反政府勢力のイスラム国を選択的にやっつけるなんざァ、どだい難しい話。
  •  ロシアは「アメリカが反シリア政権なら、じゃ、俺らは親シリア政権ね」って、真逆。つまり、シンプル~に「イスラム国」は敵。
  •  で、フランスはこの前のことで激怒して空母出したでしょ。
  •  そこへ、シリアの隣国トルコ。トルコはどっちかっつーと反アサド。そこへ今回のややこしい領空侵犯事態。

 こんなグチョグチョなことになって、それで、シリアもう何年も前からこんな惨状でしょう?

 で、さ。な~んにもしてないし、政府や国や外国なんてものにどうしてほしいわけでもない、普通の弱いオッサン・オバハン・子供たち、ぼろ雑巾みたいに扱われて踏みにじられてバタバタ死んでンだよなあ。

 思うに、日本の、意識の高ぁ~い、時事に詳しい人だって、そういう弱い一般人の痛み苦しみをどうしたいとか、あんまり言ってねえんだよな。これは左右どっちもそうなのよ。

 だからさ、そういうトコ、アメリカ人も反省しろ、って思うワケなのよ。だいたい、もともと話をややこしくしてる張本人って、アメリカなんだぜ?

憎悪に次ぐ憎悪の連鎖

投稿日:

 憎悪に次ぐ憎悪の連鎖、壊れた細胞から放出されたヒスタミンがますます細胞を壊すようなもんだなあ。

祝いまつれ畏みまつれ13日の金曜日

投稿日:

PHM04_0714 キリスト教が嫌いである。

 であるにもかかわらず、クリスマスにはクリスマスツリーを飾って子供にプレゼントをやるという、思えば私も変ちくりんな仏教徒である。

 さておき、昨日は13日の金曜日であった。ゴルゴダの丘に磔刑(たっけい)のあった日ということで、この日をキリスト教徒は忌み嫌うという。その嫌い方は、日本人が病院の病室番号や車のナンバーに「四」(死)や「九」(苦・柩)を嫌うのと同じくらいに縁起を担ぎ、いろいろな番号に「13」が入るのを避けるのだという。

 しかし、変じゃないか?

 キリストは磔刑にかけられて、確かに母や友の眼前で苦しみ死にしたが、それは人間・ナザレのイエスその人の災難であって、救世主(メシヤ・キリスト)の立場でなら、それは聖なる事象であるはずだ。磔刑あってこそ敬虔なる復活の聖蹟があったわけだし、石抱き十露盤(そろばん)とか獄門台などと同列の拷問道具である「十字架」は、今や陰惨な責め具の位置をはるかに遠く離れ、キリスト教の聖なるシンボルになってさえいるではないか。

 してみれば、キリスト教徒は13日の金曜日を花火を上げて祝ってもいいくらいで、むしろ祝祭日ではいか。なぜ聖人の聖人たるべき所以の日、神の神たるべき聖なる日を忌み嫌うのか。まったく、キリスト教徒ってやつは、意味がわからん。

 まあ、そのまた逆に、こうしてキリスト教が起こったからこそ、いまだにキリスト教徒はイスラム教徒と戦争で殺し合いを続けなければならず、もともとそんなことに無関係であった日本でさえもがそのお先棒を担ぎかかっている昨今の世相を考えれば、確かに、人類にとって不吉な日かもしれないが……。

 ちなみに、Wikipediaにはこれは俗説であると書かれている。

宰相と長門

投稿日:

 このところ軍事に関して議論百出し、国会も紛糾しているようだ。議論に取り紛れてもう忘れられてしまっているが、先々週だったか、共産党の委員長がポツダム宣言に関して質問し、総理大臣の答えぶりが少々まずかったというので話題になった。

 「ポツダム宣言」は、日本の歴史に大きく関わる外交資料だ。古今未曾有のものと言ってよい。宰相たる者、自ら宰領せんとする国の重要史料の内容をわきまえていないとはどういうことだ、と、その無知をあげつらう人も多いようだ。

 しかし、戦争前後の出来事に関する知識の多寡(たか)が問題だと言うなら、まあ、戦後生まれの我々世代ごとき、片頬(かたほお)だに政治家を(わら)うことはできないだろう。

 戦後70年になんなんとし、もはや戦争の記憶は風化どころか消滅寸前である。それにつけ込んだ外患勢力が事実歪曲の歴史を創作して流布しようとし、これをまた無批判にうべなおうとしている人が大多数であるように見受けられる。この点、政治家も人々も、あるいは活動家も右翼も左翼も、はた、知識人であろうとバカだろうと、どいつもこいつも似たりよったりなのである。

 無論、かくいう私もまた、そうした衆愚の一人たるをまぬがれぬ。

 屈辱とは、こういうことを言うのだろう。

 カイロ、ポツダム、原爆、戦艦ミズーリ、……などと、最近のニュースをきっかけに考え出すと、とめどもなく思いが乱れ、胸をかきむしられるような物語が連鎖していく。

 共産党の書記長の発言にあったポツダム宣言をきっかけに、私がついそれからそれへと連想した戦艦ミズーリは、今も米国の記念史跡として永久保存が決定され、アメリカ合衆国の栄光と誇りのモニュメントとなってハワイで見学可能である。舷側にはいまだに日本の特攻機が突入した傷を残しているという。

 東京湾に停泊した戦艦ミズーリで、目眩のするようないいかげんな降伏調印──興奮したアメリカ人どもは、世紀の重大調印であるにもかかわらず、署名箇所を間違えていい加減な調印文書を作ってしまい、重光葵以下日本外交団の「このような瑕疵のある文書では、枢密院の審査が通らない」という懇願で渋々文書を作り直したという──が終わり、その後のミズーリ艦上では将兵に対し「誇りというものはこういうものだ。勝利というものはこういうものだ。それをもたらした諸兵らの尽力こそ、合衆国の宝といえるだろう」との訓示が行われたという。

 あまり強くはない将兵を国家挙げての戦略で勝利させ、しかしなお「この勝利は君たちの努力奮闘、勇気によって勝ち得られたものだ、ありがとう!」と褒めてみせる米国。それに対し、劣悪なエリート将校どもが精強純真な兵をこれでもかとぶん殴り、「キサマら徴兵など、一銭五厘のハガキ一枚でいくらでも集められるのだ」と侮辱し、拙劣極まる指揮の下の玉砕、正気とは思えぬ特攻を繰り返し、結局は戦略で敗れた日本。

 こんな対比は、想像するだけで、米国への嫉妬で気が狂いそうになる。

 その後ミズーリは、依然米国による世界戦略の重要欠くべからざる要素として居座り続け、驚くべし、湾岸戦争にいたるまで現役艦として威容を誇示し、ペルシャ湾岸にあってその巨砲弾をおもうさまイスラムの人々に撃ち込んだ。

 嫉妬と情けなさ、悲しさで気が狂いそうになるのはもちろんこうしたミズーリの腹の立つ正義っぷりもそうだが、対する日本の戦艦群がどうであったか、また後世、当の日本人たちが自らの過去をどう言っているかを思う時に耐えられぬところに達する。

 菊水特攻作戦の大和、フィリピン戦の武蔵もそうだが、これらはあまりに有名だから、多くをここでは触れまい。試みに「長門」のことを書いてみよう。

 戦艦長門は大和の前の聯合艦隊旗艦である。

 実は大和のほうは、戦後になって有名になったもので、戦前・戦中は条約違反のことなどもあってその建造や保有が秘密になっており、戦後までその艦名などはあまり知られておらず、単に「聯合艦隊旗艦」などという呼称が一般に流布していたので、この長門が太平洋戦争時の聯合艦隊旗艦であると思い込んでいた国民も多いという。

 およそ3万9千トンを超える排水量、41センチの巨砲を備え、全長は200メートルを超えていた。大正時代の初期に建造された戦艦である。無論、世界的な水準であったことは言うまでもない。当時の日本の技術力を懐疑する向きは多いが、冷静に考えると、航空や造船についていえば、現代よりも戦前のほうが日本の技術力は世界的なレベルにあった。

 この長門は、有力艦として極力温存されたため、終戦時まで稼働状態で残存した。

 私がミズーリと比べて悲しくなるのは、この後である。

 長門は、日本人の矜持粉砕のための見せしめ効果を狙ってか、昭和21年にも至ってから、原爆実験の標的艦となったのである。

 核実験場のビキニ環礁に引き出された長門であったが、日本人精神の、滅びゆく最後の鬼哭慟哭がこもったためだろうか。一発目の原爆「エイブル」をくらって艦体は大きく吹き飛ばされたものの、驚くべし、長門は沈まなかった。

 Wikipediaなどで長門の項目を見れば、巨大なきのこ雲の根本で耐え忍ぶ長門の写真が見られると思う。

 約20日後、二発目の原爆「ベイカー」の炸裂を浴びたが、なお長門は沈まなかった。

 しかし、損傷は大きく、その日、まる1日をかけて、ゆっくりゆっくりとビキニ環礁近くの海底に沈んでいったという。放射性物質まみれとなり、米国人の冷笑を満身に浴びつつ、さながら、一寸刻みに日本人の精神を絞め殺していくような具合に。

 その後、あまり知られていなかった大和のほうは、松本零士が日本人的懐古趣味、屈折した自己犠牲の美しさや詩情を「宇宙戦艦ヤマト」で表現することに成功したが、古い長門は日本人の矜持とともに、どこかへ忘れさせられたままである。

昔のソ連のほうがよっぽど怖かった

投稿日:

 (かね)てから「新聞ばかり読んでいると、アホになるばかりか、死ぬぞ」なぞという極論、暴言を振りかざしている私である。

 例えば、昨今、新聞記事の影響でか、軍事問題への関心が高まっているように感じられる。日本をとりまく軍事的脅威はますます高まっている、不安だ心配だ、国はなにをやっている、憲法はどうなんだ、官僚は軍備を真面目に整えとるのか、自衛隊はどうなっとるんだ……というような論調に傾いてきたように見えるのだ。

 が、私は、現在の我が国を取り巻く軍事情勢、就中(なかんづく)中国や北朝鮮がどれほど怖いかということは、比較論で言って、昔の対ソ連の時代の足元にも及ばないと思っている。

 ところが、どうも、人々は「昔のソ連や北朝鮮なんか怖くなかった、はっきり言って日本に関係なんかなかった、戦後の日本は戦争を放棄して、安心で安全だった、あの頃はバブルでお金もいっぱいあって幸せだった」と思い込まされているように思う。あるいは、単にその頃若かったか子供だったかして、そういう感覚を持っていなかった、という人もいるかも知れない。

 昔のほうが切実な軍事問題があった、ということには、感覚に訴えやすい好例がある。よく思い出してみてほしい。昔の北朝鮮のほうがよほど怖かった。その例は拉致問題である。

 気の毒にや、日本人が北朝鮮に相次いで拉致されていた頃。考えても見てほしい、かの横田めぐみさんがさらわれたのは、今を去る30年以上も前のことなのだ。今の北朝鮮はさすがに人(さら)いなどしていない。つまり、今の北朝鮮が怖いのではない、「30年前の北朝鮮のほうが現実の意味で怖かった」のである。

 その一方で、30年前の一般の人々の意識はどうであったか。かわいそうに、30年前、拉致の被害者なぞ一顧(いっこ)だにされなかった。自分が30年前、そんなことを問題にしていたかどうか、思い出してほしい。金があった者は財テクなどと言って利殖にうつつを抜かし、かわいそうな拉致の被害者なんかほったらかしだった。北朝鮮だけを例にとってさえ、このとおり、昔のほうが怖かったのだ。

 そればかりではない、ソ連によって日本に照準された核ミサイルはいつでも発射可能な状態に温められ、その数は何百発という途方もない数だった。しかもなお、彼らには上陸戦闘をやってのける潜在力があった。

 韓国も恐ろしく、竹島近辺で拿捕された何百という日本の漁民の中には殴り殺される者すらいた。

 そして、何千万という粛清が続いていることだけが断片的に伝わってくる、国交のない中共の不気味さと言ったらなかった。しかも、中共は昭和39年にはとっとと核実験をすませ、核武装国になりおおせていた。田中角栄大活躍の国交回復後、日本がせっせと献上した金で、せっせと核ミサイルを増備して日本に照準を合わせていたのだから、笑えぬ冗談もいいところだ。

 たとえ日本に直接の関係はなくても、子供の頃、クラスにインドシナ難民の子がいたという人もいるだろう。兵庫県の人には覚えがあると思う。難民キャンプが姫路にあったからだ。ベトナム戦争を持ち出すまでもない。あの頃、人々が国を捨てて逃げ出すようなアジアの戦乱は、即、日本にも指向されておかしくなかった。

 そして、日本に原爆を叩き込んで虐殺の限りをつくし、沖縄の人々を虐げていたアメリカ人を、誰も彼もが大好きという、もう、脳味噌はどうなっているんですかと言わざるを得ない、狂気のような状況に日本はあった。

 昔のほうがよほど、日本とその周辺国がそういう不気味な殺戮の嵐に包まれていたのに、ほんのごくわずかな人しかそれを直視しようとせず、何とかしようという努力を誰もしていなかった。そして、防衛費はGNP比1%の枠に(かたく)なに固定され、軍事問題に理解のない国民が圧倒的大多数を占め、自衛隊は土木作業員か賤民のような地位にしかなく、弾薬すらないありさまだった。

 新聞にそれらの問題が論じられることはまったくなかった。狂気の中でちいさい平和を見つけては、平和経済大国日本万歳とみんながみんな言い続けていた。

 私に言わせれば、むしろ最近は日本をとりまく軍事的脅威の絶対量なんか弱まっている。そうなってから、みんな軍事問題に首を突っ込み出した。

 勝手なものだ。

 アラビア~イスラムと言うけれど、9.11でどれほどの人が死んだか、広島・長崎の10倍も人が死んだのか、アメリカ人もよくよく自問自答すべきだ。

 これらがすべて、新聞の作用によると言ったら、言い過ぎだと非難されるだろうが、私は言い過ぎだと思わない。

 ただ、なにか、私自身がルサンチマンめいたねじれ方をしている、ということは、多少なりとも認めざるを得ないとは思う。

セルバンテスの苦労控

投稿日:

 先日、スペインの修道院の床下で遺骨が発見されたと伝わるセルバンテス。抱腹絶倒の傑作「ドン・キホーテ」の作者で、400年前の人だ。

 晩成型の作家で、その不運や苦労に満ちた人生を私は尊敬している。

 彼の来歴を見てみると、後世これほど有名な作家であるにもかかわらず、とてものことに順調な作家人生を送った人物とは言い難い。

 貧乏人の家庭に生まれたセルバンテスは、無学の人とはいうものの、幼少から読み書きを身に付けていた。少年時代は道端に落ちている紙くずであろうと文字が書いてあればそれを拾って読んだといい、その頃から晩年の文才の片鱗が見えていた。

 だがしかし、彼も時代の子であり、文筆の道へは進まなかった。兵隊になり、戦いの日々に身を投ずる。時あたかも無敵スペインの絶頂期である。かの「レパントの海戦」でもセルバンテスは戦った。

 レパントの海戦は、コンスタンチノープル陥落以来200年もの間、オスマン帝国率いる回教徒に苦杯を舐めさせられ続けていたキリスト教圏の初めての大勝利であった。

 勝ち戦の中にいたにもかかわらず、セルバンテスは撃たれて隻腕(かたうで)になってしまう。胸に2発、腕に1発、火縄銃の弾を受けたというから、瀕死の重傷である。からくも命を拾った彼は、後に至ってもキリスト教徒としてこの名誉の負傷を誇りにした。そのとき、連合艦隊司令長官から、勇気ある兵士として激賞する感状を与えられたが、これが後年あだとなる。

 隻腕となってからも数年戦い続けたが、帰国の途中で回教徒に捕まってしまう。当時の捕虜は、身代金と交換されるのが常であったが、持っていた感状のせいで大物とみなされ、大金獲得の切り札として交渉の後の方に回されてしまったのだ。結局、5年もの間捕虜として苦難の日々を送る。仲間を糾合して4度も脱獄を企てたが、ことごとく失敗。その都度辛い仕打ちがあったろうことは容易に想像できる。

 ようやく身請けされて帰国した彼を待っていたのは、祖国の冷遇であった。感状を持つ英雄であるはずなのに、与えられた役職は無敵艦隊の食料徴発係である。無骨な来歴で、しかも傷痍軍人であるセルバンテスに、貧しい人々から軍用食料を要領よく徴発するような仕事など向くはずがない。帳尻が合わず、しょっちゅう上司に呼び出されては怒られる日々。それではというので豊かな教会から食料を徴発したところ、キリスト教徒に(あら)ざる不届(ふとどき)者とされてしまい、キリスト教から破門されている。しかも2度もだ。キリスト教のために回教徒と戦い、隻腕となった誇りある軍人である彼がどれほどそれで傷ついたことだろうか。

 ところが、しばらくするうち、スペイン無敵艦隊は、「アルマダの海戦」でイギリス海軍に撃破され、なんと消滅してしまう。すなわちセルバンテスの勤務先が消滅してしまったということで、彼は路頭に放り出され、無職になってしまったのである。

 セルバンテスは仕方なしに仕事を探し、今度は徴税吏になった。

 セルバンテスの不運の最底辺はこのあたりだろう。彼は税金を取り立てて回り、それを国に納める前、安全を期して一時銀行に預けた。ところがその銀行が、破綻してしまったのである。無論取り立てた大事な税金は消滅。セルバンテスはその債務をすべて個人的に負うことになってしまったのだ。勿論払えるはずもなく、当時の法では「破産者は刑務所送り」である。

 放り込まれた刑務所の中で、彼は失意と不遇の中にあって、なんでこんな目に俺が…、と泣けもせずに泣きつつ、「ドン・キホーテ」の物語を構想した。

 セルバンテスという人がぶっ飛んでいるな、と私が思うのは、こんな不運のどん底にあって構想した物語が「ギャグ漫画」のようなものであることだ。400年も前に書かれた「ドン・キホーテ」は、現代の私たちが読んでも思わず爆笑せずにはおられないドタバタの連続であり、徳川家康がようやく天下統一を成し遂げた時代の小説とはとても思えないほどの傑作だ。赤貧洗うが如し、隻腕の傷痍軍人で、しかも50歳を過ぎて疲れ切った男が、不運により放り込まれた刑務所の中であの物語を考えたのだ。

 刑務所出所後、数年かかって物語を完成させた時、セルバンテスは既に58歳になっていた。400年前の寿命を考慮すると、これは現代の70歳にも80歳にもあたるだろう。

 なんとか文学的な名は得たものの、ところがまだ苦労は続く。「ドン・キホーテ」は発売直後から空前の大ヒットになり、英訳・仏訳もすぐに出るという異例の出世作となったが、そんなに急激な大ヒットになると思っていなかったので、版権を売り渡してしまっていたのだ。ために、貧乏にはまったく変化がなかった。

 しかも、煩わしい悩みが続く。セルバンテスはこの頃、妻、老姉、老姉の不義の娘、妹、自分の不義の娘、という奇怪極まる5人の女達と暮らしていた。せっかく作家としてなんとか名を得、執筆に集中しようにも、この女どものためにそうはいかなかったのだ。彼女らは、男を騙して婚約しては難癖をつけ婚約不履行にし、それを盾に慰謝料をせびるというようなことを繰り返して儲けているという、ふしだらで喧騒(けんそう)な女どもであった。そのため、セルバンテスは静謐な執筆環境など到底得ることができず、ぎゃあぎゃあうるさい5人の女たちに毎日邪魔され、訴訟に巻き込まれて煩瑣な思いをし、休まることがなかった。

 セルバンテスが死んだのはこの10年後、69歳だった。当時の記録にも、三位一体会の修道院に埋葬された、と記されてあるそうだ。日本で言えば、合葬の無縁仏にでも当たろうか。それが、このほど遺骨が見つかったとされるマドリードの修道院である。

回教とダイエット

投稿日:

 「ダイエットなんつう贅沢なことで悩むような人は、いっそ相互理解のため回教徒の断食のマネでもしたらどうか」などと暴言というか、雑想を書きつけてから、追っとり刀で回教徒の断食のことをWikipediaで読んでみた。

 回教の断食月とは彼ら独特の陰暦の9月のことを言い、この月に1ヶ月間行われる断食のことを「サウム」という。

 まさかに、1ヶ月も断食を継続するわけではない。日の出ている間飲食をしないという戒律であって、逆に日中の戒律を守るためには、日没後は大いに飲み食いすることが推奨されるのだという。このため、断食の時にはかえって食料品の消費が上がり、肥満する者が増えるのだそうである。

 肥満する者が増える、と言うのは、それはそうだろうなあ、という気がする。つまり、相撲取りが稽古のあとでチャンコを食って昼寝をし、それによって成長ホルモンの分泌を促してあの巨体を手に入れるのと似た理屈だ。喰い溜め・寝溜めは成長期には身長を伸ばすが、成長期以外は「横幅を伸ばす」のである。

 そうすると、回教徒のマネをしてダイエットしようなどというのは、まったくの逆効果であるばかりか、幾分、回教徒に対して失礼というか、不謹慎な気もしてきた。

 まあ、異教に対して失礼だということを言うなら、その昔のキリストの誕生に思いを致す気なんかさらにないくせに、クリスマスツリーなど飾ってプレゼント交換するくらいならまだしも、若者はクリスマスと言うと彼女とホテルに籠って性交三昧に励むことだとでも勘違いしている、なんてことのほうが、よっぽどキリスト教徒に対して失礼なのではあるが……。日本を取り巻くキリスト教圏白人国家は、よくこんなキリスト教をバカにしているとしか思えない日本人を許しておくものだと思う。

 回教の見解では、「回教徒が断食によって受けられるご利益は、異教徒が仮に断食しても、ない」のだそうで、するだけ無駄とのことである。

 この断食の起こりは、次のようなものであるそうな。

 その昔、回教が呱々の声を上げたばかりで、マホメットも教団の隆昌のために粉骨砕身努力していた頃、武勇を尊ぶ彼らは強盗をやって暮らしていた。おいおい(笑)という感じもするが、誤解のないように言っておけば、強盗をしていたからといって、時代とその地域、またかの地の文化ということを幅広く考え合わせれば、必ずしも責められることではないのである。

 で、メッカから富裕な隊商がやって来るという情報に接した彼らは、教団全勢力を挙げてこれに襲いかかったのであるが、食うや食わず、腹が減っていることもあって、また、思いもかけず敵の予備兵にしてやられ、全滅寸前のところでアラー神の加護あらたか、回教の消滅を免れたものだそうな。こうした苦難の教団揺籃期を忘れぬため、いまでも断食をして、その頃に思いを致すことになっているのだ。

 他に、面白いことが書かれていた。回教圏では今も陰暦を使うが、かつてのアジア圏のように「閏月」を置かないので、どんどん暦がずれていき、1月2月といった月の名前は、季節を表してはいないそうだ。このずれは約33年間で一巡し、もとの季節に戻るそうである。断食月の9月が浮動するわけで、だから、断食は夏であったり冬であったり、季節は一定しないのだそうである。


 このエントリは、Facebookのウォールに書いたものの転載です。

ダイエットで悩む人が多い

投稿日:

 ダイエットで悩む人が多い。

 私のようなバカの貧乏人は、何がダイエットだ、と鼻じらむ。食うや食わずで働けば、脂身なんぞあっという間に落ちてしまう。飯なんか食わずにガレー船の漕ぎ手や奴隷のように、粉骨砕身して働けばよろしい。

 そこで、ふと思いついたのである。

 私たちはその昔、欽明天皇の頃に「百済仏」を輸入してこのかた、宗教的な文物の輸入には無頓着であった。

 近代に至って、クリスマスはもちろん、最近はハロウィーンなどが、大手商業の商戦だけではなく、俳句の季語にまでなるほどである。日本独自の詩歌に使われるとなるとこれはただ事ではない。

 で、考えた。昨今、イスラム教徒とうまく行っていない。そこで、少しでも彼らに近づき、たとえ外側だけでも相互理解を進めるため、イスラム教の断食を取り入れ、禁酒し、彼らの習慣をまねてみてはどうか。

 クリスマスやハロウィーンの精神はないがしろに、その外形を取り入れることには日本人は一流だ。面白いと思えば十字を切ってプレゼントをわたし、数日を分かたずして神社に賽銭を投げ初詣をする私たちにとっては、イスラム教をまねることは大して敷居は高くない。

 イスラム教徒のようにひれ伏して断食したまえ。

 ただ、条件がある。クリスマスやハロウィーンは「面白そう」なのである。そこで、断食のインセンティブ、面白さを考えると、「痩せる」、これだろう。また、家庭の台所をあずかる女性男性にとっては、煮炊きをしなくてよいというネガティブな楽しみもあろう。

 ……回教断食をやるんだ。痩せるぞ。魅力的だろう。フォトショップの出力みたいになれるはずだ。

 そして、イスラム圏の人々は、「日本人と言う連中は、ここまでして俺らを理解しようとしている」と思うかもしれない。

 断食だ!嫌いなものを食べ残して、無駄なゴミを量産するような不届きなことはよして、断食だ、断食。無駄なオーダーして食べ残すくらいなら、二三日断食した方がよっぽどいいぞ!


 このエントリは、Facebookのウォールに書いた文章の転載です。

罪のロシアンルーレット

投稿日:

 インフルエンザで出勤禁止、居間に出ようとすると家族への感染も心配だ。いきおい寝間から一歩も出ずに引きこもるが、寝間の無聊を慰めるものと言ってはタブレットぐらいである。

 いい時代で、こんな外出もできない折でも、Kindle/Amazon、とりわけ青空文庫の成果物はよりどりみどりの読み放題である。愛用のタブレットにKindleアプリをダウンロードしておけば、家から一歩も出ずに図書館にいるようなものだ。

 先ほどまで読んでいた坂口安吾の「白痴」は、4月の東京大空襲の2夜目が主たる舞台だ。作品は大空襲を絶好の環境として使った、「生きる」ということに対する内省と自問であり、おそらく坂口安吾にしてみれば、他に適切な舞台があれば別段東京大空襲でなくてもよかったのだろう。だから、この本を読んだからといって東京大空襲について筆のすさびを始めるのは当たってはいない。

 しかしそれはそうでも、読後の思いは乱れるのであった。

 ゲルニカや東京・大阪がもし欧米白人の手によってなされなかったとしたら、この「一般市民が現住する都市への無差別爆撃」という人類史上最も憎むべきことに位置づけられなければならないはずの大犯罪に最初に手を染めるのは、一体誰であったろうかと考えてしまう。

 もし我が国であったら、と想像すると暗鬱な気持ちになるが、明治維新から終戦までの帝国にはそれだけの力はなかった。大陸に対しては幾分その程度の軍事的実力はあったが、いわゆる渡洋爆撃など、その後米国によって我が国に向けられた蛮行に比べれば、まことにもって礼儀正しいものであった。

 だが、実行は別として、単にそれを選ぼうとするだけなら誰にでもどの国家にでもできる。帝国がそれを選ぼうとしたかどうかである。「最初に選んだ者負け」だ。そして、その永久の罪の汚名は、さながらロシアンルーレットのように、欧米白人が先に引き当てた。

 運悪く引き当ててしまったのか、彼らが自らの手で握りとったのか、それはわからない。強いて言えばおそらく両方だろう。歴史の流れは必然として彼らにその籤をあてさせたし、かれらは能動的にその籤を引き当ようとして引き当てた。

 そうしてでも、彼らは生存したかった。そういうことだろう。

 文字のない太古、アフリカあたりの熱帯で生まれた人類は、弱いものを辺境へ辺境へ差別・排除しつつ、繁栄を謳歌してきた。

 遠く北の寒冷飢餓の土地へ追いやられた生白い一団は、数千年にわたって臥薪嘗胆、牙を研ぎ、500年ほど前から断固復讐を開始した。ローマ法王からスペインとポルトガルに対して発せられた大デマルカシオンがそれである。

 いくつかの紆余曲折を経ながらも、1494年にポルトガルとスペインがトリデシリャス条約を結んだ後、かれらがアジアと米大陸を総なめにしたことは歴史上の事実だ。ことに南米においてスペインのしたことなど、悪鬼をしてその顔色をさえなからしむる、酸鼻の地獄絵、鬼畜の所業である。

 しかし、いかに鬼畜スペイン、ポルトガルといえども、当時は強大なイスラム圏の処理は簡単には済まなかった。欧米白人にとっての歴史的やり残し、それがイスラム圏の処理なのだ。

 近代に至って、その後英国、あるいは米国へとバトンタッチしながら、白人がその人類全体に対する復讐の魔手をついに悲願のイスラム圏へ向けているまさにその時が、今なのだと言える。

 500年もの期間を費やして太平洋を押し渡るために向けられた復讐の前縁が、東京や大阪や広島や長崎であったのだ。彼らが犯罪人の汚名を着ながらも決してやめようとはしない、今の中東への憎悪もそこにつながっている。やっと手に入れた日本を手放さない意義もそこにあるが、邪魔になれば見殺しにするだろう。