ルバイヤート集成

投稿日:

 大して良い酒が飲めるほどの金持ちではないのにもかかわらず、あいかわらずだらしのない酒飲みの私だ。

 そのくせ一人前の格好だけはつけていたくて、花鳥の色につけ酒の味につけ、何か詩句論説講釈のたぐい、能書きの一つも(ひろ)げて見せてからでないとはじまらないというのだから、まず我ながら見栄坊もいい加減ではある。

 さて、だからと言うのではないが、文学というものの数ある中に、酒飲みが引用するといかにも賢そうに見えるという、そういうネタがあるということを開陳しておかねばなるまい。

 ネタ強度の点では、まずランボォだのヴェルレーヌだの、このあたりで能書きをタレておけばいいのではないか。なにしろ酔っぱらいそのもの、頭の中に脳味噌のかわりに酒粕でも詰めておくと多分ああいう詩が書けるようになるだろうというほどのものであるから、まずこれで知識人ぶることができるのは間違いはないだろう。

 西洋が嫌なら、東洋文学だ。「唐詩選」あたりから何か引っ張るというのもテだろう。「葡萄の美酒夜光の杯、酔ふて沙場に臥すとも君嗤ふこと莫れ…云々」、なんぞと微吟しつつ飲んでおれば、いっぱしの知識人に間違われること請け合いだ。

 そんなアホな引用のコツに凝る似非(えせ)知識人の私としては、ワケの分からない異文化の手触り、エキゾチシズムの香りで周りをケムに巻けるという点で、この詩人、アラビア・ペルシアの誇る四行詩の泰斗にして同時に極北、オマール・ハイヤームを挙げておくのがもっともピタリと来る。なにしろ、のべつ酔っ払って酒をほめると言う点では世界に並ぶものなしだ。

 オマール・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」は、現在簡単に入手可能なものとしては岩波の小川亮作訳がある。また、これは著作権切れで青空文庫にも収録されており、無料で読むこともできる。

 ただ惜しむらくは、この岩波の小川訳は口語体で、しかも味わいの上から韻文に遠いことだ。それが格調に制限を加えている。

 実は、そのように思わせる原因は、岩波文庫のあとがきにある(岩波のあとがきはまだ著作権が切れていないので、青空文庫では読めない。)。あとがきにはフィッツジェラルドの訳業のあらましと一緒に、我が国におけるルバイヤートの訳出のあらましが記されてあり、無視すべからざる翻訳として、矢野峰人という文学者によって大正時代から昭和初期にかけてなされた文語体の名訳がわずかにふたつだけ紹介されているのである。

 小川訳も、もちろん良い。だが、矢野訳のしびれるような訳は、どうしても捨てがたいのである。

【口語訳】

この壺も、おれと同じ、人を恋う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。

【文語訳】

この壺も人恋ひし嘆きの姿
黒髪に身を囚われの我のごと
見よ壺に手もありこれぞいつの日か
佳き人の肩にかかりし腕ならめ

(若干の解説をするなら、人は死んで土になる、王も賎民もいっしょくただ。こうして土になった人々は、何千年もしてから焼物師の手にかかって粘土としてこねられ、壺になる。だが、出来損ないとしてその壺は打ち砕かれることもある。焼物師よ、ちょっと待て待て、その壺は、昔々美女だったかも知れぬではないか、打ち砕くのをちょっと待ってやれよ…というような含みが前提としてある詩である。)

 文語訳のほうがやっぱりピシリと締まった格調の高さが感じられるのである。

 私は22、3歳のころだったか、岩波の小川訳にシビれ、だらだらと酒を飲む口実にしてきた。だが、そのあとがきにある2篇ほどの文語訳が心に残り、これを忘れたことがない。

 しかし、長らく文語訳のルバイヤートは絶版で、読むことはできなかった。

 そうして長い年月が打ち過ぎた。ところが、である。つい先日のことだが、インターネット時代というのはなんと便利なことだろう。暗唱していた文語訳の詩文をGoogleに入力してみたら、瞬時をわかたず、出るではないの、出版元が!

 10年ほど前、この文語訳のルバイヤートが国書刊行会から出ていたことがわかったのだ!。

 しかしそれにしても、1冊5千円は、た、高い。

 それで、今日は国会図書館へ行き、じっくりと読んできた。

 以下に、書き写してきた文語体のいくつかを摘記する。著作権はとうに切れているから、特に問題はない。


第三十四歌

生の秘義をばまなばんと
わがくちづくる坏の言ふ——
「世にあるかぎりただ呑めよ、
逝けばかへらぬ人の身ぞ。」

p.43
第三十九歌

如何にひさしくかれこれを
あげつらひまた追ふことぞ、
空しきものに泣かむより
酒に酔ふこそかしこけれ。

p.47
第四十三歌

げにこの酒ぞ相せめぐ
七十二宗うち論破(やぶ)り、
いのちの鉛たまゆらに
黄金に化する錬金師。

p.52
第四十八歌

河堤(つつみ)に薔薇の咲ける間に
老カイヤムと酒酌めよ、
かくて天使のおとなはば
ひるまず干せよ死の酒を。

p.56
第五十二歌

人のはらばひ生き死ぬる
上なる空は伏せし碗、
その大空も人のごと
非力のままにめぐれるを。

p.61
第五十七歌

わが行く道に罠あまた
もうけたまへる神なれば
よし酒ゆゑに堕ちんとも
不信とわれをとがむまじ。

p.63〜
第五十九歌〜

新月もまだ見えそめぬ
断食月(ラマザン)果つるゆふまぐれ、
土器(かはらけ)あまた居ならべる
かの陶人(すゑびと)の店訪ひぬ。

言ふも不思議やそのなかに
片言かたるものありて
こころせはしく問ふやうは——
「誰ぞ陶人は、陶物は?」

次なるもののかたるらく——
「われをば土器につくりてし
『彼』またわれを()となせば、
なぞ(あだ)ならむこの身かな。」

また次の言ふ——「悪童も
おのが愛器をこぼたねば、
なじかは神がみづからの
つくりしものをこぼつべき。」

()もいらへせず、ややありて
かたちみにくき(かめ)のいふ——
「かくわがすがたゆがめるは
陶人の手やふるひけむ?」

次なるは言ふ——「『(あるじ)』をば、
あしざまに言ひ、てきびしき
試煉をおづるものあれど、
『かれ』こそは()(をのこ)なれ」

次なる甕の嘆ずらく——
「乾きはてたる身なれども
なつかしの酒充たしなば
日を待たでよみがへるらむ。」

かくかたるとき、待かねし
新月のかげ見えしかば、
肩つきあひて甕のいふ——
「酒をはこべる軽子(かるこ)見よ。」

 なんというか、茫然自失するような訳だと思う。