読書

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 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいたが、最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)を先ほど読み終わった。

 いつもは通勤電車の中で読み終わるので、今日のように自宅で読み終わるのは珍しい。

 さて、倉田百三の作品は、この全集第3巻に収載されている「愛と認識との出発」を昨年読んだところだ。本作「生活と一枚の宗教」は「愛と認識との出発」を著してから10年後の著作であるという。

 戦前の講演録だそうである。

 表題の「生活と一枚の宗教」の「生活」という言葉を、著者は「宇宙」というような意味で使っている。すなわち、「自」「他」の対立を去り、自分が宇宙の一部として他と渾然一体となっていることに気づいた途端、宇宙全体が如来である以上、自分もまた仏であるということになる。宇宙と自分が一枚になっている、自分の生活は宇宙と一枚になっている、自分が既にそうして仏でありさえすれば、もはや他に何を作為して求める必要があろう……本書で切々と述べられる倉田百三の信仰の大意は、そういう理解で外れていないと思う。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」のうち、「生活と一枚の宗教」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.481より

 たとえば如来でありますが、私の信仰ではみなさんはみな如来であります。一人一人が如来であります。それで仏と申しますのは、如来――自分がこのままで如来であるということを気づいたときにそれが仏であります。

言葉
ゾルレン

 ドイツ語の哲学用語で、日本語で言えば「(とう)()」である。わかりづらいが、「こうでなければならない、こうしなければならない、というようなことを意思でもってやる」ということが「当為」だと思えばよい。

 ゾルレンとは(コトバンク)

 このように意味を書くと、我々現代人には「それは立派なことだ」というようなポジティブな言葉であるように感じるが、倉田百三は全然違う意味でこの言葉を用いている。すなわち、単に「ゾルレン」と書かれているのではなく「ゾルレン臭」と、「臭」をつけ、遠ざけるべき、自分の信仰と相容れないものとして使っている。

下線太字は佐藤俊夫による。p.545より

念仏申さるるようにということはやはり一つの当為であります。これがやはり私の一つの当為癖であります。それは自分がすべきだというくせであります。あるいはゾルレン臭。自分と仏との間で言えば一つの水くささ、信仰のうえからいえば、かすであります。

 引き続き世界教養全集を読む。次は第11巻「芸術の歴史」(H.ヴァン・ルーン著)である。著者のH.ヴァン・ルーン Hendrik Willem Van Loon と言うと、この全集第8巻で読んだ「聖書物語」の著者である。