コスタリカの軍事に思う

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 コスタリカは非武装中立だと言うが、トリックはある。

 すなわち、常備軍はないものの、コスタリカの憲法ではアメリカ大陸の安定や国防のための交戦権は否定されていない。そのため、有事に臨時の軍事組織を編成することができ、その場合にはあらかじめ訓練された予備役が召集令にしたがい兵役に馳せ参じる。徴兵もあり、いざとなれば若者を召集することもできる。日本でそのような強引なことは無理だろう。

 コスタリカの予備役制度は、旧体制派の反乱を懸念した内戦時の首魁フィゲーレスが、自らに近い者を訓練し、武力対立の恐れに備えていたことを背景に発足した。1955年に隣国ニカラグア政府の支援を受けた旧体制派が国境を越えて侵入したとき、実際に予備役が召集されている。

 常備軍が廃止されたコスタリカといえども、規律に従う「力」というものは必要で、そのため約1万人の規模をもつ国家警察が国境警備や海上監視などを行っている。その中には、暴徒鎮圧などの中心となる4500人規模の警備隊もある。

 人口わずか500万人足らずのコスタリカに1万人の潜在的パワーがあることは、日本の人口に置き換えれば20万人にも匹敵しよう。そこへ、有事には前述の予備兵役召集と徴兵が加わり、2万人程度の規模の動員ができる。つまり、いざというとき、日本に置き換えると60万人規模に匹敵する軍事力を発揮できるのだ。

 また、通常の警察と異なり、諜報活動を担う諜報安全省の監督下にある特殊部隊は、自動小銃のみならず、各種高度な軍事装備を備えている。米軍との共同訓練にも熱心だ。

 こうして概観してみると「軍隊なんか持たない」と言ってるくせに着々と常備軍事力を蓄えている日本と、「常備軍は廃止しました(でも強力な警察による潜在的軍事力と、予備兵役も徴兵もあって2万人動員できるけどねテヘペロ)」というコスタリカなど、五十歩百歩の似たりよったりである。

 思うに、バチカンみたいな小さな主権体だって、お飾り的とはいえ、今でもスイス傭兵に戦斧(パイク)を持たせて警護させ、厳然と睨みを効かせている。

 人間の歴史は殺し合いの歴史、万巻でも及ばぬ膨大な戦争巻物の集積だ。

「犬猫その他多くの哺乳類と同じように腹を見せて無抵抗恭順の姿勢を見せれば相手にも惻隠の情というものがあり、降参さえすれば侵略されることはない」

というような漠然とした平和獲得方法を夢想する向きがあることも無理はないが、残念ながら人間なんてものは、自ら理性の動物などと定義していながら、その実、偸盗(ちゅうとう)、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪(けんどん)瞋恚(しんに)、邪見、嫉妬、差別など、どす黒くおぞましいものが渦巻く腐った大脳を搭載した厄介な(ケダモノ)だ。犬猫のように清純純真無垢天然のそれとは異なる。

 今後千年を経れば、あるいは軍隊も戦争もなく、ひいては盗みも人殺しもいじめも差別もない天国がこの世に実現するかもしれないが、実に無念なことに、私たちが孫くらいの世代に残しうるものは、結局やっぱり軍隊と戦争と盗みと人殺しといじめと差別のある陰惨な世界でしかない。

 それを直視し、その上で生き残るための曲芸じみた振る舞いを演じ続けるしかない。


 コスタリカの非武装中立にシンパシーを寄せるような文章をThreadsに見かけ、それへなんとはない違和感を感じたので、それへのアンチテーゼのコメントは遠慮し、全く独立に新規スレッドとして書いたものに加筆・編集し、転載したものです。

安楽死

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 6月頃NHKで放映された番組の再放送があったので、録画し、見た。

 普段あまりテレビを見ないが、こういう番組は時々見る。先日新しいHDDレコーダーを買ったということもある。

 重く、苦しい内容で、簡単に安楽死の是非がどうこうと喋々(ちょうちょう)するような安っぽい番組ではなかった。

 単に安楽死した人を追うだけではなく、並行して、同じ病気に苦しみながら生きることを選んだ人の姿も追う構成だった

 テレビや新聞が嫌いだが、こういう番組は、良いと思う。私も、番組の問いかけに軽々しく自答して、安楽死の是非を云々(うんぬん)することはすまい。

時事雑片

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スイス、「ハイジ」を逆輸入

 面白い記事が出ている。

 その展覧会のページがこちらである。

活躍する日本人女子

 オーケストラの指揮者で女性は珍しいが、沖澤のどか氏という方が国際コンクールで活躍し、優勝したそうな。

 喜ばしい。

男子は(おお)下ネタ(笑)

 (ひるがえ)って、小学校や中学校と同じで、男子の方はというと、下ネタである。

 「♪ おお~きな~XXXXをください~ッ!!」と連呼するというネタだ。下ネタを()(すぐ)って(すぐ)り抜いたとでも言えば最も適切と言えるであろう下ネタ中の(おお)下ネタで、しかしあまりのヤケクソさというか、ブン投げてしまっているところに(いさぎよ)さすら感じられ、不覚にも大笑いしてしまった。

魔曲・君が代(笑)

 不覚と言うと、コッチのほうも、本当に「不覚にも」笑ってしまった。


 私は右翼なのでよく君が代を歌うのであるが、実際、「苔の~~む~す~…… ラ↑ド~レ~、ド~レ~↓ラ~ソ~……」というところなど実に難しく、大抵のおっさんは声が出ない。

 ま、その点、世間の大概(たいがい)の連中はプロの歌手を笑えませんな。

時事雑挙

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 通勤経路の他所(よそ)のお宅の庭に木槿(むくげ)が咲いた。

 美しい。

 写真にでも撮りたいところだが、他所のお宅の庭なんか写真に撮って、犯罪者だと思われても困るし、向こうでも気味悪くて迷惑するだろうから勝手なことはできず、残念である。

自然な農業を歪めているのは誰

 私は農業関係者ではない。しかし、おいしい野菜や果物を食べたいという単純な欲求は持っている。

 去年の話題ではあるが、「種苗法」の運用により、自然な農業のなりゆきと感じられるような、例えば「収穫から種を採り、それを分けあって()き、更に収穫を増やして共存する」などということが出来なくなっていくであろう、……というふうに書いているメディアがある。

 パッ、と、そこだけ切り取って聞くと、「なんと不自然なことだ。天然自然の農業を歪めるものだ」という感じがしてしまう。上掲は去年の記事だが、この記事のように、「米国の大企業の支配構造に農業を組み入れる暴挙であると同時に、生態系や人間の健康に重大な影響を及ぼしかねない」というようなことを書きたてているところが多いようだ。

 しかし、冷静に見ていくと、そういうことばかりではなさそうである。

 もともと、苦労を重ねて改良された、日本の優れた農産品が、無秩序に中国や韓国に持ち去られ、勝手に播種(ばんしゅ)栽培、更には増産されて日本に輸入され、平穏な日本の農業需給を荒らすというような、そういうことが問題となったから、種苗の取引に一定の秩序を付与しよう、ということらしい。

 言われてみれば、苺や柑橘類、米穀などで損害を被る事態になっていることがニュースになっていたのを、深刻に思い出す。

 どうも、落ち着いて見ていくと、「米国の支配」云々、ということを言い立てているところは、地方紙など、反社会活動に(くみ)するような、変なところが多いようだ。

 何であれ政府や役所のすることは全部間違いだ、などということを言うのが好きな人が多いかのように感じられるよう仕向けて行く、というのは困ったものだ。

「余っている」

 企業の経営は苦しいらしく、リストラもよく行われる。本当に企業が苦しいのか、お金を多く儲けようという商売の自然な道理に従っているだけなのかは私にはよくわからないが、こんな記事があった。

 この中に、

(引用)

余った従業員は介護などを手掛けるグループ企業に配置転換し、新卒採用も抑える。

 というくだりがある。

 これにびっくりする人もいる。

 まあ、「余った従業員」という言葉に、労働者の悲哀を(かえりみ)ることもない巨大利権構造と政府及び社会の冷酷無情を見て取るか、最近の新聞記者の語彙(ごい)(すさ)み方を見て取るか、それはまあ、人それぞれだと思う。

 私はどちらかと言うと、記事が乱暴な態度で無造作に書かれているだけではないかと思う。つまり、新聞記者の語彙が低劣化しているのだと見る。

 種類の違う話だが、(かしこ)し、()ぐる年、上皇后陛下が「『生前退位』なる新聞やテレビの言葉に痛みを覚えた」と漏らしあそばされたことがあった。

 余談だが、なんと(いきどお)ろしいことに、大新聞・大テレビは上皇后陛下のこのお言葉をすべて無視したのである。新聞・テレビなど、悪しき呪術にも似て、怨念や不安を増大させ、世の中を混乱と恐怖に(おとしい)れようとしているとしか思えない。いっそ天罰でも下るがよいわ。……と言って、私のブログの時事エントリなど、大新聞や大テレビの記事やニュースがなくては表すことができないのだが(苦笑)。

 さておき、その時と同じような痛みを共感すると同時に、私は「余った従業員」という言葉しか書けない新聞記者を哀れに思う。

 その新聞記者が悪いのではないのだ。教科書や国語のテストに出てきた言葉しか、彼らは知らないのだ。新聞記者と言うのは学歴が高く、子供時代は勉強に明け暮れているから、余裕のある時を過ごして読書したり人と話したりする機会を持てなかったのだ。しかもなお、光輝ある新聞記者の地位を得てみたら思いの(ほか)、取材に追いまくられ執筆に追いまくられ社内の雑用に追いまくられ、のんべんだらりと文章を推敲している暇などあるわけもなかろう。自分の貧弱な言葉をひねり出して日々の仕事をこなしていくしかない。生来言葉にいたわりや悲しみ、温かみなど盛り込むことに縁のない怜悧な人物たちだ。だから、人をいたわる言葉が書けず、「余った従業員」だの、場合もあろうに「生前退位」などと記して、しかもその言葉の何が悪いのかもわからないのだ。

パジェロ販売終了

 ほほ~……。

 パジェロは官公署、例えば自衛隊などでも採用されているので、何かと波乱がありそうだ。

 私も若い頃、パジェロが欲しかったが、それよりやっぱり小粒でイカしたスズキ・ジムニーのほうが好きで、長いことジムニーの幌車に乗っていた。結婚を機に四駆への興味が薄れ、パジェロもどうでもよくなったが、販売終了となるとまた懐古の情がそこはかとなく胸に生じる。

まあ、普通かなあ

 時代に照らして、まあ、そうでしょうねえ……。

 ただ、まあ、「職場のことをネットに流すなッ!」というのは、若い人には、折に触れ教育しておかなくてはいけない。警察官が取り調べ中の事件のことをツイッターに書いたり、銀行員が有名人の貯金残高をFacebookに書いたり、メーカーの人が開発中の新商品のことをYouTubeで流したり、そんなこと、法律や社規以前に、常識で判断したってダメですからね。

 一方、「今日、叱られて落ち込んだ」とだけ、ポツリとTwitterに書いたとして、それは、今時、責められぬ気はする。暑苦しい人間関係を避けることが望まれる昨今、その受け皿はSNSだったりするんだろうし。

ものの作り方も国際的になっていて

 産業振興などにつながるならそれも(むべ)なるかな、と感じなくもない。

 昔、三菱重工が「F1戦闘機」を開発した頃は「日本、『ゼロ』から『1』へ」などと海外メディアに書かれたものだそうだ。

 なんとなく連想するのは、ヨーロッパなどは第1次大戦や第2次大戦で、ドロドロの国際関係を持っていて、むしろその昔の第1次大戦の時代の方が、自国以外の兵器、ともすれば敵国の兵器で戦っていたりするのだ。

 ドイツ製の火砲をフランスが重宝していたりしたと聞いたことがある。いつぞや読んだ本によると、第2次大戦中のスイスなんか、中立国だが、ドイツのメッサーシュミットを買って領空侵犯機を叩き落としている。

 余談だが、中立国であるスイスの上空をアメリカの戦闘機が領空侵犯したため、スイスはこれを撃墜した。戦時下だから、アメリカ・イギリスだろうとドイツだろうと、どの国に対してもそうしたのである。ところがこれに激昂したアメリカは報復の挙に出た。国もあろうにスイスにB29を差し向け、都市無差別爆撃を敢行したのだ。この爆撃で、スイスの一般市民にはおびただしい死者が出た。あまり知られていないがこれは史実で、アメリカ側にとっては思い出したくもない汚点となり、スイスとのしこりともなって今も残っている。

 話がそれたが、仮に国産で戦闘機を作ったとして、部品の多くはやっぱり米国製で、サプライ・チェーン上、もはや国産がどうとか論ずること自体が無意味なのではないだろうか。

へえ、「みさき公園」がねえ……。

 私の生まれ育ちは大阪の堺市だ。その近くの岬町に昔からある「みさき公園」が閉園するのだという。

 私なども子供の頃、何度か行ったものだったが。しかし、うんと小さい頃だったものだから記憶は遠い。確か伯母も一緒だった。陽光の中、青い芝生の中で遊び疲れ、土管のような大きな遊具に入って楽しんだような気がする。追憶、と書けば的確だ。その伯母も先頃亡くなった。……まあ、私にとっては懐古の情(ノスタルジー)の場所ではある。

 まあ、そりゃあ、当時と違って今は子供も減っているし、どうしたって子供相手の場所であることを否定できない遊園地が赤字になるのは、これはもうしょうがないわなあ……。大人、就中(なかんづく)、子供の減少とは逆に増え続けている、退職老人などが日参するような場所にでもなれば別なんだが。

だいぶ前の記事だけど

 ……(こわ)ッ!

 不動産屋(ぢめんし)怖いッ。……私は土地なんか持ってなくて、良かったと思う。私の親も地面の財産なんかないし、貧乏人で本当に良かった。

け、経団連?……て……。

 私は会社の経営のことなどサッパリわからないが、Facebookみたいな、なんとなく「若者の企業」みたいな感じのするところが、口に出して言うとおっさん集団の代表みたいな響きの感じられる「経団連」なんてところへ、入るもんなんだなあ。

 他にも、GoogleもAppleもAmazonも、み~んな入ってる、などと書いてあって、へぇ~……、と思う。

いやこれ、いくらなんでも

 う~ん、どうなんだろ。

 「言葉に痛みを覚える」ということには私は共感する。人間に対して「その他」とは、雑な書き方だなァ、とも思う。

 が、しかし、「その他」以外、どうにも書きようがないだろ、こんなの(苦笑)。

 「男 女 性的マイノリティ」なんて書いた方がよっぽど無残な書き方になっちゃうし。

イソ子

 あ~、この映画、やっぱりイソ子関連なんだ。

 でも、イソ子も悪いと思うよ。官房長官にハラスメントみたいなことするからだよ。

大泥棒がやくざの嫁ってのは、逆に普通な感じすらするな

 なんか、生まれる場所や状況が違ってたら、すごい才能を発揮したのかもしれんな。職人とか、名人とか。

読書

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中立国の戦い―スイス、スウェーデン、スペインの苦難の道標 (光人社NF文庫)

 「アルムおんじ」の話などするうち、スイス傭兵の話から、近代のスイスの苦闘についても興味を覚え、ちょっと読んでみた。

 永世中立国スイスは、のほほんと平和に暮らす田舎国家などではなく、実は全身これハリネズミのように武装した国民皆兵の国であることはよく知られている。しかし、私たち日本人は理由もなく漠然と、スイスの軍事力は単に潜在的抑止力として準備されているだけで、全く他国と干戈(かんか)を交えないものであるかのようなイメージを持ってしまってはいないだろうか。

 ところが、ところが。スイスは、実は第2次世界大戦において意外に激しい戦闘を行っているのだ。中立を守るために、である。いかなる国の軍隊も、どんな理由があろうと、スイスの領土を侵すことを許さないという意思を断固として示したのである。無論、兵の血と生命によって、である。

 しかし、それは簡単なことではなく、迷う国内世論の処理を含め、苦しい選択と難しい判断を積み重ね、ひとつひとつの局面を切り抜けていったことが本書には克明に描かれている。

 大戦中のスイスの戦闘で、本書でも大きく取り上げられているのは対領空侵犯措置の戦闘である。ドイツであろうと米英連合国であろうと、スイスの領空を犯す航空機にはスクランブルをかけ、枢軸国側航空機を12機、連合国側航空機を13機、合計25機を撃墜している。しかし、領空侵犯機への対処は極めて難しく、逆に空戦を仕掛けられ、スイス自身はその10倍、200機もの航空機を失い、300人もの死傷者を出した。空中戦は昔も現代も先制攻撃が常道、つまり先手必勝がベスト・プラクティスなのであるが、対領空侵犯措置では、先に手を出すことができないのだ。

 また、アメリカなどは国際法上永世中立国の地位を完全に認められているスイスに対し、完全に国際法違反の都市無差別爆撃を行い、100名ものスイス一般市民が死亡した。このことは後世もアメリカの汚点として、しこりとなって残っている。

 スイスはこのように、おびただしい犠牲の上に中立を堅持した。

 スイスだけでなく、大戦中、スウェーデン、スペインが中立を守るためにどれほどの犠牲を払い、戦ったかということに光を当て、日本に広く紹介したという点で、功績の大きい一冊であると思う。アマゾンのレビューでは資料の選び方などに一部批判の意見もあるようだが、そのことは本書の価値を(いささ)かも減じない。

傭兵の二千年史 (講談社現代新書)

 「アルムおんじ」の記事の流れで、ちょっとスイス傭兵に興味を覚えて。

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)

 毛沢東が実は日本軍と共謀して蒋介石の国民党軍と戦っていたという奇怪な事実は、現在の中共が主張する抗日戦争の歴史など根底からひっくり返ってしまうようなことである。

 だって、中国は韓国ほどには頭のおかしい要求はしないけれども、謝罪しろだのなんだのとうるさいことには変わりがない。ところが、謝罪しろも弁償しろもヘッタクレも、大日本帝国と一緒になって蒋介石と戦争してた、ってんだから。

 戦後になって、蒋介石率いる国民党は逃げてばかりいたのだなどと中傷し、毛沢東率いる八路軍こそが抗日戦線の主役であった、などと、言い分が変わっていく様子が本書ではよくわかる。

東京タラレバ娘

 図書館で読んでやろ、と思ってたら、販促のためか、Kindleなら第1巻のみタダだった。

 なるほど、最近ポスターやキャラクターグッズなどもよく見かけるし、ドラマ化もされるようで、ヒットするだけあって面白い。

 残りは高いから図書館で読もうと思ったが、前掲の3冊を読むので時間切れとなり、読めなかった。

アルムおんじ

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 Twitterでこんなことを書いている人がいて、どなたかのリツイートでそれが私のタイムラインにも流れてきた。

 そうそう、そうなんだよな、と思ったものだから、思わず次のようにリプライした。

 そうしたら、このリプライまで一緒くたにリツイートされている。

 後でこの元ツイートの人も書いているのだが、意外に、あの世界的名作「ハイジ」は、原作が読まれていないのだと思われる。

 さもあろう、原作は野生児ハイジがおじいさんともどもキリスト教信仰に目覚めていくというのが基本的な筋書きで、色んな所がアニメとはまるで違う話なのだ。心が「(キリスト教的に)正しく」なったおじいさんが教会通いをするようになる話などはアニメ制作当時の日本では到底受け入れられなかったため、バッサリ切除されているわけだ。

 参考までに、おじいさんに人殺しの噂があることや、傭兵時代に上官を看護した話などは、原作では次のようになっている。


以下、岩波少年文庫「ハイジ」(上)(下)(ヨハンナ・スピリ作・竹山道雄訳 ISBN4-00-112003-8・4-00-112004-6)から引用……

上巻p.15~

……デーテはいきおいこんで答えました。「もともと、おじいさんは、ドームレシュッグでいちばんりっぱな農家の主人のひとりだったの。あの人は総領(そうりょう)で、弟がひとりいたんだけれど、こちらは、静かな、まじめな人だったわ。ところが、にいさんのほうは、金持風(かねもちかぜ)をふかせて、あちらこちらを旅行して、素性(すじょう)のわからない、みょうな人たちとばかりつきあって、あげくのはてに、家もやしきも、ばくち(、、、)やお酒でなくしてしまったの。それがわかった時に、父親も母親も、悲しみのあまり、つづいて死んでしまい、弟も、そのために、世の中がいやになり、こじき同様になって、遠い旅に出かけました。どこにいったのか、わからないのよ。とうとうしまいに、おじさん自身も、わるい評判(ひょうばん)だけを(のこ)して、姿を消してしまい、しばらくは、ゆくえ(、、、)がわかりませんでした。やがて、兵隊(へいたい)に入って、ナポリにいった、といううわさがつたわっただけで、それからあと、十二年か十五年のあいだも、消息はありませんでした。ところが、とつぜん、かなり大きくなった男の子をつれて、ふたたび、ドームレシュッグに姿をあらわし、この子を親類(しんるい)に、あずけようとしたの。でも、どの家でも、おじさんを入れてはくれず、だれも、かまいつけなかったの。おじさんは(はら)をたてて言いました。『こんなドームレシュッグなんかに、もう二度とは足をふみいれんぞ。』それからこのデルフリ村にきて、男の子といっしょに住みました。おかみさんだった人は、ビュンデン州の女だったらしく、おじさんはその人と一緒になって、まもなく死なれたの。お金は、まだいくらか持っていたらしく、そのトービアスという男の子に、大工仕事を勉強させました。きちんとした子だったから、村の人からはみんなに()かれていました。けれども、おじさんの方は、だれも信用(しんよう)しなかったの。うわさによると、おじさんは、ナポリで脱走したのですって。もし、しなかったら、ひどいめにあったでしょうね。人殺(ひとごろ)しをしたんですもの。それもね、いいこと、戦争でではなかったのよ。けんかだったのよ。それでも、わたしたちは、親類の(えん)()ちませんでした。わたしのおかあさんのおばさんは、あの人のおばさんと、いとこどうしだったんだもの。わたしたちは、あの人をおじさんとよびました。もともと、わたしたちは、デルフリ村のたいていの家と、父方(ちちかた)の親類でしょう?それで、村の人は、やっぱりみな、あの人をおじさんとよんでいるのよ。アルム山の上へ越していってからは、ただ、アルムおじさんと言っているけれども。」

下巻p.151~

 「おじょうさんは、なれたいすにかけさせてあげたほうが、いいでしょう。旅行のいすはかたいから。」おじいさんは、こういいながら、ひとが手をだすのを待つまでもなく、すぐに自分のつよいうでで、病気のクララをそっとワラのいすからだきあげて、注意ぶかく、やわらかいいすに(うつ)しました。それから、ひざかけをなおしてやり、足をできるだけ、らくにのせてやりました。そのようすが、まるで、これまで、手足のきかない病人のせわをしてくらしてきたようでしたから、おばあさまは、びっくりしてながめていました。

 「まあ、おじさん、」と、おばあさまは思わずいいました。「どこで看護法(かんごほう)をおならいになったのでしょう。それがわかったら、知っている看護婦(かんごふ)をみな、そこへ習いにやりますわ。ほんとうにまあ、こんなことがおできになるなんて!」

 おじいさんはすこし(わら)いました。そして「べつに勉強したのではありません。やっているうちに(おぼ)えたのです。」と、答えました。けれども、笑っているその顔は、なんとなくかなしそうでした。おじいさんの目の前には、ずっと昔の思い出が()かんだのです。それは、やはりこんなふうに、手足を使うこともできずにいすにすわったきりだった、ある人の顔でした。その人は、おじいさんの隊長(たいちょう)でした。おじいさんは、シシリアの激戦(げきせん)のあとで、隊長が地面にたおれているのを見つけて、かついでいきました。それからあと、隊長は、とうとうさいごの苦しい息をひきとるまで、おじいさんだけをそばにおき、どうしても手ばなそうとはしませんでした。いま、おじいさんは、それを目の前に、まざまざと見るような気がしました。それで、この病気のクララを看護(かんご)して、自分にできるかぎりのせわをして、その苦痛(くつう)を軽くしてやりたい、これが自分の仕事だ、と思いました。

以上引用


 原作内には現れてこないが、シシリアの激戦というのは日本で言えば江戸時代、幕末の頃にあった戦いだ。

 端は割拠分裂の状態にあったイタリアの、統一への動きに発する。この時に起こった「ソルフェリーノの戦い」は、英仏連合軍とオーストリア軍との間で激しく繰り広げられ、(おびただ)しい死傷者を出した。英仏連合軍には多くのスイス傭兵が加わっており、甚大な損害を受けたという。

 この戦争の流れの中で起こったのが「シシリアの激戦」である。

 これらの戦いでは名将ジュゼッペ・ガリバルディの名がよく知られるようだ。「ガリバルディ」でググると、シシリアの闘いについて概要が分かると思う。

 また、この戦争の傷病者の悲惨さに心を痛めたスイス人アンリ・デュナンにより赤十字が設立されたことはよく知られる。

 同じ頃、旧ロシア帝国と旧オスマン帝国の間で起こった「クリミア戦争」において、かのナイチンゲールが看護婦のあり方を確立したことも知られている。

 当時は旧来の凄惨な刀槍(とうそう)の戦闘に、発達を始めた火砲・火器の威力が加わり、戦争はますます残酷の度を加えつつあった。そのために赤十字や看護婦への関心もまた高まっていったのであり、そこからも逆に当時の戦争の悲惨さがわかろうというものだ。

 そんな当時の、「血の輸出」とまで言われたスイス傭兵の、戦闘惨烈の極処にハイジのおじいさんの姿もあった、と想像すると、児童文学にしてはなかなか大人の味わいもあって、物語の行間にも読むところは多い。