憲法記念日

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天皇陛下万歳

 祝日「憲法記念日」である。国旗を掲揚し、拝礼する。

 現行憲法施行日と公布日を決めるにあたって、相当の紆余があったことが当時の記録などからわかる。

 憲法は尊重されなければならぬ。最近、我々国民は特に、平和を尊重する精神に欠けるところがあるのではないか。一部左翼政党の所説を見るに、まともに平和と言うものを考え、これに取り組んでいるとは思えない。祝日にあたりよく反省し、憲法における平和の精神を発揚すべきである。

【妄想】システム開発・設計基本指針第九項

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 例のアレをシステム開発で例えるなら、コーディング規約や設計規約よりも上位に置かれる「開発・設計基本指針」といった高レベルのルールと言って良いだろう。

 その会社は、無理なシステム化戦略によって一度は倒産寸前にまで傾いた経営をようやく立て直し、まさにこれから、というところであった。全社員が路頭に迷うかと思われたあの恐ろしい時代の経営の第一の反省点は、技術的にエレガントとは言えない開発・設計基本指針にあると考えられた。

 とりわけ、旧開発・設計基本指針では、ハードウェアへの直接アクセスについては最高経営責任者がこれを判断するとされていたため、結果的に総合的な経営陣の合議判断が排除される状況となり、ついには技術陣の専権事項となって、メンテナンスが不可能となるほどの複雑なハードウェア・アクセスがソースコードに埋め込まれていく状況となってしまっていた。

 新しい開発・設計基本指針ではこうしたことを深く反省し、技術的なエレガントさが追求された。株主の要求により、会社再生のおり経営陣に加わって再建に尽力した権威ある社外専門家達を招聘し、その意見を取り入れた。結果として、開発・設計基本指針の第九項に「ハードウェアへの直接アクセスを禁止する」という内容が盛り込まれた。また、ハードウェアにアクセスするための技術やノウ・ハウ、ハウ・ツーも、研究したり保持したりしない、と付記された。

 だが、経営立て直しから間もなく、いよいよ自社の基幹システムをこれにより刷新しようとしたとき、システム開発を取り巻く技術的トレンドは変わってしまっていた。標準化によるシステム・ライフサイクルの一元管理が新たなシステム開発パラダイムだと見なされるようになったのだ。そこで、会社の経営判断は、工場の生産ライン制御だけでなく、工場建屋管理システムの制御や、通風や採光、また給与、会計、人事システム、フィジカル・セキュリティなどの異質なシステム群をも単一システムとして一元管理し、これによりシステムの安定的な保守とコスト削減を実現するに決したのである。

 経営陣は商機に投じたシステムの早期完成を至上命題とした。このため、システム開発における技術的な適切性は、今回は二の次とされた。

 技術者たちは可及的速やかにシステムを完成させた。工場のラインを制御するとともに、給与や会計、フィジカル・セキュリティなどまで標準化・一本化することにより総合的で高速な経営判断が可能になった。またこのシステムは大幅なコスト削減も実現しており、会社の経営に大きく寄与することとなった。

 建屋管理システムのうち、特にフィジカル・セキュリティシステムはドアや窓の施錠機構、警報・監視装置などまで制御するため、ハードウェアへの直接アクセスが必要だったが、これは「最小限必要とされる矮小な事項に過ぎず、技術陣が当時当時の状況で判断して実装すべき事項である」とされ、技術陣の奮闘により最小限のハードウェア・アクセスでうまくシステム化された。

 一時期倒産寸前であった会社は、このシステム開発の成功もあって業界でも2位か3位の時価総額規模を回復し、有数の技術企業となっていた。

 このシステムはなんとはない不明瞭さと不安を(はら)みながらもその後長期間運用される結果となった。

 ところが、現在も稼働し続けているこのシステムのうち、特にフィジカル・セキュリティサブシステムのハードウェアへの直接アクセスが問題視されるようになった。

 ハードウェアへの直接アクセス部分は、はじめは規模も小さかったが、システムがメンテナンスされる際にソースコードもリファクタリングされ、個別にその場その場で書かれた間に合わせのコードでは既になく、気が付けばハードウェア直接アクセス用ライブラリとなって、全システムで最大のソースコード行数を費やす一大サブシステムとなっていた。

 だが、開発・設計基本方針の第九項には、「ハードウェアへの直接アクセスは、これを認めない。その技術は全社的にこれを保有しない」と書かれてあることには変わりがないのだ。

 当時の状況はこうだ。

 ハードウェアへの直接アクセスが禁じられているのに、ハードウェアの制御を実質的に命じられたプログラマたちは、

「ハードウェアアクセス用の海外製COTS利用ライセンスを購入してもらうしかない」

「だけど、海外製COTSは滅茶苦茶に高いし、それにウチの会社のフィジカル・セキュリティのハードウェアには合致しないから、特注カスタマイズしてもらうしかない」

「海外製COTSへロックインされる問題も怖い」

「だいいち、以前ウチの会社の経営が傾いて倒産寸前にまで追い込まれたのは、あの海外製COTSのメーカーにやられたようなものだ。だから、社内にはあの海外製COTSに対する感情的なしこりもある」

「これは上の方にかじ取りして貰うしかないよ」

……と、開発を暫時(ざんじ)停滞させざるを得なかった。

 そこへ、システムの早期完成を督励するため、本社から企画本部長が乗り込んできた。彼は

「君たちは何を屁理屈を言って手を(こまぬ)いているのだ?やるべきことであれば、テクニカルな規約や方針なんか、そんなもの、なんだというのだ。今すぐ技術者としてやるべきことをやれ!」

などと、いかにも琴線への触れ具合がいいようなことを言って技術者たちを鞭撻(べんたつ)した。

 技術者たちはこの本社企画本部長の容喙(ようかい)に従った。C言語で書かれたプログラムに、躊躇(ちゅうちょ)なくインライン・アセンブラのコードを埋め込み、ハードウェアに直接アクセスすることで問題を打擲(うっちゃ)ってしまった。まあ、ゆくゆくは経営トップから何らかの判断がなされ、そのうちにこの問題も整理されるだろう、それまでは辻褄(つじつま)の合わぬことは先送りだ。

 ところが、それから年余の時間が経つというのに何の判断もなされぬまま、このハードウェア・アクセス部分は、前述のように「社内申し継ぎ」の壮大なライブラリに成長してしまい、のみならず会社の資産にまでなったのだ。ところが、この大資産は経営トップの認めているものではない。

 中間管理層は困った。プログラマ個々が勝手にハードウェアにアクセスするコードをこっそり書いたと言うなら、それはプログラマの責任にして、露顕すれば個々のプログラマを叱責するなりして処分してしまえばよい。しかし、大きくなってしまったライブラリは、実質上会社の資産となっており、今更もうどうしようもない。それどころか、そのライブラリはもともとファクトリ用に書かれていたのに、パッケージ化されて社外に販売された金融などの大システムや、一般向けのホーム・セキュリティにまで組み込まれ、役立てられるようになってしまっているのだ。

 仕方なく、「このハードウェア・アクセスライブラリは、開発・設計基本指針には合致している。それは、ハードウェアにアクセスするための必要最小限の方法しか用いていないからである」という解釈が本社経営会議で議決された。全社が曖昧な薄笑いのうちにこれを聞き、受け取った。あの壮大なサブシステムが、「必要最小限」とな……?

 社員たちは、ひそひそと「どう考えたって開発・設計基本指針に違反しているよな、ウチのシステム」と言い合った。新入社員を教育するとき、教育係は

「このライブラリのコードは、ハードウェアへの直接アクセスを行っていない。素人がパッと見ただけならそのように見えなくもないが、これは、経営目的を達するため、必要最小限の処理を行っているのである。したがって、開発・設計基本指針の精神には合致している。……このコードがそう見えない者は、精神力でそのように見えるようになるまで頑張れ」

……などと教えるので、新人の失笑をかう始末である。

 社員一同、特に技術陣は釈然とせぬながら、ハードウェアに直接アクセスして迅速に目的を達することができるこのライブラリの恩恵に(あずか)るしかなかった。

 何度か、

「おかしいじゃないか、現にうまく動いているシステムが数多くあるにもかかわらず、これらは全社的な開発・設計基本指針とはまったく一致しておらず、経営トップもこれを資産として認めていない。ならば、開発・設計基本指針を変更すべきではないか」

という発議が行われたが、

「そのような現実路線は、技術的にエレガントとは言えない。技術至上主義を社是とするグループ会社全般の方針に違背する。この問題には、多くとも、コーディング規約などの部分的な改正や、パッケージ化して社外に販売しているものについては納品物メンテナンス規約などの新設により、限定的に対処すべきだ」

などという変ちくりんな理由で発議は認められなかった。枝葉で限定的に対応するなどということの、どこが技術的にエレガントなのか。

 だが、たしかに経営トップレベルの苦し紛れな判断回避も(もっと)もなことである。それはそうだろう。「できてしまったシステムに合わせて設計を変更する」などということがエレガントであるはずはない。それは出てきたバグを修正せずに、テストケースのほうを変更するようなものだ。設計に合致していなければ、そのシステムは作り直すべきなのだ。

 無論、現実には設計が間違っている場合もある。部分的な間違いが製造中に見つかり、設計を修正するということはあるだろう。だが、問題はそのような部分部分の誤りとは異なる。全員が薄々開発・設計基本指針の欠陥に最初から気づきながら誰もそれを言い出そうとはせず、本社の監査と株主が怖くて、開発・設計基本指針の欠陥をその場その場でうまくかわしながら大システムを製造してしまったのだ。

 もともと、この開発・設計基本指針は、一度は倒産寸前にまで傾いてしまった経営の反省点から生まれたものであり、トップからボトムまで、社員全員、倒産して路頭に迷うあの恐怖がトラウマとなって胸底に残り、この現状と乖離(かいり)した開発・設計基本指針に手が付けられないのだ。

メディアとしての憲法

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 やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。

 前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。

 後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。

 私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと(うそぶ)いている。これを聞く人は「またこの変人佐藤が、キチガイみたいなこと言ってるぜ」と笑って流してくれるが、私は大真面目なのだ。

「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」

「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」

「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!

「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」

……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。

 だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、喧騒(けんそう)、興奮、混乱、分断のうちに改定ないし破棄するというのも慌て過ぎだ。

 反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。

 つまりは最高法規の姿をした強力な媒体(メディア)となることは疑いない。そう思う時、喧騒、興奮、混乱、分断もまたそれに期待される機能を自然に持つのだ、とも思う。

先週雑想

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サラザールのことなんか思い出す

 世相から「開発独裁」なんてことを連想し、かつてのポルトガルの変人宰相、サラザールのことなんか思い出す。

差別

 ある人との対話なのだが、その人が言うには、

「『崩御』『薨去』などという言葉を使うのは差別である。皇族に敬意を払うのも差別だ」

……だそうな。

 言いたいことはわからんでもないが、私に言わせれば、「生前退位」などといういたわりも奥行きもない言葉のほうがよっぽど差別である。

下手ロビー

 ネットで漁ったところによると、中国・韓国などは、米国議会へのロビー活動を非常に熱心にやるが、わが日本は、これが全くダメなのだそうである。

 日本がこの点で劣る理由は、在米日本人、あるいは日系人コミュニティというものは、中国・韓国のそれに比べると、票田としての魅力がゼロに等しいからだという。

 在米日本関係者の間では、70年前の「日系人強制収容」の記憶が、いまだにトラウマのようにくすぶっており、そのため、政治に容喙(ようかい)することを極力避けようとする心理が働き、ために日本人コミュニティは政治に全く触ろうとせず、消極的だそうである。

 日系コミュニティには何の力もないから、日系議員は支援を得るため、力のある団体にすり寄らなければならず、中国系コミュニティにすり寄って反日活動などする。それで、この前落選して話題になったマイク・ホンダ議員なんてのが出てきてしまうのだそうだ。つまり、議員になるための支援さえもらえるなら、中身なんてどうだっていい、というわけだ。彼らに節操なんぞという言葉は言うだけムダだということである。

 そういえば、往年の名議員、欧州戦線の英雄、亡くなったダニエル・イノウエなんかも、たしか貿易摩擦の頃なんか、反日の急先鋒で有名だったっけなあ……。

マック赤坂

 マック赤坂氏は、ドナルド・トランプ氏にならって、次期大統領選に出馬するのだという。オモロイおっさんやのう。

AI

 もう、憲法はAIで新規作成したらどうかね。アホな人間が考えるより、よっぽど冷厳で合理的に仕上がるだろうぜ。……多分、AIが作った憲法にはさ、「日本人は滅びた方がよっぽど日本のためになる」とかいうミもフタもない条文がこともなげに挿入されているんだろうと思うぜ。

グローバル

 「何がグローバル化だ、グローバル化なんて、所詮『アメリカ化』じゃないか、こんなのでトクすんのなんてアメリカ人だけだろう」……なんて屈折してホザいていたら、アメリカ自身も実は屈折して苦しみ、悩んでいたんだ、ということに、トランプ氏当選で気づかされた。中流未満の白人の不満は、グローバル化経済で生まれたものに他ならない。

バカとか

 人間観測の結果、次のような類型があるように思った。すなわち……

  •  すごく賢い人は、賢い人に厳しく、バカに優しい。
  •  中途半端に賢い人は、賢い人に優しく、バカに厳しい。
  •  バカは、賢い人に厳しく、バカにも厳しい。時々ブチ切れて暴力も振るう。バカどうしで戦いだすと、手が付けられない。
  •  普通の人は、優しくも厳しくもなく、誰にでも「普通」である。

 ……そう言えば、昔、谷村新司のラジオ番組で、「天才・秀才・ばか」というのが流行ったっけな……。リスナーの投稿コーナーで、ある状況に対して天才はこうする、秀才はこうする、バカはこうだろう、というのを言って楽しむわけだ。小学生だったから深夜放送なんか聞いていると叱られたので、生で聴いたことは(ほとん)どないけど、「ワニの豆本」という小中学生向けの流行本シリーズがあって、その中に読者投稿をまとめた一冊、題名も「谷村新司の天才・秀才・ばか」というのがあり、兄がそれを買ったから、私もそれを盗み読みした。

 なんで兄の本を盗み読みしたかというと、私の兄はこだわりの強い精神質の人で、他人が自分のものに触ることを極度に嫌い、それがたとえ兄弟であろうと容赦がなく、私が本に手を触れたりすると暴れたからだ。

 しかし、そんな兄も死んではや33年。この正月に三十三回忌である。

原発避難者へのいじめ

 あまりにもいたましいニュースである。

 こうしたことが起こるたび、対応しなければならない教師は、何の権限も持たされず、あまりにも無力なのではなかろうか、と思うのである。人間的魅力でもって生徒を感化善導し、精神の底から感服させて悪い人間をも悔悟心服せしめる、なんてことは、単なる理想論であり、無茶な空論だと思う。

 と言って、人をいじめるような悪い奴を手当たり次第にぶん殴っていては、これは体罰容認であって、不可である。

 そこで、警察官の武器使用等と同じように、厳密な法定の懲戒体罰権を、司法的に、公務員である教師に与えてはどうか、と思うのだ。

 警察官は拳銃を持っているが、好き勝手にこれを使用することは許されておらず、法定の基準を満たしており、かつ、真にやむをえない場合に限り、限定的に使用できるのだ。教師の懲戒体罰権もこれと同じで、厳格な基準により、いじめなど、威厳をもって戒めなければならない素行の子供を取り扱う場合に限り行使が許されるのである。

 無論、その行使が誤っている場合は、警察官の拳銃使用と同じように、懲戒処分などが下される。

 たまに拳骨を振るってクビになる教師がいるが、そこに何らの基準もなく、反面、少々痛い目にあわせなければわからないバカな子供だって大勢いるわけだから、これは、厳しい基準を設けることでむしろ安全化するのではあるまいか。

言葉
奇貨(きか)

 運の良いイベント。

桎梏(しっこく)

 手かせ足かせのこと。「(しつ)」は足かせ、「(こく)」は手かせ。

マンデート

 Mandate。被委任権限。国連がらみ。

均霑(きんてん)

 平等に利益を得ること。

韜光養晦(とうこうようかい)

 毛沢東の語録にあるという。力をひけらかさないようにし(韜光)、じっと動かず実力を養う(養晦)、というほどの意味だそうな。

ジェイコブ・シフ

 例の、高橋是清と日露戦争の外債の話の重要人物。ユダヤ人。

戒厳令と非常事態宣言

 同じことでも、軍が主導すれば「戒厳令」。軍が主導しないのが「非常事態宣言」。

名刺

オープン/フリーの名刺管理ソフトでいいのがないか、と思い始める。

ゆかい4コマまんが

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 ま、何やったって一緒、っちゅう話ですわ、どっちにしろ。

ゆかい4コマまんが・ちゅうごくぐんくんとじえいたいちゃん

4コマまんが・ちゅうごくぐんくんとじえいたいちゃん

 それにしてもヨダレでのたくったような絵柄だなあ。

 ……いや、「『ゆかい』じゃねえだろコレ」とかいうツッコミはさておき。

原理と世俗を分離して憲法を推戴する名案

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 名案が浮かんだ。

 昨日からのトルコの政変、トルコ共和国や、その前のオスマン帝国が永い間採ってきた「世俗主義」、つまりイスラム教徒なりの政教分離政策と、最近のイスラム原理主義の強まりによる復古思潮などを思いやっているうち、我が国の憲法改正論を落ち着かせ、改憲論者・護憲論者の双方を調停する名案を思い付いたのである。

 それは、次のようにするのだ。

 現行憲法を「宗教」「経典」に位置づけるのである。現行憲法を永久不滅・不磨の絶対原理、未来永劫不変の理念の経典ということにし、将来千年にわたって絶対に改変がありえない、神仏の所産ということにすれば、さすがの頑迷な護憲論者も納得するに違いない。なにしろ、経典なのだから、一字一句たりとも、人の子には変えることも加えることも除くことも許されない。改正手続きなど存在しないのだ。

 さしずめ、「日本国憲法は、至高の御仏(みほとけ)・九条如来が、その依代(よりしろ)マッカーサー菩薩の口を借りて人類に下げ渡した聖典である」とか、「宇宙絶対神キュウジョーが預言者ダグラスを遣わして霊峰富士の麓でこれを感得せしめ、宰相ヨシダをして普及せしめた不磨経」とか、そこらは適当にキチガイ神話でも拵えて理論づけておけばアホな連中は勝手に信じるだろう。

遂に護憲三昧境の法力を得た護憲教大僧正・岡田法主尊像想像図
遂に護憲三昧境の法力を得た護憲教大僧正・岡田法主尊像想像図

 ここで、共産党や社民党、民進党等の人たちは憲法経に拝跪(はいき)する聖職者ということにし、永田町に平成戒壇院を建立(こんりゅう)し、香華燈明飲食(こうげとうみょうおんじき)儀軌作法(ぎきさほう)もゆかしく、毎日憲法経を読経してもらって、かつ、その身分を保証し、国家から布施として無税の収入を得さしめる。憲法を奉ずる者は出家官僧の身分で、教学者として心行くまでその平和主義の蘊奥(うんのう)(きわ)めるのである。そりゃあ、あれだけの突拍子もない条文を奉ずるのだから、出家くらいしてもらって、一意専心、憲法経の法悦境に浸りきってもらわないといけない。「護憲大柴燈護摩(だいさいとうごま)供養」を施して寝ずに護憲精神を鍛えたり、「憲法千日回峰」と称して北アルプスを走り回るなど、荒行三昧に励むうちに、ひょっとすると何らかの神通力が身について、いつの日か戦力もなしに戦争が防げるという、核兵器並みのモノスゴイ法力が使えるようになるかも知れない。

 毎年大晦日・正月になると、「総本山・憲法山東京寺」は除夜の鐘を聴いたり、初詣をしたりする老若男女で賑わう。憲法山東京寺の梵鐘は特別鋳造で、百八つ()くと、「ゴケ~ン……ゴケ~ン……」と鳴るのだ。初詣では、皆、戦争の永久放棄や平和主義、基本的人権、国民の義務の履行などを祈る。護憲各派の各政党は布施や賽銭による浄財で公明党並みに潤うのである。

 この場合、神道方面は本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説をあらためて採るとよかろう。

 一方、自民党をはじめとする改憲論者は改憲などせず、現行憲法を統治原理、永遠の宗教理念として、特に平和主義において精神の支柱とする。が、政教は注意深く分離し、政府としては「世俗主義」をとるのである。つまり、理念としては戦争は放棄するし、また万人平等の基本的人権なども憲法経を奉ずる国家理念としては強く希求されるのであるが、政治の採る世俗主義としては、やむなく戦争をする場合はありえるし、多数の生存のために少数の人権が制限される場合もなくはない、という、現実路線をとるわけだ。

 つまり、国権は絶対聖典・日本国憲法そのものの保護者として振る舞うのである。

 これには手本、前例がある。すなわち、キリスト教国家群、就中(なかんづく)ヨーロッパ白人集団が、実際には聖書に書かれていることなんぞ何一つ守らず、植民地は皆殺しにするわ黒人は奴隷にするわ戦争はするわ都市無差別爆撃はするわ、しまいにゃ原爆落として虐殺するわ、文字通り彼ら自身の神をすら恐れぬ不信心の極み、エホバ冒涜の狂気の沙汰の中にあって、だがしかし、なんだかわかんないけど現実には普通にキリスト教徒の国々としてやっていけている、という、そこを真似るわけだ。

 なに、猿真似は古来から日本人のお家芸、今更ヨーロッパ白人様のコピーをしたからって別段恥ずかしいこともなく、どうということはない。

 なにしろ、ヨーロッパのキリスト教クラブなんてものは、中世以前には、聖書が憲法、教会が国会みたいなものであった時代が延々と続いていたのだ。だが、魔女狩りや教会の腐敗など、キリスト教原理主義の容赦ない鍛錬に社会が晒され続けた結果、逆にその反省からキリスト教典墨守の無茶・無理が少しづつ薄められていって、今や「原理は原理、聖書は聖書、バチカンはバチカン、王権は王権、人民は人民、戦争は戦争、アレはアレ、ソレはソレ」でうまく収まってしまったわけである。その点は、キリスト教白人の在り方を継承する現代のアメリカも同じだ。

 これは、イラン等以外の、世俗主義をとる多くのイスラム国家が、「コーランは理念、政治は世俗」としてとってきている方向性とも類似する。

 このように理念と現実を分離した「憲法教制」を導入すれば、憲法改正のための無駄な議論で時間を潰す必要もなく、かつ現実に沿い、対立する二者は融和し、混乱を招かずにすむだろう。他国からの侵略など、憲法と現実が合わない難問場面では、「憲法は、そりゃ、アレは『お経』だから……」の一言でその方面に関する思考が停止し、ためにする無駄な論争なぞ、あっという間にカタがついてしまうはずだ。

 ……あ、以上の文章は、一応、洒落(シャレ)です。本気にしてはいけません。

水論(すいろん)と水掛け論

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 日本は瑞穂(みずほ)の国ともいわれるほどの米の特産地である。したがって米農業にかかわる俳句の季語は極めて多い。田植え時季だけに、今時分の季語も多岐にわたる。

 「水論(すいろん)」という季語がある。水喧嘩(みずげんか)水争(みずあらそい)水敵(みずがたき)……などと言った類語があり、どれも同じような意味の傍題だ。

 いずれも、今の時期、農民が自分の田により多くの水を引こうとして争い事になってしまうことをいう。「論」とは口争いの意である。

水論に勝ち来し妻と思はれず  清水越東子

 水論、という言葉はあまり聞き慣れないが、似た言葉で、「水掛け論」という言葉はよく耳にする。ごく一般的な会話でもよく使う。

 ところが、この「水掛け論」、内容は「水論」なのである。

 狂言に「水掛聟(みずかけむこ)」という演目があり、これは文字通り水論の(しゅうと)(むこ)が主人公だそうな。ついに婿が舅に水をかけるような争いを描写したものだという。この演目こそが「水掛け論」の語源であるそうな。

 「我田引水」という故事成語にもつながる。これもよく見聞きする言葉だ。

 しかし、よく使われる「水掛け論」や「我田引水」という言葉の意味は知っていても、その背景にある米農業の風景を季節感を伴って想起出来るような人は、もはや日本にはほとんどいないのではあるまいか。

 日本の米農業は、実はいまだにダグラス・マッカーサーの呪縛の下にあり、企業的経営が許されていない。それこそ、白人が45歳の酸いも甘いも嚙み分けた中年なら日本など未熟な12歳の少年に過ぎぬとこき下ろした暴政元帥の我田引水である。

 憲法改正論も尤も(もっとも)なことだとは思うが、これを振り回して国論を混乱させるのもいかがなものかと思う。オキュパイド・ジャパンの屈辱的悪弊を整理したいという精神的動機なら、農地に関すること、貿易に関することなど、他にも主体的に改正できること、手が付けられることが多くある。世の中でも「リーン・スタート」などという言葉が流行っている。大(なた)を振り回すのは一見男らしいが、出刃で繊細に刺身をつくるというのもまた渋い仕事であるということを(わきま)えておきたい。