薨去に関する報道調べ・続

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 日経新聞の前身は「中外商業新報」といい、明治時代までバックナンバーを遡ることができることを知る。

 国会図書館の場合、デジタル(日経テレコン21)で調べるときは昭和50年までしか検索できないが、マイクロフィルムは明治9年のものからある。

 そのことに気付いたので、以前作った皇族薨去等時の報道の文言に関する資料を少し修正する。

先週雑想

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サラザールのことなんか思い出す

 世相から「開発独裁」なんてことを連想し、かつてのポルトガルの変人宰相、サラザールのことなんか思い出す。

差別

 ある人との対話なのだが、その人が言うには、

「『崩御』『薨去』などという言葉を使うのは差別である。皇族に敬意を払うのも差別だ」

……だそうな。

 言いたいことはわからんでもないが、私に言わせれば、「生前退位」などといういたわりも奥行きもない言葉のほうがよっぽど差別である。

下手ロビー

 ネットで漁ったところによると、中国・韓国などは、米国議会へのロビー活動を非常に熱心にやるが、わが日本は、これが全くダメなのだそうである。

 日本がこの点で劣る理由は、在米日本人、あるいは日系人コミュニティというものは、中国・韓国のそれに比べると、票田としての魅力がゼロに等しいからだという。

 在米日本関係者の間では、70年前の「日系人強制収容」の記憶が、いまだにトラウマのようにくすぶっており、そのため、政治に容喙(ようかい)することを極力避けようとする心理が働き、ために日本人コミュニティは政治に全く触ろうとせず、消極的だそうである。

 日系コミュニティには何の力もないから、日系議員は支援を得るため、力のある団体にすり寄らなければならず、中国系コミュニティにすり寄って反日活動などする。それで、この前落選して話題になったマイク・ホンダ議員なんてのが出てきてしまうのだそうだ。つまり、議員になるための支援さえもらえるなら、中身なんてどうだっていい、というわけだ。彼らに節操なんぞという言葉は言うだけムダだということである。

 そういえば、往年の名議員、欧州戦線の英雄、亡くなったダニエル・イノウエなんかも、たしか貿易摩擦の頃なんか、反日の急先鋒で有名だったっけなあ……。

マック赤坂

 マック赤坂氏は、ドナルド・トランプ氏にならって、次期大統領選に出馬するのだという。オモロイおっさんやのう。

AI

 もう、憲法はAIで新規作成したらどうかね。アホな人間が考えるより、よっぽど冷厳で合理的に仕上がるだろうぜ。……多分、AIが作った憲法にはさ、「日本人は滅びた方がよっぽど日本のためになる」とかいうミもフタもない条文がこともなげに挿入されているんだろうと思うぜ。

グローバル

 「何がグローバル化だ、グローバル化なんて、所詮『アメリカ化』じゃないか、こんなのでトクすんのなんてアメリカ人だけだろう」……なんて屈折してホザいていたら、アメリカ自身も実は屈折して苦しみ、悩んでいたんだ、ということに、トランプ氏当選で気づかされた。中流未満の白人の不満は、グローバル化経済で生まれたものに他ならない。

バカとか

 人間観測の結果、次のような類型があるように思った。すなわち……

  •  すごく賢い人は、賢い人に厳しく、バカに優しい。
  •  中途半端に賢い人は、賢い人に優しく、バカに厳しい。
  •  バカは、賢い人に厳しく、バカにも厳しい。時々ブチ切れて暴力も振るう。バカどうしで戦いだすと、手が付けられない。
  •  普通の人は、優しくも厳しくもなく、誰にでも「普通」である。

 ……そう言えば、昔、谷村新司のラジオ番組で、「天才・秀才・ばか」というのが流行ったっけな……。リスナーの投稿コーナーで、ある状況に対して天才はこうする、秀才はこうする、バカはこうだろう、というのを言って楽しむわけだ。小学生だったから深夜放送なんか聞いていると叱られたので、生で聴いたことは(ほとん)どないけど、「ワニの豆本」という小中学生向けの流行本シリーズがあって、その中に読者投稿をまとめた一冊、題名も「谷村新司の天才・秀才・ばか」というのがあり、兄がそれを買ったから、私もそれを盗み読みした。

 なんで兄の本を盗み読みしたかというと、私の兄はこだわりの強い精神質の人で、他人が自分のものに触ることを極度に嫌い、それがたとえ兄弟であろうと容赦がなく、私が本に手を触れたりすると暴れたからだ。

 しかし、そんな兄も死んではや33年。この正月に三十三回忌である。

原発避難者へのいじめ

 あまりにもいたましいニュースである。

 こうしたことが起こるたび、対応しなければならない教師は、何の権限も持たされず、あまりにも無力なのではなかろうか、と思うのである。人間的魅力でもって生徒を感化善導し、精神の底から感服させて悪い人間をも悔悟心服せしめる、なんてことは、単なる理想論であり、無茶な空論だと思う。

 と言って、人をいじめるような悪い奴を手当たり次第にぶん殴っていては、これは体罰容認であって、不可である。

 そこで、警察官の武器使用等と同じように、厳密な法定の懲戒体罰権を、司法的に、公務員である教師に与えてはどうか、と思うのだ。

 警察官は拳銃を持っているが、好き勝手にこれを使用することは許されておらず、法定の基準を満たしており、かつ、真にやむをえない場合に限り、限定的に使用できるのだ。教師の懲戒体罰権もこれと同じで、厳格な基準により、いじめなど、威厳をもって戒めなければならない素行の子供を取り扱う場合に限り行使が許されるのである。

 無論、その行使が誤っている場合は、警察官の拳銃使用と同じように、懲戒処分などが下される。

 たまに拳骨を振るってクビになる教師がいるが、そこに何らの基準もなく、反面、少々痛い目にあわせなければわからないバカな子供だって大勢いるわけだから、これは、厳しい基準を設けることでむしろ安全化するのではあるまいか。

言葉
奇貨(きか)

 運の良いイベント。

桎梏(しっこく)

 手かせ足かせのこと。「(しつ)」は足かせ、「(こく)」は手かせ。

マンデート

 Mandate。被委任権限。国連がらみ。

均霑(きんてん)

 平等に利益を得ること。

韜光養晦(とうこうようかい)

 毛沢東の語録にあるという。力をひけらかさないようにし(韜光)、じっと動かず実力を養う(養晦)、というほどの意味だそうな。

ジェイコブ・シフ

 例の、高橋是清と日露戦争の外債の話の重要人物。ユダヤ人。

戒厳令と非常事態宣言

 同じことでも、軍が主導すれば「戒厳令」。軍が主導しないのが「非常事態宣言」。

名刺

オープン/フリーの名刺管理ソフトでいいのがないか、と思い始める。

薨去(こうきょ)考続

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 昨日、新聞各社の「薨去(こうきょ)」という言葉の用い方の前例を調査し、その結果を書いた。

朝日新聞・昭和20年5月3日のクリップ「ヒ総統薨去」

朝日新聞・昭和20年5月3日のクリップ「ヒ総統薨去」

 調べている最中に気付いたことだが、実はこの「崩御」「薨去」という用語、戦前は皇室の報道のみに使われていたわけではなかった。外国の王族や、貴人政治家等の訃報記事でも、一定の地位以上にある人にはこの「薨去」という言葉が用いられていた。

 ドイツ第三帝国総統・ヒトラーの自決記事にも、この「薨去」が用いられていたのは知る人ぞ知るところである。右のクリップのとおりだ。

 この朝日新聞の記事に限って言うと、比較的事実を伝えることに努めている様子が伺えるが、他の新聞、例えば毎日新聞などは特別にヒトラー死去に関する社説を上げ、ヒトラーの死を悼み、立志伝中の人物としてホメちぎっていたりするから、時代ってうつろうものだなあ、と感じる。右傾きになるのも左傾きになるのも、風向き、潮目の変化はほんの一瞬だ。

主要新聞各社の天皇陛下崩御・皇后陛下崩御・皇太后陛下崩御・皇族方薨去等時の用語

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 以前、天皇陛下や皇族方に関する報道の、敬称の用い方がどうも気に入らなかったり、畏れ多きことながら、お隠れ遊ばされた場合の新聞各社の用語が気に入らない、不敬なのではないか、なんてことをこのブログに書いた。

 しかし、ふと思った。確かに、昔はどの新聞も「崩御(ほうぎょ)」「薨御(こうぎょ)」「薨去(こうきょ)」「逝去」「死去」「死亡」などの語はきちんと使い分けられていたように思うのだが、はて、それを見たのか、というと、どうも、なんだか記憶が怪しい。いつどの記事で見たのか、と言われると、見たことがないような気もするのだ。

 そこで、天皇陛下・皇后陛下・皇族方を判る限りリストアップし、その表を携えて図書館へ行った。有名な新聞(朝日・毎日・読売・日経・産経の5紙)について、遡れるだけ遡って、お隠れになった際にどの用語で報道されているかを調べた。

 私が見つけることのできたもののうち、最も古い報道は明治41年の山階宮(やましなのみや)菊麿(きくまろ)王殿下の薨去だ。逆に、最も近いのは、去る10月の三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去である。この間の、33方の記事を調べることができた。

 その結果は次のとおりである。

(産経は歴史が浅いので、昭和13年より前の記事はない)

 調べた結果から、興味深いことが分かる。

 日本の右翼新聞というと「産経」で間違いないところだ。産経は先日三笠宮殿下が薨去された時も「薨去」と報道した。ところが、実は産経がこう書いたのは、平成26年に薨去された桂宮殿下の時だけなのだ。

 桂宮殿下薨去より前は、産経も他紙と同じように、天皇陛下・皇后陛下を除き、「ご逝去」か「逝去」と報道していたことがわかる。終戦間際の閑院宮(かんいんのみや)殿下の報道がわずかに「薨去」とあるのみで、それ以前の、産経の前身である「日本工業新聞」時代には、皇族方薨去に関する記事そのものがない。それは、機械の生産高や経済指標等のみを報道する専門紙に近い新聞だったからである。

 朝日・毎日・読売・日経はどれもこれも左翼新聞だが、戦後、昭和21年に薨去された伏見宮博恭(ひろやす)王殿下までは全紙が「薨去」と書き、昭和22年に薨去された閑院宮載仁(ことひと)親王妃智恵子殿下の時は毎日が、昭和28年に薨去された秩父宮殿下の時には読売が、それぞれ「薨去」と書いている。

 それ以降は多くのいわゆる旧皇族方が皇籍を離脱され、報道そのものがないか、臣籍降下後の姓名で報道されていることもあって、薨去という用語は見られない。

 戦前は、記事のない産経新聞を除いて、全部が基本的に「薨去」を用いている。天皇陛下・皇太后陛下・皇后陛下については、昭和26年の貞明皇后崩御時に朝日新聞が「御逝去」と報道している他は、言うまでもなくすべての陛下に「崩御」が用いられている。唯一変わっているのは、北白川宮永久王殿下は戦死されているため、各紙の記事も「戦死遊ばさる」等の表現になっていることだろうか。

 ここから言えることは、右翼新聞を()って成る「産経」も、それほど昔から首尾一貫はしていなかった、ということだろう。

 また、昭和41年生まれの私は、新聞記事で「薨去」という言葉を見たことがない、ということも明らかなことだ。

 だがしかし、それなのに、である。私は「薨去」という言葉を見て育ったような気がするのだ。なぜだろう。

 これは、おそらく周りの大人が「薨去」「崩御」という言葉を使っていたこと、また、特に父母などは「昔やったら、天皇陛下が亡くなりはったら『崩御』、皇族方は『薨去』と書いたもんやった」などと普段から言っていたから、それを聞いて育った私は新聞で見たように思い込んでいたのだと思う。

 私は、「薨去」等の言葉を知らない人なんて少数派で、単に「ものを知らんだけだろう」と思っていた。だが、上述の調査の結果、それは実は誤りだ、ということも分かった。

 昭和28年に秩父宮殿下が薨去されてから62年間、「薨去」と言う言葉は、産経が2回使った他は、新聞では使われていないのだ。したがって、今50歳の私は、生まれてからこのかた「薨去」という言葉を新聞で見たことなど、(ほとん)どない(はず)なのだ。

 新聞という大メディアに載らない言葉を、普通の人が知っているわけはないのであり、「薨去」という言葉を知らないからと言って「もの知らず」ということにはならない。反面、だからと言ってもの知りということにもならないことは自明だ。それら諸々(もろもろ)を考慮すると、薨去という言葉を知らない人は「普通の人」だということになるだろう。

 但し、新聞では使われていないが、公的機関の発表等は厳格に「薨去」が使われている。

最近時事片聞(へんぶん)その他雑見(ざっけん)

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皇后陛下の御言葉を無視するのは断固不可である

place_01_s (かしこ)し。

 恐れ多いことだが、引用させていただく。

「ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」

 おそれ多くも、皇后陛下におかせられて、このように述べられているにも関わらず、新聞各社とも未だに配慮もなくお言葉を無視し、「生前退位」などと表現しているのは、断固不可である。陛下が「私の感じ過ぎ」と言われているのは、謙虚にして仁慈なおん人柄によるものなのであり、国民はこれに甘えてはならないはずのものだ。

 そもそも、政府も、どうかしているのではないか。報道各社に申し入れをなぜしないのか。

 朝日は「退位」と標記しはじめたようだが、これも渋々、という感じが漂う。しかも「退位」とは何だ。これでは「退()け!」とでも言うような、不敬・不逞・不遜の内心が字面に滲み出すようではないか。不遜な字を書くな。

 なんだか上のような屁理屈を言っているが、皇后陛下のお気持ちを全く受け止めておらず、黙殺しているという点であまりにも不敬である。こんな屁理屈は不可である。

 そのような中、産経新聞は校閲部長名で次のように表明しており、まあ、よろしい。

 産経は三笠宮崇仁親王殿下薨去に際しても「薨去」と書いているが、他の新聞は全部「逝去」等と書いている。数日前にこのブログにも書いたが、これも、新聞各社は検討し直した方が良い。

近代

 オモロイ角度だなあ、と思う。でも、イスラムの人たちは、そんなに前近代でもないと思うんだなあ。中国にしても。前とか後とか進んでいるとか遅れているというのとは、違うように思うんだが……。

連絡とるのやめます → やっとこさ連絡つく

 ……ま、話題作りの上手な、つまり結局、所詮「芸能人」、っちゅうことですわな、スターだアイコンだなんだっつったって。

電通

 過労死訴訟などで批判されている電通。

 それにしても、しかし、なんで広告会社には電通と博報堂しかないのか、……などと私もよく感じるが、それを解り易く書いているサイトがあった。

「日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本は、米国顔負けの自由競争の国で、新しい新聞や雑誌が次々と立ち上がり、健全な競争を繰り広げていました。広告代理店の数も無数にあったといわれています。」

 よくぞ書いてくれた、というところである。そう、戦前の日本はけっこう自由だったのだ。

 ところが、上掲サイトに書かれているように、戦争体制整備の国策で、報道や広告が一本化され、そのために戦後も独占企業として残ってしまったいわば「戦争の鬼っ子」が電通なのである。

笹の墓標

 戦前の北海道のタコ部屋の話を思い出した。以前、北海道に住んでいた頃、(たまさ)か耳にしたのだ。

 いや、電通が強制労働、タコ部屋だ……とまでは言えないし、昔とは違う、とは思うが。「朱鞠内湖」の話と、「常紋トンネル」の話だ。

雨竜第一ダム

 森村誠一に標記「笹の墓標」という作品があって、これは戦時中の北海道朱鞠内湖のダム工事を題材にとったものだという。

 その題材の朱鞠内湖は「雨竜第一ダム」によって雨竜川をせき止めることで作られた湖で、国内でも有数の湛水面積を誇る。

 しかし、戦時中に造成されたこのダムは、いわゆる「タコ部屋使役」によって作られたものなのであった。過酷な強制労働によって多くの死者を出し、死体は現地に打ち捨てられたままになっていたのだ。タコ部屋には騙されて連れてこられたり、借金などの事情がある者の他、いわゆる「強制連行」であるとされる中国人・朝鮮人も少なからずいたという。

 私は昭和末期~平成ひと桁頃の間、この朱鞠内湖にほど近い旭川に暮らしていたので、時々所用などで朱鞠内湖の近くを通ることがあったが、その頃も、「この付近で人骨等を発見した場合はXXXまでご連絡ください」などというホンマかいなという立て看板が道沿いに沢山立てられていたもので、地元出身者によると近くの小中学生などは「……出る」なぞと言って、夏場など話のネタになっていたという。

 森村誠一の小説の題名は、阿川弘之の「雲の墓標」のパクりのような感じで、どうもいただけない。

常紋トンネル

 この朱鞠内湖と並んで、北海道では「常紋トンネル」というところがよく話のタネになる。

 ここも戦前、朱鞠内湖同様のタコ部屋労働で、突貫工事を行って開通させたそうだ。完成後、労働者を人柱にして壁に埋め込んだらしいという噂が残った。戦後しばらくして、十勝沖地震で壁面が崩壊したため修理工事をはじめたところ、壁の奥から本当に人骨が出てきた。地元では、噂はやっぱり本当だったと話題になり、ゾッとしたものだという。薄気味悪い山中のトンネルでもあって、いろいろと怪談があるそうな。

知る人ぞ知る

 とりとめないが、次のような文書がある。

 結構有名な文書で、民進党をネットで叩く人には基礎資料みたいになっている。

 私としては、いや、もう、叩こうがどうしようが民進党は民進党以外にはならず、過去の政権の不始末なんか、今となってはどうでもいいっちゃあどうでもいいのだが、TPPの経緯や、「原子力発電所を大増設して50%以上にする」と言っていたこととか、なかなかいい感じに非難してるんだよな。

宇都宮メガンテじじい

 ……い、いや、「このまちが好き!」て、好きだったらあんなことするかフツー。

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 動画なども、病んでいるとしか思えない。言葉も、一見普通に聞こえるが、よく聞いてみると筋も通らず、滅茶苦茶だ。

 このことに絡んで、「真言宗長江寺」ってのがクローズアップされてるな。住職の萩原玄明氏がこういう本を出しているそうで。

 まあ、これだけならその辺に転がっている、よくあるどうでもいい宗教本で、こんなものは無視しときゃあいいんだが、頭のおかしくなったメガンテじじいには、悪と感じられてしまったのだろう。

あれ、読売って前からそうだったっけ?

 あれ……? 読売が「原発の増設を検討しろ」なんてことを訴えている。読売って、前からこういう社説だったっけ?

 いや……。本音はそうかもしれないが、今この時期に「原発増設しろ」っていうのは、なかなか人々の理解が得られないのじゃないかなあ。もしそう言いたいなら、「増設しろ」って端的に言い捨てるんじゃなくてさ、少しづつ少しづつ、理解と納得をはからないと、さー……。逆に人々はアレルギーで「福島だってまだ全然済んでないのになんてことを言うんだキイーッ!」って、反対すると思うよ。

微妙に曲げる書きっぷりをやめんかい(笑)

 いや、コレさー、なんていうか、「国連は中国等の部隊に救助のための出動を命じたが、その命令が無視された」という事実、端的に書くと「中国部隊等は怖気づいて救助に向かわなかった」「中国部隊等は国連の命令を無視した」という、軍隊として無視すべからざる規律違反がまずあるんだが、これを微妙に曲げて記事の奥の方に目立たなく書き、まるで

「所詮PKOなんか一般の人を助けてなんかくれないじゃないか、どうせ派遣されている自衛隊だって何もしないんだろ、軍隊なんか人民の敵だ、そんなことに漫然と自衛隊を出しているのは間違いだ、アベ政治を許さない!」

……みたいになってねえか(笑)。

 だいたい、南スーダンに自衛隊出したの、民進党だぜ?

 そりゃ、まあ、UNMISSが中国とエチオピアに命令を徹底できなかった点で、UNMISSを批判することは外れてはいないけれども、さー……。

三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下薨去(こうきょ)

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 畏み慎んで心から哀悼したい。

 皇族最後の軍人であらせられた。戦後は平和と反省を真摯に訴え、学術の振興に尽力された。

 また、私としては、また一つ、昭和をしのぶ(よすが)を失った、という思いが強い。

不敬と平板

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 最近どうも報道の言葉遣いになじめなくなってきている。

 「平易な言葉で万人に分かりやすく」という新聞記事などの記述方針は理解できるが、それを言うあまり、どうも記事の語彙というものが平板化しすぎていないだろうか。

 先頃も、タイ国王陛下崩御に関する報道では「死去」という言葉ばかりが使われていた。私はこれは不可であると思う。

 いくら外国人と言えど、一国の国王、元首である。かの国の人たちが大切にし、敬愛している国王を「死去」と言い捨てて澄ましていてはいけないだろう。

 亡くなった場合の表現にも崩御(ほうぎょ)薨御(こうぎょ)薨去(こうきょ)・卒去・逝去(せいきょ)・死去・死亡など、ランクめいた幅があるが、せめてこの場合、最低でも「逝去」と言えないものか。「死去」では友好国の国王に対して不敬ではないか。

 朝日新聞なんかだって、例えばヒトラーが自決した時にも、ドイツは当時も盟邦であったから、見出しに「ヒ総統薨去(こうきょ)」などと書いたものだったが、今は誰が隠れようが亡くなろうが「死去」と書くのはどうしたことか。

 先日、(かしこ)し、皇后陛下のお言葉の中に、「『生前退位』という報道の表現に痛みを覚えた」とのご主旨を拝した。皇室内で話し合われた時には「譲位」というふうに表現されていたと()(うけたまわ)る。

 台風が来そうなのもオリンピックでメダルが取れそうなのも「可能性」、芸能人が死のうが国王が崩御しようが「死去」、犬の死骸でも国王のなきがらでも「死体」という、そんな平板な言葉しか選べない新聞記者などには、陛下におかせられて、「生前」という言葉の、また「退位」という言葉の、一体何に驚かれ、痛みを覚えておられるのか、おそらく、サッパリ分からないに違いない。胡散臭い業界でチャラチャラ暮らしているようなことだから、言葉に奥行きやいたわりというものを盛り込む能力がなくなっていってしまっているのだろう。

 「生前退位」なんぞという言い方・書き方では、大げさに言えば「死ぬ前にしりぞく」と言っているのと同じなのだ。高齢の人に、しかも恐れ多くも天皇陛下に、身内でもない者がよってたかって「生前」、つまり「死ぬ前に」という言い方はなかろう。皇后陛下が仰せられる通り、「譲位」と言うべきものだ。そこを新聞屋・テレビ屋どもは(かしこ)み承らなければますます自らの価値を下げることになる。

 だいたい、最近皇室、特に皇族方に対する報道の文章があまりにも不敬にわたるようになってしまい、嘆かわしいにも程がある。内容がどれもこれも下世話好きのするようなものに成り下がっているのもそうだし、また、形の上でも乱れているのは不可と言う他ない。

 「形の上でも乱れている」と書いたが、その「形」というのは、例えば敬称だ。天皇陛下、皇族方への敬称は、皇室典範により「陛下」「殿下」と定められている。法定の敬称なのである。ところが新聞・テレビときたらどうだ。天皇陛下に関する報道では(かろ)うじて「陛下」の敬称が用いられているが、前掲のNHKによる報道にしても「皇后『さま』」と書かれてあり、畏くも皇后陛下に対し(たてまつ)り、「さま」とは何だ「さま」とは、一体何事だ! ……と言いたい。

 最近このように、皇族方に対する敬称が、こともあろうに全部ひらがな書きで「さま」になってしまっているのは断固不可である。こんな言い方・書き方では、「ビートたけしサマ」「松本人志サマ」と同じ、鼻持ちならない金持ち芸人と、ひらがなとカタカナの違い以外は同じということになってしまうではないか。

 例えば「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮殿下」あるいは「秋篠宮文仁親王殿下」「愛子内親王殿下」「悠仁親王殿下」「彬子女王殿下」というふうに、「陛下」「殿下」「妃殿下」「親王殿下」「内親王殿下」「王殿下」「女王殿下」はちゃんと使い分けておつけしなければならないだろう。最近皇族方に男性が少なくなり、「王殿下」が()られなくなってしまったが、そのためにこのゆかしい敬称が忘れ去られてしまい、王殿下という言い方・書き方が消滅してしまうのではないかと心配だ。

 陛下・殿下・閣下等、やはり敬称を使うべきときには使うべきである。また日本では使われないが、高位の宗教者、例えばヨーロッパの法王や枢機卿、また仏教国の高僧などには「猊下(げいか)」「台下(だいか)」と言った敬称もあるから覚えておきたいものだ。

 日本語の表現力が平板化するのが残念、ということもある。言葉が平板化すると、平板化したその言葉が、逆にその表現対象までをも平板でつまらない、無価値なものへと変化させてしまうおそれがあると思うのだ。

 これが皇室に関する表現の平板化であれば、皇室をないがしろにすることに繋がるおそれがある。そして、皇室をないがしろにすることは自傷行為にも似て、日本人が自分で日本の価値を下げることに繋がっていってしまう。

 不敬にわたるというと、眞子内親王殿下について、いかにも下世話好きのする取り上げ方の報道があって、具合が悪いこと(はなは)だしい。

 親しまれ開かれた皇室をアピールするという意味で、ある程度こういう報道も許容されなければならない面もあるかもしれないが、しかし、なんとも、残念である。いや、殿下はお若いのであるから、多少自由な行動をとられても、それは仕方がないのである。報道の方でもう少しどうにかすべきだろう。誠にもって恐れ多いことだ。