昔日の水都

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 「昔日や……」と一句詠みました。

 かつて大江戸の八百八町(はっぴゃくやちょう)に対して、大阪は八百八橋(はっぴゃくやばし)と言われ、商業が盛んだったことから水運がよく通り、ために「水都(すいと)」というと大阪の異称でした。

 私の生まれ育ったのは堺市で、どちらかというと「水都」というのは大阪市内のことですからそのまま故郷が水都というのもどうかと思いますが、昔の堺市は鉄砲や刃物を扱う商人町で、町周りには自衛のための(ほり)を巡らせ、町人の自治が認められた特殊な町でした。また数多い天皇陵や古墳は濠に水を(たた)え、溜池も多く、室町時代には渡来した宣教師をして「東洋のベニス」と言わしめた町ですので、水都を称しても差支えないか、と思い、一句詠んでみたものです。

 ちなみに堺の自治は太閤秀吉に掣肘(せいちゅう)され、その頃に自衛の濠は埋められてしまい、有名人の千利休は腹を切らされ、大坂夏の陣では全焼して全滅、時代が下って戦前には数多くいた刃物商も戦時の鉄材供出で商運が傾き、空襲でも丸焼け、けっこう踏んだり蹴ったりかもしれません。

乳守(ちもり)」片聞

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 同窓生と雑談チャットをしていて、「堺・乳守(ちもり)」というゆかしい地名を聞いた。

 私は大阪・堺、世界最大の陵墓として有名な伝・仁徳天皇陵や、東京・府中に次ぐ規模の巨大刑務所、大阪刑務所に程近い、田出井町というところの生まれ育ちである。

 乳守。乳守と書いて「ちもり」と読む。たしかに、聞き覚えがある。昔、大人たちの雑談の端にあらわれていた。「堺の旦那衆」の御大尽な遊びの話の中に「戦前にナ……」などという前置きとともに語られていたものだ。

 だが、忘れていた。だから、「乳守」は、同窓生にほとんどはじめて教わった地名と言ってよい。

 遊里である。同窓生によると、京・祇園よりもまだ古い、鎌倉・室町のむかしにまでさかのぼる遊郭(正しくは花街(かがい))であったそうな。堺の古い遊里は高須、乳守の両地区が渾然一体となっていたようだ。

 だがさきの大戦は由緒にも容赦なく、乳守は戦災で壊滅し、今はその片鱗すらもない。現在の地図ではこのあたり(Google Maps)である。

 かの一休禅師宗純が傾城(けいせい)地獄太夫に会ったのは、乳守の(くるわ)であるようだ。一休は堺の名刹・南宗寺に住んだので、乳守の遊里に遊んだとしても不思議はなかろう。「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という歌や、「聞きしより見て美しき地獄かな」「生き来る人の落ちざらめやも」という歌が乳守と一休の由緒として伝えられてあるようだ。

 上方落語に「すみよし茶屋」という噺があり、その中に、この地獄太夫と一休禅師の話がでてくるらしい。また、「三枚起請(きしょう)」という(はなし)にも出てくる。三枚起請のほうは、舞台を吉原に直して、東京でもかかるという。手元の蔵書「上方落語」(ISBN4-06-203330-5)を繰ってみると、「すみよし茶屋」は載っていないが、「三枚起請」は載っている。だが、この蔵書では由緒のある乳守ではなく、「堺の新地から難波(なんば)の新地へ移った(こども)」ということになっているようだ。

 この「三枚起請」のサゲは、「別に(からす)に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」となっている。東京では高杉晋作の作と言われている都都逸「三千世界の烏を殺し(ぬし)と朝寝がしてみたい」にからめて語られるようだ。

 子供の頃の私などが度々耳にすることがあった遊所というと、旧軍隊の衛戍(えいじゅ)地にはつきものの「新地」(『青線』であったろうか)、「信太山(しのだやま)新地」などである。乳守は、いわゆる「新地」の信太山などとは比べものにならぬ、「一見さんはお断り……」の、由緒と格式を持ったれっきとした遊里であったものであるらしい。