「ビジネスマンが正義」ではない

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 あー、これ、あるねえ。なんか、モゾモゾと言いたかったんだけどうまく言えなかったところを、さっ、と整理して代弁してくれた感じがする。

 卑近な例だと、PTAの会合なんかで、「会社みたいに……」動こうとして、「なんて非効率なことやってんだ!」と俄然鼻息荒く、なんとなくダラダラしている周りの奥さんたちを叱りまくり、改革に着手しだす、なんていう、会社員お父さん・お母さん、って構図、ありますよ。

 あと、小学校の運営がダメだ、クソだ、という批判のもと、ビジネスマンから転身した人を校長先生に据えてみたら、結局全然うまくいかず、その校長先生が自殺してしまった、とかね。

 ところで、上の記事、よく見たら、最近ウェブ上でよく活動している三橋貴明と言う人の論説みたいだな。

欠席者と(くじ)

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 次女の中学校の入学式に出た。懇意にさせていただいている方がPTA会長をしていらっしゃるので、なにか参列する気持ちもいつもより粛然とするのであった。

 入学式後、PTAの役員・係の(くじ)引きなどもある。

 そのことで、ふと思い出したことがある。数年前、長女が中学2年生くらいだった頃の、クラスのPTAの係を選出する籤引きでのことだ。

 PTAのクラスの係の籤引きは、たとえ欠席者があっても、代理がその人の分も籤を引き、当たればそれを伝えることになっている。平等に役を割り当て、いわばズル休みを防ぐ効果もあって、文句の出ようのないところだ。

 さて、その日は、全部で30人の保護者のうち、3人の欠席者があった。出席している保護者が、30本の籤を順番に引き始めた。役員は3人決めることになっていて、つまり「当たり」籤は3本だ。たいてい、15、6人ほども引く頃には、1人か2人は当たり、籤の終盤になると、全員が引き終わる前に3人の役員が決まるのが普通だろう。

 ところが、その日はどうしたことであったろう。

 15人ほどが引いても一本も当たりが出ないのには、残りの人たちも既に引いた人たちも、「面白いわね」「なかなか白熱してまいりましたな、これは」などと冗談のひとつも飛ばして盛り上がる余裕があった。

 しかし、18人が引き終わり、20人が引き終わる頃には、やや会場がざわつき始めた。「ちょっと、これ、当たり籤は本当に入っていますか?」という質問も、わりあいに真面目な調子で出始める。「ええ、先ほど、絶対に間違いなく入れましたよ、皆さんも見ておられたはずです」と、籤を作成した人が言う。

 ついに、25人。引いた人が「ハズレ!」と言ったときの、一同の驚きの声たるや!。26人!またもやハズレ!もっと大きな声が上がる。

 そして、ついに27人が引き終わってしまった。残りは3人の欠席者の代理引きだけだ。果たして、箱に残った三つの籤は全部PTAの係に大当たり。欠席者3人がPTAの係ということになってしまったのである。

 保護者たちは欠席している人にこれを伝えるのに、「いないのをいいことに、面倒を押し付けたのではないか?」と思われはすまいかと内心穏やかでなかったが、まあ、衆人環視のうちに行われた籤引きのこと、なんの不正もなかったことは全員が保証しうるので、そこはなんとかなったようだ。

 そして、保護者たちは、「欠席者3人のために残された最後3つの籤が当たる」ということが、一体どれほどの偶然によるものか、天の配剤を思って、だいぶしばらくの間、これを噂話にも茶飲み話の種にもしたものである。

 さてこの話は、まあ、「順列組合せ」の算数の問題として扱いうる。

_n C _k = \dfrac{n!}{k!(n-k)!}

…というアレだ。

 これを書き出して遊んでみる。写真のような計算になると思う。階乗の計算が面倒だが、分母分子に同じ数字が多いから、わりあい簡単な計算である。

トルコ行進曲(連弾用 田中雅明編曲) その0.1~PTA会長の言のことなど

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 次女と連弾する予定のトルコ行進曲、少しづつ練習を進めつつある。かれこれひと月練習している計算になるが、そう簡単には進まない。とはいうものの、つっかえつっかえながら楽譜の最後まで通して弾けるようになった。こうなればあとは反復練習あるのみで、先は見えたも同然だ。弾ける、という確信を得た。

 いつもなら自分の励みになることも考えのうちに入れて、midiのひとつもとってブログに載せておくのだが、今度の「トルコ行進曲」は新しい編曲で、権利関係、就中著作権方面の問題があるから、そうもいかないのは残念だ。

 ちなんで記せば、今まで録りためたバイエルとなると話は別である。フェルディナント・バイエル氏は幕末の頃には亡くなっている。亡くなってからとうに100年以上は経過しているから、日本の著作権法でも諸外国の著作権法でも、midiに録ってブログに載せることにはまったく問題がない。

 さておき、次女との連弾のための練習なのであるから、私だけが必死になっても駄目である。主役は次女なのだ。ところが、この次女がまた、練習不熱心なのだ。家内が「ちいちゃん(次女)、ピアノ練習しようよ」とたびたび促すものの、つまらなそうにそっぽを向いてしまう。どうしたものか、よいアイデアも思いつかない。

 次女は去年までは近所のヤマハの教室に通っていた。それほど期待はしていなかったのだが、思いのほか、次女が鍵盤の演奏を非常に楽しそうに上手にやることがわかり、キーボードなどを買い与えたのである。(そのキーボードが私のピアノ練習の発端になったことはこのブログに度々記すところである。)

 これは、と思ったので、さらに次女の幅を広げてやってみようとピアノ専門の先生の門を叩いた。さすがは専門の先生だ。私が次女を連れて行く時にはそばでレッスンの様子を拝見するが、先生の指導は的確かつ高度であり、傍目で見ている私までが「なるほどっ!!」と膝を打つことも度々である。専門の先生に替わってよかったと思う。

 だが、次女はどうも、つまらなくなってしまったようだ。ヤマハは友達とのグループレッスンで、みんなで合奏したり歌ったりというのが多かったのだが、次女はそういう友達との「盛り上がり感」を楽しんでいたようで、ヤマハの友達と会えなくなってしまったのも、ピアノがつまらなくなってしまった要因らしい。

 先生もそこいらあたりは十分ご承知で、「つまらなくても続けていると、ふとしたきっかけでうんとはかどることがあります」と言ってくださっている。たしかにそう思う。

 思い起こすことがある。

 私の子供たちが通っている小学校のPTA会長は石川雄規さんという方で、プロレスラーだ。有名人である。一見、茶髪の巨体、強面だが、実際の人柄は礼儀正しく、温和にこやかで、ましてや愚物であるはずはなく、話すことも理路ただしい。聞けば大学できちんと教育学を修めた学士先生である。

 次女の入学式の折りであったか、PTA会長は次のようなことを言われた。

「子供というのは気まぐれなものだ。子供と私たち親とのやりとりをキャッチボールにたとえると、こちらからボールを投げても、投げたボールが返ってくるなんていうことはほとんど期待できない。いや、『ほとんど期待できない』どころか、1球も返ってこない、ゼロというのが実際のところだろう。それくらい子供は気まぐれだ。だから、子供の反応がないからと言って、それでいちいち怒ったり悔やんだりするのは考えものだ。

 だがしかし、そんな一方通行とすら思えるキャッチボールのなかで、ぽつん、と、1球だけ、突然ボールが返ってくることがあるのだ。その1球は重要な1球だ。この、ぽつんと返ってきた1球を取り逃してはならない。100球、1,000球、いや1万球の中のこの1球を取り逃さないためには、漫然と球は投げられない。1球1球に集中と努力がいる。一生懸命に球を投げないと、その『重要な1球』を捕り逃してしまうだろう。次は返ってくるかもしれない、そう期待しては、だが裏切られることの繰り返しに耐えなければならない。

 私たち親の任務は多様であり、ひとつではくくれないが、この『重要な1球』を受け止めるための集中と努力も、きわめて大切な子供への接し方のひとつと言えようか」

 私にはとても印象に残る話で、至言だと思う。会長は子供への接し方としてこれを話されたが、組織で仕事をしている者には、たとえば部下への接し方として読み替えても、実に含蓄に富む。

 次女は、ピアノの「重要な1球」を返してくるだろうか。この例えなら、半年やそこらではまだ、私から5~6球も投げたとは言えまい。次女からの重要な1球を逃さないよう、更に1,000球を送らねばならぬ。

バイエル#52

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 今日は下の娘の幼稚園の音楽会だった。いつもなら妻が行くのだが、あいにく上の娘の小学校のPTAの行事と重なり、そこで私が休暇を取って幼稚園のほうに行った。

 幼稚園の先生というのはエラいものだ。今まで私は音楽会の伴奏のピアノに聞き入ったことなど一度もないのだが、自分がバイエルの練習などを始めたものだから、つい先生たちの弾くピアノに聞き入ってしまう。よく聞くと、どの先生も見事上手な演奏である。

 さて、帰ってきて、午後ヒマなのでバイエルを進める。52番を練習し、あっと言う間に弾けるようになった。