パン屋と人倫

投稿日:

 人倫に(もと)る、ということを定義するのは難しい。

 次のような話を聞いた。

 ある会社に就職した人が、どうも辛抱がきかなかったようで、しばらく勤めた後で辞めてしまった。わけを訊くと「社長をどうしても許容できない」のだという。

 その人は50歳を過ぎての再就職で、しかも会社はそこそこの大企業だから、――つまびらかではないが、さる製パン業だという――この就職難の時世、多少のことには我慢をすべきだろうと周囲の者には思われた。

 だが更に仔細を聞いてみると、その人が言うには、その会社の主だった経営陣、重役や工場長といった顔ぶれは、ほぼ全員、社長の愛人たちの子で、「腹違いの兄弟」なのだという。母は一人一人、みな違うというのだから驚く。子供たちの役職や肩書きの高低はそのまま母たる愛人への社長の寵愛の多寡大小に比例しており、しかもなお、愛人の何人かはいまだに社員で、まだそのまま会社で働いているのだという。

 そうした社長の乱倫ぶりにどうしても我慢がならず、口を糊する術の惜しさもものかは、その人は暮らしの方便(たつき)を立てる(すべ)(なげう)ってしまったそうな。

 このことを考えるのは、なかなか味わいのあることだ。

 私に言わせれば、その社長は間違っている。私も、そんな経営者の下で働くのは真っ平(まっぴら)御免だ。

 しかし、私のその判定は、あくまで私個人の尺度と感情によるものだ。

 別の人に言わせれば、もしかすると、その社長は「立派な社長」ということになるかもしれない。つまり、

「乱倫だって?何を言う。愛人との間に子をつくったりしてはいかん、というのは、そもそも、尋常な結婚によって生まれた子供でないと、一般論としては何の罪もないその子の幸福な成育を保証することが困難だからである。だがしかし、その社長は自分の子に、自分の与えうる、その子らが食べていけるだけの地位と役割をみずからの責任できちんと与え、炊煙のあがるようにしてやっているではないか。罪のない子に対する責任をその社長はちゃんと負っている。また、子を作る以前の別の観点から言えば、恋愛をするのは本人の自由であって、周囲がとやかく言うことではない」

…というような意見も、一方ではあるだろうからだ。

 重婚は罪になるが、恋愛痴情の沙汰は本人たちの間の問題であって、ないし人倫というような大げさな天道大義にふれることでもあるまい、という見方が、一方ではたしかに、ある。

 しかし更に反面、「責任を取れれば、それでいいではないか」という意見には、「ものごと、『責任さえ取れればそれでよい』というものではない。それは極端に言えば、人を殺して『賠償金は10億払ったからな、あばよ』というような悪魔の考えかただ。カネを投げつければ人を殺していいというものではない。人の生活はビジネスとは違う。」という反論がつくものだ。

 仕事をしていく上で、自分が大切にしていきたいものというのが、人によってたしかにある。単に金銭を得る直接の仕事内容のみならず、社会にかかわっていくひとつの手段として仕事をしよう、という時に、すること考えること全体の質を美しく保ちたい、と思うと、なにやら薄汚れた要素が、自分のかかわっているものの中を大きく占めておれば、たしかに不快だろう。つまり「美しいものは美しい部品で作られる」というわけだ。

 ところが、仏教でよく言うように、「蓮華は牛が(くそ)まる腐った泥海に美しく咲く」のでもある。薄汚れた苦労の中から生まれてこそ、その精華はぬきんでて美しい、というわけだ。まあ、この話の社長さんを「牛が屎まる腐った泥海」とまで言ったのでは、先方ではくしゃみのひとつもしているだろうが…。

 このように考えていくと、その五十男の退職は、考えることの多い、なかなか味わいのある話で、「退職するなんてもったいない」か、「そんな会社、とっととやめちまえ」か、自分の意見をどっちに定針するかは、簡単なことでない。