ヨーロッパ・アメリカ礼讃など糞喰らえ

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 「阪大赤信号」。

ハハ、まあ、自由に生きればいいんじゃないですか。その代償として、車に()かれて死ぬとよかろうよ。満足でしょう、自分の責任だから。

 「フランス人はこんな場合、赤信号でも道路を横断する」とか、「アメリカ人なら銃を持って立ち上がるだろう」とか、そんなことを知能も学問もある立派な先生が言い立てるなど、憫笑(びんしょう)するより他にない。

 何か、人間の自律みたいなことを言いたいのだろう。

 だから、ダメなんだ。お利巧バカだというんだ。主体性の欠片(かけら)もないではないか。「フランス人が」とか、「アメリカ人は」とかではないだろう。フランスとかアメリカとか言えばそれで正しいのか?違うだろう。

 「日本人はそれでも赤信号を守って待つ」「日本人はこんな局面でも銃を乱射したりしない」と、なぜそれを言えないのか。

 これだから学があると自称する連中が嫌いなんだ。

意味不明広告

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 何言ってンだか、さっぱりわかんねェ。ちょっと見ではもっともらしいんだが、意味不明。

 「映画では素敵、驚くべきカメオを見ることが嫌い方はいないでしょうか?私達を嬉しさのためはっと息が止まる過去の映画にいる素晴らしい有名なカメオのランキングはこちら!」

……て、何を言いたいんじゃ(笑)

退路

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 次女が高校から「進路の指針」というブックレットを貰ってきた。高校2年生も半ばであるからには、さもあろう、いよいよ進路を考えなければならない。

 しかし、それはそれとして、そのブックレットの「進路」という字面(じづら)を眺めていたら、ふと、学生には「進路」という言葉はあるのになぜ「退路」という言葉がないのか、という思いが浮かんだ。

 「進むことを知って退くことを知らなかったから、大日本帝国は敗れた」等と言うではないか。「前ばかり見て後ろを見なかったから倒産した」等とも言うではないか。

 退路を用意したうえで最大限の攻撃を行う。常套だと思う。高校生だからと言って退路など当てにするな、などというのなら、社会人だって退路なんぞ当てにしてはならないのである。

ワロタ

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 うん、あるある。端的過ぎてワロタ。

読書

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 開高健「最後の晩餐」、ゆっくり読む。

言葉
(たけ)(その)(ふ(う))

 まず、「(かしこ)(あた)り」と言ったところであろうか。皇室、皇居、そのあたり、というようなことを「竹の園生ではそのようなことは聞こえはすまい」などというふうに使う。

「最後の晩餐」(開高健、光文社文庫)p.70から引用

 ルイ16世はニコニコ笑って大喜びし、もう一度やってくれとたのむ。おかみさん連中はいよいよはずみ、大声で身ぶり手ぶりを入れつつ合唱したとのことである。こういうエピソードを読んでいると、つい、どうしても千代田区丸の内・一の一の一にある竹の園生と思いくらべずにはいられなくなるが、

饕餮(とうてつ)

 「食いしん坊」のことを表す古語としてこの「饕餮(とうてつ)」という難しい言葉が出てくる。器の模様に彫られる怪物のことだそうである。

「最後の晩餐」(開高健、光文社文庫)p.98から引用

 では、饕餮から。

 これは古代の中国人が創造した食いしん坊、大食家、美食家の文字であり、イメージであるが、ただの美食家、大食家ではすまないで、貪婪の怪物だというイメージである。殷代の青銅の(かなえ)の胴によく文字とも文様ともつかぬ古怪、玄妖の獣がうずくまってこちらをギロギロ(にら)んでいるが、あれだ。ほとんど抽象化されかかっているけれど、怪獣である。一つの体に頭が二つあって、足は六本。顔は竜、虎、人間、さまざまである。左右、正確な対称になっている。『饕餮文』と呼ばれているが、青銅器だけではなく、ときどき皿に描かれていることもある。食というものの底知れなさ、物凄さという本質を古人はすでに早く見抜いてそれに対する畏怖からこういう怪物を創りあげたのだとすると、それら無名人たちの想像力と抽象力は非凡なものだといわねばなるまい。大食いをするとこんな怪物になっちまうぞという警告であるのならば、それもまたみごと。