山の日

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天皇陛下万歳

 祝日「山の日」である。

 日本は地形の変化に富む山国でもある。山の日が定められたのは近年の事であるが、こうした日が設けられたのは、(けだ)し適切であったと言えよう。

こどもの日

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天皇陛下万歳

 祝日「こどもの日」である。玄関に国旗を掲揚する。

 民主党政権時に「子供の日」から「こどもの日」に表記が変更された。いわく、「『子供』というのは差別語である」という、サッパリ理解できない理由だった。「子供」という単語が差別なんだったら平仮名(ひらがな)で書いたところで差別は一緒だろう、と思う。「支那人」を「しな人」と書いたって、朝日新聞流に言わせればやっぱり差別だろう。

 自民党政権に復した時にこの「こども」や交ぜ書きの「子ども」が、清々と「子供」表記に戻らないかな、と思ったが、わずかに「こども手当」が「子ども手当」に変わったのみである。半分だけ戻す、て、一体もう、もはや何が言いたいのかしたいのか、全然わからない。交ぜ書きも気持ちが悪い。

 しかし、祝日法を改正までして法定の名称を律しているのであるからには、どうにもしようがない

 繰り言はさておき。毎年同じことを書いているが、この「こどもの日」は、実は法定の「母の日」でもある。祝日法には次のように記されてある。

祝日法第2条抜粋

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

 自分の子供たちの母である妻に感謝したいと思う。

迎賓館赤坂離宮~赤坂近辺

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 祝日「昭和の日」である。躑躅(つつじ)が満開だ。夏隣(なつどなり)と言ってよい。屋外に出ると家々の軒先すら眩しく、まさしく風光るの候、である。

 こういう日は外歩きが良い。妻を誘い、前々から気になっていたところへ見物に出かけることにした。

 東京・四ツ谷駅に近く、東宮御所のある「赤坂御用地」には、ひときわ目を引く重厚な古建築がある。申すまでもないが、これが「迎賓館赤坂離宮」である。

 もともとは東宮御所として造営され、皇太子時代の昭和天皇や、今上陛下も一時期御住居あそばされた。

 縷々(るる)沿革を経て、戦後は政府の管する所となり、国公賓の礼遇に使用されている。国宝だ。

 以前から一般公開されてはいたものの、その期間は夏の10日間のみにとどまり、見ることのできる人は多くはなく、知る人ぞ知る場所であることには変わりなかった。しかし、政府の観光立国方針により、去年(平成28年(2016))の春から、国公賓の礼遇に支障のない限りは随時公開する、ということになった。

 私は神宮周辺や、この赤坂御用地、皇居周辺はよく歩き回るし、またランニングの練成に使うことがある他、迎賓館は職場からよく見えるので、いつもこの壮大な建築物を外から眺めてはいた。かねがね「一度は入ってみたいなあ」と思っていたところだったのだ。そこへ、去年から誰でも見られるようになったわけである。

 一般公開日は前掲の内閣府サイト内に掲示される。同サイトから予約ができるので、念を入れて予約しておくのが安心ではあるが、当日飛び込みでも見学は可能だ。

 公開日の9時50分頃に四ツ谷駅に着く電車に乗れば申し分ない。私は予約なしで行って見た。

 正門前に行くと、腕章を付けた案内の人が沢山いる。予約をしてあれば予約票を、していなければ案内の人に言えば当日整理券の配布窓口を案内してくれる。配布は正門前の小机で行っている。満員で断られる、ということもあるのかもしれないが、今日の私に限っては特段支障はなく、当日整理券を貰って入ることができた。

 列の尻について並ぶが、セキュリティチェックなどが厳しいため、30~40分くらいかかる。金属探知など、空港のセキュリティチェックと似たようなものだ。他に、持ち込みのペットボトルの飲料を、係員の目の前で「一口飲んで見せる」という面白いチェックがある。

 チェックが終わると、いよいよ本館に入る。

 本館内は撮影禁止で、残念ながら写真は撮れなかった。

 内部の様子を垣間見るには、政府インターネットテレビの紹介に映像があるので、事前に見ていくのも良い。政府インターネットテレビには他にも紹介動画がいくつかあって、それらの中では、先の動画も良いが、「徳光・木佐の知りたいニッポン!~迎賓館 赤坂離宮 一般公開の見どころ」という番組が親しみやすく分かりやすい。

 見物人は壮麗な館内を見て、ただただ驚くばかりである。天井や壁の隅まで、一分の隙もなく磨き抜かれ、チリ一つない。あちこちに大きな壁面鏡があるが、曇り一つない。寄木(よせぎ)の床は見たところ全部柾目(まさめ)の板で張られ、その完成度の高さに息を呑む。内外装は西欧の「ネオ・バロック」の様式を存分に取り入れて作られており、天井や壁は様々な意匠を凝らした画や模様で荘厳(しょうごん)されている。いずれも国宝級の、数々の装飾品や工芸品が惜しげもなく配置されて室内を飾り、只管(ひたすら)圧倒されるばかりである。

 この信じがたいほどの建物には、明治時代の金額で510万円あまりが投じられたという。直接現代の物価に換算すると950億円ほどになるらしいが、戦後だいぶ経った昭和49年当時でさえ、新たにこのような建築を試みれば、もはや入手が極めて困難な材料などが用いられていることもあって、2000億円でも無理なのではないか、と言われているらしい。

 建物の来歴を読んでいて驚くことがいくつかある。

 江戸時代からせいぜい40年程度しか経っていない頃にこういう壮大なものを建築した、ということ。また、それが単なる猿真似や張りぼての虚仮(こけ)脅しなどでない証拠には、関東大震災、東日本大震災の2度の揺れにもヒビ一つ入ることがなかったという事実。また、戦災で失われなかったことも稀有(けう)の事と思われる。これほど壮大なものが米軍の爆撃目標になって餌食にされなかったのは不思議である。

 館内は順路に従って見ていくようになっている。かなりのんびり見ても1時間か2時間ぐらいでたっぷり見ることができる。様々な国際会議、条約の調印などで実際に使われている場面の写真パネルなどが随所にあり、「ああ、ここであれが行われたのか!」と懐かしいものもある。故・大平正芳首相の頃の「東京サミット」(昭和54年(1979))の写真など、私も子供ながらよく覚えている場面があり、写っている故・マーガレット・サッチャー女史などまだまだ若く、当時のテレビニュースなどが思い出された。

 館内を見終わると、順路は広大な庭園に移る。庭園は撮影自由で、特に順路と言うものはなく、自由に散策できる。

 しかし、それにしても、嘆息すら漏れないほど、寸分の隙もない、国家の威厳と政府の威信を注入した、壮大な建築だ。

 更に前もって予約をし、抽籤で当たれば、「和風別館」という新しい建物が見学できるのだが、今回は見なかった。今度来るときには是非予約をして、そっちのほうも見てみたいと思う。

 ゴールデンウィーク特有の良い天気だ。建物が青空に映える。古色蒼然とした外壁、それこそ「度を外れた」としか言いようのない荘厳さがますます胸に迫る。

 普段、迎賓館の近くを通りかかるときに目にする広大な黒松の庭園が「前庭」なのだが、その反対側に外から見ることのできない「主庭」があって、これは迎賓館本館の裏側にあたる。国宝の噴水があり、様々な花と樹木が植えられている。ちょうど躑躅が見頃だった。

 広大な庭園はいつまで見ていても飽きない。

 前庭に出る。公開日にはちょっと洒落た屋台が出ていて、各種の美味しいワインとつまみ物などが楽しめる。私もよく冷えたグラスワインの白を、北海道産の「桜」という白(かび)タイプのチーズで一杯やってみた。チーズには小さなパンと、オリーブと胡瓜のピクルスがつき、どれもワインによく合う。

 のんびりと散策し、壮麗な建築を堪能すると、ちょうど昼過ぎになる。妻と相談し、赤坂の繁華街で昼食をとることにした。

 いつも国会図書館の帰りに赤坂へ行き、名代の蕎麦舗「室町砂場・赤坂店」に行くのだが、蕎麦舗へ直行ばかりしていて、赤坂のその他の事はよく知らなかった。その室町砂場の反対側の通りにTBSの放送センターがあるのは知っていたが、その周辺が「赤坂サカス」と言う複合施設で、楽しめる場所になっている、というのは妻から今日聞いて初めて知った。いつも素通りしていたので知らなかったのである。

 妻がその「赤坂サカス」に行って見ようよ、というので、ぶらぶらと歩いていく。赤坂御用地の東側、新緑の外濠沿いに出てきたら、それが「紀之国坂」というところだ。ゆっくり歩いて坂を下り、外濠に沿っていくと地下鉄の赤坂見附駅の入り口に出る。そこから今度は右へ折れていくと赤坂の繁華街に出る。10分か20分ほどの散歩だ。

 赤坂サカスの中華レストラン「DRAGON RED RIVER」というところで日替わり定食など食べる。牛肉とトマトの旨炒め、春巻き、胡麻団子、卵のスープ、ご飯がついて1300円は安い。

 それから、TBS直営のスーベニア・ショップに寄って娘どもにお土産を買う。

 宮城鎮護の官幣大社・山王日枝神社へ詣で、永田町側へ行って総理官邸やその裏の料亭「黒澤」の建物などを見物し、半蔵門線に乗って帰宅した。

 春の日帰りにはまことに良い、楽しい行楽であった。

改元・差別・多様性・測地系・カレンダー……

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 以前、GIS(空間情報システム)について深く考えていた時、「地球上のある一点」とか、あるいは「宇宙のある一点」を何らかの座標で表した時、現実の空間に存在するその地点はただ一つであるにもかかわらず、使用する座標系によって表現や数値が異なり、あたかも違う地点が複数存在するかのようになってしまうのは、何としてもどうにかしなければならない、と思った。

 その頃、ちょうど日本では「測地成果2000」という標準が行き渡り、明治時代からの伝統である「ベッセル楕円体」を使用した所謂(いわゆる)「日本測地系」の使用をやめ、国際標準の「GRS-80」にほぼ完全に切り替え終わっていたが、切り替わる前後しばらくの期間、旧ベッセル楕円体測地系と、新GRS-80測地系が混在し、地球の同じある一点を示すのに、複数の数値が混在していた。

 そこへ、GPSの普及、またこれを活用したカーナビの普及で、米国主導の座標系である「WGS-84」も混在して使用されるようになった。そのため、当時の情報システム内部では、旧日本測地系、GRS-80測地系、WGS-84測地系の三つの測地系を矛盾なく混在させて作動させる必要があった。

 プログラミング技術上では、例えばC++やJavaなどのオブジェクト指向言語なら、こうした事態を解決するため「座標」のクラスを作り、クラス内部ではいずれか適切な座標系で数値を保持させる。その数値は「プライベート」にして隠蔽し、クラス外からの直接操作はこれを禁ずる。「アクセッサ」のみを使用して座標を操作するのだ。そして、いずれの測地系を使用して値を入力しても、内部では必ず空間の一点のみを指す値に変換して保持し、また逆に、値を取り出す際には、いずれの測地系での値を要求しても正しく取り出し可能とする。

 こうしたふるまいをするクラスを作ることで、プログラム内部では混乱も矛盾もなく座標を扱えるようになる。無論、アメリカの旧測地系であるクラーク楕円体をはじめとして、世界中の測地系を詰め込んでクラスをデラックス化するのもよい。

 さて、こうしたことを思い出していて、日付についても似たようなことを考える。

 世界には多様な文化があり、そのため、「ある日ある時間」を表すにも、文化や地域によってさまざまな表し方が存在する。思いつくまま挙げるだけでも、例えば教祖イエス・キリストの生誕を基準とする西暦、ヨーロッパのグレゴリオ暦やユリウス暦、太陰暦を基本とするイスラム暦、同じ太陰暦でも中華文化圏で用いられてきた干支(かんし)を使用する日付表現、日本の元号や朝鮮、就中(なかんづく)北朝鮮の現在の革命年号、日の出・日の入りを基準とした不定時法など、様々だ。

 だが、どんな日付表現をしようが、科学的には「ある日ある時間」は、ただ一つである。

 一方、コンピュータシステムは人間を支えるものであって、人間がコンピュータに奉仕しているようでは本末転倒だ。コンピュータはあらゆる日付の表現ができ、かつ、あらゆる日付の表現を受け取ることができることこそ望ましい。世界中の多様な文化を矛盾なく受け()れ扱うことができてこそ、人間に奉仕するためのあるべきコンピュータシステムの姿であると言える。

 しかるに、現在のコンピュータシステムはその点が貧弱である。「建久二年辛亥(うるう)十二月(ついたち)」と入力しても、「1192年1月17日」と入力しても、はたまた「587年のズー・アルヒッジャの13日」と入力しても全てこれを許し、かつ、それが同じ日付を指しており、また逆に、どんな日付表現の出力を要求されようと、考え得る限りの多様さで人間にこれを返すようでなければならない。

 今このようなことを考える理由は、ただ一点、畏きあたりにおかせられて、近々まさに譲位あそばされんとし、恐れながら改元の沙汰もこれあることと考えられるからだ。

 改元であろうと何であろうと、人間に奉仕するべきコンピュータシステムは、これを平然と受け()れるものでなければならない。そこに多大のシステム保守作業があるなどもってのほかである。

 だが、現代のコンピュータシステムはそこが貧弱であるため、改元で右往左往しなければならないのだ。

 それどころか、コンピュータシステム運用上の煩雑さを理由として、元号制に反対したり、イスラム文化やアジアの文化を否定し、「西暦で統一すべき」などと、多様な文化を蔑んでそれでよしとする差別主義者がIT技術者にすら少なからず見受けられるのは、あまりにも残念である。

転記;生粋の右翼は武士道なんか嫌いだ

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 今朝、「私の先祖は百姓で、武士なんかではない、だから武士でもないクセに武士道武士道言う奴は嫌いだ」みたいなことを書いたが、それを転記しておきたい。


似非(エセ)武士

 あー、……。

 別の方向からだけど、実は私も、武士道武士道言うの、嫌いなんだよな。武士道武士道と連呼されると、へっ、何が武士だよ、……と鼻白んでしまうのだ。

 軍人勅諭を読んでいると、

以下引用、ルビは佐藤俊夫による。

……打續(うちつづ)ける昇平に()れて朝廷の政務も(ようやく)文弱に流れけれ()兵農おの()から(ふたつ)に分れ(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に(かわ)り遂に武士となり兵馬の(けん)は一向に(その)武士()もの棟梁たる者に()し世の(みだれ)と共に政治の大權も(また)其手に落ち(おおよそ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回す()きにあら()とはいひなから(かつ)(わが)國體(こくたい)に戻り且は我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り浅間(あさま)しき次第なりき……

 ……と、明治大帝が武士の世を「あさましき次第なりき」とまで言って嘆いていることがわかる。

 そういうわけで、私のような右翼は武士道なんか嫌なのである。だいたい、私の先祖は武士ではない。百姓だ。百姓がなんで武士道なんだ。知るかそんなもん、と言いたい。

 武士の方から見ても、武士の風上にも置けないという程度ならまだしも、ハナッから武士なんかではないヘナヘナしたカスみたいな連中が武士道だ武士道だ言うのは、武士に対する侮辱みたいなもので、迷惑だろう。


 だから、さ、なんだか流行の武士道が好きな人は、カタカナで「サムライ」って書くように――これを私は「カタカナザムライ」と名付けてみた――武士道も「ブシドー」って書いてもらいたい。

BUSHI(ブシ)DO(ドー)

……な? あんたらの大好きな、いわゆる国際社会に通用する、チャラチャラしたかっこよさげな字面になるだろ?

 俺か?俺はそんなモンには帰依しないよ。虚像だもの。中身のわからない虚像に拝跪(はいき)しろって、無理言うんじゃねぇよバカヤロー。