やられたらやりかえすのはバカか覚悟か

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 テレビドラマにかぶれて「10倍返し」だなんだと言っていた人たちが同じ口で「テロへの報復は憎しみの連鎖をよぶだけだからやめるべき」なんて言っているのを、人間ってものはいろいろ揺れるもんだなと感じながら傍観している。

 ただ、成算のない仕返しは単なるうっぷん晴らしにすら届かず、返り討ちになるだけだ、ということは言えると思う。それはドラマの中の銀行員の「10倍返し」だって同じことだ。

 仕返ししても負けるから、さしあたりガマンしておこう、というのは大人の選択ではある。子供の頃、ひねこびた性格だった私は、よくそういう選択をした。

 子供だって、負けないためには覚悟をする。仕返しの連鎖の終局に勝ち残るには、相手を刺し殺して少年鑑別所に入る、という覚悟が要り、それには家族や兄弟を路頭に放り出しても頓着しない覚悟が要る。私の父は刑務所の職員であったから、家から縄付きを出せば退職するならわしも昔はあったのである。

 人に手を出す奴というのは、そういうコッチの事情を見越した卑怯なところがあるものだった。一方の、「終わりには結局負けてしまう、つまり相手を殺すことはできず、散々損をして負けることになるから、それだったらとりあえず早いうちに負けとこ」という、そういう選択をする私のような子供は、誠にかわいげがなく、老成している。

 子供の争いと国家間の戦争や紛争では訳が違うが、覚悟のあるなしという点では似たところはある。その意味では日本は老成している。

 逆に、相手を屈服させるためならどんな犯罪人にでもなる、そういう中学生のような覚悟をしている国の代表格はアメリカだろう。やっこさんたちの核兵器や化学兵器、生物兵器の保有量、9.11で殺されたアメリカ人の人数と、その報復でアメリカ人が殺した中東の人々の人数を調べれば、「はて、イラクの大量破壊兵器の保有を責め立てたのは、どこの誰だったかしら」と、常人なら頭が混乱するはずだ。非人道の極北へまっしぐら、彼らが信奉するキリスト教の教義にすら背いてでもそうする、無辜の市民の10万人や20万人、核兵器で焼き殺してでも屈服させる、そのためなら人類の文明なんか破却してもかまわん、こっちの勝手を押し通すためならどんな汚名をこうむろうと無視する、そういう覚悟だろう。いや、逆に何も考えていない単なるバカ、とするともっと簡単ではあるが……。

 強いバカ国の国民というのは、なんと能天気なことだろう、という写真がある。何年か前の写真だが、一方で戦争しながら、国民はこういう暮らしだ。

  •  http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51809534.html
  •  地方のスーパーに買い物に来ている人々を撮影したものだそうだが、とても一方の手で人殺し、報復戦争をしている人々とは思えない。

     ともあれ、冷厳・冷徹な合理主義でものを決めつつ、かつ、好みや気分にも忠実、というバランスがうらやましく妬ましい。

     個人もそうありたいものだが、やっぱり、私などはリアリズムに欠ける。きっと、多くの日本人も、冷厳なリアリズムは苦手なのではないだろうか。

     災害時の医療現場でトリアージにあって残念ながら死んだ人の家族が裁判を起こして医療関係者を訴える、そういう情が日本人である。玉砕して無線機なんかないアッツ島に、打つ意味のない鎮魂の無線電信をそれでも打つ、そういう悲しい、非合理の選択をしてしまうウェットな愛、やっぱりそれが日本人である。

     日本人はマキャベリばりのリアリズムなんて嫌いなのだろう。アメリカ人のバカ写真を見ては、関連も根拠もなくそう思う。

    テレビを見る

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     ほとんどテレビを見ない。ニュースが嫌いだからだ。ニュースが嫌いというより、思想的なニュースキャスターが嫌いなのだ。まあ、ご本人たちも結局のところ有名人で、キャスターなぞといいつつ、実質はタレント、芸人の類いである。自分の考えなんかどうだってよく、視聴者の情緒よりする上からの命令に合わせて色々と喋りまくらなくてはならず、それで私のような安物の偏屈おやじの憎悪をよぶのだから、よくよく考えてみると金持ちとはいえお気の毒というより他ない。

     テレビを見ないから、ドラマもあまり見ない。「あまり」というのは、たまには見る、ということだ。

     このところの朝のドラマ、「マッサン」は面白いから見ている。ただ、普段は見る暇がないので、家のレコーダーに一週間ぶん録り貯めたやつを日曜日に見ている。

     これだって、最初は見る気なんかなかった。ふとしたはずみで、途中からなんとなく見はじめたので、最初のほうを見ていない。

     それで、最初の方の見てなかったやつをこの正月休暇に見てしまうことにした。幸い、今のテレビにはネット機能があり、各種のビデオ配信サービスが使える。ドラマのバックナンバーが見られるNHKのオンデマンドサービスを向こう1ヶ月ぶん買った。いながらにして昔の番組をいろいろと見られるのだから、これは便利だ。月980円である。ずっと見るわけではないから、来月はやめてしまえばよろしい。

     マッサンの見ていない回は十数回までだ。オンデマンドサービスで見ていないところを順に見て、筋書きのわからなかったところを確かめるなどし、十分楽しむことができた。単品で買うと1回108円なので、十数回で980円払ったのはまず妥当な割引だ。

     しかし、1ヶ月間見放題なのをそれで終わらせるのはもったいない。どうせ1ヶ月間同じ値段で他の番組も見放題なので、何か他に見るものはないかな、と思ってメニューをあさると、一昨年ごろのドラマの「夫婦善哉」を見つけた。当時放映されていたのは知っていたし、もとより織田作之助を愛読している私である。放映当時、見てもいいかな、と思っていたが、そういうドラマが放映されていると知ったときには第2回くらいまで放映されてしまった後だったので、もうええわ、と見なかったのである。

     それを、先程からまとめて全部見た。

     今日になってから見て、良かった。もし放映当時見ていたら、私は怒り出しかねなかったろう。なぜかというと、ドラマは、平成19年に発見された未発表の遺稿、「続 夫婦善哉」の筋書きをも存分にアレンジしてあったからだ。「正」のほうは私が若い頃からの愛読書でもあり、各節をそらんずることすらできるほど何度も読んでいるが、反面、「続」を読んだのは恥ずかしながら去年のことで、ドラマ放映当時は遺稿が発見されていたことも、それが出版されていたことも知らなかった。去年岩波の正・続他12編の合本を書店で見つけて買うまでは、新潮文庫の古いほうを一冊愛読しているきりであったのだ。

     だから、もしドラマを先に見ていたら、「な、ななな、なんちゅう改変を加えよんねん、これでは原作をレイプするようなものではないか!」と、脚本家を批判しただろう。

     だが、そうではなかった。遺稿・続編を読んだ後で見て、本当に良かった。

     ドラマそのものは、原作の忠実な映像化ではなく、「夫婦善哉イメージビデオ」の趣である。台詞の登場箇所など自由に変えてあるが不快な感じではなく、かえって面白かった。

    貧困など増えていない

    投稿日:

     先日のことだ。見るともなし、つけっぱなしになっていたテレビから、NHKの人気番組の惹き文句が耳に入ってきた。

     「子供の6人に1人は貧困である」という。

     私の知人にはデータに取り組んでいる人も多く、統計に詳しい人もたくさんいる。この人たちは、おそらくであるが、この番組の惹き文句を聞いて、私と同じように「やれやれ…」と思っているに違いない。

     所得の分布が正規分布に従うとしよう。

     もう、こう書いた時点で、私の友人知己のみなさんは、「ああ、わかったわかった、言わずもがなのわかりきったことを言うなよ佐藤よ。ばかばかしいじゃないか」と言うだろう。だが、痛々しく、かつくだくだしく、書かずにはおれない。

     仮に、「国の貧困基準」なるものを、平均から1σ下げたところに決めるとしよう。残差自乗平均だの分散だのということは今さら解説すまい。計算するまでもなく、1σより下が貧乏人だというなら、ざっと17、8パーセントは常に貧困だ。そりゃ、6人に1人は、貧乏に決まっている。

     施策を打とうがなにしようが、貧困というのが他者との比較に基づく相対的なものである以上、そうなる。

     テレビって、なんでこういうものの言い方をするんだろう。

    知性と朝日

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     私がかつて熱心な朝日新聞の読者であったなどというと、ごく最近の私を知る人は、「嘘は泥棒の始まりですよ佐藤さん」と真顔で私を(さと)そうとするのだから参ってしまう。

     だが本当だ。

     どころか、一時期は仕事上の都合もあって、朝日・読売・毎日・産経・日経はもとより、数紙の地方紙まですべての記事に目を通さねばならなかった。朝の忙しい時間にこれだけをこなすのは、苦行に近いものがあった。その頃を思い出すとホロ苦いものが去来する。

     今は、新聞はとっていないし、テレビもほとんど見ない。我ながら極端だ。

     一般認識として、「新聞は読めば読むほど賢い人だ」みたいな空気が日本にあることは否めない。「知性と報道は表裏一体、ともにある」というわけだ。

     そのことを言い立てて、元来新聞をよく読んでいた私がもともと知性のある人間だ、などと主張したいわけでは、もちろんない。むしろ私は知性など糞食らえだと思っているような変な男である。

     どうしてそんなふうに思っているかというと、日本人にとって情報の流入源が単一に近かったことはまことに悲しむべきことであった、と常々考えているからだ。知性と情報の流入が比例するのだとしたら、私が「糞食らえ」なぞと書くのも、無理のないことではないか。

     なぜか。

     朝日新聞が「立派な人は兵隊になる」と書くと、そうだそうだと皆兵隊になった。

     朝日新聞が「立派な人は大陸に攻め込み、武勇の手柄を立てるのだ」と書くと、そうだそうだと皆大陸に攻め込んだ。

     朝日新聞が「天皇陛下万歳」と叫べば、皆で天皇陛下万歳と叫んだ。

     朝日新聞が「マッカーサー様ありがとう」と落涙切々とものすれば、立ち去るマッカーサーに皆で手を振り涙を流した。

     朝日新聞が「立派な人は共産主義を学ぶ」と書くと、そうだそうだと皆共産主義者になった。

     朝日新聞が「立派な人は従軍慰安婦問題を生んだ自らを()じるべきだ」と書くと、そうだそうだと皆反省した。

     朝日新聞が「すんません従軍慰安婦全部ウソです」と書けば、皆そうだそうだ、あれ全部ウソだ!…である。

     これが流入する情報と知性の姿だ。

     こうした姿、態度を間違っているとまでは言うまい。皆が読んでいる同じ文字、同じ記事を同じように読み、そこに書かれていることを広めるように言うことが正しいと、私たちは育てられているのである。今も形を変え、「ツイッターやSNSで皆が韓国なんか嫌いだと言っているから私も嫌い」と、皆が言うことにそうだそうだと口を揃え、誰も何の疑問も持っているまい。

     単に実用上や他人との付き合いということもある。自分の考えがどうとかいうより、家族を食わせるためには己を虚しゅうしてお客さんや出先の論調に合わせなければならないという都合ももちろんあるだろうし、自分がどう思っていようと社員を食わせなければならない、そのためには正しい正しくないではなしに、世の中の潮流に敏感に社の方針をあわせていかなければならない、という経営者のとるべきドライな姿勢もあるだろう。それは生活者として正しい姿勢だ。

     たとえば私が今ここに、「英語でビジネスをすることは間違っている」などと書くと、どうしてそう思うのか、なぜそう考えるのかといった理屈などすっ飛ばして、直ちに、そして反射的に、私はキチガイ扱いされるだろう。「グローバルに日本人が飛躍しなければならないこの時代に、何を言ってるんだ馬鹿め」というわけだ。しかし、グローバル云々というその考えは、本当に自分で考えたことだろうか。

     ひょっとして、朝日新聞に「英語を身につけ、外国人と仕事をすることが正しいことだ」と書いてあったからと違いますか?

     私は知能が低いので語学は身につかず英語は喋れない。にもかかわらず、私自身の考えは前記したこととはほぼ逆である。すなわち「英語を身につけ、外国人と仕事をしていくことも重要なことだ」というのが私の考えである。だが、朝日新聞に書いてあったからそう思っているのではない。

     顧みれば、日本人は世界にもまれな識字率を誇っていた。それは入念に整備された教育制度のしからしむるところである。明治以降だけを見ても、

    日本 参考・英国
    明治5年(1872) 学制発足 小学校就学率28% 40%
    明治33年(1900) 小学校就学率81% 81%
    明治43年(1910) 小学校就学率100%、中等教育進学率12% 100%、4%

    とあり、明治末年の中等教育では、当時教育先進国であると考えられていたイギリスをさえ抜き去っている。日本では文字で意識を揃えることの困難が早期にとりはらわれていたということだ。ヨーロッパより100年も後にはじめた工業化が目覚しいスピードで進捗したことは、あずかってこれが大きな要因となったことは言うまでもない。

     当のイギリスでは、日本よりもまだなお封建的であった身分制度、つまり貴族エリート、中間、底辺という3層型のヒエラルキーが教育にまで影を落とし、なかなか中等教育が普及しなかった。これはアメリカの事情も同じである。

     昔から文字による情報取得に困難のない人びと、それが日本人であった。

     だが、痛々しいのはそこから先である。少ない情報源から情報を流入させることが識字率の高さにより可能になってしまったのだ。

     もし文盲が多ければ、そうはならなかったろう。マルチメディアを指向しなければならなかったはずだ。すなわち、音にも映像にもたよらなければ、人々に情報を流入させることができず、それには技術の進歩と普及を待たねばならなかった。そう、アメリカのように……。

     印刷物配布による情報普及は、一方通行だ。フォアグラのガチョウが餌を飲み込むように情報を飲み込まされる。ガチョウの存在意義はうまいレバーを肥らせることにあるのと同様、誰かが書いた記事をそのまま飲み込んで自分の脳を他人と同じ色に染め上げるのが知性の意義の一面だ。

     世界一の発行部数を誇る朝日が書けば、まず過半数の日本人は書いてあることを飲み込む。

     もしここに、「特定の主義や主張に日本人を誘導しよう」という勢力があったとすれば、ほかの国とは違って、いろんなところをイジる必要はないから楽なものだ。日本人は賢いから、文字に書けばみんな読む。そして、みんなが読んでいるのはかの大朝日だ。朝日さえいじっておけば、それで日本人に対する工作は終わりだ。そういう時代が何十年と続いた。悲劇である。

     ネットの陰謀論者はそれは中国でしょうロシアでしょういや半島でしょうと言いたがるが、私などは終戦直後のGHQから引き続いてアメリカだろう、と踏んでいる。実際はいろんな国が複雑に関与していて、特定のどこの国の諜者がどうとかいう妄想スパイ小説みたいな単純な話ではないのだろう、とも思っている。

     知性と朝日の短絡が、日本の無意識をねじ枉げる、ということだ。

     だが、ここで、あえてくだくだしく述べよう。私は直ちにそれが排除されるべきだとは思っていない。別に、朝日と知性が短絡してたっていい。新聞をよく読んで考え込むということだって、あっていい。ネットに入り浸って考え込むことがあっていいのと同様に、それは許される。

     私は一度くらい朝日はつぶれたほうがいいのではないかと思っているが、反面、朝日が永久に排除されるべきだなどとも思っていない。一度つぶれて官僚的な社内の諸問題をきれいに片付け、エリート高学歴至上主義の鼻持ちならない空気を一掃したら、また新たにやるといいと思っている。しかも、以前よりもまして、もっとキチガイに、狂信的に、サヨクでエテ公でぶっ飛んでいて、ロックで知性ゼロのヨダレでのたくったような記事が垂れ流されたフザけた朝日になるといいとすら思っている。

     そうでないと、日本のマスコミが日本らしくなくなって、面白くないではないか。キチガイ新聞万歳だ!

     もう20年も朝日なんか読んでいない私が言うことでもないか。

    ドブネズミ

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     青雲の志に燃える若い人の純真に水を差したいわけではないが、だが言わずにはおれない。

     戦争や軍事や軍隊や軍服や銃や戦闘機や軍艦が、美しくかっこいいものだなんて思うのは、馬鹿のすることだ。

     どれもこれも、しんどく、悲しく、重く、深刻で、複雑で、汚れ、厳しく、ややこしく、嫌になるようなものばかりである。

     最近、防衛問題に関心を持つ若い人が増えているのは結構なことだが、どうも、単純に考えすぎているのではないだろうか。

     テレビに映る美しさ、新聞に書かれるかっこよさなんてものは、大げさに言えば全部嘘である。人間とは悲しいもので、嘘は美しくかっこいいから、金を払って買ってしまうのだ。だがそれを間違っているとは言うまい。逆に考えると、真実の残酷さ、リアルな汚さ、そんなものに金を払うのは酔狂には違いない。スカトロ狂が普通人の目にどのように映るかを考えれば、人々が嘘に金を払うのはやむを得ないことだと解る。

     そんなわけで、メディアには真実は載らない。

     そういったことをわきまえたうえで、「ドブネズミのように美しくなりたい」のなら、止めはしない、己の信ずるところに従うがいい。しかし、実相を知ってから「騙された」だの「やりかたが間違っている」だのとゴタクをほざくのは、馬鹿より更に愚者のすることであると知るべきである。

    改革病

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     「土光臨調」「三公社五現業」という言葉は、私などが小学生の頃に新聞やテレビでしょっちゅう流れていた言葉である。社会科の教科書にも出ていたかもしれない。

     私と同じ歳で、──私は昭和41年生まれだ──リアルな耳への実感でこれらの言葉を覚えている人は、多くはないと思う。新聞を読んだりニュースを見たりする子は、同級生にはまれだったものだ。しかし、私は小学校低学年から新聞を読んだりニュースを見たりする変な子供だったので、これらの言葉を実感で覚えている。土光臨調の時には私は中学生だったが、周囲の者は多分高校の受験勉強に忙しかったから、リアルタイムではこの言葉は知らないと思う。知っていたとしても、リアルタイムではなく、後から知ったことだろう。

     臨調、などの言葉は、そのまま「行政改革」につながっていく。改革という文字が新聞に載らない日とてはなく、文盲率の低い文明国の悲しさ、知能の高い人であればあるほど、新聞から脳に、毎日「改革」と言う言葉が注入され続けた。それが、昭和55~57年頃(1981年頃)のことだ。

     土光臨調や行政改革の是非については、私にはよくわからない。だが、その意義や目的を理解することなく、とにかく改革、という人々が増殖したことは確かだ。

     それは、いけないことだったと思う。この時代に成長した人たちは、なんでもいいから引っこ抜き、踏み荒らし、変更し、他人に意思を強要しさえすれば「偉いねえ、頑張ったねえ、すごいねえ」と、親にも先生にも上司にも褒められて育つことになったからだ。

     その人たちが悪いのではない。そのように誰かに吹き込まれて育ったのだから、それを遵奉しようとするのは当然のことだ。そしてまた、時代が悪いわけでも、社会が悪いわけでもない。すべて正しかったのだ。だが、正しいものがすべていいことかというと、それは違う。かつて戦争は正義の眷属(けんぞく)であった、と言えばわかりやすい。

     改革が正義であるから、変えるべきものがなくなってくると、この人たちは言い知れない不安に襲われる。正義が否定されるのだ。人間は正しくなければならない。ただしくあるためには、変更だ、差し替えだ!!優れた人であればあるほど、正義のために自らも変わろうと努力し続ける。いいかげんなことは許さん!!…かくて、目的も理念も忘れた、正義の「ためにする」改革が繰り返され続けていく。

     これがまた、「改め」かつ「あらたなものを露出させる(=「革」という字は、古いカワをはがしてあたらしい中身が出てくるという意味がある)」ことになっていればいいのだが、凡人にはどうしても、「なにかよい手本をよそから持ってきて、差し替える」くらいのことしかできない。カワをはがす(革)ではなく、ペンキでゴテゴテと上っ面の色を小汚く塗り重ねるだけだ。つまり、ただの「変更」だ。そして、たいていの優れた人は、凡人だ。

     そう、「変更」が正義だ、というところが、困ったことなのだ。「生む・産む」ことではない。「あらためる」ことでもない。オリジナルを産むのではなく、アメリカ風なものに「差し替え」だ。凡人にできる改革など、そんなものだ。

     昭和後半に否定され続けたものは、実は「生まれたもの」でもある。声高にヤレ改革だ革命だと叫ばなくったって、明治維新以来、日本はレボリューションやらイノベーションやら、嵐のような改革と激動に揉まれ続けていた。新幹線が敗戦の痛手から立ち直ってゼロから新しく作られた、などと思い込んでいる向きも多いが、じつは新幹線は昭和の初期から開発が引き続き行われていたことは、満州鉄道史などを少し調べればすぐにわかる。戦時中の航空機開発史などを見ると、信じられないほどの水準と速度でものを生み続けていたこともよくわかる。

     不易流行、という言葉がある。古色蒼然として、カビか苔でも生えていそうな言葉だ。だが、この言葉が好きだ。変わってはならないオリジンの上に、しっかりと変容を受け止めていく。個人においても、組織においても、ゆらぎのない個の確立の上に、変容は迎え入れられる。

     改革だ改革だ、と、憑かれたように言い続ける必要は、ない。明治維新以来の私たちの、もともとのベースに、それは組み込まれている。

    「キッチンおり江」について

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     旧国道4号線、越谷市の日光街道沿いにその店「キッチンおり江」はある。いや、あった、と言うべきか。

     知る人ぞ知る名店であり、テレビで大きく取り上げられたこともある洋食店だ。

     去年頃から店を開けていないことが多くなり、このところはまったく開いていず、電気もついていないことがほとんどだった。店主はもうかなり高齢なので、ひょっとして何か病気にでも?と思っていたら、数ヶ月前の朝、店の前を掃除する店主を見かけた。近所の人が「あら、もうお体はいいんですか?」というようなことを話しかけていたので、なにか体調を崩しておられたのだろう。

     だがしかし、それからも店が開くことはなかった。

     先週、店が建築足場でおおわれた。と見る間に、一昨日、重機が入って、店が壊され始め、あっと言う間に瓦礫の山となった。

     昨日の夜、仕事からの帰り、すっかり暗くなった店の前に、見覚えのあるおかみさんが佇んで、感慨深げに瓦礫と跡地を眺めておられるのを見かけ、思わず声をおかけした。

    「あのう、もう、店はお閉めになるんですか?」

    おかみさんはニコニコして、

    「ええ、もう閉めることにしました。…ここで、53年、やりました。もう83歳になりましたのでねえ」

     そうですか、それはお疲れ様でした、どうかごゆっくりなさってください、と、挨拶して別れた。

     実は、私はこの店に入ったことはない。店主の顔はテレビで見て知っていただけだし、おかみさんの顔は、毎日の通勤経路にこの店があるので、店の外から見て知っていただけだ。

     このお店が、元気でやっておられる間に、一度、味わってみたかったな、と、とても惜しく思う。

    「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

    投稿日:
    防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ) 防衛破綻―「ガラパゴス化」する自衛隊装備 (中公新書ラクレ)
    価格:¥ 798(税込)
    発売日:2010-01-10

     以下、上記書籍198ページ~200ページまでを引用


    「武器輸出三原則」と「武器輸出三原則等」

     一方で兵器の輸出にはメリットがあることも事実である。

     輸出によって市場経済にさらされれば、製品の質は向上する。特に実戦で兵器が使用されればフィードバックがあるので、技術面の向上には大変有用だ。これは否定できない事実である。

     わが国では新聞やテレビなどのマスメディア、政治家でも誤解していることが多いが、「武器輸出三原則」は、武器、即ち兵器の輸出を禁じてはいない。「武器輸出三原則」とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。

    (1) 共産圏諸国向けの場合

    (2) 国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合

    (3) 国際紛争の当事国またはそのおそれのある国向けの場合

     これは佐藤栄作総理大臣(当時)が一九六七年四月二十一日の衆議院決算委員会で答弁したものである。これに該当しない国々には原則輸出が可能なのである。

     一九七六年二月二十七日、三木武夫総理大臣(当時)が衆議院予算委員会における答弁で、「武器輸出に関する政府統一見解」を表明した。これは、「『武器』の輸出については、平和国家としての我が国の立場からそれによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない」というものだ。そして、

    (1) 三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。

    (2) 三原則対象地域以外の地域については、憲法および外国為替および外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」輸出を慎むものとする。

    (3) 武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。

     としている。わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(佐藤首相の答弁)と「武器輸出に関する政府統一見解」(三木首相の答弁)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ばれる。

     つまり武器の禁輸は「武器輸出三原則」ではなく、「武器輸出三原則等」によって規定されているのである。「等」がつくかつかないかで、大きな違いがある。ただ、これも「三原則対象地域以外の地域について『武器』の輸出を慎むものとする」としているので、まったく禁止しているわけではないとの解釈もできる。

    SONYからこういう返事が来た。

    投稿日:

    平素は、ソニー製品をご愛用いただき誠にありがとうございます。
    この度は、弊社製品 の件でご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません。お詫び申し上げます。
     
    「ご使用中止」につきまして大変ご迷惑をおかけしますが、事故の防止および安全性確保のため、お客様にご協力いただくようお願い申し上げます。

    廃棄の際に新しいテレビをご購入する予定があれば、販売店様にご相談ください。今でしたら、エコポイントの対象製品に買い替えをしてリサイクルを行う場合は、家電エコポイント数にリサイクルの3000ポイント数が加算されます。
    (2010年12月31日まで)

    ご愛用いただいていた佐藤様には、ご不便、ご迷惑をお掛けいたしますことを深くお詫び申し上げます。今後より一層の品質向上に努めてまいりますので、なにとぞご理解賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

    SONYに文句をこのように書いた。

    投稿日:

    今日、ニュースなど見ておりましたところ、私の所有するテレビ「KV-14GR2」について、「発火するので、廃棄すること」との御社の通知があることを知りました。
    安全のために、ともかくも早期の周知徹底に努力しておられることを、立派な事と評価しています。
    ですが、これはどうも、拙速に過ぎるのではないでしょうか。私のテレビは、古い物とは言え、若い頃、今とは違う物価高の時に高いお金を払って買った品物で、れっきとした私の所有物です。今も現役で作動しており、さすがは品質重視をもってなったかつてのソニーと、毎日感心しておりました。ですが、それを、「ウチの落ち度で燃えるから、すぐ捨てろ」とだけ言われて、従えるでしょうか。
    よく見聞きする「リコール」というものとも、今回の件は違うようです。単に「捨てろ」というだけの事しか、御社はアナウンスしておられません。
    「代わりのテレビをよこせ」などと、子供ではないのですから、そんなことを言うのではありません。ですが、せめて、代わりのテレビを購入するための補助や割引ぐらいのことが、御社には出来ないのでしょうか。