なんっか、腹立つんだよなあ……

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 ローマ法王が来日し、長崎でスピーチしたそうな。

 その内容である。

 なんっか、腹立つんだよなあ……。

 広島の、そして長崎の惨劇と虐殺は、お前らが営々と築き上げてきた西欧文明の所為(せい)で起こったんと違うんかい。その西欧文明はキリスト教によって生まれたんだろうが。それを、何を今さら、アメリカの批判だって?笑わせンな。

 ごめんなさいと謝ったって、偽善以外の何物でもない。アメリカ人のキリスト教徒を全員破門にでもするというのならまだしも。

 この善人韜晦っぷり。だからキリスト教は大嫌いなんだ。

長崎原爆忌

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 原爆忌である。悲しい哉。

 幾十万の魂魄よ、只管(ひたすら)安らかに(ねむ)れ。

 いつの日か、アメリカ人には必ず悔恨させる。200年、いや、300年先、ことによると1000年先になろうか。

Twitterのアカウント凍結は釈然としない

投稿日:

 くだらんことでTwitterのアカウントを一時凍結され、釈然としない。

 アメリカ人に対する敵意を端的に書いたまでだが、削除しないとアカウントは凍結だという。

 原爆を生身の人間の上で炸裂させたアメリカ人を、日本人が静かに恨んで何が悪いというのか。随分とTwitterの運営会社も肝っ玉の小さいことだ。

読書

投稿日:

 開高健の「最後の晩餐」と入れ替えに、この本、「酒と肴と旅の空」を図書館から借り出す。

 食べ物に関する随筆集で、編者は池波正太郎だ。

言葉
瓊浦(けいほ)崎陽(きよう)

 この本収載の丸谷才一の随筆に出てくる。「幕末の味・卓袱(しっぽく)料理」という題だ。旧仮名遣いが心地よい。

 瓊浦(けいほ)崎陽(きよう)も、どちらも長崎のことである。中国では長崎のことをそう呼んだり、わが国でもまた中国語風にそう呼びかつ書く、というような長崎の別名らしい。

 そういえば「崎陽軒(きようけん)」という名物焼売(シュウマイ)の店のことを思い出した。あれは要するに、「長崎食堂」というような意味だったのだな、と思い当たる。だが、崎陽軒は横浜の会社である。


魂なき科学と長崎原爆忌

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 8月は広島原爆忌、長崎原爆忌、敗戦忌と続く。

 今日は長崎原爆忌だ。幾万の犠牲者のたまき()魂魄(こんぱく)を思い、悲しむ。

 長崎に投下された原爆は、「Mark 3 “Fat man(デブ)“」という名前であったことが知られる。

 実は20年ほど前までは、この「Fat man」が広島に、長崎にはもう一方の「Little boy(チビ)」が投下されたと信じられてきた。ところが情報公開が進み、逆であったことがわかったのである。

 長崎に投下された原爆の種類と、広島のそれとが逆に発表されてきたことには、実は腹立たしい理由がある。

 長崎に投下された「Fat man」は、広島に投下された「Little boy」より威力が大きかった。だが、長崎のほうが死者が少なかった。そうすると、これらを設計した科学者や技術者の計算ミスと言うことになり、多くの者が処分されてしまう。そこで、広島に投下されたものと長崎に投下されたものとを、長らく逆に発表してきたのだ。

 死者が多い少ないと言う恐ろしい報告は、豆とか麦を(ます)で計って目方が多い少ないなどと言う事とはわけが違う。額に汗して真面目に暮らしていた人々の、かけがえのない命が2万3万多いだとか少ないだとか言っているのだ。数十余万に及ぶ(おびただ)しい人々を虐殺しておいて、博士修士といった連中のたかが100人がところが「俺がクビになっちまう、来月の給料はぁ~?」などと言ってうるさいから、とりあえず逆に報告しておきましょうなどという、そういう話なのだ。

 この文章を読む方に言いたいが、指を折って2万とか3万とかいう数を数えたことがあるだろうか。ほとんどの人が、実際に指折り数えたことがある数字は、千くらいまでがせいぜいだと思う。自分が数えたこともないような数の人が死んでいるのだ。それを、科学者の地位の保全のために誤魔化(ごまか)したのである。

 使われたプルトニウムはハンフォード・サイトというところにある原子炉で作られたが、この近所には、今、億万長者ビル・ゲイツ氏の自宅がある。近所、と言っても200kmほど離れているが。

 「ファットマン」はプルトニウム爆縮型の核兵器だ。プルトニウムを爆薬で包み込み、爆薬に点火すると爆圧が急激に内向する。それによりプルトニウムが高速かつ極度に圧縮されて臨界を超え、核爆発が起こるのだ。原理的に丸い形状にならざるを得ないので、文字通り「Fat Man(デブ)」の形状となったのである。

 だが、単純に爆薬で覆えばいいと言うものではない。1か所に点火すると、爆発が点火場所から順次伝わっていくので、プルトニウムを全方向から均一に圧縮することができない。

 どうにかならないかというわけで、点火栓を周囲に沢山取り付けて爆発させてみた。ところが、これでは「あちこちから棒で同時に突ッつき回した」ようになってしまい、プルトニウムを均一に圧縮することはできなかった。

 そこで、かのフォン・ノイマンの登場となる。そう、「ノイマン型コンピュータ」の考案者、あのノイマンだ。天才的数学者であった彼は、爆轟速度の異なる2種類の火薬を二次曲面で精緻に組み合わせた「爆縮レンズ」を計算により編み出した。

 魂を持たぬ科学、愛を失った天才ほど恐ろしいものはない。この計画を強力に推進したアインシュタインでさえ、後年に至って

「私たちは、知性を神格化しないように、十分注意しなければなりません。知性は、言うまでもなく強力な筋肉をもってはいますが、人格をもってはおりません。〔……〕知性は、方法や道具に対しては、鋭い鑑識眼をもってはいますが、目的や価値に関しては盲目です。」

「宗教なき科学はびっこ((出典ママ))であり、科学なき宗教はめくら((出典ママ))なのです」

(アルバート・アインシュタイン『晩年に思う』より)

 と言っている。

 かくてプルトニウムは全周囲から爆発的圧力で均等に圧縮可能となった。技術的には、科学的には、つまり人間の脳味噌のなしうる器用な働きの上からは、これは大成功だ。

 だがその大成功の産物は、あいつらの言う、人類が到達しえた至高の知性の産物は、無辜(むこ)・無防備の素朴な長崎市民の只中へ放り込まれ、恐るべき地獄の業火となって炸裂したのである。

 稀代の頭脳にして人類の至宝、フォン・ノイマンの手になる、精緻な科学的知性の帰結であるこのガジェットが(もたら)した凄惨な地獄絵図は、結果として人類文明史上最悪の汚点となり、かつまた欧米白人科学史上の恥となって永久に消えぬこととなった。

 戦争であろうと、科学であろうと、やっていいことといけないことの区別が、やはりあろう。それを思えば、長崎の虐殺は「やってはいけないこと」であったには違いない。

「原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる!そうしたことを計画、実行した人たちが今、被告たちを裁いているのだ!」(東京裁判弁護人・ベン・ブルース・ブレイクニー少佐の弁護より)

 東京裁判では、米側弁護人ですらこう言わざるを得なかったのだ。

 原爆が欧米白人科学史上の恥となった、と私が言う証拠に、ブレイクニーが畳みかけたこのくだりは、見てのとおり映像には残ったものの、映像の中にも触れられている通り、同時通訳が停止され、速記録からは抹殺された状態で出版されてしまった。

本当に腹の底から悲しめ原爆忌

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 原爆忌である。

 思うだに、考えるだに、いたましい(かな)、悲しい哉。多くの人が(こうべ)を垂れ、遠いかの日に思いを致している。

 だが、本当のところを喝破(かっぱ)すれば、実は(ほとん)どの者が悲しんでもいなければ(いわん)や反省などしてはいるまい。

 その証拠に、本当に悲しみ、本当に反省しているのならば、核兵器で死ぬ者が二度とないように現実の物理的努力をしているはずだ。だが、殆どの者はそんな物理的努力などしていない。政治家から学者、有名人、金持ちから貧乏人、一般人に至るまで殆どが、だ。

 日本は中国・ロシアという核兵器保有国に隣接している。日本に向けて照準を定め終わり、いつでも発射可能な核弾頭の数は数百を下らない。それらはポチッとスイッチを押せば、地獄の業火となって私たちの頭上に降り注ぐ。軍事施設ではない、無辜(むこ)の一般市民の頭上に降り注ぐのだ。かてて加えて、新興核武装国にして敵国、北朝鮮は、この凄惨な兵器の開発を()めぬばかりか更なる増産増備の構えを強めてさえいる。

 この冷厳な事実に対抗するための具体的で物理的な努力に関して、人々はあまりにも冷淡である。はっきり言えば「何もしていないし、何も考えていない」のが実際である。それが、私たち共通の悲劇のこの日、広島原爆忌に、多くの者が悲しんでいるフリを実はしているだけだと、露悪的に私が()所以(ゆえん)だ。

 日本はある程度の弾道ミサイル防衛の実力を持ってはいる。だが、1発2発なら器用に撃ち落とす見事な腕前くらいは見せられても、20発30発と撃ち込まれれば、もう弾切れになり青息吐息だ。これを「飽和攻撃」と言う。そうなれば広島どころではない。何十万、いや、何百万もの人が焼け爛れて死に、中性子線による放射線障害でのたうち回って死に、遺伝子に対する甚大な影響で子孫までがおかしくなってしまうのだ。

 中国もロシアも、50発でも60発でも核兵器を日本に打ち込む実力を潜在している。戦争は弱い者いじめだ。中国もロシアも、アメリカ本国に撃ち込めば苛烈な仕返しに遭って自分たちが困る。核戦争を開始するなら、まず弱小な敵国・やる気も覇気もない日本に数十発がところを撃ち込み、その親分アメリカの出方を見るだろう。ま、本当にやるかどうかは別問題として……。

 まして、仮に、仮にだ。今もってなお世界一の軍事国家、水爆の殿堂にして核兵器の巣窟、かのアメリカ合衆国が、万が一にも日本の敵となる日が来たら、どうなるか。

 反省するなら、悲しむなら、ポーズやフリではなく、本当に反省し、本当に悲しんでほしい。情緒的に悲しんで見せるのなど、中学生以下の子供でもできることだ。

 ただし最後に言おう、本当の反省は、情緒よりする悲しみから出発する。だから、まず腹の底から慟哭(どうこく)し、悲しまねばならぬ。それがスタートだ。

一歩後退したのは何

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 伊勢志摩サミット出席のため来日中のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは、昨日夕刻広島に立ち寄り、献花し、スピーチした。

○ ニュース(産経のコラム)

 世間の評判は概ね良いようだ。

 だが、私は釈然としない。

 なんだろう、この嫌な感じ。

 気安く詫びなんか入れてほしくない、謝罪など受け付けてやるもんか、というような気持ちに近い。近いが、何かそれとも違う。

 だが、そんなごく一部の気持ちなんか米国には当然何の関係もなく、当たり前だが大統領は謝罪をしたわけでもなんでもない。用意してきた原稿に従って、淡々と感懐するところを述べただけである。また、スピーチの中で真珠湾がどうとかというようなことを持ち出す不見識なことはしなかったし、事前に騒がれたような、元米兵捕虜を推し立たせるという悪趣味極まることもしなかった。

 スピーチの内容は概ね真摯かつ人道的で、万人に受け入れられるものではあった。

 つまるところ、朝鮮人が日本人に求めるような種類の謝罪を米人に乞うているわけでもなければ、そんな謝罪をされたところでそれを受け入れたいわけでもなく、かつ、向うだって簡単に謝罪なんかしたわけでもない、という、なにやら中途半端な落としどころなのだ。

 果たして、広島は、長崎は、中途半端な落としどころなんかでめでたしめでたしになるような、ここらで手打ちにしときまひょ、ほんならこれからはお互い(あきな)い一直線で額に汗してまいりまひょ、よろしくたのんまっさ、儲かりまっか、ぼちぼちですわ……そんな気楽な土地であったか?

 そんなことになるくらいなら、鎮魂のための永遠の静謐のほうがまだしもの救いであるはずだ。

 多分、総理大臣と大統領がしたことは、幾多の魂魄(こんぱく)をざわめかせただけではなかったか。

 アメリカ合衆国大統領の、広島での感傷程度のことで世界の核兵器が廃絶できるなら、こんな無数の核爆弾実験痕など最初から作らないはずのものではないか。

 そんなセンチメンタリズムで揺らぐ程度の覚悟で、こんな大それた文明への挑戦、自分たちが崇める神をも踏みにじるようなことをやってのけてきたのか?そんな程度の覚悟で、あんな虐殺をしたのか?広島はその程度のものなのか?それくらいの値しか、十有余万の広島県民の魂にはなかったというのか?

 だったら核兵器なんか今すぐ捨てろよ。だけど、できないんだろうが。口先で言うだけで、やる気だってハナからあるまい。欧米人なんぞ、そんなものだ。

 まあ、だからと言って「ええ、ええ、そうですか、そうですか、じゃあ、わかりましたよ。核兵器、捨てません。最初からそんな気持ちありません」と広島で言い放たれてもハラ立つけどな……。

 世の中の人たちは、本当に、オバマの訪問で、これでよい、一歩前進した、と思っているのだろうか。

 ……いや、多分、思っているんだろう。新聞読んでテレビ見て、なるほどなるほどって言うような、素直で頭の良い人たちばっかりだから。学校の先生のご高説で脳味噌を染めて、それを洗脳だとは思いもよらず、自分が偏った考えを持っていない中立な人物だと信じているような、立派で賢い人たちばっかりだから。

 嫌だな、一歩後退したな、と思っているのは、多分、私だけなんだろう。

 私は素直に納得なんかしてやらないぞ、知性ゼロだから。オバマを広島に来させることが知性だと言うなら、知性なぞ糞くらえだ。

「はだしのゲン」に関する私の考え

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 「はだしのゲン」が某地方の小学校の図書館において閉架となったことに関する紛糾が、もはや人々から忘れられ、取り上げもされなくなった。世の中なんて無責任なものだ。芸能ニュースとこの種の問題はわけが違うのだが、人々の頭の中ではアイドルも教育も一緒であるらしい。

 私の考えは、「『はだしのゲン』の閉架処置は正しい」。まことに単純だ。

 ただし、その考えにいたる筋道は、どうも人とは違う。自分と同じ考えの人をネット上でも見たことがないから、ここに記しておきたい。

 今更言うまでもないが、「はだしのゲン」問題については、

1 極端な描写の問題。「はだしのゲン」は、残忍な絵やレイプなどの描写があってよくない。戦争?戦争なんかどうでもいい。
2 戦争に関する認識の問題。「はだしのゲン」は、戦争に反対しているから、よくない。描写?描写なんかどうでもいい。

…という、まったく別の角度のことを、一緒くたにしているところにも、紛糾の根があるように思う。ここで、私の考えは、後者、「戦争に関する認識」のところに軸足があることを断っておきたい。極端な描写の問題は、別の問題だ。

 私の「『はだしのゲン」の閉架処置は正しい」という考えには、条件がついている。「はだしのゲン」を小学生が自由に読めないようにするなら、明治天皇や東郷平八郎や乃木希典、木口小平、下って佐久間艇長、加藤少佐、金光少佐、若林中尉、坂井中尉といった戦争の英雄の話や、「のらくろ」だとか「紫電改のタカ」だとかいうような、戦争がカッコよく見えるようなマンガや本もまた、小学生が自由に手にとって読むことをできなくするべきである、という条件である。

 そんなものが、前提として、これまで小学生に自由に読めたのであれば、であるが…。

 つまり、逆に、「はだしのゲン」を、小学生がいくらでも自由に手にとって読める状態にするのならば、明治天皇も東郷平八郎も乃木希典も木口小平も佐久間艇長も加藤少佐も金光少佐も若林中尉も坂井中尉も「のらくろ」も「紫電改のタカ」も、どの物語も平等に、自由に小学生が手にとって読むことができなければならない。

 それができない以上は、「はだしのゲン」もまた、戦争という観点からは自由に読んではならないのだ。

 難しいことではない。それらの本は、世の中に存在している。単に、これまで、あらゆる学校から棄却・排斥されてきたと言うだけのことだ。

 子供には、一方に偏らず、幅広く物事を俯瞰させるべきだ。