正義が心地よいものであるか否かは、例えばアメリカ人の正義が、核爆弾で敵はおろか人類の文明をすら破却するような類いのものであることを想像するとよくわかる。一言で表現するのに、「戦争の名分は大抵、正義だ」と言うと多くの人は頷いてくれる。
正義は不快だ。
しかし正義の不快さを想像するのに、何もアメリカ人の核爆弾と文明の破却の例を持ち出すまでもない。日常生活のあらゆる時と場所に、正義の不快さを納得できる場面が転がっている。
私は先輩が運転する自動車の助手席に乗っていて、15km/hほどのスピード違反を注意したところ、「うるせえな!嫌なら降りろ!」と怒鳴り付けられたことがある。この先輩はよほど不快だったのだろう。だが、正義はいずれにあったかというと、こんなことは考察するまでもない。
この例えによらなくても、スピード違反で検挙された人が、警察官に食って掛かって怒鳴っているというような図式はしょっちゅう見かける。
こういう人にとっては警察官なぞというものは人々を苦しめる圧政の手先、腐った公務員の代表であって何ら従うべき余地はなく、ナニヲ、道路設計上の安全限界だと!?馬鹿馬鹿しい、そんなものは怠慢な自治体や官僚が、面倒臭くて適当に40km/hと決めただけだろうが!…というようなことなのであろう。
あるいはまた、これは最近見かけないから例えがよくないかもしれないが、人の家の玄関先で立ち小便をしているオッサンに「ダメですよ立小便なんかしたら」と注意したら、オッサンがブチ切れて怒鳴りだした、というのもある。変なものをまろび出させたまま怒鳴り、詰め寄ってくるわけだから、あともう一歩間違うと変質者で、これは相当に紙一重だ。
任務放棄や遅刻を叱ると怒り出す部下、というのも、少なからずいる。
往来で煙草を吹かしているヤンキーの高校生に注意すると、「なんやとオッサンこらいっぺんシメたろか!」と殴りかかってくるだろう。昔はカミナリ族という言葉もあったそうだが、これだと文字通り
どちら側が正しいとかなんとか、そんなことはまったく関係ない。問題は正しさの量なんかではないからだ。
ただ、これらのいずれの例も、「まぁ、そりゃ、ヤッコさんも怒るわなあ、ああ言われたら」という、それを
では、正義のほうで不正義に
正義は不快で、厳しいのが当然なのである。そして、不快で厳しいものを持ってこられたら怒り出すのも、また当然なのだ。正義は姿のない金属や岩石に似ているが、人間は金属や岩石ではないから、もとより正義なんてものは
その、馴染まない、変な、不快なものにぶら下がっていかないと、生きていけない。怒り、衝突しながらでないと、社会は作れない。
正義のことを「ジャスティス Justice」と英語で言ってみると、途端に、なんだか胡散臭い、異質で不快なエグ味が滲み出して来るように感じられる点も、ちょっと脱線して考察してみたい枝道である。