原爆忌である。一日
幾十万の魂魄よ、
オッサンは生きている。
原爆忌である。一日
幾十万の魂魄よ、
「全力」なんていう言葉を軽々しく撒き散らすような
全力、というのは並大抵のことではない。自分だけが懸命になって額に汗して頑張ればそれが全力だ、などと言うのは、みっともなく痛々しい。
私が考える全力と言うのは、次のようなことだ。
これまで、貯蓄をテストに注ぎ込み、妻を働かせ、両親から学費を無心し、子供たちの進学をあきらめさせて一心不乱に勉強に励んできた。合格だけが唯一至高の目的である。
ところが、よりにもよって
「警察です。あなたの実家の父上と母上が強盗に押し入られた挙句殺されました。あなたの実家を訪ねていたあなたの奥様と生後間もない子供さんも殺されました。奥様には性的暴行の痕跡があります。ともかく、すぐに現場へお越しください」
両親、妻、子。私にとってかけがえのない、全身全霊をもって愛するべきものがこれらである。しかし、私は全力でテストを受けると決めたのだ。これら、自分にとって全てであるものをもかなぐり捨てて顧みないことこそが「全力」ということである。
しかるをもって、私は警察からの電話を無視し、テストを受けに行った。
旬日が経過し、両親と妻子の死に目に会うことことすら
合格した。
こういうことが、いわゆる「全力」である。自分の持てるもの全てどころか、自分以外のもの
だが、こんな
軽々しく全力などと言うのは甘すぎる。それほどに全力を尽くしたいなら、テストの日など待たず、たった今、玄関から走り出して、100メートル走の全力疾走と同じだけの体力を注ぎ込み、100000メートルほどを力の限り走り続けて死ねばいいと思う。文字通りの全力だ。できるものならやってみるがいい。
だがしかし、できまい。
そして、仮に100キロメートル無休全力疾走を敢行して派手に死んだとして、それで尊敬されるなどとは思いのほか、そんな暴挙に出たところで、誰もが「バカなんじゃねえの?」と嘲笑して済ませてしまうだろう。
そんな嘲笑をすらものともしないことが「全力」である。
誰かのために、何かのために死ぬなら、それは確かに全力である。だが、人間、そう簡単に死ねなどしない。つまり、全力などと言いながら全力など出せない、そういう
だから私は、「全力」だなどと簡単に言い捨てる人種、一見意識が高いようでいて、そのくせ身の回りだけは確保しておきたいような奴が嫌いである。
妻や子、両親、自分のどうしようもない無能、楽しみ、悲しみ、諦め、弱さへの哀惜、同情、悔恨、そういった諸々を抱きしめて、
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題【452】は「蚊遣火」です。本格的な暑さで蚊の動きも活発ですね。今は電気式もありますが、蚊遣の立ち上る煙には情緒を感じます。
なきがらを守りて一と夜の蚊遣香 瀧 春一#saezuriha #saezuriha_odai— 茜 (@Akane_an) August 2, 2019
平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。
現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。
キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ
しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。
性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ
中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。
なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。
こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。
ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。
「愛と認識との出発」の文章は、
Obscurity。
……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。
これで「えらい」と訓むそうな。
……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。
Eminency。傑出。
……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。
向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。
……月日の
立 つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。
Erheben。高揚。
今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。
Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。
……君は
尠 なからず蕭殺 たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる 如く見えたからである。
Indifferent。無関心。
……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。
これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。
「現象の裡には始終物
自爾 がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。
「始終物自爾」で
「口を
私は口を
緘 してじっと考えた。明 け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。
Sein。実在。
……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。
ヴィルヘルム・ヴント。
……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。
Pragmatism。実用主義、実利主義。
……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。
主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。
……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。
文字通り斧と
……何等斧鑿の痕を
止 めざる純一無雑なる自然あるのみである。
フォーシュテルン。「表象」である。
……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。
ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。
……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。
わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。
リーブン。「生活」である。
デンケン。「思考」である。
……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。
……いや、あの、
なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「
……知識と情意とは相背い
てる 。私の生命には裂罅がある。生々 とした割れ目がある。
別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。
似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。
「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。
「
この
しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。
私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。
Conventional。月並み・ありきたり。
私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。
Zart。優しい。
……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。
Wissenschaftlich。科学的。
……私はもっとしっかりした歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。
……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。
Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。
……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。
前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。
Begierde。欲望。
Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。
……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。
「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。
……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。
トゥゲント。徳。
……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。
innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。
第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。
しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。
ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。
文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。
……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。
Refuge。避難所。
……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。
文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。
Ill-natured。意地の悪い。不健全な。
……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。
これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には
一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い文章を書く。
……という文章が現れるのだが、ではなんで
Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。
『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。
Handlung。筋書き。
……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。
さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木