引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。
第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。
ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に縋って啼泣するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。
そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。
心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。
この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。
言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず
本書の文中には
(ふりがなは筆者)
よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。
「一竹葉堦を掃って塵動かず、月潭底を穿ちて水に痕なし」
……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。
検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影堦を掃って塵動かず、月潭底を穿ちて水に痕無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。
意義は読んで字のごとく、竹の影が石の堦をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が潭の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。
この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。
止揚
そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。
ドイツ語の「Aufheben」である。
……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。
応無所住、而生其心
「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と訓み下す。
ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。
(作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)
で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと訓み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。
これは「まさに~べし」である。
漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、
- 「将」(まさに~んとす)
- 「且」(まさに~んとす)
- 「当」(まさに~べし)
- 「須」(すべからく~べし)
- 「宜」(よろしく~べし)
- 「未」(いまだ~ず)
- 「蓋」(なんぞ~ざる)
- 「猶」(なお~がごとし、なお~の
ごとし)
- 「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)
……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。
兮
これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と訓ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の訓み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。
本文中には
大道寂兮無相、万像窃兮無名。
……とあった。訓み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道寂れて相無く、万像窃やかにして名無し。」と訓むものと思う。
表詮
ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。
但し、「表」は見た通り「表す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。
……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮しているといってよかろうと思います。
肯綮
「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。
……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮に当たらぬのです。
箭新羅を過ぐ
これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。
……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう。
唯一、このサイトに解らしきものがあった。
(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。
「(譬へ喻う)新羅は支那の東方遠くに在り,若し矢を放ちて遠く新羅を過ぎて去らば、則ち誰ぞ其の落つる處を知る、以って物の落ち著くところ知り難きを喻う。」
……とでも訓み下すのであろうか。
そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。
本書中では「箭新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「箭新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。
只麼にいる
これもまた、実に難しい言葉である。只々、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。
……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼にいるということ、これが一番不思議なのだ。
蹉過了
「蹉過」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある。
してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し了る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。
……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。