海の日

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天皇陛下万歳

 祝日「海の日」である。自宅の軒先に国旗を掲揚し拝礼する。

 生憎(あいにく)と梅雨は(いま)だ明けず、雨が降り続く。新型コロナウイルスの世界的蔓延は心胆を寒からしめる。

 だが、逆に言うと、自然は、宇宙は、海は、人間などとは全く何の関係もなくその脈動をやめぬ。そしてまた、人間が海を海と認めて初めて海は海であり、宇宙は宇宙である。人間に観測されてその存在が十全となるものが、だがしかし、人間の願望などとはまったく関係なく存在し続けるのである。

 そのようなことを「海の日」にあたり考え続ける。

米国にデモや暴動がおこると

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 米国ではCOVID-19で14万に(なんな)んとする人命が失われている。暴動も起きており、その混乱の行方は全く予測できない。

 しかも、14万もの死者を出したCOVID-19対策への不満によって暴動が拡大しているのではない。不思議なことに、14万人ではなく、2人の死者を出した黒人差別への不平で暴動が起きているのである。

 サッパリわからないのはここで、米国の黒人差別は、制度や政治によって規定されているようなものとは違う。米国人の一人一人が勝手に黒人を差別しているだけだ。むしろ、政府や体制側は、最近流行の「ポリコレ」とて、差別には細心の注意を払っているのである。しかし、民衆は黒人差別を糾弾する。米国は完全民主主義を自称する国であるから、その理屈に従えば、自分自身、国民の一人一人が、その自分自身を集団で否定しているということになる。

 まったくもって開いた口がふさがらないが、まあ、それは置こう。それよりも気を付けなければならないことがある。

 米国になんとはない鬱屈が生じてデモがのたくる時、その背景では科学技術が進展する。

 インターネットの萌芽が見え隠れした頃、米国は自ら招き寄せたベトナム戦争の泥沼に悩み、国防総省前には数十万人に及ぶデモが押し寄せ、不平不満を叫び、叩きつけた。だが、その国防総省庁舎内では、ロバート・テイラー、ラリー・ロバーツら稀代の技術者によって着々とインターネットの開発が進んでいた。

 今、米国は混乱を極めている。その裏で、何かが着々と芽吹いていることだろう。それは間違いなく世界を席巻する何かである。

今週のさえずり季題

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読書

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 時疫(じえき)の不安に加え相変わらず降ったり止んだり鬱陶(うっとう)しい天候だ。

だが、そうは言うものの、いかにも梅雨らしく豊かに降る、とでも言えば季節を愛でようという気にもなる。ふと気づくと近所の家々の庭の百日紅(さるすべり)が、あるいは赤に、あるいは青紫に、美しく咲き始めている。芙蓉を多く植えているお宅もあり、おおらかで邪気のない明るい花が咲いている。

 盛夏の予感がする。

 引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、三つ目の「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中(まさ)()訳)を読み終わった。

 マルティン・ルターの名前は誰もが学校で習うので知っている。学校では「ルター、カルビン」などと、フランスのカルビンと一組で習う。しかし、そのルターが何を言ったのかは、学校では少ししか習わないから、その所説を知っている人は少ない。

 もちろん私もそうであったが、この読書によってなるほどと膝を打つこと大であった。

 本書はルターの代表的論説で、誤解を恐れずザックリと内容を要約すると、

「物質的な形から入るのは誤りである。まず初めに精神がなくてはならぬ。精神から形はおのずと現れる。だがしかし、精神が成ったのち、それが物質的形となって慈愛とともに溢れ出さなければ、精神もまた誤りであったということになる。」

……ということとなろうか。ルターはこれを、「免罪符を買う」とか「ひざまずいて祈る」とかいう「形」が、「キリスト教信仰」という精神なしに横行していることを憂えて言っているのである。

 これはしかし、実に考え込まされることだ。キリスト教信仰だけでなく、例えば日本人の日常生活での「礼儀」などにも投げかけるものがあるからだ。つまり、内心では相手を蔑み、馬鹿にしているのに、態度は慇懃丁寧に相手を思いやり、いたわって見せる、というようなことに意味があるか、という問いに通じる。

 その一方で、「形は心を作り、心は形を導く」という説もある。例えば、日本ではその昔、吉田兼好法師が

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。()を学ぶは驥の類ひ(たぐい)(しゅん)を学ぶは舜の(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」

……と言っている。形から入って、それを無心になぞるうち、精神も自然に導かれ、導かれた精神は更に形を磨いていく、ということが日本では一般に肯定されていると思う。

 ここで、しかし、ルターの所説を曲解してはならない。ルターは「形など永久に棄却されるべし」などとは少しも言っていないのである。

 すなわち、本書は大きく分けて2部から構成されている。第1部では「まず精神あるべし」、つまり、信仰心のない外面だけの宗教ごっこを徹底的に攻撃する。ところが、第2部では「精神成ったのち、徹底的に物心両面、利他に徹すべし。利他の功による神の救いなど求むべからず」と、一見第一部の真逆に見える事を説いてやまないのである。

 これは、単に、形と心のサイクルの、スタートをどこに持ってきているかという些細な点が違うだけで、やはり形も大事なのである、……ルターは言外にそう言っているように私には感じられる。

 また他に、ルターは非キリスト教徒にはわかりにくい「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを誠に明快に一刀両断している。すなわち、「人を絶望させる神の厳しい『掟』、つまり『罪に対する罰』を述べたものが旧約であり、その絶望からすべての人が救われる『(ゆる)しの約束』を述べたものが新約である」という意味のことを説いている。これを言い換えると、旧約は「罰」を述べ、新約は「赦し」を述べるということで、罪の意識に(さいな)まれ、絶望した人間がその頂点に達するや、そこで神の寛大な許しにあって自由となる、と説明しているということになろうか。

 「罪と罰」による悲哀と絶望が極限に達して止揚(アウフヘーベン)され、裏返って赦しによる自由と歓喜に至る、その後は一意専心、神からの恩寵すら求めずに他人に奉仕すべし、これがルターの所説であると私は見た。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリスト者の自由」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.335より

そしてまた聖書全体は、おきて、すなわち神の戒めと、契約、すなわち約束と言う二つの言葉に分けられるということを知らなければなりません。おきては、私たちにさまざまの善行を教え、規定していますが、それによって善行は生じません。なるほど、おきては指示しますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行するための何らの力をも与えません。したがって、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることを悟り、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは『旧約』と呼ばれ、すべてのおきては、『旧約』に属しております。

p.336より

 さて、人間がおきてによってその無力を学び、自覚するようになりますと、どうしておきてを満たすことができるかと不安になってきます。おきては満たされなければならず、さもなければ罪に定められるからです。そのとき、人間は、ほんとうに謙虚になり、自分の目に無となり、自分のうちに義とされる何ものも見出さなくなります。そのときはじめて、ほかの言葉、すなわち神の約束と契約がきたって、次のように語ります。

 「おまえがおきての強要するとおりに、おまえの悪い欲望や罪から解放されたいと思うなら、キリストを信ぜよ、キリストにおいてわたしはおまえにすべての恵みと義と平和と自由を約束する。おまえが信ずるなら得られるが、信じないならえられない。おきてのあらゆる行い――それは当然多くあるが、しかも一つとして役にたたない――をもってしても、おまえにできないことが、信仰によって容易になり、簡単になる。なぜなら、わたしは信仰のうちにすべてを要約しておいたからである。したがって、信仰をもつ者は、すべてをもち、そして救われ、信仰をもたない者は、何ももつことはできない」

 このように神の約束は、おきてが要求するものを与え、おきてが命ずるものを成就します。このようにして、おきても、その成就も、すべてが神のものとなるためです。

 神のみが命じ、神のみが成就されます。したがって神の約束は、『新約』の言葉であり、『新約』に属しています。

 次は四つ目、「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)である。

読書

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 ぐずつく天気、なかなかスッキリとはしない日々である。今日も一日降ったり止んだりしたが、なに、季節らしいと思えば逆に美しくもある。

 引き続き通勤電車の中で、約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車を降りる直前に、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、二つ目の「キリストの生涯」(J・M・マリー John Middleton Murry 著、中橋一夫訳)を読み終わった。

 文字通りキリストことナザレのイエスの出生、ヨハネによる洗礼、修行、病者治療の奇跡、因習ユダヤ教への抵抗、布教、マグダラのマリアとのこと、最後の晩餐、磔刑、復活、そしてその後に至るまでを、年月を追って丹念に記述したものだ。共観福音書、すなわちマタイ(でん)、マルコ傳、ルカ傳の福音書それぞれと、ヨハネ傳の4つの福音書を中心にまとめ、理解してある。

 大正15年(1926)にイギリスで出版され、日本では昭和16年(1941)に翻訳出版されている。よい翻訳で、読みやすく平易簡潔な文体となっている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、「キリストの生涯」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。
p.185より

正義の神の奉仕者たるパリサイ人は、愛する神の子たるイエスをどうしても理解できなかったし、愛する神の子は正義の神の奉仕者をどうしても理解できなかった。しかし神の名において一方は人を殺し、一方は人を赦した。そこに相違がある。

p.228より

イエスの如き人物にとって重要なことは、想像力の序列と性質だけであって、想像力の扱う事柄ではない。彼は高等批評家がしばしば考えるような高等批評家ではなかった。彼は最高の人間――詩人、予言者、英雄であった。実際、最高の人間性を示す言葉で彼にあてはまらない言葉はないとおもう。これはイスラエルのことを語っているのか、メシヤの事を語っているのかという質問のような地上的な下らない疑惑が、イエスのような人の心にはいってくるはずはなかった。イエスはみずから予言者ではなかったのか、いな、予言者以上のものであった。予言者の言葉の意味は文字にあるのではなく、そこに輝いている神への認識にあったことをイエスが知らないはずがあろうか。「なんじゃもんじゃ教授」が読むようにイエスがイザヤ書第五三章を読んだのだろうか、そんなことはあるまい。神の計画の深奥な秘義として徹底的な敗北からの勝利、イザヤ書第五三章はイエスにはそういう意味なのであった。

 尚、「イザヤ書第五三章」とは、次の部分である。

「舊新約聖書 引照附」(ISBN4-8202-1007-6、日本聖書協会、昭和56年(1981)より引用。
但し、ルビは引用元の通りではなく、佐藤俊夫が取捨校訂し、
ルビのみ現代かなづかいにしてある。
また、節番号は省略した。)

 われらが(のぶ)るところを信ぜしものは(だれ)ぞや ヱホバの手はたれにあらはれしや かれは(しゅ)のまへに(めば)えのごとく (かわ)きたる土よりいづる樹株(こかぶ)のごとくそだちたり われらが見るべきうるはしき(すがた)なく うつくしき(かたち)はなく われらがしたふべき艶色(みばえ)なし かれは侮られて人にすてられ 悲哀(かなしみ)の人にして病患(なやみ)をしれり また(かお)をおほひて(さく)ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき

 まことに彼はわれらの病患をおひ我儕(われら)のかなしみを(にな)へり (しか)るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと 彼はわれらの(とが)のために(きずつ)けられ われらの不義のために(くだ)かれ みづから懲罰(こらしめ)をうけてわれらに平安(やすき)をあたふ そのうたれし(きず)によりてわれらは(いや)されたり われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり 然るにヱホバはわれら(すべ)てのものの不義をかれのうへに(おき)たまへり

 彼はくるしめらるれどもみづから(へりく)だりて口をひらかず 屠場(ほふりば)にひかるる羔羊(こひつじ)の如く毛をきる者のまへにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき かれは虐待(しいたげ)審判(さばき)とによりて取去(とりさら)れたり その()の人のうち(だれ)か彼が(いけ)るものの地より(たた)れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり その墓はあしき者とともに設けられたれど (しぬ)るときは(とめ)るものとともになれり かれは(あらび)をおこなはずその口には虚僞(いつわり)なかりき

 されどヱホバはかれを碎くことをよろこびて(これ)をなやましたまへり (かく)てかれの靈魂(たましい)とがの献物(そなえもの)をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん かつヱホバの(よろこ)(たま)ふことは彼の手によりて(さか)ゆべし かれは己がたましひの煩勞(いたづき)をみて(こころ)たらはん わが(ただ)しき(しもべ)はその知識によりておほく(おおく)の人を義とし又かれらの不義をおはん このゆゑに我かれをして(おおい)なるものとともに物をわかち(とら)しめん かれは強きものとともに掠物(えもの)をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ(とが)あるものとともに(かぞ)へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり

p.240より

 イエスの教えの多くのかつ重大な誤解は、イエスが心と魂の変化をもとめたのにたいして、「悔い改め」をもとめたと考えることから起った。「悔い改め」ということは、要するに極端な罪の意識に主として基礎をおいている観念である。この「悔い改め」という言葉や特にこの言葉の背後にある意識は、イエスの思想や教えのなかにはじつは存在しなかった。

p.244より

愛というものはそれ自体、追及の対象となるものではない。事実、愛を追及などすれば、かならず虚偽がはいってくる。

言葉
翹望

 「翹望(ぎょうぼう)」と音読する。首を長くして待ち望むことを言う。

 「翹」には「もたげる」「挙げる」というような意味がある。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。p.201より

どういう危険を冒しても、もう一度、家を見て、できれば町の人の心に訴えようという翹望であった。

 上の引用箇所は、生地ガリラヤ地方で民衆からそっぽを向かれてしまったイエスが、もう一度自分の生家付近を訪れようとしたところの描写である。

 次は三つ目、「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中理夫訳)である。

梅雨の半ば過ぎ

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 暑い。

 今日などさながら梅雨明けだとでもいうような晴れ空にむくむくと大きな入道雲が育って天を囲み、はて、このぶんだと午後は夕立ちになるのでは、と思わしめるものがあった。しかし、今年の梅雨明けはまだまだ、来週以降の予想だそうで、今日は夕立ちにはならなかった。

 庭の砂利敷き小径を手入れし、防草シートを敷き込む。猫の額ほどの庭にもかかわらず、ようやっと四半分ほど。家の東側の防草シートは先々週からとりかかってやっとこさ全部終わった。南の一番端に設置してあるエアコンの室外機の下に敷き込むのが一番の難渋で、あれこれと工夫して敷き込んだ。砂利の嵩が減ったので、ホームセンターで20kgばかり買い込んで足す。

 腰が痛くなった。

 時疫は収まらず、東京の感染者は未だ200人を超す。しかし新コロの死者は全国通算でも0人~2人程度で推移している。検査を受ける者が増えていると言うだけのことだから都内だけでも200人を超すのだ。東京では感染者に給付金を出すなどと言う区も現れたと仄聞するが、そういうカラクリであれば、我も我もと検査に手を挙げるのは自然の流路とも言える。有象無象のあさましさに憫笑すら漏れる始末だが、責めるわけにもいくまい。

 風呂に入る。肌脱ぎになって冷凍庫の氷の塊を割ってたっぷりカチワリを作り、それでウィスキーを一杯。涼味が咽喉(のど)を転がり落ちていく。汗が引いていき、酩酊がやってくる。シャツの胸元に扇風機の風が入る。ウィスキーに少し垂らすライム・ジュースの味が鮮やかだ。

 たとえ沈滞していても、そんな生活の楽しみだって、ある。

時事

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訃報

 朝鮮戦争の英雄、白善燁(はくぜんよう)大将が亡くなったという。

 満州帝国軍官学校(士官学校)出身で、日本語が大変堪能・流暢であった。白大将の著書「朝鮮戦争一千日」という本を読んだことがあるが、これなどはたしか、韓国語の翻訳ではなく、白大将が直接日本語で著したものであったはずである。

 朝鮮戦争当時は韓国軍の師団長であった。師団長と言えば1万人近い将兵の長であり、通常は幕営の奥深く参謀とともにあって采配を(ふる)うものだが、白大将は前線に進出し、怯えて退く兵を叱咤して、自ら突撃号令をかけて先頭になって突撃し、失地を奪還するなど、破天荒な師団長であった。

 享年99歳と言う。祈冥福(めいふくをいのる)

ボタニカル

 最近シャンプーの成分などをうたって「ボタニカル」という言葉をよく聞く。「植物性」ということらしいが、しかし、昔から「植物性シャンプー」なんてものはいくらでもあった。「植物性」って言えばいいのに、なんでわざわざ「ボタニカル」とか言うかなァ。