繼體(けいたい)天皇紀

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 今日の休みは転がり込んできた幸運みたいなもので、もともと今日は仕事のつもりをしていた。今日の予定の仕事が午前中に終わったら、国会図書館へ行って、読みそびれている本をいくつか読むつもりだった。国会図書館は永田町にあり、職場からすぐの隣街なのだ。

 しかし、そういうついでがなくなってしまったので、引き続き日本書紀第十七巻、「繼體(けいたい)天皇紀」を読み進む。

 畏し、今も皇室では、天皇陛下が初夏にお手ずから田植えをあそばし、皇后陛下が蚕に桑を飼われるが、その由来がこの巻に出てくる。

 名前の通り仁政をしき、人々に聖帝と慕われた仁徳天皇の子供たちは、だがしかし、「アカン人」が二人ほど出てしまった。その中でも、九代後の武烈天皇は、中国・殷の紂王をして顔色をなからしめるほどのグロ系残酷天皇になりはててしまった。

 そんな始末で、ついに仁徳天皇の子孫は武烈天皇で絶えてしまい、総理大臣・大伴の金村は困り果てて、皇室の子孫を探す。仁徳天皇のお父さんの、応神天皇から五代あとの子孫に、大変賢く、人格のすぐれた「男大迹(おおどの)のみこと」という人がいることがわかった。だが、この人は五十過ぎて独身のおっさんである。しかしそれでも、大伴金村は、使いを出して、礼儀を尽くして、どうか天皇に即位してくださいと頼み込む。

 男大迹のみことは何度か断るが、ついに大伴金村の頼みを入れて、天皇として即位する。繼體(けいたい)天皇である。

 そういう経緯であるから、前天皇の武烈天皇とは大違いで、質実剛健の方である。

「国の基本に立ち返り、まず農業を盛んにすることからスタートしよう。そのためには、皇室自身が奢侈に流れていてはいかん。男は自ら田植えをし、女は蚕を飼って紡績に励むことで、国の宝である農民たちもそれに倣うようになるだろう」

…と、天皇・皇后がまず自ら農耕・養蚕をやってみせることにしたのである。

 これが、今なお連綿と皇室に続くお田植え・親蚕の行事の起源なのである。

 繼體天皇はこういう立派なかたであるが、だがしかし、気の毒な一面もある。

 繼體天皇は即位したとき、五十歳を過ぎて独身・子なしのおっさんだった。だが、大伴金村に

「陛下の血筋が絶えてしまうと、天皇の血筋がなくなり、日本の国柄がおかしくなって、荒れ果ててしまいます。どうか、すぐに子供を作ってくださいッ!」

と言われ、あわせて9人もの正室・側室をあてがわれ、せっせとハゲむことになったのである。

 まことにお疲れ様でございます、というほかはない気がする。


仁德(にんとく)天皇記

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 日本書紀第十一巻「仁德(にんとく)天皇記」を出勤時の電車の中で、第十二巻「履中天皇・反正天皇記」を帰りの電車の中で読み終わる。

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 仁德天皇は私の故郷にある「仁德天皇陵」をもってゆかりを感じ、歴代天皇記を読むにつけても、ことさら興味を覚えるところである。

 仁德天皇はその諡号(おくりな)に「仁德」とある通り、仁徳の人である。ある日高台から村々を見下ろしたところ、ひっそりとして炊爨(すいさん)の煙がなかった。人々が貧に窮していることを見て取り、三年間租税を免除した話は良く知られる。無税にしたため、仁德天皇の衣はほころび、当時大阪にあった御所の屋根は破れて雨漏りがした。それでも、役を取らず我慢したと言う。

 三年後、再び高台にのぞんだ。今度は村々に煙が上がり、活気付いていることがわかった。仁德天皇は喜び、そばにいた皇后に、「おお、だいぶ金持ちになったなあ。よかった」と言った。皇后は「あらまあ、こんなにほころびた衣を着て、雨漏りのする家に住んで、貧乏そのものなのに、何がお金持ちなものですか。」

 仁德天皇はすかさず、「おいおい、国民が富めば、帝である私たちも金持ちとイコールじゃないかね」と言ったという。このくだりは古事記もだいたい同じで、たいへん有名な話だ。

 そんな質実剛健の人である反面、「愛の人」でもあって、若い頃からロマンスである。浮気が皇后にバレて別居生活を余儀なくされたり、なにかと「そのへんの亭主」と変わらない妙味もあって、まことに愛すべき天皇と思う。

 私の故郷の仁德天皇稜は、いろいろと考古学説もこれあり、ほんとうに仁德天皇稜かどうかわからない、などと言うようだが、いいではないか、科学は科学、歴史は歴史、仁德天皇稜と言うことにしておけば(笑)。

應神(おうじん)天皇記

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 日本書紀第十巻「應神(おうじん)天皇記」、帰りの電車の中で読み終わる。

 次は第十一巻、いよいよ「仁徳天皇記」である。

 なぜ「いよいよ」なのか。

 私は、大阪府・堺市の、「田出井町」というところで生まれ育った。東京に府中刑務所ができるまでは、東洋一の規模と言われた「大阪刑務所」のあるところだ。私はその大阪刑務所の刑務官の息子で、刑務所の官舎で育った。

 この田出井町と、そのとなりの町、「三国ヶ丘」というところが私の生まれ育った町と言っていい。

 ここまで書けば、ピンと来た人もあるかもしれないが、この三国ヶ丘というところは、「百舌地区」と呼ばれる平らかな地へとつながり、ここには「百舌古墳群」と呼ばれる一大古墳群がある。

 私が通った幼稚園や小学校、中学校のそばには、当時住んでいた家から近い順に「反正天皇稜」「仁徳天皇稜」「履中天皇稜」と、巨大な前方後円墳がいくつも並んでいる。

 仁徳天皇稜は、いわずと知れた世界最大の墳墓である。その大きさは優にエジプト・ギゼーのピラミッドを凌ぐ。

 うんと小さい頃は、この、宮内庁の管理地として厳重に柵で囲われている天皇陵の濠端に、柵の破れ目なぞ見つけては勝手に入り込み、蛙を釣って叱られたりしたもので、まことに懐かしい土地の風物なのである。

 古い向きは、──と言っても、私の年齢層ではない、昭和ヒトケタから11、12ごろまでの生まれの人のことだ──子供の頃「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク…」と暗唱させられたのであるが、この古代の天皇の名の、なじみのなさ、それゆえの覚えにくさと言ったら…!。だが、大阪・堺出身の者は、「ジングウ・オウジン…」まで来て、とたんにシャンとなるのだ。「ニントク、リチュウ、ハンゼイ…」、だ。この三人だけは、どんなことがあっても忘れようがない、間違いなく言えるのである。

 「仁徳天皇記」は、以前、古事記を読んだときに弁えてはいるが、読んだのはだいぶ前だ。自分の故郷につながる記憶とともに、日本書紀で読むのは、また格別の楽しみだ。

神功皇后記

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 通勤電車の中で、日本書紀第九巻、「神功皇后記」を読み終わる。

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 さて、以下のことは、学校の日本史の授業や、国語の授業ですら習った覚えがまったくないので、あらためて記しておきたい。

 日本書紀では、「魏志」を参照文献として取り上げ、その記述を引用している。(このこと自体、知らない人も多いだろう。)

 この「引用」に関しては、日本書紀はさすが、現代の役所の仕事にも通じるものがあり、読み飽きてしまうくらいしつこい。念入りである。「ある書に曰く…」と、考えうるあらゆる参考文献の記述を列挙してやまない。

 そんな日本書紀の中で、外国文献の引用があるのは、この「神功皇后記」が最初である。

 その引用部分は、私たちが学校の授業で耳慣れた、「倭の女王が朝貢をしてきた」という部分である。

 読めば分かるが、その引用の態度は冷静で、淡々と、「この年にあったこととして、『魏志』にはこう書かれている」と、潤色も何もなく書かれているだけだ。

 ところが、である。学校では、この、「魏志」の方ばかり教え、日本書紀にそう書かれている、ということは、決して教えない。

 ついでに書けば、日本書紀に沿うなら、魏志に言う「卑弥呼」は、明確に「気長足姫尊(おきなが たらしひめの みこと)」こと神功皇后である。「ナントカひめのみこと」というのが当時の呼び名であったわけだから、つづめて「ヒミコ」にもなろうというものだ。日本書紀第九巻、神功皇后記の中で魏志が引用されているので、朝廷はそのように歴史を検討・整理したのであろう。

 なぜ、学校では日本書紀を引かないのか、ということを人に聞くと、「そりゃあ、日本書紀は国家による捏造が行われていて、疑わしいからだよ」という。

 それを言うなら、私たちがまるで、絶対の真実が書かれた第一級の歴史資料のように崇め奉ってやまない中国の書、「魏志」だって同じではなかろうか。

 日本書紀について語る人はたくさんいるが、「日本書紀は嘘交じりで、国家による捏造が行われている」と、皆異口同音に言う。だが、私の身の回りでそう言っている人で、日本書紀を通して全部読んでみた、という人に、私は会ったことがない。皆、誰かからの伝聞や、せいぜいWikipediaの記事をもとにそう言っている。

 また、「魏志」についても、学校でそう習うから、皆そう言っているだけで、この書のことも、多くの人は知らない。魏志倭人伝が、何の本の中に出てくる、何の章か知っている人は、はたしてどれくらいいるだろう。

 書いておく。

 有名な「三国志」を書いたのは、陳寿(ちんじゅ)と言う人だ。この三国志全六十五巻の中に魏王朝にかかわりのあった諸族の記があって、その中に「東夷伝」という蛮族の記録があり、更にその中の「倭人条」というものを、我々は今、「魏志倭人伝」と呼んでいる。

 正確さなどどっちをとったって似たり寄ったり、というものが二つあって、それぞれ「自分の国で昔書かれたもの」と「外国の作家が昔書いたもの」であるとき、「外国の作家」のほうを「正確な歴史」として採用する、というのは、どういうことであろう。

 戦前、神功皇后は「お札」の肖像に使われていたのだが、なんで、それをあわてて否定するようなことをするのか。

 改めて書いておこう。「神功皇后という人がいて、それは、中国の参考資料には『ヒミコ』と記載されている」のである。

 たしかに、大昔のことだから、本当にいたのだかなんだか、わからない。だが、現代の私たちがああでもないこうでもないと推定するより、近い時代の昔の人が推定したことのほうが、マシな精度があるのではなかろうか。

ホスセリ・ホホデミの兄弟の話 ―日本書紀より―

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 昔、天皇陛下の遠い遠い先祖に、「ニニギのみこと」という人がいました。この人は神様の子として、天皇陛下の祖先になることが最初から決まっていた人だと言われています。

 あるとき、ニニギのみことは海辺に行ってみました。そこにとても美しい女の人がいました。ニニギのみことはさっそく、

「あなたはどなたですか?」

と聞いてみました。美女は、 “ホスセリ・ホホデミの兄弟の話 ―日本書紀より―” の続きを読む

畏しや天皇陛下のお言葉

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 本日は天皇誕生日である。

 無論、我が家の軒先には日章旗が翩翻(へんぽん)と掲げられている。

 本日にあたって、天皇陛下におかせられては、次のようなお言葉があったと漏れ伝え聞く。

 実にお心知見、幅広く内外に及び、仁慈あまねしとはこのことであろう。

 新聞記者どもの無礼な内容の質問には、実に慎重なお言葉を選ばれ、畏れ多いことである。

 軽挙な言動で内外に厄介ごとばかり惹き起こしている阿呆な政治家連中に、万分の一でも見習わせたいものだ。

なんだッ、こんな野郎!!

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 不敬だ!謝れッ!!。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091023-00000607-san-pol

天皇陛下のお言葉に岡田外相が意見
産経新聞
2009/10/23 12:41更新

 岡田克也外相は23日午前の閣議後の閣僚懇談会で、国会開会式での天皇陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と述べ、宮内庁にお言葉の見直しの検討を求めた。首相官邸で記者団に明らかにした。

 岡田氏は「大きな災害があった直後を除き、同じあいさつをいただいている。国会に来ていただいているのだから、よく考えてもらいたい」と語った。天皇陛下のお言葉をめぐり閣僚が意見をするのは異例。

 平野博文官房長官は同日午前の記者会見で、岡田氏の発言について「(内容について)具体的な説明を避けるが、ご意見は承りました」と述べた。

岡田外相が「お言葉」発言で反論「こう言うべきと言ったわけでは」
10月23日19時44分配信 産経新聞

 国会開会式での天皇陛下のお言葉について「陛下の思いが少しは入った言葉に」と述べたことについて、岡田克也外相は23日夕の記者会見でも「内閣の助言と承認のもとで本来工夫されるべきではないか。ある意味で官僚的対応になってしまっている。もう少し自由度があっていい」と強調した。

 発言について、民主党の西岡武夫参院議院運営委員長は同日、「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と批判したが、これに対しても岡田氏は記者会見で「天皇陛下の国会開会式にあたってのごあいさつというのは、国事行為ではないが、それに準ずる行為。一定の制約があるのは事実だが、制約があるということと、同じ言葉を繰り返すことは違う」と反論。その上で「具体的にこういうことを言うべきだと言ったわけではない。陛下のご意思として従来と同じように続けるというのなら、それは陛下の判断だ」と説明した。

 なんでこんな連中が政治なんてやってるんだ。選んだ連中はバカだ。

昭和館~靖国神社/遊就館

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 土曜日の楽しみに、上の娘(小6)を連れて、九段下にある「昭和館」を訪れた。国営の施設で、戦前~戦後にかけての銃後の苦難の暮らしを中心にまとめた展示館だ。共産/社会主義等の特定反国家勢力色がなく、中立・中庸な立場で淡々とまとめられており、大変勉強になる展示館である。

 せっかく九段まで来たのであるから、無論靖国神社にも寄る。靖国神社内にある博物館「遊就館」には私は何度も行っているが、娘は小2ぐらいの頃に一度連れてきて以来のことなので、ほとんど忘れているらしい。勉強になるからもう一度遊就館も観覧した。中で上映している「私たちは忘れない」という映画は、遊就館内でしか見れず、DVDなどは売っていないから、遊就館に来ると私はかならず改めてこれを見る。

 遊就館は戦地、昭和館は銃後、どちらもバランスよく考えを深めることが出来る。娘には戦前から戦後、どれほどの困難があったのかに思いをいたす良い休日であった筈である。学校では絶対に教えまい。

アメリカなんか頼るな!!

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 アメリカは、日本人を「昆虫 Insect」と言い捨ててほしいままに虐殺した国である。中国・朝鮮が主張する日本の残虐行為の比ではない。

 どうしてそのようなアメリカに、北鮮によって連れ去られた哀れな人々の保護を求めようとするのか、理解に苦しむ。

 アメリカが日本人など保護するはずはない。彼らは彼らを保護する。

 日本人がアメリカ人の盾になる限りにおいて、──日本人10万人がアメリカ人1人の盾になる限りにおいて──やっとたった一人の日本人を彼らは救うだろう。数は単なる例えだが、この例えのとおりなら、日本人100万人が死んで、やっと彼らは日本人を10人助けてくれるのだ。

 なぜって?そういうことをすでにした国がアメリカなのだ。

終戦記念日である

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 終戦記念日である。

 去年は小泉首相が靖国神社を参拝するのかしないのかが話題になった。私は参拝を推進するべきだと思っているので、──「容認」という言葉を使う人も多いようだが、「容認」とは何事か。容認、というのは、「受け入れ、許す」という言葉だ。靖国神社へ参るような犯罪人でも、広い心で許してやる、などとする思い上がった許しがたい前提がこの言葉には含まれている。断じて「容認」ではない。「推進」である──義兄と一緒に靖国神社へ出かけたものだ。

 超満員に人々が詰め掛けた靖国神社の境内で、小泉首相が既に参拝を済ませたことを知り、それでこそ日本の首相、よくやってくれたと思うと同時に、見よ、この靖国のきざはしを立錐の余地もなく埋め尽くす、物言わぬ日本人たちを!こんなに多くの人々が靖国に詣でているのだ、朝鮮人も中国人も、この日本人の意気を知るべし、と思ったことだった。

 今年も行きたかったが、つい、雑事にとりまぎれ、今日は行かなかった。少々残念である。

 半旗を掲げるべきだっただろうか?