読書

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 「菜の花の沖」。全部で6巻中の初巻。

 時代背景の説明などは極めて簡単にしてあり、無駄がない。そのためか展開はスピーディで、ぐいぐいと読者を物語に引き込んでいく。

 成長する主人公が、当時の若者宿の風俗や古くからの妻問(つまどい)婚の慣習などとともに描かれ、一見のんびりした、地方のおおらかな話のように見えていながら、その実は陰惨陰湿で閉鎖的な村社会の実態や、排他的で弱い者いじめの横行する地方村が克明に描写される。

 そんななかでも懸命に生き抜こうとする主人公の苦闘が、淡々と、しかも素早(すばや)く描かれていく。

 村を出、転機を経た主人公は、うってかわって周囲の者に好かれるようになる。生まれて初めてのびのびとした気持ちを味わい、正面から人生に取り組んでいく。この点、読者の人生への示唆にも富む。

言葉

 馬鹿馬鹿しいことや低劣なことを「くだらない」というが、その言葉について、上記の小説に次のような記述(くだり)があった。

司馬遼太郎「菜の花の沖」新装版・文春文庫・ISBN 978-4167105860 305ページより

 江戸という都市の致命的な欠点は、その後背地である関東の商品生産力が弱いことであった。

 これに対し、上方および瀬戸内海沿岸の商品生産力が高度に発達していたため、江戸としてはあらゆる高価な商品は上方から仰がねばならなかった。しかも最初は陸路を人馬でごく少量運ばれていたこともあって、上方からくだってくるものは貴重とされた。

「くだり物」

 というのは貴重なもの、上等なものという語感で、明治後の舶来品というイメージに相応していた。これに対し関東の地のものは「くだらない」としていやしまれた。これらの「くだりもの」が、やがて菱垣船の発達とともに大いに上方から運ばれることになる。

 なるほどなあ。「上方」という言葉も、「京・大坂が『上』」とする定義あってこそである。

 そのような日本人意識の底流があってのことなのだろう、大阪出身の私などは、全国区で移動しはじめた15歳の頃から以来(このかた)、逆に、こちらから何か言う前に、周囲の者から

「えらそうにしやがって」

「都会ぶりやがって」

「過去の栄光に(すが)りやがって、(ゼニ)勘定ばかりしていやがって」

「お笑い芸人の、大阪商人のクセに」

「またも負けたか8連隊、大阪の兵隊は日本最弱」

……などという偏見で愚弄され、いじめられたものである。だから自己紹介の時などに「大阪出身です」というのが嫌であった。特に、北海道に住んでいた頃は、北海道の人や東北の人というのは本当に大阪が大嫌いということがほとほと身に染みて判ったものだ。

 もう40歳以上にもなった後、東京勤めになってだいぶたってからからのこと。北海道の人に「故郷(くに)はどこですか」と問われたので「大阪です」と答えたら、やおら「またも負けたか8連隊」と浴びせられた。8連隊というのは大阪にあった歩兵連隊で、戦後司馬遼太郎や山岡荘八が作品中で変な論評を加えたものだから、情けない上方男(かみがたおとこ)集団の代表のように言われているのである。

 腹が立ったのでその人の目を見ながら

「私と腕相撲か、格闘の稽古でもしてみますか、それか、今から10キロほど駆け足でもしてみますか、あんた、私に勝てると思ってます?」

と真顔で言ってやったものだ。

 その人は単に冗談めかして軽口を言っただけで悪気はなかったらしく、「あ、ごめんなさい」と謝ったもので、私もそこでハッとして、「あっ、いえ、すみません、こちらこそムキになっちゃって……。」とお互いに謝ったようなことであったが、それにしても、いい歳コイたオッサンでも、いつまでたってもこんなことがある。

 だから、今は、東北~北海道の人と付き合う際には、「この人たちは意識の底で大阪出身者である私を嫌い、軽蔑している」ということを忘れないように、幾分丁寧に接することにしている。

最近時事片聞(へんぶん)その他雑見(ざっけん)

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皇后陛下の御言葉を無視するのは断固不可である

place_01_s (かしこ)し。

 恐れ多いことだが、引用させていただく。

「ただ,新聞の一面に「生前退位」という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は,歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので,一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません。私の感じ過ぎであったかもしれません。」

 おそれ多くも、皇后陛下におかせられて、このように述べられているにも関わらず、新聞各社とも未だに配慮もなくお言葉を無視し、「生前退位」などと表現しているのは、断固不可である。陛下が「私の感じ過ぎ」と言われているのは、謙虚にして仁慈なおん人柄によるものなのであり、国民はこれに甘えてはならないはずのものだ。

 そもそも、政府も、どうかしているのではないか。報道各社に申し入れをなぜしないのか。

 朝日は「退位」と標記しはじめたようだが、これも渋々、という感じが漂う。しかも「退位」とは何だ。これでは「退()け!」とでも言うような、不敬・不逞・不遜の内心が字面に滲み出すようではないか。不遜な字を書くな。

 なんだか上のような屁理屈を言っているが、皇后陛下のお気持ちを全く受け止めておらず、黙殺しているという点であまりにも不敬である。こんな屁理屈は不可である。

 そのような中、産経新聞は校閲部長名で次のように表明しており、まあ、よろしい。

 産経は三笠宮崇仁親王殿下薨去に際しても「薨去」と書いているが、他の新聞は全部「逝去」等と書いている。数日前にこのブログにも書いたが、これも、新聞各社は検討し直した方が良い。

近代

 オモロイ角度だなあ、と思う。でも、イスラムの人たちは、そんなに前近代でもないと思うんだなあ。中国にしても。前とか後とか進んでいるとか遅れているというのとは、違うように思うんだが……。

連絡とるのやめます → やっとこさ連絡つく

 ……ま、話題作りの上手な、つまり結局、所詮「芸能人」、っちゅうことですわな、スターだアイコンだなんだっつったって。

電通

 過労死訴訟などで批判されている電通。

 それにしても、しかし、なんで広告会社には電通と博報堂しかないのか、……などと私もよく感じるが、それを解り易く書いているサイトがあった。

「日中戦争や太平洋戦争が始まる前の日本は、米国顔負けの自由競争の国で、新しい新聞や雑誌が次々と立ち上がり、健全な競争を繰り広げていました。広告代理店の数も無数にあったといわれています。」

 よくぞ書いてくれた、というところである。そう、戦前の日本はけっこう自由だったのだ。

 ところが、上掲サイトに書かれているように、戦争体制整備の国策で、報道や広告が一本化され、そのために戦後も独占企業として残ってしまったいわば「戦争の鬼っ子」が電通なのである。

笹の墓標

 戦前の北海道のタコ部屋の話を思い出した。以前、北海道に住んでいた頃、(たまさ)か耳にしたのだ。

 いや、電通が強制労働、タコ部屋だ……とまでは言えないし、昔とは違う、とは思うが。「朱鞠内湖」の話と、「常紋トンネル」の話だ。

雨竜第一ダム

 森村誠一に標記「笹の墓標」という作品があって、これは戦時中の北海道朱鞠内湖のダム工事を題材にとったものだという。

 その題材の朱鞠内湖は「雨竜第一ダム」によって雨竜川をせき止めることで作られた湖で、国内でも有数の湛水面積を誇る。

 しかし、戦時中に造成されたこのダムは、いわゆる「タコ部屋使役」によって作られたものなのであった。過酷な強制労働によって多くの死者を出し、死体は現地に打ち捨てられたままになっていたのだ。タコ部屋には騙されて連れてこられたり、借金などの事情がある者の他、いわゆる「強制連行」であるとされる中国人・朝鮮人も少なからずいたという。

 私は昭和末期~平成ひと桁頃の間、この朱鞠内湖にほど近い旭川に暮らしていたので、時々所用などで朱鞠内湖の近くを通ることがあったが、その頃も、「この付近で人骨等を発見した場合はXXXまでご連絡ください」などというホンマかいなという立て看板が道沿いに沢山立てられていたもので、地元出身者によると近くの小中学生などは「……出る」なぞと言って、夏場など話のネタになっていたという。

 森村誠一の小説の題名は、阿川弘之の「雲の墓標」のパクりのような感じで、どうもいただけない。

常紋トンネル

 この朱鞠内湖と並んで、北海道では「常紋トンネル」というところがよく話のタネになる。

 ここも戦前、朱鞠内湖同様のタコ部屋労働で、突貫工事を行って開通させたそうだ。完成後、労働者を人柱にして壁に埋め込んだらしいという噂が残った。戦後しばらくして、十勝沖地震で壁面が崩壊したため修理工事をはじめたところ、壁の奥から本当に人骨が出てきた。地元では、噂はやっぱり本当だったと話題になり、ゾッとしたものだという。薄気味悪い山中のトンネルでもあって、いろいろと怪談があるそうな。

知る人ぞ知る

 とりとめないが、次のような文書がある。

 結構有名な文書で、民進党をネットで叩く人には基礎資料みたいになっている。

 私としては、いや、もう、叩こうがどうしようが民進党は民進党以外にはならず、過去の政権の不始末なんか、今となってはどうでもいいっちゃあどうでもいいのだが、TPPの経緯や、「原子力発電所を大増設して50%以上にする」と言っていたこととか、なかなかいい感じに非難してるんだよな。

宇都宮メガンテじじい

 ……い、いや、「このまちが好き!」て、好きだったらあんなことするかフツー。

%e6%a0%97%e5%8e%9f%e6%95%8f%e5%8b%9d%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0%e9%ad%9a%e6%8b%932 しかしまあ、文体の乱れっぷり、言葉の混乱などを見ていると、この爺さん自身、相当な精神病症状を呈しているように思う。読んでいると支離滅裂だもんな。

 動画なども、病んでいるとしか思えない。言葉も、一見普通に聞こえるが、よく聞いてみると筋も通らず、滅茶苦茶だ。

 このことに絡んで、「真言宗長江寺」ってのがクローズアップされてるな。住職の萩原玄明氏がこういう本を出しているそうで。

 まあ、これだけならその辺に転がっている、よくあるどうでもいい宗教本で、こんなものは無視しときゃあいいんだが、頭のおかしくなったメガンテじじいには、悪と感じられてしまったのだろう。

あれ、読売って前からそうだったっけ?

 あれ……? 読売が「原発の増設を検討しろ」なんてことを訴えている。読売って、前からこういう社説だったっけ?

 いや……。本音はそうかもしれないが、今この時期に「原発増設しろ」っていうのは、なかなか人々の理解が得られないのじゃないかなあ。もしそう言いたいなら、「増設しろ」って端的に言い捨てるんじゃなくてさ、少しづつ少しづつ、理解と納得をはからないと、さー……。逆に人々はアレルギーで「福島だってまだ全然済んでないのになんてことを言うんだキイーッ!」って、反対すると思うよ。

微妙に曲げる書きっぷりをやめんかい(笑)

 いや、コレさー、なんていうか、「国連は中国等の部隊に救助のための出動を命じたが、その命令が無視された」という事実、端的に書くと「中国部隊等は怖気づいて救助に向かわなかった」「中国部隊等は国連の命令を無視した」という、軍隊として無視すべからざる規律違反がまずあるんだが、これを微妙に曲げて記事の奥の方に目立たなく書き、まるで

「所詮PKOなんか一般の人を助けてなんかくれないじゃないか、どうせ派遣されている自衛隊だって何もしないんだろ、軍隊なんか人民の敵だ、そんなことに漫然と自衛隊を出しているのは間違いだ、アベ政治を許さない!」

……みたいになってねえか(笑)。

 だいたい、南スーダンに自衛隊出したの、民進党だぜ?

 そりゃ、まあ、UNMISSが中国とエチオピアに命令を徹底できなかった点で、UNMISSを批判することは外れてはいないけれども、さー……。

吉村昭いくつか再読

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 秋田で熊害(ゆうがい)があった。(たけのこ)取りの老人が何人も熊に襲われて亡くなったのだ。この筍は東北より南でいう普通の筍とは違い、根曲(ねまがり)竹という一種の笹竹の筍だ。()の地ではスズタケとかスズノコとも呼ばれ、今の時季を逃すと味わえない。珍味であり、儲けにもなるものだからその採集は争いになるほど盛んである。熊が旺盛な食欲を発揮する今の時季に、余人には内緒の穴場へ入り込むことが大収穫の秘訣でもあって、それで今回のような事件が起こってしまう。いずれ星霜を経た人生達者の老人たちであり、なんとも痛ましいことだ。冥福をお祈りする。

 この熊害のことに絡んで、なにやら大正時代の「北海道・三毛別(さんけべつ)羆事件」のことが話題になっているようだ。

 三毛別の事件は(ひぐま)によるもので、しかも居住集落でのことだ。秋田の一連の事件は月の輪熊によるものだし、山林でのことなので、三毛別羆事件とはやや内容を異にする。

 さておき、私も若い頃は登山が好きで、春夏秋冬問わず北海道の山林を跋渉(ばっしょう)した。北海道の山林では羆の害はつきもので、これを避けるのは一種のたしなみというか、義務であった。よくよく羆は避けなければならなかったから、生態などもよく研究して山に入った。


 当時、そのようにして羆のことを研究するうち、この三毛別羆事件に題材をとったノンフィクション作品があることを知った。それが、吉村昭の「羆嵐(くまあらし)」である。

 他に、吉村昭には「北海道三部作」とも呼べるものが二つあり、それが「破獄」と「赤い人」だ。


 これらを思い出したので、ちょっとまたパラパラッとめくってみたくなった。ところが、本棚を探したところ、「赤い人」はあるけれど、「破獄」と「羆嵐」が見当たらない。

 記憶をたどってみると、長女が生まれた頃、妻と二人で住んでいたアパートが手狭で、何千冊という本を手放してしまったのだが、どうもその時に捨てたらしいことを思い出した。


 今だったらスキャナで取り込んでしまう(所謂(いわゆる)「自炊」)のだが、当時はそういう手段もなく、泣く泣く捨てたのだった。

 で、つい、ついつい、もう一回買ってしまった。勿体ないけど、まあ、いいや(笑)。

頑張れお父さん

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 初夏とはいえまだ寒い北海道で、6日間にわたって行方不明だった小学生の男の子、田野岡大和君が発見された。

 本当に無事でよかったと思う。ご両親の安堵のほどが思われる。

 不始末をしでかし、心ならずとは言え公器をも動かしたわけであるから、ご両親が世間に向かって深く詫びるのは当然である。図らずも時の人となってしまった男の子のお父さんも無論そうした。お父さんのお詫びメッセージは真面目に述べられている。

 したがって世間一般の野次馬としては、「うんうん、わかったわかった。無事に見つかって本当に良かったな。……つぎからは気を付けろよ!じゃあこれで」と言っておけばよいのだ。結果論ではあるが、「子育ての仕方が云々」という批判は、これは違うだろう。

 むしろ、あのお父さんは、鍛えるときは鍛え、楽しませるときは楽しませ、喜んだり悲しんだりしつつ、健やかに、大切に男の子を育てている(ふし)が感じられる。公開された家族写真には、男の子がプロ野球のイベントに行って楽しそうにしているところが写っていた。

 叱られるようなことをした男の子に「お前なんか置いていくッ!」と、イッパツ(カミナリ)を落とし、すぐに様子を見に行くなど、ほほえましいものだ。世間では訳知り顔のタレント学者や怪しげな子育て評論家などがいろいろと言っているようだが、リアルに子育てをしておればそれくらいの光景などいくらでもあるのだ。

 勿論、そうは言うものの、置いていかれてしょげかえった男の子がどこかへ見えなくなってしまい、生命が危ぶまれる事態、警察・消防はおろか、猟友会に自衛隊まで動員する騒ぎになってしまったのはとても笑い事では済まされないし、事情を聞かれてうろたえた例のお父さん、つい「いやその、山菜取りをしていてゴニョゴニョ……あっ、いや、その違……じつはその、しつけ……親父の威厳が、その……いえいえ、ぎゃ、虐待だなんてそんな」なぞと言ってしまったというのは、正しいことであったとは言えない。

 だがそれでも、これらのことなど、まあ、広い世間にゃ、ありうることであって、男の子が無事であった今となっては、厳しく糾弾されるようなことではあるまい。

 あれくらいのメリハリのきいた叱り方をする(カミナリ)親父が育ててきたからこそ、男の子は自律的に行動し、どうしたらよいかわからなくなってしまってからも無駄に動くことを避け、偶然見つけた自衛隊の演習場廠舎(しょうしゃ)に転がり込み、水を飲んでじっとしているという、小学2年生としてはほぼ100点の生存をすることができたのだ。つまりあのお父さんに鍛えられ育てられた健やかな身体と心を持っていたからこそ、無事に家族のもとへ帰ることができたのであって、これまでに大カミナリのひとつも落とされないようなヤワな育てられ方をしていたなら、それこそ今頃どうなっていたかわからない。

 あの御家族にとって、事件が早く過去の笑い話になり、後々折々の一家団欒の種にでもなるよう祈っている。お父さんよ、頑張れ、訳知りぶったタレント評論家が子育てについて何か言うかもしれないが、私はあなたの味方だ。大和君よ、お父さんやお母さんの言うこと聞いて、立派に育てよ。

北海道で飲み食いしたもの

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 急に、北海道で飲み食いしたいろいろなものを思い出した。

 私は昭和60年から平成5年まで、北海道の旭川で暮らした。

 旭川というところは北海道第二の都市である。札幌に次ぐ規模の街だ。ところが、このことは意外に知られておらず、帯広が北海道で二番目の都市だと思っている人も多い。

 旭川は多くの人が住む内陸・盆地の街で、風はあまり強くないが冬の気温は氷点下30度まで下がる。なのに夏は暑く、30度まで上がる。夏冬の気温差は60度にもなるのだ。穏やかとは言えない気候であった。私は屋外で仕事をしていたので、冬の寒さは身にこたえた。

 反面、仕事以外の日常の暮らしでは、寒さを感じたことなど一度もない。ストーブなど、赤熱して光るほど部屋を暖めるのがこの地方の常であった。

 雪は深く、これでもかと降り募るが、低温のため軽く、雪かきなどの仕事はそれほど辛くはない。光りながら落ちてくるものを手に受けると、絵に描いたような六角形の結晶が美しかった。中には5ミリほどもある大きなものも見られた。

 そんな雪を窓外に眺めながら、真夏のように暖房のきいた室内で飲むビールや、ストーブにあたって半袖のシャツ一枚で食べるアイスクリームの旨さは忘れられない。これがまた、少し奮発すれば、本州ではなかなかお目にかかれない、乳脂肪の高いアイスクリームが手に入った。

 内陸に位置する都市であるにもかかわらず、流通経路が集中する立地のために、鮮魚がうまかった。握り飯のように大きな寿司があり、単に大きいだけではなく、江戸前を凌駕するような類例のないうまさだった。

 海産物が流通しているから、利尻昆布などは最高級品が安値で買えた。

 石狩鍋とて、こうしたうまい昆布を出汁に使い、鮭をふんだんに煮た鍋物も、実にうまかった。普通は味噌味だが、塩味のものも食ったことがある。これはむしろさんべい汁と呼ぶのだろうか。

 「ちゃんちゃん焼き」と称して、まるごと一本の鮭を鉄板に乗せ、野菜を山盛りにして蒸し焼きにし、適宜味付けをして食うやりかたがあり、これはまことに豪快で、北海道ならではのうまいものであった。

 居酒屋で、当時流行し始めた焼酎の肴に「法華」の焼いたのをよく食った。大きくて、脂がのり、身離れもよくて食べやすく、実にうまかった。体が小さい人だと、これだけで1食ぶんにはなり、4百円や5百円で済むから安かった。

 烏賊もうまかった。烏賊飯や烏賊そうめんの本場は函館あたりだろうとは思うが、流通経路の集中のために大きくて身の厚い新鮮な烏賊が旭川ではふんだんに食えた。

 名物「ジンギスカン」の濃厚な味は、飲み会にはなくてはならぬものであった。ビールを飲みながら、若かったから飯も一緒にかきこみ、ラム肉をたらふく食ったものだ。

 冬になると新巻鮭の即売団がまわって来た。これがまた、塩気のきいた、食べごたえのあるもので、しかもそれほど高くなかった。郷里に送ると喜ばれたものだ。

 音威子府あたりの蕎麦の産地が近いため、盛り蕎麦のうまいのがあった。

 北海道は小麦の産地でもあり、ラーメンなどもうまかった。肉もたくさん生産しているから、チャーシューメンなどは出色の旨さだった。どこのラーメン屋も旨かった。北海道のラーメンが安くてうますぎたので、その後暮らした関西や関東のラーメンはうまいと思えず、それほど食わなくなってしまった。

 小麦粉と言うとうどんもうまかったが、これはどうも、その前に関西風のうどんを食いなれた私にはもうひとつだった。だが、うどんそのものの品質は高かった。

 同じ理由で、パンを食ったら美味で驚いたこともある。適当に入った喫茶店で300円かそこらのモーニングを頼んだら、ほかほかのフランスパンの厚切りがふたつ、コテコテにバターがのせてあって、これがうまいのなんの。小麦粉も原料乳も品質が良いのである。

 たまねぎやじゃがいもも、特産地に隣接しているからとてもうまかった。

 とうもろこしが大きく、粒が張って、甘くうまかった。北海道の人はこのとうもろこしを綺麗に食べる。よそ者が適当にがぶりと食べると、「トーキビ(唐黍)(きたね)ぇ食い方すんでねエ!」と怒る。とうもろこしのことを唐黍(とうきび)と呼ぶのも独特だ。とうもろこしの粒を、食べて空いた列の方へ、歯や手で倒すように押すと綺麗に根本から外れる。こうするとプチッと張った粒の歯ごたえもよく、おいしいし、きれいに食えるのだ。

 北海道の人がよくやる、熱い飯にバターを乗せ、ちょいと醤油をたらしてかきこむやりかたは、知らぬ人には奇怪な食い方に思えるが、なんの、洋食のバターライスのことを思えば、なんてことはない当たり前の食い方だ。これはまことに美味であった。先に述べた方法できれいに外したとうもろこしの粒をのせて、バターコーンにして食うやりかたもあった。

 酪農家が親戚にいる人があって、その人の家にお邪魔したことがある。私は牛乳が好きなのだが、そこで牛乳を飲ませてもらったところ、その後しばらく普通のスーパーマーケットで売っている牛乳には見向きもできなかったものだ。なぜと言って、香り、味、なにもかも違う上、飲んでいるそばから豊富な脂肪分が浮き上がってきて、これが生クリームとバターを練り合わせたほどのもので、指につけて舐めると、砂糖抜きのケーキを食っているような、そういう牛乳なのである。

 奥さんがたは鶏の大きな唐揚げを上手にこしらえる。北海道の人はこれを「ザンギ」と呼んで健啖する。ザンギ、とは変わった呼び方だが、これは「炸鶏」と書く中華料理の呼び名で、「炸」とは揚げものの意、日本語の漢音読みでは「さっけい」だが、中国語でザンギである。徴用工の中国人から由来したか、あるいは日露戦争での活躍も知られる旧第七師団の屯ろする軍都であったことから、満州、あるいは支那方面派遣の軍人あたりから広まった呼び方であるように思われる。このザンギは家庭によっても味が違ったが、日本酒と生姜とにんにくのよくきいた醤油にたっぷりと肉を漬け込み、それに衣をまぶして揚げるので、うまかった。

 当時の私は登山が好きで、よく大雪山系を跋渉したものだが、尾根筋に飽きると沢筋に入るようになった。夏、釣り好きの人と一緒に、沢用の短い釣り竿を携え沢筋に入った。オショロコマという陸封性の小型の鮭類を釣りながら詰め上り、夜にはこれを焚き火で焼き、雪渓で冷やしたウイスキーを飲みながら食ったものだ。野趣のある味わいでうまかった。

 イトウという淡水魚がある。これは幻の魚などと言われ、昔、作家の開高健がこれを追い求めるドキュメンタリーなどもあった。ところが、旭川の釣り好きの人にはそれほど珍しくもない魚らしく、釣ったばかりのイトウを無造作に素焼きにし、醤油をかけ回したのをご相伴にあずかったことがある。実にうまかった。「幻の魚」をあんな食い方をして、バチがあたりそうだ。

 こうした折に水の近くを少し探すと「アイヌネギ」とも「行者にんにく」とも言うニラ類があり、これと一緒に煮炊きしたマスの類もうまかった。このアイヌネギを卵と一緒に料理したニラタマはすばらしい香りでうまかった。

 北海道には竹がほとんどない。しかし春には筍を食う。北海道の人がいう筍はスズノコともスズタケともいい、これは竹ではなく、ネマガリタケという大笹の筍である。大きい物は小指ほどになる。これらを春山へとりに行き、浸しものや和えものにして、飲みかつ食うのである。「内地」では──北海道の人は本州のことを内地と言うのだ。いまだ勃然としてある開拓精神のしからしむるところである──このスズノコ、水煮の缶詰などでしかお目にかかれない。

 冬山に登ると、夜のテントで生のたまねぎに味噌をつけてかじった。ズキーンと辛く、これを肴にスキットルに詰めたウィスキーを飲むと、手足の先まで温まったものだ。

 山で飲む酒というと、仕事で山に入る際には、夜に飲む酒を金を出し合って買っていったものだが、これはたいてい甲類焼酎の安いもので、スケールメリットを出すため、「20リットルのポリタンク入り」なぞという、北海道でしか見かけないものを買っていったものだ。これにはプラスチック製の小さな蛇口がついており、ブリキや琺瑯引きのコップに直接どぶどぶと注いで飲むのだ。札幌酒精が販売しており、ウェブサイトを検索すると、今でも18リットルポリタンク入りの業務用の焼酎が見つかる。

 こうしてあれこれ思い出していると、飲み食いしたものは何でも懐かしいが、もう一度北海道で仕事をしたいかというと、実はそれはそうでもない。これはごく簡単な話で、当時自分が軽輩弱卒だったためにいらぬ苦労をし、嫌な思い出が多いというだけのことだ。旭川は今も多くの人が暮らしているリアルの場所だが、私にとっては過去の土地である。

ラーメン旨い

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 妻が出掛けているので、娘どもにインスタントラーメンをつくって食わせる。

 若い頃、旭川に7、8年ほど暮らした。札幌の歓楽街は「薄野(すすきの)」と言うが、北海道第二の大都市たる旭川の歓楽街には特に名前というものはなく、ただ繁華な一帯は地番が「三条六丁目」であるので、「サンロク」と言っている。

 旭川のラーメン屋はどこに入っても旨く、安かったので当時はよく食った。休みになるとサンロクに飲みに出掛けたが、飲む前の腹ごしらえには決まってラーメンを食った。時々は、さんざん飲んで酔っぱらってから、またラーメンを食ったりした。

 サンロクに今もあるのか知らないが、私がよく入ったのは「ピリカ」というラーメン屋だ。醤油ラーメンを注文すると、大きな鉄鍋にもやしを中心とした野菜の千切りを山ほど入れて強火で炒め、そこへ「ジューッ!」と音を立ててスープを注ぎ入れて火を通し、それを太い目の麺の上にたっぷりとのせて出したもので、野菜の味が麺に馴染んで旨かった。

 今、娘どもと昼めしにするのに、インスタントラーメンをそのまま食うのも芸がないと思い、 ピリカのことを思い出して、まず胡麻油を強く熱してモヤシと豚小間を焦がし、ほどのよいところへじゅぅ~っとスープを注ぎ入れてほんの少し煮た。ゆでたインスタントラーメンの上にこの具と汁を一緒にかけまわし、茹で玉子をあしらって出来上がりである。

 娘どもは私の旭川懐古などには頓着なく、「胡麻油のいいにおいがするー!」と喜んでラーメンを食っている。

 さて私はというと、その後兵庫県の姫路市に転勤になったのだが、それから、どこのラーメン屋で食っても旭川にいた頃ほど旨いと思わなくなった。いや、食えば旨いことは旨い。姫路に行く前にしばらく福岡に暮らしたが、博多の繁華街の屋台の豚骨ラーメンなど、出色の旨さだったとは思うし、東京づとめになってからは各地の味のラーメンを試すのに不自由はないから、だいぶ色々な店のを試しもした。ことに、10年ほど前の勤め先だった恵比寿~目黒のあたりはラーメン激戦地で、旭川にいた頃から知っている「山頭火」なども出店していた。また、最近になってからの第何次かのラーメンブームでは、うまい店を挙げるのに労はないと言ってよい。

 ただ、どうも若い頃食いなれた旭川のラーメンとは比べられないのである。私の好みが変わっただけかも知れないし、あるいは旭川の安いラーメン屋より、他の土地のラーメンが不味いのかもしれない。