読書

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 最近はなんだか、本代をケチるようになってしまい、市立図書館南部分室へばかり通うようになった。

 先日、高田屋嘉兵衛が主人公の小説「菜の花の沖」(司馬遼太郎)を読み、とても面白かった。それで、その中にもたびたび取り上げられる、高田屋嘉兵衛より二回りほど前の時代の人物、「大黒屋光太夫」にも興味を持った。

 この「大黒屋光太夫」については、私が好きな作家の吉村昭に作品があることも、前から知っていた。有名な作品なので書店の文庫の棚によく見かけるし、図書館の棚にも確か、ある。

 先月頃だったか、図書館でさっそく借り出そうとして吉村昭の棚に行ったら、「大黒屋光太夫」上下巻のうち、貸し出し中なのか、上巻だけがなかった。

 最近「こだわり」のようなものがだいぶなくなってきた私は、まあ、しばらく待てば返却されるだろう、どうでもいいや、と、下巻だけの「大黒屋光太夫」の隣にあった「ニコライ遭難」をヒョイと手に取り、借り出した。

 この「ニコライ遭難」がまた、面白かった。丹念かつ膨大な取材に基づいて史実を淡々と追い、忠実・正確に物語を進めつつ、しかし、随所に文学的創作と潤色が光るのである。吉村昭の本を読むことは「プロの仕事」に酔うような感じで、楽しい。

 読んでいる最中にインフルエンザに罹ってしまったのだが、病臥中「ニコライ遭難」を読むことで丁度その無聊を紛らわせることもできた。

 昨日はインフルエンザ後の病み上がり出勤だった。さすがに体力の衰微著しく、きつかった。

 帰りに図書館に寄った。今度は「大黒屋光太夫」が返却されてきているだろうと思い、棚に行ってみたのだが、今度もない。

 前から読みたいと思っていた別の本でも借りるか、と思い、昨年NHKのドラマで放映されていた「(きらら)」の原作を探す。江戸時代の浮世絵師、北斎の娘で、その腕前は父北斎をも上回るのではないかとすら言われる女流、葛飾應為(おうい)をモデルにしたものだ。朝井まかてという作家の作品である。

 以前これを探したとき、図書館の端末で調べて「在架」だったので、棚に行ってみたら実際は不在架だったということがあった。別にこんなことで窓口にいちいち苦情めいた確認を入れるようなキチキチ不寛容の私ではない。市立図書館の運営ごとき、このくらいのことはあるだろう。

 待っている間にそのうち戻ってくるだろう、と思っていたのだが、今日はひょっとすると「眩」が在架かも、と思って朝井まかての棚へ行ってみた。

 先日は不在架だった朝井まかての作品がたくさん戻ってきてはいたが、相変わらず「眩」は不在架である。そんなに読みたきゃ予約しろよ、という話もあろうが、これがまた、そういうこだわりも私には希薄なのである。

 ところが、ふと棚を見るうち、気になる作品が目に付く。同じく朝井まかての作品で、「御松茸騒動」という中編である。パラパラっ、とめくってみると、冒頭から楽しい描写が2ページほどあり、これは面白そう、と思って借りることにした。

 それにしても大黒屋光太夫がないなあ、と少しばかり残念だ。ふと、そうだ、一応端末で調べてみておこうか、と思い、カウンターのキオスク端末に向かってみた。そうしたら、文庫本の上巻は貸し出し中で確かに不在架だが、単行本のほうは上下そろって在架である、と出た。

 ああ、そうか。気づくのが遅かったなあ、と思う。何も本は文庫だけではない。文庫がだめなら単行本、ということに気が付かなかった。書店で探すとき、単行本は高いので、最初に候補から外す、というあさましい癖がついてしまっていたのだ。図書館では単行本も文庫もどっちも「タダ」である。正確に言えば住民税を払っているのだから、読まなきゃ損々、てなものだ。

 そういうわけで、「御松茸騒動」(朝井まかて)の文庫と、「大黒屋光太夫・上下」(吉村昭)の単行本を借り出した。

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 流感(インフルエンザ)で仰臥のまま、先週の月曜日に図書館から借りた本を読み終わる。吉村昭の「ニコライ遭難」。

 明治時代の大事件、「大津事件」を、吉村昭独特の淡々とした、かつ臨場感あふれる筆致で描いた佳作である。

 本当は、先日、司馬遼太郎が高田屋嘉兵衛の生涯を描いた「菜の花の沖」を読んだので、その連想から吉村昭の「大黒屋光太夫」を読もうと図書館に行ったのだが、上下2巻のうちの上巻が貸し出し中で書架になく、がっかりして、ふと目を移すとこの「ニコライ遭難」があったので、あまり深く考えずに借りて帰ったのである。

 しかし、高田屋嘉兵衛も、大黒屋光太夫も、大津事件も、一続きの歴史の事象であるように思えてならない。

 思うに、

「大黒屋光太夫」→「高田屋嘉兵衛」(菜の花の沖)→「大津事件」(ニコライ遭難)→「日露戦争」(坂の上の雲)……

……と読み進むことは、日露関係、ひいては周辺国共産主義陣営との関係を考える上で、なにやら意義ありげな気もする。

 私の読書順は上のように整然としてはおらず、坂の上の雲が最初ではあるが……。

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 「雪の花」を読み終わる。150ページくらいの中編だ。

 この小説は、もとは「めっちゃ医者伝」という題で出版されたものだ。一旦出版後、主人公の笠原良策の子孫から多くの資料が提供されたことをきっかけに、作者の吉村昭が大幅に加筆修正して「雪の花」と改題して再度出版された。

 「めっちゃ医者伝」の「めっちゃ」とは、福井の方言で天然痘による痘痕(あばた)顔、転じて天然痘そのものをも指すという。

 種痘の普及に命懸けとなり、私財をなげうって邁進した江戸時代の町医の生涯を描いている。

 吉村昭の他の小説と同じく、実話を題材とし、丹念な取材に基づいて書かれたものである。冷静で抑制のきいた筆致なのに、美しい風景と厳しい疫病の落差、人々の哀歓などが躍動的に描き込まれてもいて、いつものとおり、期待を裏切らない。

 引き続き別の本を読む。こちらも図書館で借りたもの。

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 片岡義男の「豆大福と珈琲」、通勤電車で読み終わる。

 短編集で、全編、コーヒーの香りがする小説だ。研がれた、独立不羈なのに相手を大切にしているカッコいい人たちのたしなむコーヒーの小説である。

 続いて、「雪の花」。吉村昭の中編。

 吉村昭がこだわったテーマの一つ、医学史の一(こま)を描き出したものだ。種痘に奔走した江戸時代の町医者、笠原良策を題材にした小説である。

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 春から以来(このかた)、定年後の就職の便(よすが)にと思い、通信講座で行政書士の勉強をしていたため、法律の教科書以外の本を読んでいなかった。

 勉強はしたにもかかわらず肝心の本番試験の願書を出しそびれ、受験が見送りになるというなんとも締まらぬ()ッぽこなことになってしまったが、通信講座そのものは終了し、修了証が出た。

 ともかくも、また読みたい本が読める。市立図書館の南部分室へ行き、3冊ほど借り出してきた。

 1冊目は入り口近くのディスプレイでふと目に留まった本。片岡義男の「豆大福と珈琲」。

 パラッと(めく)ってみるだけのつもりで手に取ったのだが、1ページ目の書き出しで吸い付けられてしまったので借り出した。短編集だ。

 表題作の「豆大福と珈琲」は、情の希薄な学者の両親の代わりに祖父母に育てられた主人公が、自分なりに再定義・再構築した家族愛に目覚めていく、というものだ。ただ、こう書くと主人公は冷酷漢のような感じがするが、決してそうではなく、暖かくのびのびと育てられた善人である。

 片岡義男独特の端正な文章がよく合う内容だ。

 2冊目は、好きな作家である吉村昭の「雪の花」。

 江戸時代に種痘を普及しようと奮闘した福井県の町医者、笠原良策の物語である。

 最後に、「絵でみる江戸の食ごよみ」という本。これも、単に目についた本を手に取っただけだ。1冊目の「豆大福と珈琲」の近くのディスプレイに置かれていた。「食べ物」が市立図書館南部分室のこのところのテーマらしく、そのディスプレイに置かれている本は全部食べ物が関係するものだった。

 読んで字のごとく、江戸時代の食べ物について、絵入りで分かり易くまとめた新書だ。

 図書館の帰り、明日に控えた衆議院選挙の期日前投票をしようと思った。私の住む新越谷では、図書館にほど近い新越谷駅のコンコース内に、仮設の建物で期日前投票所が設けられるのだ。しかし、投票所に詰めかけた数百メートルに及ぼうかと言う長蛇の列を見てウンザリし、期日前投票はやめにしてしまった。明日、ノーマルに投票すればよい。

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 吉村昭の「光る壁画」読み終わる。

 戦後まもなく、世界に先駆けて胃カメラを開発したのは他でもない日本人技術者たちと日本人医師であったことは知られているところだが、この作品はその開発にまつわるドラマを描いたものだ。

 胃カメラは、実話では東大附属病院の医師宇治達郎、高千穂光学工業(現オリンパス株式会社)の杉浦睦夫と深海正治らの手によって昭和25年に完成している。その歴史はオリンパス(株)のサイトにも詳しい。

 作品では実在のオリンパス株式会社を「オリオンカメラ株式会社」という架空の会社に、また開発の主要メンバーであった深見正治を曾根菊男という架空の人物にそれぞれ置き換えてある。作者は実在の深海正治氏の承諾を得た上で彼の境遇などをまったくのフィクションに作り直し、その視点から胃カメラの開発を描き出した。このことは作者による「あとがき」に簡単に断り書きが記されている。

 こうして一部をフィクションにしたことにより、物語が解りやすくなっているように感じられる。歴史を補完すべき作家の想像力がフィクションの部分に遺憾なく発揮されたのであろう。その結果として、読みやすくなっているように思う。読者としてはありがたいことだ。

 吉村昭作品と言うと淡々と冷静な中にも緊張感の緩むことがない作風が思い浮かぶ。この作品はそれだけでなく、敗戦後の屈辱をバネに、なんとか世界的なデカいことをやってやろうという男たちの夢のようなものや希望が生き生きと描き出されていて、読んで面白い。

 また技術的な試行錯誤も克明に描写されていて、興味深い。人間の口から入るような小さなカメラなど、一体どのようにして作ったらいいのか、主人公たちは皆目わからぬまま議論と検討を重ねるうち、ふと「胃の中は真っ暗闇だ」ということに気付く。真っ暗闇だということは、暗室と同じだということで、カメラを複雑・大型にする原因の一つ、シャッター機構や絞りの機構がまったく必要ない、ということだ。こうして露出はランプの発光時間で、絞りはランプの明るさで調整できることに主人公たちが気づくシーンは、この小説の中の名場面の一つだ。

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 先日「漂流」と入れ替えに借りた「島抜け」を読み終わる。

 3編からなる短編集だ。

 一つは、幕府を批判した講釈を読んだ(かど)で種子島へ遠島に処せられた大阪の講釈師瑞龍が、他の流人3名と丸木舟で島抜けをはかり、漂流の後中国に漂着、日本に帰国するものの結局は捕えられ、処刑されるまでを描く表題作「島抜け」。

 もう一つは飢饉の一風景を農民夫婦の様子を通し、枯れた味わいで描いた「欠けた椀」。

 最後が明治維新間もない頃の、梅毒施療院からの献体をはじめとする人体解剖の状況を追った「梅の刺青」。

 うち「島抜け」「梅の刺青」の2作は、吉村昭が得意とする、「日本の医学黎明期」「漂流(たん)」を緊張感をもって、かつ静かに淡々と描いた名作だ。もう1作の「欠けた椀」はフィクションだが、小説らしい味わいのある作品である。

 読み終わったので、入れ替えに、同じ吉村昭作品で、今度は比較的最近の医学の進歩に焦点を当てた「光る壁画」を借りてみる。

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 吉村昭の名作「漂流」を読み終わる。

 「漂流」は、土佐の水主長平が難船し、小笠原のはずれ、鳥島に漂着して十有余年の苦闘の末、故郷の土佐に帰りつくまでを小説にしたものだ。当時の記録を丹念に取材したノンフィクションである。

 Google Mapを見ながら読むと、その苦闘がよくわかる。

 右の画像はGoogle Earthのキャプチャだ。長平が漂着した鳥島である。

 右手前のくぼみこそ、長平が十年以上住むことになった北側の浜である。現在の地名に「船見岬」と標記があり、さぞや……と思う。

 今Google Mapで計ると、長平の脱出経路の鳥島から青ヶ島までは200km(108海里)ほどもあり、並大抵のことではない。

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 「漂流」が図書館に在架でなかったので代わりに借りていた「磔」

 読み終わったので、返却に行った。

 「磔」は短編集だ。表題作「磔」の他に「三色旗」「コロリ」「動く牙」「洋船建造」の5作品が収められている。

 短編集ながら、ノンフィクションを題材に取った吉村文学の真骨頂と言っていい作品群だと思う。どの作品も息詰まる緊張感が(みなぎ)っていた。

漂流

 あらためて吉村昭の棚を見に行ったら今日は在架なので、さっそく借りた。

 「漂流」は、吉村昭の作品としては珍しく吉村自身の一人称視点で書き出される。ところが、いつの間にか吉村は消え、シームレスに物語が始まっていく、という変わった構成である。

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 職場で時折読書の事を話題にする方があり、この方と私は偶々(たまたま)共通の本を読んでいることがある。読書の傾向が似ているか、その方の読書量が多く、私の読書範囲を包含しているかのどちらかで、多分後者だと思う。

 私が以前に書いたこのブログの記事で、吉村昭の作品に関するものがある。私の記事を見たその方が「漂流」という吉村昭作品を薦めて下さった。

 私は吉村昭の作品が好きだが、全部を読んでいるわけではなく、この「漂流」も未読である。

 先週借りた「酒場百選」という本を返しに市立図書館へ来たのだが、そのことを思い出し、さっそく吉村昭の棚へ行ってみた。だが、残念ながら文庫本・単行本ともに在架でなかった。

 代わりに、同じく吉村昭の「(はりつけ)」を借りてみた。文春文庫のものだ。