時事雑片

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首里城

 首里城は全焼した。

 大切な財産だ。焼失は悔しく、(いきどお)ろしい。

 それにつけても、報道には、犯人を徹底膺懲、追及、処罰すべしという気持ちが見えない。場所柄、こういう場合の常として、外国人の介在が疑われる。

 犯人を処罰したところで首里城は戻らないが、首里城だけが首里城なのではない。すなわち、首里城と同様の、第二、第三の文化財が日本中にあるのだ。これらを守るために犯人の処分は重要な意味を持つ。

グレやん

 グレやん。

 変だぞ、やっぱり(笑)。顔もなんだか怖くて不細工なしかめッ(つら)だし。

 それにしても、なんでわざわざこんな不細工な表情作るんだろ。

死によって罪は

 バグダディは死んだ。

 確かにバグダディはアメリカ人にとって悪い奴だ。だが、死体を取り捨てるなどという処置は、バグダディではなく、人間という存在そのものを馬鹿にしている。

 こんなことは死によって罪が清められ、仏や神になるとする日本人的な情緒にはまるで相容れない。

 もしこうしたことで留飲を下げるバグダディによる被害者やその遺族がいるとしても、それはさながら「ざまあみやがれ、バーカ」と死者を(ののし)りでもするような、悪しき感情である。

 そのような悪しき感情は、次、そのまた次、三次、四次と憎悪を呼び、果てしなく戦乱と破壊を連鎖させていくだろう。

 そんなアメリカ人の精神がなんだか昆虫とか、細菌とか、そういう異物のようなものに感じられる。

 山下大将や東条首相の遺体をゴミ同様にとり捨てたやり口と同じだ。

ゲームや媒体(メディア)や手段や目的や読書や

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ともかくモザイクで遠慮して、
画像はイメージです(笑)

 婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。

 何故(なぜ)と言って、多分、ゲーマーの旦那さん、と言っても、ゲームは既に何千万本もの種類があって、ゲームが好きだからと言って必ずしも趣味が合うとは思えないからだ。つまりゲームは媒体(メディア)なのであり、趣味の合う合わないはゲームの内容による。

 パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願(かな)ってゲーマーのイケメン高学歴高身長高収入男子をゲットしたら、これが殺人スプラッター血みどろ内臓破裂戦場シューティングが大好きという陰惨な男で、全然話も生活も合わない、なんて、単純にありそうな話である。

 どうしてそういうふうに思うのか。

 私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。

 ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。

 事程(ことほど)左様(さよう)に、一口に「読書」と言っても範囲が広すぎるのだ。そのため、当初20人近くいたコミュニティのメンバーはジリジリ減少を続け、今年はわずか5~6人ほどになってしまった。

 こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。

 そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。

 こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。

 かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の灯火(ともしび)であり、職業無線従事者も、放送局や電話会社、あるいは特殊な公的機関の中核技術者になるのでもない限りは、資格だけで食っていくことはなかなか難しい。

 同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。

 自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。

 こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。

 ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。

 (しか)り、失われた目標と目的をどこまでも求め続ける苦行こそ人間の役割、所詮見つかりもせぬ目標や目的の奴隷であり続けることこそ人間たるものの至上究極の義務、という説。

 (しか)らず、目標も目的も所詮は虚しいもの、如何に久しくあれこれを(あげつら)いまた追うことぞ、ならば手段や媒体、方法そのものを楽しめ、という説。

 実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。

 私は今、(りん)()(どう)(リン・ユータン)の「生活の発見」という著作を読んでいる。このところ耽読している60年前の古書、平凡社の「世界教養全集」第4巻に収録されている。

 林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。

 彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。

 しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。

 実は林語堂は、これを襤褸(ボロ)(カス)()き下ろしている。曰く、「一ソクラテスの生まれたことは、西洋文明にとって一大災厄であった」と。この一言に、林語堂の動かぬ立場のすべてが尽くされている。

 さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした喝破(かっぱ)は、私などにとって、誠に心が安らぐものなのである。同様の安らぎは鈴木大拙(だいせつ)の「無心ということ」を読んだ時にも覚えたが、さすがに鈴木大拙はそこまで対立的ではなく、日本人的な理解と包摂の姿勢であった。

 もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。

コスプレ馬鹿

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あっはっは、中国もこんなアホの存在を許すようになったんだなあ

 私は前からこの王毅って奴が嫌いだし、このことそのものの一件次第などはどうだっていいんだが、中国人にもこういう馬鹿がいるんだなあ、と思って笑ってしまった。

 日本人にも馬鹿はいて、例えば初詣の客でにぎわう神社の鳥居の前で「神はエホバのみである」みたいな、正気が疑われる布教をするキリスト教徒とか、もっと言えば、ナチス親衛隊の恰好をして終戦記念日の靖国神社周辺をうろつくという意味不明のドイツマニアなどがいるわけだが、そういう者にドイツ人がこれを知ったらどう思うかわかってンのかなどと言ってみたところで無駄だ。むしろ、そういうことが許される日本という国の自由さを(たた)えたほうが精神衛生には良い。

 さすがに、終戦記念日の靖国神社前で、太平洋戦争当時の米軍GIのコスプレをしたり中共の軍服コスプレをするような馬鹿は見かけないが、仮にそういうのがいたとしても、日本の場合「馬鹿な奴がいるなあ」で済んでしまう。せいぜい右翼に絡まれるくらいだろう。

 で、中国にもそれと同種の馬鹿がいるということで、なるほど、中国も相当自由な国になってきたなあ、と思うのである。ちょっと前だったら記事のように行政処分どころでは済まず、逮捕投獄は当然、下手をするとそれこそ射殺されたろう。

 いや、むしろ、中国の自由さをアピールするため、中国政府が馬鹿を放し飼いにしているのかも知れない、というふうに見ると、中共専制国家体制の盤石さが逆に恐ろしくもなるが……。

 よその国のことだから、こんなことどうだっていいっちゃあ、どうだっていいんだけどね。

旧正月

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 昨日は旧元旦であった。

 「旧正月」というと、最近は中国人観光客が大挙して観光に訪れ、そのためにどちらかというと「日本の旧暦の正月」ではなくて、「中国の春節休暇」というふうに取り上げられたり話題になったりしている。

 違いますよ、日本もほんの100年ほど前、明治の初め頃までは、今時分が正月だったんですからね。年賀状の決まり文句で「迎春」って言うでしょう。寒さが峠を越すか越さぬか、南国では梅の(つぼみ)(ほころ)びようか、こういう今の時期が日本の古くからの正月だったわけだ。

 さておき、春節休暇の中国人観光客というと、彼らのものすごい購買を指して「爆買い」などと言うようだが、このところは爆去(ばくさ)り」というそうな。「朝鮮戦争における人海戦術」もかくやという程の、一頃の波が一段落して、さっぱり中国人観光客が目立たなくなったことを指してこう言うそうである。

 まあ、中国にも流行ってものがあるでしょうからねえ。

 人海戦術のように押し寄せた中国人観光客を当て込んで、店舗拡張工事をしたり品揃えを変えたりした店など、パタリと中国人が来なくなり、潰れてしまったところもあると噂に聞く。

 諸行無常である。

その他時事

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違う千日回峰

 どうも、この千日回峰は違う気がする。仏への帰依のかぐわしさや、敬虔な感じがしない。仏教って、そんな、経営がどうとか社長がどうとかいうような、そんな生臭いもの、ビジネスビジネスしたものだっただろうか。だいたい、会社勤めしたことのない僧侶に、経営云々なんてことをコメントする資格あんのかね。

華原朋美

 チャラチャラしているだけの芸能人と思っていたら、なかなかどうして、大した人だったんだなあ。

一部の外国人

 「一部の外国人」ってなんだよ。モザイク隠しみたいでイヤラシイんだよ。ハッキリ書けよ、朝鮮人とか中国人とか。

ケッ、「ユニフォーム着てる奴はバカ」だとさ!

 腹立つなあ、コイツ。こんなこと言うなら、ネクタイに背広だなんていう、どいつもこいつも同じ勤労者の服装なんて、3割どころか4割知能が減退していることになっちまうぜ。自分が適当に生きてるからってたくさんの人を敵に回すようなこと言うんじゃないよ。

「ホモチョコ」ワロタ

 ほ、ホモチョコ、て、……(笑)。