読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、四つ目の「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)、帰りの通勤電車の中で本編を、帰宅してから解説を、それぞれ読み終わった。40ページ弱なので、すぐに読んでしまった。

 毛沢東と言えば無論、かの毛沢東である。「はて、矛盾とな?なんのことやら?」と最初は思ったが、「矛盾」という言葉を聞いて我々が思い浮かべる、「議論してもどうにもならない馬鹿々々しいパラドックス」というようなことではなく、現代風な表現で言うと「対立」のことを毛沢東は「矛盾」と言っている。そして、さまざまな事象に見られる「対立」が、物事を前進させ、成長させると説く。対立には様々な軸があり、「東と西」なども毛沢東流にいえば矛盾であり、その他、学問でも、数学の正と負、微分と積分、力学の作用と反作用、電気のプラスとマイナス、等々、さまざまなものが対立、すなわち矛盾である。

 共産主義者は無神論者、唯物論者と決まったものだが、この本を読んで、毛沢東が形而上学を嫌い、弁証法的唯物論を称揚していることがよくわかり、ますます共産主義者の唯物的なことに納得がいった。また、弁証法につながる共産主義の唯物論から、ふと冷厳な「OR(オペレーションズ・リサーチ)」を連想した。日本の共産主義者はどうもヒステリックで情緒的だが、本当のマルクス主義者は科学的なのだ。

 現代の修正資本主義、毛沢東が否定した教条主義、封建社会からブルジョア社会を経ずに社会主義革命をなした毛沢東流テーラリングというかカスタマイズ、「現実への適合」を毛沢東が強く唱えていることなども印象に残った。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「矛盾論」より引用。p.203より

 レーニンも、矛盾の普遍性を、こう説明した。

「数学では、正と負、微分と積分。
力学では、作用と反作用。
物理学では、陽電気と陰電気。
科学では、原子の化合と分解。
社会科学では、階級闘争」

 戦争における攻守、進退、勝敗は、みな矛盾した現象である。一方を消せば他方も存在しなくなる。双方が闘争し、かつ結合して、戦争の全体を形成し、戦争の発展を推進し、戦争の問題を解決する。

 次は引き続き第15巻から「第二貧乏物語」(河上肇著)を読む。共産主義に関する著作で、戦前のものだ。著者は学者だが、戦前、「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ筋金入りの共産主義者だ。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、三つ目の「職業としての政治 Politik als Berf」(マックス・ヴェーバー Max Weber 著、清水幾太郎・清水礼子訳)、行きの通勤電車の中で本編を、帰りの通勤電車の中で解説を、それぞれ読み終わった。

 著者マックス・ヴェーバーはドイツの社会科学者で、第1次世界大戦の頃の人である。本書は第1次大戦でドイツが敗北した直後、ミュンヘンで行った講演をまとめたものだ。当時の欧州の政治の形を時間・空間双方に沿いながら幅広く概括し、わかりやすく述べたものである。そして、この講演の次の年、ヴェーバーは亡くなっている。

 今の日本を含む各国の政治について、こうした書籍があればどんなにかよいが、とも思った。何しろ、第1次大戦以前の政治の詳細像は、今の私には遠すぎる。

 別談。訳者の清水幾太郎は解説において、微妙にマックス・ヴェーバーをディスっていて、かつ、本人は翻訳にあまり手を出していないことがわかる。戦前版のものは知人市西秀平氏の翻訳を清水氏の名前で出し、印税は市西氏に全額渡した、と書かれている。戦後、市西氏の翻訳とは別に改訳したのが本書だそうだが、今度も清水氏はあまり手を出さなかったようだ。共同翻訳者として名前の出ている清水礼子氏というのは清水氏の息女で、本書は彼女の翻訳に負うところが大きい、との旨も解説に記されている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「職業としての政治」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.175より

戦争は終戦によって少なくとも道徳的には埋葬が済んでいるはずなのに、数十年後に新しい文書が公開されるたびに、下品な悲鳴、憎悪、憤怒をよみがえらせるのです。埋葬は、現実性と騎士道精神とによって、なかんずく、品位によってのみ可能になるものです。しかし、「倫理」によっては絶対に不可能で、「倫理」は、実は、双方の側における品位喪失を意味するものなのであります。「倫理」は、将来および将来に対する責任という政治家にとって大切な問題を考えずに、過去の罪という政治的に不毛な――というのは、解決がつかない問題ですから――問題に没頭するものであります。もしも、政治上の罪というものがあるとすれば、これこそ、それであります。

 上の部分は、まるで現在の日韓関係を遠く100年以上の昔に喝破したもののように感じられ、ううむと唸ってしまった。

p.181より

昔から、インドの兵士は、インドラの極楽へ行けるものと固く信じて戦死を遂げたものですが、これはゲルマンの兵士がヴァルハラを固く信じていたのと同じであります。けれども、インドの兵士は、ゲルマンの兵士が天使の合唱が聞こえるキリスト教の楽園を軽蔑していたように、()(はん)を軽蔑していたのでしょう。

 次は引き続き第15巻から「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)を読む。そう、あの毛沢東である。なんだか、本巻を読んでいる間は「共産主義祭り」みたいなもののような気がしてきた。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、二つ目の「共産党宣言 Historisch-kritische Gesamtausgabe. Im Auftrage des Marx-Engels-Lenin-Instituts Moskau herausgegeben von V. Adoratskij. Erste abteilung Band 6. Marx-Engels-Verlag, Berlin, 1932.」(K.マルクス Karl Marx ・F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 言うことのない程の世界的名文である。共産主義者には不滅の経典でもあろう。

 前回の読書エントリの末尾に少し、訳者の宮川実について触れた。ふと興味を覚えて検索してみると、「秋丸機関」という言葉が出てきた。陸軍の情報分析機関である。秋丸機関は戦前に世界各国の経済的継戦能力を調査し、すぐれた報告を出しているそうだが、秋丸機関の一員にこの宮川実も入っていたのだという。共産主義者に近いマル経学者、しかも治安維持法違反でムショに放り込まれるような人物を調査機関の一員として迎えるとは、意外に陸軍も懐が広かったのだな、と思える。むしろ、2.26事件の将校たちが、自分ではそれと知らずに「天皇制共産主義」のようなものを構想していたのだと仮定してみると、逆に貧農出身が多数を占める陸軍軍人には、共産主義者に同感を覚える者が意外に多かったのかもしれない。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「空想から科学へ」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.90より
一八八三年ドイツ語版への序文

 この版の序文には、悲しいことに、私一人が署名しなければならない。マルクス――ヨーロッパとアメリカの全労働者階級が他の誰に負うよりも多くを負うている人、マルクスはハイゲートの墓地に眠っており、彼の墓の上にはすでに新しい草が生えている。彼が死んでから後には、宣言を改訂したり、補足したりすることは、いうまでもなく、もはや問題となりえない。

p.97より

 一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている――共産主義という妖怪が。旧ヨーロッパのすべての権力は、この妖怪を駆りたてるという神聖な仕事のために、同盟をむすんでいる。法王とツァーリとが、メッテルニヒとギゾーとが、フランスの急進派とドイツの官憲とが。

p.120より
c ドイツ社会主義すなわち「真正」社会主義

 支配的なブルジョアジーの圧迫のもとで生まれ、この支配に対する闘争の文献的表現であった、フランスの社会主義的および共産主義的文献は、ブルジョアジーがちょうど封建的絶対主義に対する闘争を始めたときに、ドイツに輸入された。

 ドイツの哲学者や半哲学者や文芸家は、むさぼるようにこれらの文献を自分のものにしたが、これらの著作がフランスからはいってきたときに同時にフランスの生活諸関係ははいってこなかったことを、忘れていた。ドイツの諸関係に対しては、フランスの文献はすべての直接的な実践的意味を失い、純粋に文献的な相貌をおびた〔それは、人間の本質の実現に関するひま人の思弁として現われざるをえなかった〕

p.128より

 万国のプロレタリア団結せよ

 これは、本書の一番末尾の段落で、共産党宣言を読んだことのない人でもこのくだりは知っている。右翼を称して(はばか)らぬ私のような人物でさえ、このくだりは知っていた。

言葉
ルンペン・プロレタリアート

 「ルンペン」という言葉は、もはやほぼ日本語と言ってよいように私には感じられていたが、昭和の初期頃に共産主義の思想などとともに移入されたドイツ語だという。日本語としてとらえられるのと同じく、直接には「襤褸(ぼろ)」のことを言い、つまり下層民、貧民のことである。

 マルクスはプロレタリアートの一般層よりもまだなお下層底辺の貧民を「ルンペン・プロレタリアート」と定義し、軽蔑していたという。

下線太字は佐藤俊夫による。p.107より

 ルンペン・プロレタリアート、旧社会の最下層のこの無気力な腐朽分子は、プロレタリア革命によって、ときには運動に引き入れられることもある。だが、かれらの生活状態全体からみると、彼らはむしろ、反動的陰謀のために買収されることをいとわぬであろう。

 次は引き続き第15巻から「職業としての政治 Politik als beruf, 1919」(M.ヴェーバー Max Weber 著、清水幾太郎・清水礼子訳)を読む。第1次大戦敗戦後のミュンヘンで、学生に対して行われた講演の講演録だという。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、最初の「空想から科学へ(F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)」を読み終わった。

 邦題こそ「空想から科学へ」と付けられてはいるものの、原題は「Die Entwicklung Des Sozialismus Von Der Utopie Zur Wissenschaft 社会主義の空想から科学への発展」であり、言わずと知れた共産主義本である。

 「科学」としてあるが、私には科学と言うよりも「哲学」に沿って社会主義を論じているように感じられた。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「空想から科学へ」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.30及びp.37より

しかしなんという多額な費用のかかったことであろう! だから、イギリスのブルジョアはまえから平民を宗教的雰囲気にしっかりしばりつけておくことの必要を確信していたのであるが、今では、これらすべての経験のあとでは、どんなに痛切に、この必要を感じないではいられなかったことか! 大陸のなかまたちの嘲笑をすこしも意に介することなく、下層民に対する福音伝道のために彼らは毎年幾千幾万の金を投じつづけたのである。自国内の宗教機関だけで満足しないで、彼らはさらに、当時、営業としての宗教の最大の組織者であったブラザー・ジョナサ((9))に訴えた。

(9) アメリカ合衆国を人称化した言葉(イギリスを「ジョン・ブル」というのと同じ)。このあだ名はその後「サムおじさん」に変わった。
p.77より

社会的生産の無政府性が消滅するにつれて、国家の政治的権力もまた眠りこむ。ついに自分自身の独自の社会化の主人になった人間は、それによって、同時に自然の主人に、彼ら自身の主人になる――すなわち自由になる。

 こういう世界解放の事業を成し遂げることが、近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的諸条件をそれとともにその本性そのものを、究明し、そうすることによって、行動の使命をおびた今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の諸条件と本性とを意識させること、これがプロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。

p.80、訳者宮川実による解説より

エンゲルスがこれを書いた時から、今年はちょうど八十年めにあたる。その間に、科学的社会主義の理論は実現されて、今日では世界の人口の三分の一、十億人以上の人々が、すでに資本主義をたおして社会主義か人民民主主義(社会主義にいたる過渡期)の社会に住んでいる。しかも、社会主義世界体制の資本主義世界体制に対する優位は、科学においても、経済においても、政治においても、誰の目にもはっきりするようになっている。

 ……。い、いや……。それは、ないワ~(笑)。まあ、この解説が書かれたのはソ連崩壊より30年も前のことで、結果としてではあるけれども、さ。

言葉
ヘーファイストゥスの(くさび)

 人間に火を与えたプロメテウスがどこから火を手に入れたかと言うと、造兵の神ヘーファイストゥスの炉からであるという。

下線太字とルビは佐藤俊夫による。以下の<blockquote>タグ同じ。p.67より

相対的過剰人口または産業予備軍を絶えず資本蓄積の範囲と精力とに均衡させる法則は、ヘーファイストゥスの楔がプロメティウスを岩に釘づけにしたよりももっとかたく労働者を資本に釘づけにする。

 次は引き続き第15巻から「共産党宣言 Historisch-kritische Gesamtausgabe. Im Auftrage des Marx-Engels-Lenin-Instituts Moskau herausgegeben von V. Adoratskij. Erste abteilung Band 6. Marx-Engels-Verlag, Berlin, 1932.」(K.マルクス Karl Marx ・F.エンゲルス Friedrich Engels 著、宮川実訳)を読む。「空想から科学へ」と同じ訳者、宮川実による翻訳だ。宮川実は戦前、治安維持法違反で臭い物相飯(モッソウめし)を喰らったマル経学者である。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第14巻、「新文章読本(川端康成)/日本文芸入門(西尾実)/世々の歌びと(折口信夫)/俳句読本(高浜虚子)/現代詩概観(三好達治)」のうち、五つ目、最後の「現代詩概観(三好達治著)を、朝、行きの通勤電車の中、御茶ノ水駅のあたりで読み終わった。

 著者の三好達治は自身が高名な詩人であり、学校の教科書にも作品が載っているから、知らぬ人はない。その三好達治が、和歌・俳諧といった定型詩から離れた日本の明治以降の詩について、起点のメルクマールとも言える「新体詩抄」から昭和の口語自由詩まで、闊達(かったつ)に概観するものだ。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第14巻「現代詩概観」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.396より
落葉(らくえふ)

秋の日の
ヸオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

(ヴェルレーヌ「詩集」)

 純粋な日本詩ではなく、上田敏という人がフランスのヴェルレーヌの詩を翻訳したものだ。翻訳詩集「(かい)(ちょう)(おん)」に収められているそうである。

 私は小学生の頃からこの詩を知っていた。詩が好きだったからではない。小学生向けの、たしか、「スパイの秘密」という娯楽本にこの詩が載っていたのだ。なぜ「スパイの秘密」なんていう、しかも小学生向けの本にこんな大人びた詩が載っていたのかと言うと、「スパイ」―「暗号」という関連で、第2次世界大戦の欧州戦線、連合軍のノルマンディ上陸作戦に先立って、フランスのレジスタンスたちに向けてイギリスから放送された「上陸作戦決行近し」の暗号が、この詩の冒頭「秋の日の/(ヴィ)オロンの/ためいきの」で、「上陸作戦下令さる」(D-Day)が「身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。」であった、と紹介されていたのである。

 何分、私も子供の頃であったので、「なんでフランス人が、日本の難しい言葉で書かれた詩を暗号にするんじゃい」などと思ったもので、すぐにフランスの詩を訳したものであることは知ったものの、今度は「なんで外国の詩をこんな昔の言葉で、俺ら子供向けの本に書くんじゃい」とも思ったものだ。それが印象に残り、50歳を過ぎた今でも、この詩の冒頭をそらんじていたわけである。

 三好達治の本書中での評論によれば、この訳詩は当時のフランス訳詞中の白眉とされたもので、翻訳そのものが日本の詩壇に与えた影響は極めて大きかったらしく、日本でヴェルレーヌの詩と言うと、この上田敏の翻訳をもってまず知られるのだそうである。

 ゆえに、子供向けの娯楽本にまで、この訳詞が引用されたようだ。

p.409より

見るとなく涙ながれぬ。
かの小鳥
在ればまた来て、
茨のなかの紅き実を(ついば)み去るを。
あはれまた、
啄み去るを。

女子(をみなご)
()はかなし、
のたまはぬ汝はかなし、
ただひとつ、
一言(ひとこと)のわれをおもふと。

 天才・北原白秋の「思ひ出」という詩集からの抜粋である。

 三好達治は、本書中で北原白秋についてかなりのページ数を割き、もはや「ベタ褒め」と言ってよいほどの激賞ぶりである。

 実際、私などの素人から見てさえ、白秋の詩は他の近代詩のどれと並べても群を抜いているように感じられる。

 次は第15巻である。「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」の5作品が収載されている。

 えっらくまた、共産主義色が濃厚な一冊である。私は右翼であるが、読み進めてみようではないか。私は夜間大学を中退したのだが、学部は経済学部で、「マル経」を学んだことも、実はあるのだ。