こどもの日

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天皇陛下万歳

 祝日「こどもの日」である。玄関に国旗を掲揚する。

 民主党政権時に「子供の日」から「こどもの日」に表記が変更された。いわく、「『子供』というのは差別語である」という、サッパリ理解できない理由だった。「子供」という単語が差別なんだったら平仮名(ひらがな)で書いたところで差別は一緒だろう、と思う。「支那人」を「しな人」と書いたって、朝日新聞流に言わせればやっぱり差別だろう。

 自民党政権に復した時にこの「こども」や交ぜ書きの「子ども」が、清々と「子供」表記に戻らないかな、と思ったが、わずかに「こども手当」が「子ども手当」に変わったのみである。半分だけ戻す、て、一体もう、もはや何が言いたいのかしたいのか、全然わからない。交ぜ書きも気持ちが悪い。

 しかし、祝日法を改正までして法定の名称を律しているのであるからには、どうにもしようがない

 繰り言はさておき。毎年同じことを書いているが、この「こどもの日」は、実は法定の「母の日」でもある。祝日法には次のように記されてある。

祝日法第2条抜粋

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

 自分の子供たちの母である妻に感謝したいと思う。

建国記念の日

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天皇陛下万歳。

 祝日「建国記念の日」である。国旗を掲揚する。

 神武天皇の故事にもとづく祝日「紀元節」が本来のこの日であった。

皇太弟(こうたいてい)

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 官邸は承知していないとコメントしているが、テレビや新聞では「譲位後の天皇陛下の尊称は『上皇』となりそう」というようなことが早々とニュースになっている。

 その報道の中に、「秋篠宮文仁親王殿下を皇太子待遇に」などとある。どうも、この「皇太子『待遇』」という言い方が気に入らない。「待遇」じゃねえだろ、れっきとした皇位継承順位第1位におなりあそばすんだから。「待遇」なんて言葉には、いかにも「仮に一応、皇太子みたいなモン、ってことにしといてやるぜ」みたいな、不敬・不遜の内心が漂い出るようではないか。こんなのは不可だ。

 で、皇太子は「子」で、秋篠宮殿下は「弟」なんだから、皇太「子」ではない。そこで「子」でないならなんなんだ、と言う話になるが、そりゃ「皇太弟(こうたいてい)」に決まっとるじゃないか。

 いや、確かに、皇室典範等が公式に定める皇族は「皇后,太皇太后,皇太后,親王,親王妃,内親王,王,王妃,女王」となっており、他の条に「皇孫」「皇太孫」と付け加えられているだけで、公式用語としては「皇太弟」という語はない。

  •  皇族(宮内庁ホームページ)

 だが、「日本語の一般的語彙」としては、全然不自然ではない形で「皇太弟」という言葉は、ある。

 今上(きんじょう)陛下が譲位されたあとの尊称が「上皇」に決まりつつあるということであれば、ぜひとも、秋篠宮殿下の尊称も「皇嗣たる皇弟を皇太弟という」等と決めておけば如何か。

 また、女系も検討され得るということであるなら、「内親王配」「女王配」といったことも検討されなければならず、それは即ち、女性皇族が結婚した場合その身位は如何にあるべきかということも真剣に議論されなければならないと言う事である。これはまあ、小泉内閣当時、しおしお~……と立ち消えたことでもあったが……。

天皇と庶民とはどちらも、辞任などという言葉でその責任を回避することのできない「日本人」であった

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山岡荘八「小説太平洋戦争〔2〕」p.95から引用

 私はさきに、山下奉文中将が、この作戦中に一度も笑顔を見せず、絶えず何ものかに向かって怒りをぶつけているようであったと書いた。

 その怒気をふくんだ表情の裏をさぐってゆくと、彼の理想とする軍と、当時の陸軍の間の思想の距離がまざまざと計り出される。

 むろんこれは、どこまでも職業軍人としての陸軍のことであって、民間人としての一般兵隊のことではない。

 一般の兵隊は、前にも記したように、少く((ママ))とも個人的な生活のすべてをなげうってご奉公を考えさせられている。その間には悲しいあきらめや郷愁は存在しても、戦うことがより正しい世界の創造に通ずるであろうということを、疑う余地など全く与えられていなかった。

 その意味では、近衞の新体制以来の東亜共栄圏建設の理念とかけ声は、そのまま彼らに滅私の奉公を強いる、何のかけ値もかけ引きもない(すが)りの綱になっている。日本人の中で、もっとも無邪気に正義の灯をしたって行動したのは天皇と、そして、その愛児であるこれら庶民の兵隊たちであった。

 天皇と庶民とはどちらも、辞任などという言葉でその責任を回避することのできない「日本人」であったからだ……

 この見方と、今上陛下の譲位について並べ論じるというのも面白いだろう。

文化の日

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%e6%96%87%e5%8c%96%e3%81%ae%e6%97%a5天皇陛下万歳。

 祝日「文化の日」である。国旗を掲揚する。

 文化の日の趣旨が「自由と平和を愛し、文化をすすめる。」ことにあるのは、「祝日法」によって明らかであるが、その制定経緯を(ひもと)けば、基礎となったのが、(まさ)(しか)るべし、人ぞ知る、明治天皇の誕生日「明治節」であることは論を待たない。

 (かしこ)し、維新の志士らの心を大いに取り上げ、日本の文化を進め、五カ条の御誓文によって議会制民主主義を導入したのが他ならぬ明治大帝である。

 戦後、政府は明治大帝の天長節(天皇誕生日)であった明治節を、「文化の日」として定着・記念することに成功した。GHQの影響まだ極めて大なる時代であるにもかかわらず、である。

 当時の国民の選択と、またその選択をできる限り()んだ政府の、巧妙と言うほかない政治的技術に感嘆せざるを得ない。

不敬と平板

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 最近どうも報道の言葉遣いになじめなくなってきている。

 「平易な言葉で万人に分かりやすく」という新聞記事などの記述方針は理解できるが、それを言うあまり、どうも記事の語彙というものが平板化しすぎていないだろうか。

 先頃も、タイ国王陛下崩御に関する報道では「死去」という言葉ばかりが使われていた。私はこれは不可であると思う。

 いくら外国人と言えど、一国の国王、元首である。かの国の人たちが大切にし、敬愛している国王を「死去」と言い捨てて澄ましていてはいけないだろう。

 亡くなった場合の表現にも崩御(ほうぎょ)薨御(こうぎょ)薨去(こうきょ)・卒去・逝去(せいきょ)・死去・死亡など、ランクめいた幅があるが、せめてこの場合、最低でも「逝去」と言えないものか。「死去」では友好国の国王に対して不敬ではないか。

 朝日新聞なんかだって、例えばヒトラーが自決した時にも、ドイツは当時も盟邦であったから、見出しに「ヒ総統薨去(こうきょ)」などと書いたものだったが、今は誰が隠れようが亡くなろうが「死去」と書くのはどうしたことか。

 先日、(かしこ)し、皇后陛下のお言葉の中に、「『生前退位』という報道の表現に痛みを覚えた」とのご主旨を拝した。皇室内で話し合われた時には「譲位」というふうに表現されていたと()(うけたまわ)る。

 台風が来そうなのもオリンピックでメダルが取れそうなのも「可能性」、芸能人が死のうが国王が崩御しようが「死去」、犬の死骸でも国王のなきがらでも「死体」という、そんな平板な言葉しか選べない新聞記者などには、陛下におかせられて、「生前」という言葉の、また「退位」という言葉の、一体何に驚かれ、痛みを覚えておられるのか、おそらく、サッパリ分からないに違いない。胡散臭い業界でチャラチャラ暮らしているようなことだから、言葉に奥行きやいたわりというものを盛り込む能力がなくなっていってしまっているのだろう。

 「生前退位」なんぞという言い方・書き方では、大げさに言えば「死ぬ前にしりぞく」と言っているのと同じなのだ。高齢の人に、しかも恐れ多くも天皇陛下に、身内でもない者がよってたかって「生前」、つまり「死ぬ前に」という言い方はなかろう。皇后陛下が仰せられる通り、「譲位」と言うべきものだ。そこを新聞屋・テレビ屋どもは(かしこ)み承らなければますます自らの価値を下げることになる。

 だいたい、最近皇室、特に皇族方に対する報道の文章があまりにも不敬にわたるようになってしまい、嘆かわしいにも程がある。内容がどれもこれも下世話好きのするようなものに成り下がっているのもそうだし、また、形の上でも乱れているのは不可と言う他ない。

 「形の上でも乱れている」と書いたが、その「形」というのは、例えば敬称だ。天皇陛下、皇族方への敬称は、皇室典範により「陛下」「殿下」と定められている。法定の敬称なのである。ところが新聞・テレビときたらどうだ。天皇陛下に関する報道では(かろ)うじて「陛下」の敬称が用いられているが、前掲のNHKによる報道にしても「皇后『さま』」と書かれてあり、畏くも皇后陛下に対し(たてまつ)り、「さま」とは何だ「さま」とは、一体何事だ! ……と言いたい。

 最近このように、皇族方に対する敬称が、こともあろうに全部ひらがな書きで「さま」になってしまっているのは断固不可である。こんな言い方・書き方では、「ビートたけしサマ」「松本人志サマ」と同じ、鼻持ちならない金持ち芸人と、ひらがなとカタカナの違い以外は同じということになってしまうではないか。

 例えば「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮殿下」あるいは「秋篠宮文仁親王殿下」「愛子内親王殿下」「悠仁親王殿下」「彬子女王殿下」というふうに、「陛下」「殿下」「妃殿下」「親王殿下」「内親王殿下」「王殿下」「女王殿下」はちゃんと使い分けておつけしなければならないだろう。最近皇族方に男性が少なくなり、「王殿下」が()られなくなってしまったが、そのためにこのゆかしい敬称が忘れ去られてしまい、王殿下という言い方・書き方が消滅してしまうのではないかと心配だ。

 陛下・殿下・閣下等、やはり敬称を使うべきときには使うべきである。また日本では使われないが、高位の宗教者、例えばヨーロッパの法王や枢機卿、また仏教国の高僧などには「猊下(げいか)」「台下(だいか)」と言った敬称もあるから覚えておきたいものだ。

 日本語の表現力が平板化するのが残念、ということもある。言葉が平板化すると、平板化したその言葉が、逆にその表現対象までをも平板でつまらない、無価値なものへと変化させてしまうおそれがあると思うのだ。

 これが皇室に関する表現の平板化であれば、皇室をないがしろにすることに繋がるおそれがある。そして、皇室をないがしろにすることは自傷行為にも似て、日本人が自分で日本の価値を下げることに繋がっていってしまう。

 不敬にわたるというと、眞子内親王殿下について、いかにも下世話好きのする取り上げ方の報道があって、具合が悪いこと(はなは)だしい。

 親しまれ開かれた皇室をアピールするという意味で、ある程度こういう報道も許容されなければならない面もあるかもしれないが、しかし、なんとも、残念である。いや、殿下はお若いのであるから、多少自由な行動をとられても、それは仕方がないのである。報道の方でもう少しどうにかすべきだろう。誠にもって恐れ多いことだ。