うむっ。それでよろしいッ!

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 よろしいッ! それでこそ日本人であるッ!!

おっさん勃然ボヤキ文字列

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こんなアホな投票あるかい(笑)

 あほかい。

 こんな、いかにも「教員そのもの」の男が、大学の構内のこういう所にこんなデカい看板持って立っててだな、ボードにシール貼らせる式の公開投票なんかしてみろ、こんなところでこんなこと聞くような男なんざ、「軍事研究断固反対」の活動家だって顔に書いてあるようなモンじゃねえか。

 そんな男が通行する学生に向かってだな、「オイッ!投票しろ!」なんて睨みつけながら迫ったら、そりゃ、学生は単位欲しいんだし、いい点数付けてほしいんだから、「はいいいいっ!軍事研究反対に投票しますっ!」って、ソッチにシール貼るに決まってるだろ。教員なんて公権力みたいなもんで、それで言えば教員と学生は、いわば「権力関係」にあるんだからさ。

 こんな不公平、不誠実な投票なんかあるもんかい、北朝鮮の選挙じゃあるまいし。

今上(きんじょう)陛下」か、あるいはせめて「今上天皇」と言えんのか、また「譲位」と言えんのか

 「退位」という言葉については、まあ、この前の「譲位という言葉には『譲る』という天皇陛下の能動的な意思が含まれ、政治への容喙という憲法違反の恐れがあるから云々」という屁理屈を百歩譲って聞きおくにしても、「今の陛下」とはなんだ、「今の陛下」とは。不敬だこんなものは。断固不可だ。今上(きんじょう)陛下と書け。

オスプレイ墜落の取り上げ方も気に入らぬ

 オスプレイが沖縄で墜落した。

 まるで「鬼の首でもとったような……」「祭りだワッショイ」のような、不謹慎なマスコミの騒ぎっぷりに腹が立つ。

 私としては、負傷した搭乗員の一日も早い回復を祈るとともに、今後の軍務に支障が出ないよう、心ばかりながら見舞いを申し上げ、同時に、一般の無辜(むこ)の沖縄県民の驚きと不安にも見舞いを申し上げたい。

 操縦者は傷ついた機体を巧みに操縦し、冷静な判断の上で真夜中の海上に機体を落下させた。無論、意図せざることとはいえ、空中給油モジュールをプロペラにひっかけたのは操縦者の責任だ。だがしかし、機体の無残な壊れ方から、正常な機動は極めて困難であったことは素人にも想像がつく。不幸中の幸い、操縦者の卓越した技術により絶妙な地点に落下し、2名の重傷者は出たものの、それでも全員命はあった。いわんや、沖縄県民に被害を出さなかったことは本当に良かった。

 彼ら搭乗員は、遊んでいたのではない。なんのため、誰のために深夜の空中給油という困難な技術を要求される仕事をしていたのか。アメリカに故郷と家族のある者、大の大人が、それを、何のため、どこの上空でしていたのか。それは、誰のためなのか。なぜ今なのか。そんなことをなぜする必要があるのか。

 クリスマスだのハロウィンだの、そんなキリスト教行事に浮かれる私たち日本人には、少し考えればわかることだ。たとえそれが自ら願ったことではないにもせよ……。

 もとより、合理的なアメリカ人はしなくていいことなんかしない。危険を冒す必要も、アメリカ人が金を払う必要もさらさらない。だが、それをしなければならなかった。

 それを日本中のメディアが(こぞ)ってボロカスに言うのは、あまりにも品がなさすぎ、残念である。

 しかし、沖縄の副知事と面談したニコルソン中将も、まんまと副知事の挑発に引っ掛かってしまった。これは痛い。ここは腹が立ってもグッと我慢するべきだった。

 ニコルソン中将が顔をゆがめて反駁(はんばく)する写真ばかりが、これでもかというようにクローズアップされている。気の毒である。

 つまり、この安慶田(あげだ)という副知事は、ヘリパッド工事を警備する警察官から「土人」「支那人」などという暴言を引き出すのに成功した例の活動家連中と同じなのだ。安慶田氏の立場になれば、「してやったり」というところで、嬉しくて仕方がないだろう。

 いくら武闘派、軍人中の軍人である海兵隊中将と言ったって、中将と言う極官にある者が、しかも元来は明るく楽天的なアメリカ人が、ちょっとやそっとのことで激怒なんかするものか。おそらく、この一部始終を報じる新聞記事には、意図的に削除された行間がある筈だ。安慶田副知事の口汚く狡猾な挑発について全ては書かれていないということが、この前の「土人」事件の一連の報道から容易に想像することができるのだ。

 さればこそ、……。オスプレイの搭乗員を庇う発言が、日本側から出る前にニコルソン中将から出てしまったのは、なんとしても惜しかった。

 ニコルソン中将は、部下を()べる責任者として、更に言うなら恤兵(じゅっぺい)を天与の義務として負う将校、アメリカ国民から兵という大切な命を預かっている士官として、至極(しごく)普通の気持ちを持っていたと想像されるだけに、惜しかった。

 ニコルソン中将にしても、かの「ディベート」などという、品のない文化(まか)り通るアメリカに生まれ育った生粋のアメリカ軍人だから、「ここは断固抗議して見せるのが正義である」と判断したのかもしれない。日本ではボロカスに書き立てられるが、こんなふうに書き立てている日本のマスコミは、米国では冷笑・憫笑(びんしょう)をもって無視されていることだろう。

 更に書きつのるなら、「やはり普天間(ふてんま)の住宅地の直上でこういうことが起こってはいかん。危険を取り去るためにも、すぐ辺野古(へのこ)へ移転しよう」となるのが素直(そっちょく)流露(りゅうろ)だと思うのだが、沖縄の活動家は全く逆に

「辺野古移転絶対反対普天間死守闘争断固完遂猛進激烈突撃激昂玉砕!!」

……みたいな、なんで、どうしてそうなンのよ、という、もう()(ほぐ)すことなど絶対不可能という状況にあるのが、実に恥ずかしくて仕方がない。

 うっすらと感じるのは、沖縄県民一般も勿論、沖縄をネタに活動する思想家の急先鋒も、自分たちが何をどうしたいのか、どういう生活を得たいのか、さっぱり(わか)らなくなっているのであろう、ということだ。

勤労感謝の日

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%e5%8b%a4%e5%8a%b4%e6%84%9f%e8%ac%9d%e3%81%ae%e6%97%a5天皇陛下万歳。

 祝日・勤労感謝の日である。国旗を掲揚し拝礼する。

 今日は遠く飛鳥時代、皇極天皇の御世にその起源を(さかのぼ)る「新嘗(にいなめ)祭」の日である。皇極天皇というと「重祚(ちょうそ)」と言って、後に斉明天皇と名を改めて再び即位した女帝であり、これは日本史で習うから、覚えている人も多いことだろう。

 日本書紀巻第二十四「皇極天皇」紀には、

十一月壬子朔癸丑、大雨雷。丙辰夜半、雷一鳴於西北角。己未、雷五鳴於西北角。庚申、天暖如春氣。辛酉、雨下。壬戌、天暖如春氣。甲子、雷一鳴於北方、而風發。丁卯、天皇御新嘗。是曰、皇子・大臣、各自新嘗。

(十一月(しもつき)壬子(みずのえね)(ついたち)癸丑(みずのとうしのひ)に、大雨(おおあめ)ふり(いかづち)なる。丙辰(ひのとたつのひ)夜半(よなか)に、雷(ひとたび)西北(いぬゐ)(すみ)()る。己未(つちのとのひつじのひ)に、雷(いつたび)西北の角に鳴る。庚申(かのえさるのひ)に、(あめ)(あたたか)なること春の(しるし)の如し。辛酉(かのとのとりのひ)に、雨()る。壬戌(みずのえいぬのひ)に、天の暖なること春の氣の如し。甲子(きのえねのひ)に、雷(ひとたび)北の(かた)に鳴りて、風(おこ)る。丁卯(ひのとのうのひ)に、天皇(すめらみこと)新嘗(にひなへ)(きこしめ)す。是の曰に、皇子(みこ)大臣(おほおみ)(おのおの)(みづか)新嘗(にひなへ)す。)

 と、その年の天変などとともにこの新嘗の記述があり、日本書紀の中ではっきりと新嘗の記述が現れるのはこの箇所が最初であることから、これが新嘗祭の起源となっている。

 この新嘗祭は、重要な宮中祭祀であるため、明治時代から祝日として定められていた。

 戦後、「勤労感謝の日」と改められたが、宮中においては今も変わらず、天皇陛下おん(みずか)神嘉殿(しんかでん)において古式ゆかしくこの祭祀を執り行われると漏れ伝え聞く。

 本来、「新嘗祭」は新収穫を(みかど)自らおしいただいて、五穀豊穣を天地神祇に納め祈る日であったことから、無論これは農業を慈しみ奨めることに通じており、これが近代的に発展して「勤労感謝」となったことはおかしいことではなく、当時の政府はGHQの影響下、国民世論をも取り込んで、名称変更を上手い具合にまとめたものだと思う。

主要新聞各社の天皇陛下崩御・皇后陛下崩御・皇太后陛下崩御・皇族方薨去等時の用語

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 以前、天皇陛下や皇族方に関する報道の、敬称の用い方がどうも気に入らなかったり、畏れ多きことながら、お隠れ遊ばされた場合の新聞各社の用語が気に入らない、不敬なのではないか、なんてことをこのブログに書いた。

 しかし、ふと思った。確かに、昔はどの新聞も「崩御(ほうぎょ)」「薨御(こうぎょ)」「薨去(こうきょ)」「逝去」「死去」「死亡」などの語はきちんと使い分けられていたように思うのだが、はて、それを見たのか、というと、どうも、なんだか記憶が怪しい。いつどの記事で見たのか、と言われると、見たことがないような気もするのだ。

 そこで、天皇陛下・皇后陛下・皇族方を判る限りリストアップし、その表を携えて図書館へ行った。有名な新聞(朝日・毎日・読売・日経・産経の5紙)について、遡れるだけ遡って、お隠れになった際にどの用語で報道されているかを調べた。

 私が見つけることのできたもののうち、最も古い報道は明治41年の山階宮(やましなのみや)菊麿(きくまろ)王殿下の薨去だ。逆に、最も近いのは、去る10月の三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下の薨去である。この間の、33方の記事を調べることができた。

 その結果は次のとおりである。

(産経は歴史が浅いので、昭和13年より前の記事はない)

 調べた結果から、興味深いことが分かる。

 日本の右翼新聞というと「産経」で間違いないところだ。産経は先日三笠宮殿下が薨去された時も「薨去」と報道した。ところが、実は産経がこう書いたのは、平成26年に薨去された桂宮殿下の時だけなのだ。

 桂宮殿下薨去より前は、産経も他紙と同じように、天皇陛下・皇后陛下を除き、「ご逝去」か「逝去」と報道していたことがわかる。終戦間際の閑院宮(かんいんのみや)殿下の報道がわずかに「薨去」とあるのみで、それ以前の、産経の前身である「日本工業新聞」時代には、皇族方薨去に関する記事そのものがない。それは、機械の生産高や経済指標等のみを報道する専門紙に近い新聞だったからである。

 朝日・毎日・読売・日経はどれもこれも左翼新聞だが、戦後、昭和21年に薨去された伏見宮博恭(ひろやす)王殿下までは全紙が「薨去」と書き、昭和22年に薨去された閑院宮載仁(ことひと)親王妃智恵子殿下の時は毎日が、昭和28年に薨去された秩父宮殿下の時には読売が、それぞれ「薨去」と書いている。

 それ以降は多くのいわゆる旧皇族方が皇籍を離脱され、報道そのものがないか、臣籍降下後の姓名で報道されていることもあって、薨去という用語は見られない。

 戦前は、記事のない産経新聞を除いて、全部が基本的に「薨去」を用いている。天皇陛下・皇太后陛下・皇后陛下については、昭和26年の貞明皇后崩御時に朝日新聞が「御逝去」と報道している他は、言うまでもなくすべての陛下に「崩御」が用いられている。唯一変わっているのは、北白川宮永久王殿下は戦死されているため、各紙の記事も「戦死遊ばさる」等の表現になっていることだろうか。

 ここから言えることは、右翼新聞を()って成る「産経」も、それほど昔から首尾一貫はしていなかった、ということだろう。

 また、昭和41年生まれの私は、新聞記事で「薨去」という言葉を見たことがない、ということも明らかなことだ。

 だがしかし、それなのに、である。私は「薨去」という言葉を見て育ったような気がするのだ。なぜだろう。

 これは、おそらく周りの大人が「薨去」「崩御」という言葉を使っていたこと、また、特に父母などは「昔やったら、天皇陛下が亡くなりはったら『崩御』、皇族方は『薨去』と書いたもんやった」などと普段から言っていたから、それを聞いて育った私は新聞で見たように思い込んでいたのだと思う。

 私は、「薨去」等の言葉を知らない人なんて少数派で、単に「ものを知らんだけだろう」と思っていた。だが、上述の調査の結果、それは実は誤りだ、ということも分かった。

 昭和28年に秩父宮殿下が薨去されてから62年間、「薨去」と言う言葉は、産経が2回使った他は、新聞では使われていないのだ。したがって、今50歳の私は、生まれてからこのかた「薨去」という言葉を新聞で見たことなど、(ほとん)どない(はず)なのだ。

 新聞という大メディアに載らない言葉を、普通の人が知っているわけはないのであり、「薨去」という言葉を知らないからと言って「もの知らず」ということにはならない。反面、だからと言ってもの知りということにもならないことは自明だ。それら諸々(もろもろ)を考慮すると、薨去という言葉を知らない人は「普通の人」だということになるだろう。

 但し、新聞では使われていないが、公的機関の発表等は厳格に「薨去」が使われている。

文化の日

投稿日:

%e6%96%87%e5%8c%96%e3%81%ae%e6%97%a5天皇陛下万歳。

 祝日「文化の日」である。国旗を掲揚する。

 文化の日の趣旨が「自由と平和を愛し、文化をすすめる。」ことにあるのは、「祝日法」によって明らかであるが、その制定経緯を(ひもと)けば、基礎となったのが、(まさ)(しか)るべし、人ぞ知る、明治天皇の誕生日「明治節」であることは論を待たない。

 (かしこ)し、維新の志士らの心を大いに取り上げ、日本の文化を進め、五カ条の御誓文によって議会制民主主義を導入したのが他ならぬ明治大帝である。

 戦後、政府は明治大帝の天長節(天皇誕生日)であった明治節を、「文化の日」として定着・記念することに成功した。GHQの影響まだ極めて大なる時代であるにもかかわらず、である。

 当時の国民の選択と、またその選択をできる限り()んだ政府の、巧妙と言うほかない政治的技術に感嘆せざるを得ない。

三笠宮崇仁(たかひと)親王殿下薨去(こうきょ)

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 畏み慎んで心から哀悼したい。

 皇族最後の軍人であらせられた。戦後は平和と反省を真摯に訴え、学術の振興に尽力された。

 また、私としては、また一つ、昭和をしのぶ(よすが)を失った、という思いが強い。

不敬と平板

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 最近どうも報道の言葉遣いになじめなくなってきている。

 「平易な言葉で万人に分かりやすく」という新聞記事などの記述方針は理解できるが、それを言うあまり、どうも記事の語彙というものが平板化しすぎていないだろうか。

 先頃も、タイ国王陛下崩御に関する報道では「死去」という言葉ばかりが使われていた。私はこれは不可であると思う。

 いくら外国人と言えど、一国の国王、元首である。かの国の人たちが大切にし、敬愛している国王を「死去」と言い捨てて澄ましていてはいけないだろう。

 亡くなった場合の表現にも崩御(ほうぎょ)薨御(こうぎょ)薨去(こうきょ)・卒去・逝去(せいきょ)・死去・死亡など、ランクめいた幅があるが、せめてこの場合、最低でも「逝去」と言えないものか。「死去」では友好国の国王に対して不敬ではないか。

 朝日新聞なんかだって、例えばヒトラーが自決した時にも、ドイツは当時も盟邦であったから、見出しに「ヒ総統薨去(こうきょ)」などと書いたものだったが、今は誰が隠れようが亡くなろうが「死去」と書くのはどうしたことか。

 先日、(かしこ)し、皇后陛下のお言葉の中に、「『生前退位』という報道の表現に痛みを覚えた」とのご主旨を拝した。皇室内で話し合われた時には「譲位」というふうに表現されていたと()(うけたまわ)る。

 台風が来そうなのもオリンピックでメダルが取れそうなのも「可能性」、芸能人が死のうが国王が崩御しようが「死去」、犬の死骸でも国王のなきがらでも「死体」という、そんな平板な言葉しか選べない新聞記者などには、陛下におかせられて、「生前」という言葉の、また「退位」という言葉の、一体何に驚かれ、痛みを覚えておられるのか、おそらく、サッパリ分からないに違いない。胡散臭い業界でチャラチャラ暮らしているようなことだから、言葉に奥行きやいたわりというものを盛り込む能力がなくなっていってしまっているのだろう。

 「生前退位」なんぞという言い方・書き方では、大げさに言えば「死ぬ前にしりぞく」と言っているのと同じなのだ。高齢の人に、しかも恐れ多くも天皇陛下に、身内でもない者がよってたかって「生前」、つまり「死ぬ前に」という言い方はなかろう。皇后陛下が仰せられる通り、「譲位」と言うべきものだ。そこを新聞屋・テレビ屋どもは(かしこ)み承らなければますます自らの価値を下げることになる。

 だいたい、最近皇室、特に皇族方に対する報道の文章があまりにも不敬にわたるようになってしまい、嘆かわしいにも程がある。内容がどれもこれも下世話好きのするようなものに成り下がっているのもそうだし、また、形の上でも乱れているのは不可と言う他ない。

 「形の上でも乱れている」と書いたが、その「形」というのは、例えば敬称だ。天皇陛下、皇族方への敬称は、皇室典範により「陛下」「殿下」と定められている。法定の敬称なのである。ところが新聞・テレビときたらどうだ。天皇陛下に関する報道では(かろ)うじて「陛下」の敬称が用いられているが、前掲のNHKによる報道にしても「皇后『さま』」と書かれてあり、畏くも皇后陛下に対し(たてまつ)り、「さま」とは何だ「さま」とは、一体何事だ! ……と言いたい。

 最近このように、皇族方に対する敬称が、こともあろうに全部ひらがな書きで「さま」になってしまっているのは断固不可である。こんな言い方・書き方では、「ビートたけしサマ」「松本人志サマ」と同じ、鼻持ちならない金持ち芸人と、ひらがなとカタカナの違い以外は同じということになってしまうではないか。

 例えば「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮殿下」あるいは「秋篠宮文仁親王殿下」「愛子内親王殿下」「悠仁親王殿下」「彬子女王殿下」というふうに、「陛下」「殿下」「妃殿下」「親王殿下」「内親王殿下」「王殿下」「女王殿下」はちゃんと使い分けておつけしなければならないだろう。最近皇族方に男性が少なくなり、「王殿下」が()られなくなってしまったが、そのためにこのゆかしい敬称が忘れ去られてしまい、王殿下という言い方・書き方が消滅してしまうのではないかと心配だ。

 陛下・殿下・閣下等、やはり敬称を使うべきときには使うべきである。また日本では使われないが、高位の宗教者、例えばヨーロッパの法王や枢機卿、また仏教国の高僧などには「猊下(げいか)」「台下(だいか)」と言った敬称もあるから覚えておきたいものだ。

 日本語の表現力が平板化するのが残念、ということもある。言葉が平板化すると、平板化したその言葉が、逆にその表現対象までをも平板でつまらない、無価値なものへと変化させてしまうおそれがあると思うのだ。

 これが皇室に関する表現の平板化であれば、皇室をないがしろにすることに繋がるおそれがある。そして、皇室をないがしろにすることは自傷行為にも似て、日本人が自分で日本の価値を下げることに繋がっていってしまう。

 不敬にわたるというと、眞子内親王殿下について、いかにも下世話好きのする取り上げ方の報道があって、具合が悪いこと(はなは)だしい。

 親しまれ開かれた皇室をアピールするという意味で、ある程度こういう報道も許容されなければならない面もあるかもしれないが、しかし、なんとも、残念である。いや、殿下はお若いのであるから、多少自由な行動をとられても、それは仕方がないのである。報道の方でもう少しどうにかすべきだろう。誠にもって恐れ多いことだ。