登戸稲荷社

投稿日:

47597487 近所の稲荷社「登戸神社」の縁起や、地域の旧家、関根家、浜野家の来歴なども簡単に知るなど。

 祭神を「倉稲魂命」といい、こう書いて「うかのみたまのみこと」と訓むそうな。

 日本書紀を紐解くと、岩波の「日本書紀(1)」では、40ページあたりに、

(日本書紀〈1〉(岩波文庫)、40ページより、下線太字筆者)

 一書曰、伊弉諾尊與伊弉冉尊、共生大八洲國。然後、伊弉諾尊曰「我所生之國、唯有朝霧而薫滿之哉。」乃吹撥之氣、化爲神、號曰級長戸邊命、亦曰級長津彥命、是風神也。又飢時生兒、號倉稻魂命

 一書(あるふみ)に曰く、イザナギノミコトとイザナミノミコトと、共に大八洲國(おおやしまのくに)を生みたまふ。しかりしてのちに、イザナギノミコトののたまはく、「我が生める国、ただ朝霧のみありて、薫り満てるかな」とのたまひて、すなはち吹きはらふ氣(いき)、神となる。號(みな)をシナトベノミコトとまうす。またはシナツヒコノミコトとまうす。これ風神なり。また飢(やは)しかりし時に生めりし兒(みこ)を、ウカノミタマノミコトとまうす。
()み下し筆者

……と見える。

 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は「稲荷」の神である。稲荷は「稲」「荷」の字にも表れている通り、稲がたくさん集積されたところの神で、豊穣の穀物神である。

 この神が使役するところの手下がすなわち「キツネ」で、そこからオイナリさまと言えばキツネということになったのであった。

引き続き

投稿日:

 引き続き「古川ロッパ昭和日記」読む。

 面白いのは、2.26事件の騒然たるその日も、なにやら驚き、かつなんとはない不安を覚えながらも映画に出演し、おでんを食って寿司を食って、その帰りに戦車とすれ違ってびっくりしている、というようなところだろうか。

古川緑波昭和日記 昭和13年

投稿日:

以下引用

(昭和13年)十月十六日(日曜)

 晴れなら近郊ロケの筈だが、雨、で今日は撮影はお流れ。ひどく寒くなった。三時近く家を出る、歌舞伎座へ。三円以上の芝居は一軒もないのに此処は六円半で、満員補助出切りだから面白い。道子僕他堀井夫妻と柳。羽左と菊五郎でいゝ役は一手になっちまふので他の役者はほんの一寸宛。幕間に支那定食を食ひ、放送局へ。七時半から二十五分、物語「大番頭小番頭」、たゞ読むのだから、楽だが、面白くもなからう(60)。又歌舞伎へ引返す。菊五郎の女形は何か大きな間違ひをしてゐるやうな気がする。すべて六代目はジミすぎたので羽左の印象が強い。帰りに千成へ寄りすしをつまみ、屋台のホットドッグを食って帰る。

 三時から十時まで、七時間といふもの、兎に角見てゐられるといふ「忠臣蔵」ってものゝ偉大さ、こればかりは洋楽のない物足りなさも忘れて、面白く見終った。結局「忠臣蔵」の作者と、そしてショウマンシップの勝利である。判官と勘平の切腹に泣いてゐる女客が大分あった。それはお婆さんか、若くても花柳界の女らしかった。モダン娘は、ちっとも悲しがってゐないのだ。こゝんとこが面白い。



セルバンテスの苦労控

投稿日:

 先日、スペインの修道院の床下で遺骨が発見されたと伝わるセルバンテス。抱腹絶倒の傑作「ドン・キホーテ」の作者で、400年前の人だ。

 晩成型の作家で、その不運や苦労に満ちた人生を私は尊敬している。

 彼の来歴を見てみると、後世これほど有名な作家であるにもかかわらず、とてものことに順調な作家人生を送った人物とは言い難い。

 貧乏人の家庭に生まれたセルバンテスは、無学の人とはいうものの、幼少から読み書きを身に付けていた。少年時代は道端に落ちている紙くずであろうと文字が書いてあればそれを拾って読んだといい、その頃から晩年の文才の片鱗が見えていた。

 だがしかし、彼も時代の子であり、文筆の道へは進まなかった。兵隊になり、戦いの日々に身を投ずる。時あたかも無敵スペインの絶頂期である。かの「レパントの海戦」でもセルバンテスは戦った。

 レパントの海戦は、コンスタンチノープル陥落以来200年もの間、オスマン帝国率いる回教徒に苦杯を舐めさせられ続けていたキリスト教圏の初めての大勝利であった。

 勝ち戦の中にいたにもかかわらず、セルバンテスは撃たれて隻腕(かたうで)になってしまう。胸に2発、腕に1発、火縄銃の弾を受けたというから、瀕死の重傷である。からくも命を拾った彼は、後に至ってもキリスト教徒としてこの名誉の負傷を誇りにした。そのとき、連合艦隊司令長官から、勇気ある兵士として激賞する感状を与えられたが、これが後年あだとなる。

 隻腕となってからも数年戦い続けたが、帰国の途中で回教徒に捕まってしまう。当時の捕虜は、身代金と交換されるのが常であったが、持っていた感状のせいで大物とみなされ、大金獲得の切り札として交渉の後の方に回されてしまったのだ。結局、5年もの間捕虜として苦難の日々を送る。仲間を糾合して4度も脱獄を企てたが、ことごとく失敗。その都度辛い仕打ちがあったろうことは容易に想像できる。

 ようやく身請けされて帰国した彼を待っていたのは、祖国の冷遇であった。感状を持つ英雄であるはずなのに、与えられた役職は無敵艦隊の食料徴発係である。無骨な来歴で、しかも傷痍軍人であるセルバンテスに、貧しい人々から軍用食料を要領よく徴発するような仕事など向くはずがない。帳尻が合わず、しょっちゅう上司に呼び出されては怒られる日々。それではというので豊かな教会から食料を徴発したところ、キリスト教徒に(あら)ざる不届(ふとどき)者とされてしまい、キリスト教から破門されている。しかも2度もだ。キリスト教のために回教徒と戦い、隻腕となった誇りある軍人である彼がどれほどそれで傷ついたことだろうか。

 ところが、しばらくするうち、スペイン無敵艦隊は、「アルマダの海戦」でイギリス海軍に撃破され、なんと消滅してしまう。すなわちセルバンテスの勤務先が消滅してしまったということで、彼は路頭に放り出され、無職になってしまったのである。

 セルバンテスは仕方なしに仕事を探し、今度は徴税吏になった。

 セルバンテスの不運の最底辺はこのあたりだろう。彼は税金を取り立てて回り、それを国に納める前、安全を期して一時銀行に預けた。ところがその銀行が、破綻してしまったのである。無論取り立てた大事な税金は消滅。セルバンテスはその債務をすべて個人的に負うことになってしまったのだ。勿論払えるはずもなく、当時の法では「破産者は刑務所送り」である。

 放り込まれた刑務所の中で、彼は失意と不遇の中にあって、なんでこんな目に俺が…、と泣けもせずに泣きつつ、「ドン・キホーテ」の物語を構想した。

 セルバンテスという人がぶっ飛んでいるな、と私が思うのは、こんな不運のどん底にあって構想した物語が「ギャグ漫画」のようなものであることだ。400年も前に書かれた「ドン・キホーテ」は、現代の私たちが読んでも思わず爆笑せずにはおられないドタバタの連続であり、徳川家康がようやく天下統一を成し遂げた時代の小説とはとても思えないほどの傑作だ。赤貧洗うが如し、隻腕の傷痍軍人で、しかも50歳を過ぎて疲れ切った男が、不運により放り込まれた刑務所の中であの物語を考えたのだ。

 刑務所出所後、数年かかって物語を完成させた時、セルバンテスは既に58歳になっていた。400年前の寿命を考慮すると、これは現代の70歳にも80歳にもあたるだろう。

 なんとか文学的な名は得たものの、ところがまだ苦労は続く。「ドン・キホーテ」は発売直後から空前の大ヒットになり、英訳・仏訳もすぐに出るという異例の出世作となったが、そんなに急激な大ヒットになると思っていなかったので、版権を売り渡してしまっていたのだ。ために、貧乏にはまったく変化がなかった。

 しかも、煩わしい悩みが続く。セルバンテスはこの頃、妻、老姉、老姉の不義の娘、妹、自分の不義の娘、という奇怪極まる5人の女達と暮らしていた。せっかく作家としてなんとか名を得、執筆に集中しようにも、この女どものためにそうはいかなかったのだ。彼女らは、男を騙して婚約しては難癖をつけ婚約不履行にし、それを盾に慰謝料をせびるというようなことを繰り返して儲けているという、ふしだらで喧騒(けんそう)な女どもであった。そのため、セルバンテスは静謐な執筆環境など到底得ることができず、ぎゃあぎゃあうるさい5人の女たちに毎日邪魔され、訴訟に巻き込まれて煩瑣な思いをし、休まることがなかった。

 セルバンテスが死んだのはこの10年後、69歳だった。当時の記録にも、三位一体会の修道院に埋葬された、と記されてあるそうだ。日本で言えば、合葬の無縁仏にでも当たろうか。それが、このほど遺骨が見つかったとされるマドリードの修道院である。

古川緑波

投稿日:

 古川緑波(ロッパ)と言えば、戦前から戦後にかけて活躍したお笑い芸人である。

 20年ほど前のお笑い界勢力図で例えて、「今のビートたけしがエノケンこと榎本健一なら、さしずめタモリが古川ロッパと言えようか」ということを聞いたことがある。

 さてその古川緑波、もともとは映画評論などを書いていた編集者で、ために文筆をよくし、随筆などが多く残っているということをつい先週知った。日記書きであることもよく知られ、その膨大な量の日記は第一級の庶民史資料でもあるという。今でいう「ブロガー」にあたろうか。

 食いしん坊で、食べ物のことをよく書いており、雑誌の連載にそれが残る。

 昭和36年に亡くなっているので、既に死後54年ほど経ち、日本法では著作権消滅のため、青空文庫等でその文筆の多くを読むことができる。

 平易かついきいきとした文体で、読みやすい。


建国記念日

投稿日:

天皇陛下万歳

 建国記念日である。国旗を揚げ、拝礼する。

 皇紀元年元旦、神武天皇が即位されたことをもって、今日が建国記念日と定められてある。旧暦の元日なので、ちょうど今の時期なのだ。ちなみに、旧暦は年によって新暦とのずれが変動するから、今年の旧暦の正月は来週、2月19日だ。

 悠久二千六百七十四年の昔ということになっているが、なにしろ文字すら存在しなかった昔のことであるから、一応形の上ではこのように定めた、ということなのである。「日本と言う国が出来たのはあんまりにも昔のことなので、いつできたのかもはっきりとはわからない。気が付いたときにはもう国があった。ただ、中国の文献などからは千数百年以上前からあるということはだいたいうかがい知れるし、伝説・伝承をよく整理すると、もう少しさかのぼるようだ。多く見積もると二千六百年という数字も出ることは出るので、一応それを採用している」というのが正直なところだと思う。

 このように、いつできたのだか昔過ぎてわからない国柄のわが国だ。共産主義革命の日にちを建国日にしているとか、誰かが独立宣言をした日を建国日にしているとか、そういう、人工的に作られた外国との比較は、できないのである。仕方がないから神話や伝承をもとにした日にちを採用するのだ。それが我が国のオリジナルである。

 さて、せっかくだから、日本書紀にはどう書いてあるか、抜き書きしてみよう。

「辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語稱之曰「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彥火々出見天皇焉。」初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大來目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。」

(佐藤俊夫奉訳

 かのと・とりの年の春、元旦に、神武天皇は橿原宮で即位された。そこでこの年を皇紀元年とした。同時にお妃も皇后に即位された。カムヤイのみこと、カムヌナカワミミのみことが皇子として生まれた。このため、古い伝承には「畝傍(うねび)橿原(かしはら)に、大いに宮を造営し、高天原(たかまがはら)を高くまつり、はじめて即位された天皇はカムヤマトイワレビコ・ホホデミのすめらみこと、と名乗ることになった」とされている。また、国のはじめのこの日に、大伴氏の先祖のミチノオミのみことがオオクメたちを連れてきて、秘密の唱えごとのまじないをし、災いを除いた。このとき「倒語(さかしまごと)」というまじないが世の中ではじめて使われた。)

 とある。

 古事記ではこのあたりはアッサリと簡単で、

「故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。」

(佐藤俊夫奉訳
 神武天皇はこのように不穏な情勢の有力者たちをうまくとり収めて和平を実現し、従わない者を退け、畝火の白檮原宮(畝傍の橿原の宮)で即位した。)

 となっている。

 いずれにしても、遠い遠い昔のことだから、「ホントに2千何百年も昔に建国したの?おとぎ話でしょ?」などと文句を言っても、言うだけ詮無いことで、はっきりしないのだから仕方がない。