「表現の自由」は内から外へ向かうが、「知る権利」とは外から内へ向かう。まるで違うものだ。
月: 2019年8月
知る権利
知る権利、というのは、憲法のどこに書かれている人権なのか教えてもらいたい。
晩飯を朝鮮風にして
晩めしを朝鮮風にする。すなわち、ナムルやキムチ、プルコギなどを飯に載せて食べるのだ。
箸や匙も朝鮮風のものにして気分を出す。皿の端にはたっぷりとコチュジャンを絞って辛くする。
折しも、日韓関係は険悪そのものである。
私は頭の悪い右翼であり、このところの韓国政府の出方には我慢のならないものがある。
だが、両国の一般人の友好は、これは別であるはずだ。日本人と朝鮮人は、こんなふうにして2千年来、グズグズグズグズ、不定愁訴のように美しくない付き合いを続けてきたが、しかしやっぱり、離れられない隣国である。
いつかまた、少し仲良くなり、また仲違いし、またいがみ合うだろう。嫌い合っている兄弟や迷惑な親戚のように。
政府は政府、政治は政治として、お互い、人と人として蔑みあい、憎み合うようなことは避けたいと思う。……どうせ、こんな声などどこにも届くまいが、せめて朝鮮風の晩飯でも食って、韓国・北朝鮮の人々の健康と幸福を祈りたいと思う。
読書
鈴木大拙の「無心ということ」を読み終わる。平凡社の60年前の古書「世界教養全集第3」に収められている。
「こういう風にしたい」「こういうふうにあるべきだ」という分別・差別・区分、あるいは
また、大拙師はそれを概念・観念として捉えたり理解しようとしたりすることを戒めている。曰く「宗教とは論理的把握ではなく体験である」と。自ら境地を体験するのでなければならないと言うのである。
この著作を読むに先立ち、ウィル・デュラントの「哲学物語」、モンテーニュの「随想録」、ロシュフコーの「箴言と省察」、パスカルの「パンセ」、サント・ブーヴの「覚書と随想」、そして日本人ではあるが倉田百三の「愛と認識との出発」という順序と組み立てで西洋哲学を速習してきた。実は、これらにはウンザリした。
だが、鈴木大拙師の説く「無心」は、スッと心に入る気がした。
言葉
抛向
これを南無阿弥陀仏の一句子にまとめて、我らの面前に抛向したのが……
文字
だが、この「抛向」というのは禅宗でよく使う言葉らしく、単に「放り投げる」というだけの意味には使わないようだ。
検索すると「
「提示する」と言うと丁寧過ぎるから、ありのまま、更に言うならぶっきらぼうに、弟子や他の人の目の前に放り出して見せ、相手が自身の力で真実を掴むように仕向ける、そういう宗教体験の伝達のようなことを指して「抛向」と言っているのでもあろうか。
闡明
まことに難しい字
- 闡明(センメイ)とは(コトバンク)
次に心学の祖である石田梅巌の『
都鄙 問答』中にある、南無阿彌陀仏観を紹介してみましょう。これにもまた往生はこの土での往生、往くことなくして往くところの往生だとの義を闡明しています。
充 らず
無心の働きということは、実際無心の境地を何かの方面で体得したものでないと、いくら説いても画餅飢えに充らずということになるのでしょうか。
特段難しい言葉というわけではないが、読んでいて、ハテ、「アタらず」だろうか、「ミタらず」だろうか、とひっかかった。
「絵に描いた餅では空腹を満たすことはできない」という意味であって、意味さえ判っておれば
「
ここは闊達な口述の講義録を編集したという本著作の性格から言って、「ミたらず」と
争 でか
そこで
雪竇 の道 わく、「争 でか如 かん独り虚窓の下に坐せんには」と。
「アラソイでか」ではなく、「イカでか」である。「争でか如かん」とは「なんでそのようになるだろうか」というほどの意味だ。だから、「争でか如かん独り虚窓の下に坐せんには」というのは「孤独に虚窓の下に坐している者に、どうしてそのようなことがあろうか」という意味になる。
江戸する
心学というものが、徳川時代の末ごろに江戸したものですが、……
これがまた、聞いたことも見たこともない表現だ。検索してもわからない。だが、前後のコンテキストから判断するに、どうやら「都会で取り上げられて、盛り上がりを見せてきた」というような意味で「江戸した」と言っているように思う。
しかし、注意が必要なのは、当時、物でも文化でも、上方から東海道を経て江戸に入ってくるものは「
逈 かに
……「雲門室中に垂語して人を接す、
汝等 諸人脚跟 下に各〻 一段の光明あり、今古 に輝騰 して、逈かに見知を絶す。然 も光明ありと雖 も、……
普通に「はるかに」というそのままの意味でよいようだ。
什麼 ぞ
……若し明暗を坐断せば、
且 く道 え是箇の什麼ぞ
なんとまあ難しい言葉だこと。こんな言葉は聞いたことも見たこともない。
禅語でよく使われる言葉のようで、「じゅうま」も「いんも」も、どちらも同じ意味のようだ。「什麽ぞ」というのは、「なんぞ」「いかにぞ」と
掀翻
ところが概念の世界もそのもとは体験の世界なので、体験を離れて概念はないのである。概念の世界は地図の世界で、この世界も天文も一目の下に見ることは誠に結構だが、それは実際に踏んだ山や川、そのものではないのである。それ故概念の世界だけなら、天地を一呑みに呑みほしてしまうともいわれ得る。何でもないことだ。だが、宗教の世界では、つまり体験の世界では、むやみにそういうことはいわれない。が、宗教の世界でも天地を掀翻する、そういうこともいう。しかし概念的掀翻と体験的掀翻との間には大いなる差異がある。これを知らなくてはならぬ。
平たく言えば「ひっくり返してしまうこと」だ。
- 掀翻・掀飜(コトバンク)
だが、もう少し深いところを言っているようにも思う。西洋哲学で言う「
ところで、引用の部分は、本著作の中ほどの「熱い……」ところにある。大拙師が「仏教は概念や知識ではなく体験である」ということを、手を変え品を変え、切々と説いているところであり、本著作中の重要部分の一つであると私は思う。
逕庭
……自分らが今いわんと欲するところの見性体験と、大いに逕庭あるを覚ゆるのもやむを得ぬ。
「隔たりがある」という意味である。
- けい‐てい【径庭/×逕庭】の意味(goo辞書)
封疆
これがまた難しい言葉で、聞いたこともない。特に「封疆」の「疆」の字の
……恵寂は恵寂で、どこへでも流用せらるべき名ではないのだ。各自その封疆を守るべきである。
さかいめ、国境、仕切りのことを「封疆」というそうな。
- ほう きょう -きやう [0] 【封境・封疆▼】(Weblio辞書)
錦上 に花を鋪 く
……この呵呵大笑が大なる曲者だ。この一条の問答は、この一句の点破により、無限の妙趣を添え来たるのである。錦上に花を鋪くというべきであろう。
「錦上に花を添える」という言葉は聞いたことがある。二つの意味があり、一つは「より美しくする」、もう一つは「わざわざ余計なものを付け加える」だ。
「
上の引用の通り、本著作中では「よりよくする」という方の意味で使っている。
- 錦上花を添える(Weblio辞書)
火を撥 って浮漚 を覓 むるが如し
これもまたサッパリわからない、難しい言葉である。検索すると禅宗関係のサイトがよくヒットするから、禅宗ではよく使う言葉なのであろう。
道を見て
方 に道を修する、
見ざれば復 た何をか修せん。
道の性は虚空の如し、
虚空に何の所修かあらん。
徧 く道を修するものを観るに、
火を撥 って浮漚 を覓 むるが如し。
但〻 傀儡 を弄するものを看 よ、
線断ずるとき一時に休する
全体としては「ゴールに到達するための正しい道すじなんてものは存在しない、道なんかない」というふうに突き放したようなことを言っていて、このコンテキストから意味を
私自身のことであるが、こうした言葉に非常に救われるように思う。近頃、「意志の力」だなどとヒトラーみたいなことを言ってみたり、あるいはまた、体系だ仕組みだ改革だ目標だというようなことを言い立てて他人を苦しめ、実際には
次
「世界教養全集第3」。鈴木大拙の「無心と言うこと」の次に収載されている著作は、ぐっと色が変わって、芥川龍之介の「侏儒の言葉」である。これは小学生の頃に読んだことがある。なかなか皮肉な文章のオンパレードであったように記憶している。反権力、反道徳、アナーキズム風の味わいだけが胸底に残っていて、細部の記憶は消えている。あまり剛直・単純な強者の言葉、質朴・正直な箴言とも思えなかったように記憶しており、今となっては嫌な感じもするが、反面、数十年ぶりの再読は楽しみでもある。
地蔵盆
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
地蔵盆
さえずり季題【455】地蔵盆 『地蔵盆』言うノンは子供らの縁日のこと。町内に祀られてる地蔵堂ですんねんけど…お地蔵さんを囲んで、西瓜やお菓子をいただく、子供らの夏の終りの一大イベント『クロボウといふ駄菓子ふふ地蔵盆』西川由紀子 #saezuriha_odai #saezuriha
— 萬屋万吉 (@mankichiyorozuy) August 23, 2019
煽 り運転の宮崎文夫
例の「借り物の高級車で
異例の全国指名手配となった宮崎文夫なる人物だが、事件後も悠揚迫らず大胆不敵な行動をとっていたようで「事件後、SNSに食事した写真を投稿した」と報道があった。
- 公開手配2日前に女性と食事 宮崎容疑者の足取り判明(FNN、令和元年(2019)08月18日(日)06時19分)
文春などもえっらい熱の入れようで記事を連発している。
- 【あおり運転殴打】宮崎文夫容疑者、所有マンションでもトラブル 友人には「狙われている」(文春オンライン、令和元年(2019)08月17日(土)09時03分)
- “あおり運転殴打”宮崎容疑者(43)過去にも逮捕歴 女性を監禁か(文春オンライン、令和元年(2019)08月17日(土)17時30分)
それで興味を覚え、検索してみたら、インスタグラムで本当に下のようなアカウントが出てきた。
上のInstagramのコメント欄はいたずら書き、嫌がらせのオンパレードで大炎上中である。
本当に「宮崎プロパティマネジメント(株)」と「(株)オマス」という二つの会社の社長だそうである。顔写真などもあり、間違いないようだ。
しかしそれにしてもこの宮崎何某、騒動になったあと、上のように牛タンなんか食って写真を上げていて、俄かには信じがたい行動ではある。
だが、冷静に考えるに、被害に遭われた方には本当に気の毒ではあるが、「あおり運転」「暴行傷害」「借りた車を壊した」ということそのものは「微罪」であり、仮に裁判となってもせいぜい罰金だの執行猶予付きの判決だので終わりだろう。会社にしても、自分で経営しているわけだからクビになる心配などないし、会社の登記が抹消されるわけでもなかろう。むしろ、「車を返しに来た」という社員を名乗る男の方が哀れにもクビになってしまうかもしれない。
その辺がわかっていてこういう倨傲不遜な行動をとっているのだとすると、逆にあっぱれと言うか、そら恐ろしい感じがする。
というのも、こういう連中って、他にも沢山いると思うからだ。微罪など屁とも思っていない、捨てるものが何もない、裸一貫の連中である。こういう連中を根絶やしになどできない。この宮崎何某だって、警察の取り調べでは警官の言うことなど聞く耳持たずに吠えまくり、検察でも屁理屈をこね、裁判で自分に不利な判決が出ても屁とも思わず、適当な弁護士を通してさっさと始末してしまい、仮に取り調べ中拘留されたって金があるから面倒くさそうにさっさと保釈金など払い、「今回は少し運が悪かった」程度にしか感じないだろう。
まあ、経営者に限らず、偉くなってる連中なんて、多かれ少なかれこういう異常性格を持っている。ああ、嫌だ嫌だ。
この男、結局今日逮捕されたようだ。
- “あおり運転”指名手配の男の身柄を大阪で確保(テレ朝ニュース、令和元年(2019)08月18日(日)11時38分)
新涼
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
新涼
さえずり季題【454】新涼 秋に入ってから感じる涼しさのこと。「涼し」だけでは夏の季語。涼しく過ごしやすい季節になってきたことをいう。新涼を首を長くして待つ日々です。
傍題に秋涼し、初涼など。「新涼やダムは真白な水を吐く」平田青雲 #saezuriha_odai #saezuriha— さとう みちこはん (@burukosan) August 16, 2019
終戦記念日
暦の上では既に初秋とは言うものの、依然暑さは厳しい。家々の
今日は終戦記念日である。自宅に半旗を掲げる。
長年の習慣で、終戦記念日は靖国神社へ参拝に行くことにしている。長年、と言っても、20年にはならない。私が東京勤めになったのは20年前、平成11年のことだが、参拝は東京勤めになってしばらくしてから始めたことだ。だから、15~6年ほどは参拝していることになろうか。仕事があって参拝出来なかった年もあったが、そんな年は別の日に参拝している。
靖国神社は英霊を顕彰するところだ。これはなにも
加うるに、あまり知られていないが、日本の軍人のみならず、世界の戦没者をも鎮霊している。正面の大鳥居からではなく、靖国通りを西(市ヶ谷駅方向)へいくと、社域の中ほどに「南門」という鳥居がある。その近くにひっそりとある「鎮霊社」に、こうした世界の戦没者が祀られている。
したがって、靖国神社を参拝するに当たり、何も
例えば
もっと言えば、英霊の顕彰は、自宅で心に深くそれを思うことでも可能である。玄関先に出て靖国の
8月15日の靖国神社境内の雰囲気を嫌う
しかも最近の終戦記念日の、大鳥居から地下鉄九段下駅までの状況ときたらどうだ。チベットの救済や、中国の宗教結社の保護を訴える国外勢力、あるいは胡散臭い政治結社の宣伝場と化しているではないか。言いたいことはわからぬでもないが、中共によるチベットや法輪功の弾圧と英霊の顕彰は簡単に短絡はできない。いや、はっきり言えば無関係だ。
そして、上に
だがしかし、それでもなお私は、長年にわたり終戦記念日に靖国神社を参拝してきた。
なんとなら、8月15日は、昭和聖帝の
英霊は、きっとそのことを受け止めたい筈だ。そう思いたい。だから私は、やはり終戦記念日に靖国神社を参拝するのである。
A級戦犯の合祀云々としつこく言い
「A級戦犯」の「A」というのを、「より重罪の、エース級の悪人だ!」などと思い込んでいる向きもあろうかと思うが、このネット時代、少し検索すれば、これも誤りであることがわかる。誰にでもできることだから、その詳細をここにくだくだしく書くことはすまい。
戦争犯罪が気に障るなら、東京大空襲・都市無差別爆撃の明確な戦争犯罪人であるカーチス・ルメイ大将に対して、日本が
書いたところで
年々、政治家や閣僚が終戦記念日に靖国神社を参拝しなくなっていっているのは、
だからこそ、私のような貧者、無名の一個人が、終戦記念日に、なんの批判も受けずに堂々と参拝することには少しばかりとはいえ意味もあろう。私如きサイレント・マジョリティが参拝者の一人として数え上げられ、統計上の数字になることは、いわば選挙の一票のようなものだ。私と同じく、もの言わぬ黙々たるどなたかが、九段下の駅や大鳥居の下や境内の片隅で、カチリと数取機のスイッチを押してくれるだろう。
さて、そんなわけで今日は、例年と違って相当朝早く出かけた。さすがに空いている。
粛々たる気持ちで参拝する。
参拝後、いつもは立ち寄らない「鎮霊社」のほうにも回ってみた。
しかし、事前に情報を得ていたところではあるが、数年前に爆破未遂事件を起こした韓国人テロリストのせいで立ち入りが制限され、参拝できないようになっていた。
少し離れたところから遥拝して代わりにする。
左の写真は立ち入ることのできるぎりぎりのところまで寄って撮った写真だ。わかりにくいが、画面の奥の柵の向こうに鎮霊社がある。私が来た時には、ちょうど二人の神職が拝礼しているところであった。
今年は千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも立ち寄ってみることにした。ここは軍人・軍属にとどまらず、戦難に殉じた多くの方々を祀るところである。靖国神社からは歩いて5分ほどだ。千鳥ヶ淵を左に見て、お堀端に沿って歩いていけばすぐ右手にある。
誰でも献花・焼香できる。献花は一輪100円である。
心から合掌・
今年は御創建150年の記念の年であるため、特別展も150年にちなんだものをやっている。
常設展示は何度も見ているが、改めてじっくり見る。3時間ほどかけた。
そうするうち、武道館の全国戦没者追悼式の様子が館内放送される。天皇陛下御光臨、国歌斉唱の後、まず安倍総理の式辞がある。
- 令和元年度全国戦没者追悼式総理大臣式辞(首相官邸)
それから
黙祷のあと、天皇陛下の御聖旨を拝する。
全国戦没者追悼式が終わったあたりでちょうど常設展を全部見終わり、特別展の方をじっくりと見た。
遊就館を出て、社殿の裏にある庭を散策した。これは「神池庭園」と言い、小さな滝があり、錦鯉が飼われている。茶室があるが、茶室の建物は、戦前、いわゆる「靖国刀」の鍛冶場があったところだそうである。
庭園から社殿の方へ戻り、歩きながら掲示物をぼんやり見ていたら、御創建150年記念奉賛事業ということで、一口5千円を募っていることが分かった。1年限定で奉賛会員扱いしてくれるという。一口奉賛させてもらうことにして参集殿へ申し込みに行った。
参集殿に入ろうとしたら、上がり框の、人々の邪魔になるところに、何だか知らない代議士とその取り巻きが幟を幾つも押し立ててうろうろしている。入り口の狭いところに陣取って、巨体で人を押しのけるので、迷惑極まった。名前も知らない代議士だ。腹が立ったので今ここに名前を書いてやろうとしたが、名前を忘れてしまった。終戦記念日に参拝は結構なことだが、時と所もあろうに派手な白い背広など着て来て、周りを
そんなことはあったものの、5千円を払い込み、御創建150年奉賛事業に一口のることができた。
奉賛記念ということで、お茶を一袋頂戴した。写真の右下に写っているのがそれで、掛川の深蒸し茶だそうだ。
ほどほどに疲れ、帰宅した。















