庭の
赤花は盛りで、白花の方もほぼ咲き
オッサンは生きている。
あまりテレビを見ない方なのだが、NHKの朝の連続テレビ小説「おちょやん」は面白いと思うので見ている。かつて大阪で活躍した女優、浪花千栄子の一生をモデルにしたドラマだ。
筋書きはもちろん面白く、泣きあり笑いありで私好みである。何より、大阪出身の私にとって、主演女優杉咲花氏の大阪弁の演技がよくできていることには感心させられるところ大である。助演陣の大阪弁はそれほどでもなく、イントネーションなどに変なところが時々あるが、主演の大阪弁は、私などの親以上の世代の老人の、昔の言葉を聞くように自然であり、「ああ、昔の女の人は、こういう
女主人の昔の思い人に主人公が
「さいだんな、……お二人はほんまに仲ようしてはりまっさかい、あんたさんが入り込むような隙はあらしまへん」(『そうですね、……お二人は本当に仲良くしていらっしゃいますので、あなた様が入り込むような隙はございません』……とでもいったところで、丁寧かつ親愛に言っているのである。)
……と伝えるシーンなど、大阪の女性でも現代の人ではこうはいくまいという程の、素晴らしい女言葉であった。
ただ、「人称」に、やや気になるところがある。
今の私たちも、無論日本人だけでなくジェンダー平等を標榜する欧米人も、人称や敬称には性差がある。すなわち、日本では「僕」「俺」「私・あたし」、欧米では「ミスター」「ミセス」「サー」「マム」「ヒー」「シー」などである。欧米では更に女性の敬称に身分差が厳然として残り、「ミセス」「ミス」と使い分ける。「ミズ」という語はごく近代になってから使われるようになったもので、むしろ呼び分け方をややこしくしている。
さておき、時代を
「おちょやん」でも、主人公が主家の娘に「アンタ」と呼び掛けて「『アンタ』やない。『いとはん』や!」と言葉
こうした点が非常によく出来たドラマだと思うのだが、反面、「やや気になるところ」があると思うのは、一人称だ。
堺の刃物商の娘であった私の母(現在85歳)がかつて私に語ったところによると、
……ものだそうである。
「わて」という一人称は、へりくだった謙譲の語であったようだ。
ただ、これは私が体験的に耳で聞いて知ったことに過ぎず、文献などに明確にそのような記載があるわけではない。文献上はだいたい下の引用リンクのようなことである。
「おちょやん」では、芝居茶屋の主人一家も、誰に対してもみな自分のことを「わて」と称しており、この点は多少検討の余地がなくはないのではないか。使用人に対しては「うち」、茶屋の客に対しては「わて」とするのが自然な昔の大阪の一人称であるように私には思われる。
他に、昔の大阪では男の一人称に「わし」が良く使われていたことも一考してみたいところである。これは、男の子も勢を張るような時にはそう自称したものだ。「おちょやん」ではあまり「わし」は使われていない。ヒロインの相手役、天海一平の一人称で「この場面は『オレ』やのうて『わし』やろ」などと思うようなところもある。
重ねて言う通り、この意見には明確な研究や根拠があるわけではない。実地に関西で生きた一老人から、一個人が耳でそう伝え聞いた、というだけのことに過ぎない。この点、人によって見解に差があり、正解もなかろう。今後、各種ドラマ等製作陣、
コロナ禍において、米国や欧州の民衆は民族の壮大な再生劇を経験しつつある。しかし、わが日本はそうではない。「そうではない」と仮に書いてみたが、もはや「そうではなかった」と過去形で記してもよいところにまで来ている。
米国は既に50万人という途方もない死者を出した。これは、いわば核戦争の勃発にも匹敵する数である。米国は人権国であるから、第1次大戦や第2次大戦で死んだのは軍人ばかりであり、南北戦争にまでさかのぼらなければ、無辜の老若男女がこれほど死ぬということを経験していない。これでは、ワクチン開発成功後も国家の
思うに、これは米国にとって建国以来245年、欧州も含めれば、欧米史的に言ってざっと500年来の歴史的致命傷となるのではなかろうか。
核戦争に匹敵するような死者を出しつつある
それに比べれば、災害
かくまでに私たちは平穏にして整斉粛々、抑制の効いた生活を送ることにより、逆にむしろ、生まれ変わるチャンスを逸した。世の中はリモートワークだ改革だと言っているが、実際のところ、米国や欧州の、毒を以って毒を制するが如き民族的・歴史的な逆療法と言ってもよいショック、またそれによって惹き起こされる過激でもあろう復興から見てみると、日本は岩石とか鋼鉄のように、まるで何も変わっていない。
欧米白人たちは、日本人からは想像も及ばぬ、宇宙人のような、いや、無機物のような、正体不明の、人外の異生物に変貌するだろう。そんな彼ら化け物どもとどのように対峙していくかが、新型コロナ後の課題なのではないか。
天皇誕生日によせた祝日エントリで、筆のすさびならぬ、キーボードの進むままに「
「べからざらんや」というのが、人様にわかってもらえるかどうか、気になったのだ。
Googleで「べからざらんや」を検索すると、なるほど、「Yahoo!知恵袋」などがヒットしてくる。学生らしい質問者が国語の勉強の上でだろう、「どういう意味でしょうか」と問うているわけである。
教科書的な回答が数多くあるが、しかし、私としては次のように説明を試みてみたい。
「祝う」という語が「祝うべからざらんや」となるまで、反語で強められていく変化の過程を例に示すことで説明に代えたい。
口語体 | 文語体 |
---|---|
祝う | 祝ふ |
祝うべきだ | 祝ふべし |
祝うべきではない、祝ってはならない | 祝ふべからず |
祝ってはならない(もの) | 祝ふべからざる(もの) |
祝ってはならないだろう | 祝ふべからざらん |
祝ってはならないだろうということがあるだろうか?(いや、そんなことはない) | 祝ふべからざらんや |
このように変化させて考えていくと、文語的表現はピシリと引き締まり、文字も少なくてすむことがよくわかる。
私は俳句を詠むのが趣味だが、五・七・五の限られた文字数でできる限りの表現をしようとすると、文語体の方が色々詰め込むことができる、ということは上のようなことからも多少否めないと思う。
昨日一輪綻びたばかりだった赤花の
近寄って嗅いでみると、あの甘く良い香りがする。
根元の方に多くの花芽がある他、
楽しみである。
白花の方はまだ咲かない。しかし、芽が大きく膨らんでいるから、もうすぐだろう。
昨年の9月頃に庭の花壇に植えた
昨日庭に出た時にはまだ咲いていなかったのだ。
白花の方は、芽は大きく膨らんでいるものの、まだ咲かないようだ。街の植栽の沈丁花も、赤花には咲き始めているのを見かけるが、白花はまだなので、多分沈丁花と言うものは、白花の方が遅く咲くのだろう。
来週にかけて、次々と咲くと思う。
Twitterで「こいつマスク」というのがトレンド入りしていて、なんだなんだと内容を見てみて、不覚にも笑ってしまった。
上がその「こいつマスク」の記事らしいのだが、エエ歳こいた60歳近いおっさん二人(なぜか二人とも「アルバイト」とかいうのもなんだかアレだし)が殴り合いの喧嘩をして双方とも怪我を負い、二人とも逮捕されるという、なんですか小学生かお前らは、というような。
しかしまあ、ある意味、尼崎らしい、という感じもする。
何か、「公的な場では布マスクではなく、不織布マスクを着けるのがマナー」みたいな、変な空気が醸成されようとしている。
まったく馬鹿々々しい。
左の動画で報告されている、理化学研究所で行われた研究がこの変な風潮の元になっているようだ。
確かにこの動画では不織布の性能がよい、と指摘されているが、中身をよく見なければならない。動画内では顔にフィットしない不織布マスクの隙間から多くの飛沫が飛散していることも同時に指摘しているのだ。フィルター性能が高ければ高いほど、呼気の通行も妨げられるということもこの研究は指摘しており、それはすなわち、性能が高いとされるマスクでは、かえって呼気が逃げ場を求めてマスクの周囲から通行してしまう、ということをも示唆している。
だから、この研究の上っ面だけをとらえて「不織布マスクが今後の正しいマナーだ」などと短絡するのは間違いなのだ。坪倉博士は上の動画内でも「経済性や置かれている状況その他を総合的に判断して選択するものであり、一般の人がどのような場合でも必ず不織布マスクを選択すべきだなどと言うことは一概には言えない」という意味のことを付言してもいる。
したがって、新聞・テレビが「使い捨ての不織布マスクが新たなマナー」みたいなことを言い出すなど、支離滅裂である。さなきだに、昨年来、あれだけマスク不足だなんだと新聞・テレビが煽ったから社会が混乱したのではなかったか。今、ようやく一般人が布マスクなどで自衛することが定着したところなのだ。
私などは、この悪性コロナウイルス騒ぎの前から自作の布製マスクを使用している。市販の不織布マスクが自分の顔の形に合わず、頬骨や目への無用の圧迫がある上、呼気のほとんどがマスク周囲の隙間から出入りしており、これでは意味がないと感じたからだ。目の間隔や鼻の高さ、顎の幅など、自分の顔の寸法を定規やノギスで測り、立体的に縫製し、顔にピッタリと合わせてあるので、周囲からの空気の漏れはほとんどなく、呼気は布を通る。なおかつ、着けていて変なところが痛むということもない。そのため、昨年のマスク不足騒ぎの時には全く痛痒なく、何の影響も受けなかった。
これをしも「マナーに違背するから不織布マスクを着けてこい」などとされるのは、不愉快千万である。
左は、
それだけの動画に、なぜだか思わず涙ぐんでしまいそうな感動を覚えるのであった。
今しも、スウェーデン王国は1千万人強の人口に対して悪性コロナウイルス感染症により1万人を超える死者を出し、国難の
勿論、我が国内で不幸にも同感染症で亡くなった多くの方々には、衷心より悲しみとお悔やみを共にしたい。
さはさりながら、諸外国と比べてこの相対状況であるならば、日本はむしろ余力のある国として、他国に救助のための手を差し伸べ、俄然奮迅努力しなければならない立場にあると思うのだ。ところが、残念ながら日本国内の状況は、緊急事態宣言に目の色を変え、有象無象の勢力が互いに批判と罵倒を繰り返し、自らの不幸を嘆き、恐怖に駆られて政府や行政を
科学者の活躍が待たれるところだが、学術会議の人事にあんなにも頑固で片意地な異を唱えた学者連中がここにきて沈黙しているのは、笑止千万と言わざるを得ぬ。どんな素人が見ようと、あれなど外患誘致の疑いによる騒動でしかない。科学者は皆、学際挙げてのあの馬鹿げた喜劇の如き
だが、「お
スウェーデンの美しい親子の動画から、そんなことをあれこれと連想する冬の午後なのであった。