いつもの習慣でGoogleニュースを開いたら、ありがたがれと言わぬばかりにローマ法王猊下の平和のための御高説記事がトップに出て、そのすぐ下に、バグダディを殺した軍用犬の顕彰記事が出ている。
犬に人を襲わせるような外道と、嘘臭いローマ法王の説教。
皆さん、これがね、白人の正体ですわ。平和だクソだと言う口先の一方で、お前を愛していると言いながら両手で人間の首を絞める、それがヨーロッパとアメリカの人々ですよ。
ああ、嫌だ嫌だ。
コッチへ引っ越した。
報道によると、なにやら東京オリンピック開催を睨んで、戦前から再燃しては消えていた「サマータイム導入」の
何がサマータイムだ、馬鹿馬鹿しい。
日本は明治維新まで、不定時法、すなわち日の出を明け六ツ、昼を順次五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツ、日の入を暮れ六ツ、五ツ、四ツ、九ツ、八ツ、七ツとし、毎日連続量で変化させるとともに、鯨髭のぜんまいを使用した機械式振り子時計でこの不定時を正確にシミュレートさせるなど、明るさや気温、季節に合わせた刻時方法を実現していた。つまり、とうの昔に「連続式サマータイム」を実現していたのである。
この「九・八・七・六・五・四、九・八・七・六・五・四」という数字の繰り返しは、古く支那文化に由来する五行説によるものだ。
だが、そういう天然・自然に即した刻時が合理的でないとして無理にやめたのだ。
それを今更、「欧米が皆やっているからサマータイム導入だ」などと、人工的で不自然なことをワケのわからない理由で強制しようとする。愚劣の骨頂である。どうして「欧米が~ッ」ではなく、「日本ではこうである」と言えないのか。主体性のなさに憫笑すら覚える。
こんなことを書いたのだが……
……意外に、「不平等条約と卸問屋―問屋―小売、そんなもん、何が関係あるんだ?」と問われるような気もするから、そこを記しておきたい。
さて、ここまで見てきてから、ネットでの商品流通を見てみる。
ネットでの流通は、中間段階の利益取得を最小限にするから、売り手はたくさん儲かるし、買い手は安く買える。つまりこの逆である。そのかわり、ひとつのものにぶら下がって食っていける人は少なくなる。就職氷河期などというが、こうしたことも無関係ではあるまい。
(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)
日常をできるだけ質実剛健にするよう心がけている。身の回りのものや食べるものなどに関して、「あてがいのもの」に文句を言わないことを子供の頃から身につけてきたので、そこのところにはあまり苦労はない。
むしろ、妻に「お父さん、晩御飯なにがいい?」とか、「シャツの色これでいいかしらん」と聞かれると、逆に困ってしまうのだ。若い頃はつっけんどんに「そんなもん、何色でもエエ」みたいな答え方をしてしまっていたが、今は「そうさなァ、黒のほうが歳相応じゃないかな」くらいの好みは言うようにしているので、無駄に妻をふくれさせることは昔に比べて少なくなった。
靴なども一度買うと、破れて指が出てしまうほど履きつぶしてしまう。前革と底が漫画の浮浪者みたいにパックリと口をあけたのを履いたまま靴屋に飛びこんで新しい靴を買い、店員さんが顔をしかめるのにもかまわず古いほうをグイと渡して、「コレ、捨てといてください」なぞと、そんな靴の替え方も一再ならずやった。めったにないこととは言うものの、 あんな、たださえ異臭を漂わせる乞食じみたブツを始末させられるのだから、うら若い靴屋の店員さんもたまったものではなかったろう。
今、数年前にそんな買い方をしたホーキンスの「トラベラー」という靴を毎日履いているのだが、これがなんとも良い買い物であった。6千円ほどのお安いところだったのだが、薄手なのに本皮、縫製もしっかりしており、内側外側、今に至るもほつれも破れもない。こういう製品はめったにないものだ。
さすがに、踵や底はやわらかく作られているので激しくすり減り、踵は斜め45度にくっきりと削れあがり、前の方は「スリックタイヤ」(笑)の如き様相を呈してきた。丁度梅雨どきだ。雨に濡れた駅のタイルでツルツルすべるのには閉口もする。大方4年は履いたのだから、モトはとれている。他の部分はなんともなくても、さすがに買い換えようかなという気持ちに傾いてもくるのである。
しかし靴屋に行くべく腰を上げるのが億劫で、なんとはなしに躊躇していた。ネットでぼんやり同じ靴を検索してみると、こんなこと一つとっても「ショウウィンドウ化」の実例はさながら手に取るがごとし、である。すなわち、ABCマートのページでは8千円ほどで直接販売している。しかも、店頭と違って品番で欲しいものが探せる。しかも安いと来ている。
外へ買い物に出かけたところで、店頭でサイズと形を合わせて、品番メモって、店を出てタブレットかスマホでポチれば、手ぶらで帰れるし翌日には家に届く、というわけである。しかも条件によっては送料も無料、値段は店より安いのだ。
小売業というのはたいへんなものだ。これではネット方面のチャンネルにうまく手を出しておかないと商売あがったりである。こんな消費者の行動に振り回されなきゃならんのだからたまったものではないだろう。こうして、デジタルに飲まれて後手後手で小売業界も再編されてしまう。
これを、もろ手を挙げて賛成ばかりしておれないのは、私のような商業や流通のことに詳しくない者にも知れきったことだ。
日本は、江戸・明治の不平等条約時代このかた、一つのものを何度も何度も再販する多層流通の仕組みの保持により、関税をかけずに国内市場を保護し育成することに成功した。これは言うなれば政治・外交の
まあ、その代わり、私などが子供の頃は、モノは大変高かった。大人になってからしばらくしてもモノは高く、この前捨てたソニーの14インチのテレビだって、20万以上したもので、薄給の私はボーナスをはたいてそれを買い、とても嬉しく、大切に使ったものだ。今20万払ったら、どんなでかいテレビが買えることか。
そんなことからよくよく考えると、あてがいのものに対して文句をあまり言わないという私の従順な消費性質は、古い再販流通の仕組みなどがもたらしていた高度成長期のゆるやかなインフレによって作られたのかもしれないぞと思い当たる。
TPPなんていうのはまたしても経済の黒船みたいなものなのだろうが、明治のひとびとが古い再販流通組織を密やかに運用して不平等条約から日本の経済を防御したように、だれか賢い人が上手にTPPの不利を避けてくれればいいんですがねえ。
(この記事は、当時Facebookに書いたものである。)
先ほどニュースを読んでいたら、
↓
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090929-00000080-mai-bus_all
・・・文脈中に
「HVを持たないマツダはガソリンエンジンの燃費性能を追求。「清」をベースにした小型車を10年代前半までに発売する方針だ。」
などと、平気で書いてある。どうも最近こういう記事が増えてきた。ナニがおかしいかって?「10年代」ですよ、10年代。約10年前の平成10年からの10年間のことかと思った。先だってなどは、別の何かの記事で「9年度」とあって、一瞬とまどった。
もちろん、「ああ、『10年代』と言うのは、おそらく2010年代のことであろう。無論、『9年度』というのは2009年の年度であろう。」と想像はつく。この程度ならまあ、寛容しよう。だが、簡単に想像がつかない記事もたまにある。以前など、昭和30年代の話と、太平洋戦争前の世界恐慌の話がゴッチャ混ぜに書かれた新聞のコラムを読んで、反吐が出そうになった。西暦の30年代と昭和30年代が、なんの断りもなく記事中に混在するのである。
日本は元号を用いる国だ。新聞やマスコミも、基本は元号で年号を記すべきだ。
「2010年」に「西暦」を冠せよとまでは言わない。だが、2バイト文字で「10」なんて書くなら、「2010」だって嵩は同じはず。だいたい、4月始まりのいわゆる「会計年度」なるものは、元号を使用するべきではないか?
結婚式を教会でやるなとか、そんな偏屈なことを言うのではない。西暦は宗教色が強いなどと言えば「そんなことを言うなら、元号だって国家神道の総本家、皇室・皇統がよりどころでしょ」と反駁されることもよくわかっている。いや、でも、キリスト教なんてものは侵略宗教なんですがね。おっと、脱線しちゃいかん。
ややこしいでしょうと言いたいのだ。
西暦で書きたいときは、よりわかりやすくするため、4桁で書くべきである。百歩譲って、和暦で書くときは必ず元号を接頭する、としてもよいが、もしそうするなら、西暦で書くときは必ず「西暦」と接頭しなければならない。