「経験値」?「値」なの?

投稿日:

 「経験値を高める」という表現が嫌いである。この表現には、「経験」と言うものをナメ切ったふてぶてしい意識が潜んでいる。

 「経験」というものは、数字で表現したり測ったりできないような、貴重なものだ。それを、

「経験?……ケッ、爺ィはこれだからよ。何グラムとか何メートルとか何時間とかいう『値』だろ、そんなもの」

……と、バカにしているから、その感覚がこの「値」という一字に表れるのだ。

 経験を得るためになにかをしても、この「値」意識があるうちは、有用な経験は得られないだろう。実地に体験して、測ったりすることのできないものを身につけるという意識がないとだめだ。経験は「値」ではないのだ。値で測ることができるのは、それは経験ではない。ただの知識、情報、テスト勉強のたぐいである。

 値で測ることができるようなものを「経験」と言っているようなことだから、「あなたの職業は将来コンピュータにとってかわられ、無くなってしまいます」などという人をバカにした研究がまかり通るのである。

多面的にものを見る

投稿日:

PHM11_0185 「多面的にものを見ている気になっているだけ」という人と、「本当に多面的に見ている人」の違いを考えてみた。

 「本当に多面的に見ている人」というのは、決心・決断が速いように思う。そうして、現地現物を重視していて、一次情報を自分で集めたりする。

 他方、「多面的にものを見ている気になっているだけ」の人は、安心したいがために情報をわんさか集め、ところがそれらは人手を借りた二次以下の情報ばかりだったりする。それらを精選できず、そのためにかえって迷いを生じ、決断できなくなり、躊躇逡巡し、その結果、機を失することが多いように思う。そして、愚にもつかない責任回避策を練ったりする。

 こういう、単に検討要素を数多く集めて並べるのが得意で、ところが何も決心できないというタイプの人は、はたで無責任に見ていると、頭の中に検討要素が単純にフラットに並んでいるばかりで、それらに優先順位などもないようだ。整理するために検討要素を書き出してみるという単純作業すらやっていないこともよくある。例えば、検討要素を紙に書き出し、次にそれらを構造化し、重みづけするという、簡単なことをやればいいだけに見えるのだが、本人は情報に溺れて青息吐息の最中、もがくだけで精いっぱいだから、そんなことすらできなくなってしまっているのだ。

 これは「これだからエラブツは」などと言ってせせら(わら)うようなことではない。他人の人生や命を預かる立場の人には無理もないことでもある。

 情報の洪水に溺れている最中の人は、決心・決断ができないことを責められると、「俺はお前みたいに小さい視野でものを考えているんじゃないんだ、これこれこういう、こ~んなに多様なことにまで目はしを利かせているんだ、だから黙ってろ!」と怒り出すものだ。

 このように、「多面的にものを見ている気になっているだけ」の人は、いたずらにものを紛糾させてしまう。

 無理もないとは言うものの、こういう溺れがちな人が人の上に立つというのは、まことに悲しむべき、そして有害なことだ。だが、人間だから、しょうがない。

 こういう人の下に、うまく問題を整理してやれる番頭役がいればいいのだが、なかなかそんなにうまくはいかない。忠実に番頭の地位に甘んじ、自分の出世など脇へ置いておいてくれる老練な人物など、いるはずもない。そういう有能な番頭は、自分が経営者や指揮官になろうと虎視眈々としている。逆に欲を捨てて枯れ切った人は、心底忠実に尽くしてなどくれないだろう。

 自分に溺れ迷う特性があり、多面的に見るのが不得手だと知っている人は、対象が小さかったり、組織が小さい場合、あるいは単に個人の問題だというとき、論理ではなく、「自分の魂に問う」というのも一つのやり方としてあると思う。決断は速くなる。だが、冷徹な数字を出さなければならないような人は、単に魂に問うのではダメだろう。ましてや魂ではなく気分や感情に問うのなど、論外と言うべきだ。

綾太郎と俺

投稿日:

 浪花亭綾太郎の写真

浪花亭綾太郎

 私の写真(というか近影)

儂w

……おおっ!似ているッ。

 定年後は浪曲師にでもなろうかしらん。……って、浪花亭綾太郎みたいな音感はないしなあ……。……何っ?綾太郎なんてひしゃがれ声で、音感なんてないって!?何を言うんだ、あの類稀なる節回しがわからんかああああ!w

たまたま機内で見て

投稿日:

 先日、たまたま飛行機内で見た映画がこれで、腹がよじれるほど面白かったのだが、こんなドメインまであるとはねえ(笑)

 今年の春頃封切だったようだが、春には「エイプリル・フールズ」のほうを見たので、この映画は知らなかった。

秋生まれ一家

投稿日:

 私の家族は全員秋生まれで、3人が9月、次女だけ10月だ。

 ほぼ1か月の間に4人の誕生日が集中しているので、秋になると誕生日のごちそうと誕生ケーキをダーッと一気に毎週毎週食べ、誕生日シーズン完了、とあいなる。毎週ごちそうなので、秋は楽しい。

 昨日は次女の誕生日だったので、おいしいものを食べて過ごした。次女は「何が食べたい?」と聞くと、小さい頃は「(きのこ)づくし」を要求するという誠にシヴい子だったが、昨日は「アイス・ケーキ食べたい」と、普通の娘並みのことを言ったので、ホッとしている。

 またこの先1年、誕生日ナシだなあ。

統一が正しいとは限らない

投稿日:

 免許証とSuicaと住基カードとTポイントカードとVISAと銀行キャッシュカードを全部1枚におさめることは、技術上は可能なのだが、「絶対ダメーーーーーっ!」と絶叫するものすごい人々がいるので、ダメなのだろうなあ。

 全部1枚になったほうがよっぽど便利だと思うが、便利と言うものはだいたいは人生の敵だから、まあ、カードがバラバラにあるのは、それはそれでよい。

投稿日:

 花の季節が終わったなあと思う。紫陽花(あじさい)はまだ咲き残っており、美しい株もあるが、もう長くない。

 梅雨が明ければ百日紅(さるすべり)がそこここの庭に咲きはじめる。

昔に比べて

投稿日:

 昔に比べて、本当にビールの品質がよくなった。昔は「ビール」と称していても、大抵コーンスターチなどが入っていて、今の発泡酒の品質だった。ごく僅かな銘柄(ヱビスなど)だけが麦芽とホップのみで作られていた。

 この状況は何年くらい前までだったろう。

 ビールの品質が向上するのと前後して、底質の「発泡酒」が出てきた。これは以前のビールとあまり変わらない品質だ。買い手ははっきりそれと知って買うことができるのだから、正直でよいことだと思う。

簡単だからといって

投稿日:

 破産して貧乏人になるのなど簡単なことだ。すなわち、収入より支出を多くするのである。やがて貯えがなくなり、足りない分はどこかから持ってこなければならず、つまりは借金をするはめになり、ついには破産し、貧乏人になってしまう。

 逆に、金をためるには収入より支出を少なくすればよい。馬鹿でもわかる理屈だが、これが、できない人にはできないものなのである。

 ダイエットもまったく同じである。摂るカロリーより出ていくカロリーを多くすればよい。どんどん痩せる。一点の疑問もない。

 これもまた、馬鹿でもわかる簡単な理屈なのであるが、これが、普通の人にはできないのである。

 なので、「これこれのことができないから、あいつは馬鹿だ、劣っている」という断定方法は、必ずしもすべての事象に適しているとは言えない。

 同様に、「××すれば○○になる」とか「○○は悪い」とか「××は良い」とかという、極めて簡単なことは、世の中に一杯ある。

「勉強をすればテストで良い点が取れる」
「泥棒や人殺しをすると捕まって刑務所いきになる」
「運動しないと体力がなくなる」
「他人を愛すれば自分もまた愛されることにつながる」
「戦争は悪いことだ」
「煙草は体に悪い」
「酒の飲み過ぎは良くない」
「スピード違反をしてはいけない」
「信号を守らないのはよくない」

 どれもこれも、あまりにも当然であり、簡単すぎるほど簡単であって、読んでいてバカバカしくなるほどだ。だが、この、バカバカしく簡単で当然のことが、できない人がたくさんいるのが、現実というものなのである。

 だから、自分が痩せているからといって、自分が勉強ができるからと言って、自分が酒を飲まないから、煙草をすわないから、おまわりさんに捕まったことがないから、人を愛しているから、戦争をしないから、という理由で、直ちにそれらをできない人を否定すること、あるいはそういう人の存在を否定することは、やめたほうがよい。できない人には、できないのである。