もとよりキリスト教徒などではなく、むしろキリスト教など大嫌いな私であるが、上記書第18節、「イエス・キリストの
オッサンは生きている。
もとよりキリスト教徒などではなく、むしろキリスト教など大嫌いな私であるが、上記書第18節、「イエス・キリストの
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」を読んでいる。
収載書の四つ目、「ゴッホの手紙」(V.ゴッホ Vincent Willem van Gogh 著・三好達治訳)を読み終わった。
ゴッホと言うと、言わずと知れた「ポスト印象派」の代表的画家でありながら、不遇や、狂気に
この書簡集を読んで感じたことは、ゴッホは文章にしても、「書いて書いて書いて、書きつくしてなお書いた」というふうに感じられることだ。すなわち、仮に現在知られているゴッホの手紙を全て日本語に翻訳したら、原稿用紙でおよそ7千枚にもなるそうである。今残っているものだけでもこれだけのあるのだから、その量は途方もなく、尋常ではない。
文章を書くことも絵を描くことも、ゴッホにとっては「表現」ないし「表出」の、燃え出るごとき欲求のやまざるところであったのだ。愛する人々に送った書簡の数々は、息を呑むような美しい風景の描写とそれへの賛嘆に彩られ、かつ、苦悩と自嘲と、それを乗り越えんとする意思とに満ちている。
もしゴッホが画家を志さず、文筆家を志したら、これも後世評価を得たのではなかろうか、などと感じる。
(651)〔オーヴェール 一八九〇年七月二十三日〕愛する弟よ。
君の手紙と、同封の五〇フランの手形と、きょう、ありがたく受け取った。
たぶん、僕は君に向けて書きたいことがいっぱいあるはずなのだが、それを書き始める気にならない。書こうという欲望が、ぜんぜん起らないのだ。なにやら、書いてもむだだ、という感じがするのだ。
僕は、君の所へ、例の紳士がたお歴々が、よい仕事をもってきてくれるといいがな、と願っている。
僕自身についていえば、僕は、ひたすらカンヴァスに打ちこんでいる。かねてから敬愛し賛美していた画家たちに負けないような、よい仕事をしたい、と努力している。
いまや、僕は、どたん場の所まで引き退った。僕は考えるんだが、絵かきってやつは、ますます背中を壁に押し付けられ、ますます窮地におちいりながら、血みどろの戦いをするものなんだね。
それならば、それでいいんだ。……しかし、画家たちに、むしろ時機遅きに失した感のある、あの団結の有用性を理解させるように努力する時期は、今なのではあるまいか? かりに団結の形態がととのったところで、いっぽうで、残余の者の足並みが揃わなければ、結局、失敗に終わってしまうだろう。何人かの画商が、印象派を援助するために、大同団結することもありうる、と君はいうかもしれない。しかし、それも永続きはしないだろうよ。思うに、先に立って
音 頭 をとる人物が無力なんだね。そうなると、僕らにはその経験があるわけなのだから、僕らこそ、もういちど、いいだすべきなのではなかろうか?僕は、ブルターニュから送ってきたゴーガンの絵を見たが、ひじょうにいいものだった。彼があそこでかいた、その他の作品も、いいものにちがいない、と僕は思っている。
近いうち、ドービニーの庭園を描いたスケッチを、君に見せよう。これは、僕がもっとも苦労した絵の一つなのだ。このほかに、藁ぶき屋根の家をかいたスケッチ一枚と、雨のあとの広いムギ畑をかいた三十号のカンヴァス二枚とを送るつもりだ。ヒルシーフから、君に頼んでくれと、いわれたことなのだが、君が僕のためにいつも送ってくれている例の絵の具屋に、同封のリストに従って、絵の具を注文してやってはくれまいか。
タッセから、代金引換えで、直接本人に送り届けさせる手もあるのだが、それでは、二〇パーセント余分に支払わねばならぬので、ばからしいというのだ。それとも、僕あての絵の具の小包の中に、そいつを同封してくれてもいい。その勘定書を添付してくれるなり、その総額を僕にいってくれるなりして。そうすれば、彼から、その代金を君に送らせるようにする。ここでは、いい絵の具は、なんとしても、手に入らぬのだ。
僕自身の注文は、ぎりぎり最小限度に減らした。ヒルシーフは、すこしずつ、わかり始めている。僕にはそうみえる。彼は、老校長の肖像をかいたが、よくかけている。――それから、彼は、風景の習作をいくつかかいているが、そいつは、君の所にあるコーニングスに似ている。色彩が、まるきり同じなのだ。そのうちに、ヒルシーフの風景画は、コーニングスそっくりになるか、あるいは、いつか君といっしょに見たことのあるヴェールマンみたいなものになるだろう、と思っている。
きょうは、これで失敬する。君の商売の好調を祈っている。ヨーによろしく。心からなる握手を送る。
つねに君のものなる ヴィンセントドービニ―の庭園だが、前景に輝く緑の間にピンクの花の咲いている
草 生 がある。左には、草藪とライラックの茂みと、葉の白 みがかった木の幹。中央には、バラの花壇。右手には、くぐり門、壁。その壁の上に、ヴァイオレットの葉 簇 をつけたハシバミの木が、姿をのぞかせている。それから、ライラックの垣根。黄いろい円 らの果 をつけたライムの木のつらなり。家そのものは、背景 に置かれている。青いタイルで屋根をふいた、ピンク色の建物。そこに、ベンチが一つ。椅子が三脚。黄いろい帽子をかぶった黒い人影が一つ。その前景に黒ネコが一匹。空は淡い緑。
この手紙の日付は明治23年(1890)7月23日、すなわち自傷行為に近い拳銃自殺の4日前の手紙であり、弟テオドール宛のものとして知られている手紙651通の651通目、つまり最後の手紙である。
次は四つ目、「回想のセザンヌ Souvenirs sur Paul Cézanne」(E.ベルナール Émile Bernard、有島生馬訳)である。ベルナールは、ゴッホにも連なる画家である。
絶句せざるを得ない。
ただ、何とはなしに「慣れてきた」感じもあって、焦燥的な危機感は、私自身にあってはあまりない。
思わず吹き出してしまった。
「アフリカに脱出したヒトラーと東条英機が殺人空手でガーナを侵略、ガーナ人はカンフーでこれと対決」、て……。
滅茶苦茶過ぎてよくわからないが、面白そうである。
話題としてはそんなに新しくなく、映画自体は今年の年明け、令和2年(2020)の2月に目黒で公開されており、その時に映画ファンをだいぶザワつかせたものらしい。
内容は意外に真面目なカンフー映画のつくりになっている、とのことだ。
このブログへのアクセスが先般から急増していることを先日書いた。記事には「落ち着いてきた」と書いたが、実はその後、アクセス数は以前の倍ほどに高止まりのまま推移していた。
記事の内部のリンクがあまりクリックされないこと、検索エンジンからの流入がそれほどないこと、アクセス元が米国であることなどから、恐らくは検索エンジンのクローラであろう、と推測はしていたが、面倒臭くて確かめてはいなかった。
ところが、この金・土、そして日曜の今日、以前の3~4倍ほどのアクセスが殺到している。ブログ開設以来のアクセス数の最高記録を軽く突破してしまった。同じように記事の内部のリンクがクリックされたり、検索エンジンからの流入はそれほどない。勿論、このブログの人気化などでは決してない(苦笑)。
もしハッキング、クラッキングの類だったりしたら嫌だな、と思い、サーバのログを確認してみた。そうしたら、「13.66.139.0」からのアクセスが大半を占めていることが判った。
そこで、「13.66.139.0」って、どこのアドレスかな、と whois を引いてみたら……
# # ARIN WHOIS data and services are subject to the Terms of Use # available at: https://www.arin.net/resources/registry/whois/tou/ # # If you see inaccuracies in the results, please report at # https://www.arin.net/resources/registry/whois/inaccuracy_reporting/ # # Copyright 1997-2020, American Registry for Internet Numbers, Ltd. # NetRange: 13.64.0.0 - 13.107.255.255 CIDR: 13.64.0.0/11, 13.104.0.0/14, 13.96.0.0/13 NetName: MSFT NetHandle: NET-13-64-0-0-1 Parent: NET13 (NET-13-0-0-0-0) NetType: Direct Assignment OriginAS: Organization: Microsoft Corporation (MSFT) RegDate: 2015-03-26 Updated: 2015-03-26 Ref: https://rdap.arin.net/registry/ip/13.64.0.0 OrgName: Microsoft Corporation OrgId: MSFT Address: One Microsoft Way City: Redmond StateProv: WA PostalCode: 98052 Country: US RegDate: 1998-07-10 Updated: 2017-01-28 Comment: To report suspected security issues specific to traffic emanating from Microsoft online services, including the distribution of malicious content or other illicit or illegal material through a Microsoft online service, please submit reports to: Comment: * https://cert.microsoft.com. Comment: Comment: For SPAM and other abuse issues, such as Microsoft Accounts, please contact: Comment: * abuse@microsoft.com. Comment: Comment: To report security vulnerabilities in Microsoft products and services, please contact: Comment: * secure@microsoft.com. Comment: Comment: For legal and law enforcement-related requests, please contact: Comment: * msndcc@microsoft.com Comment: Comment: For routing, peering or DNS issues, please Comment: contact: Comment: * IOC@microsoft.com Ref: https://rdap.arin.net/registry/entity/MSFT OrgTechHandle: MRPD-ARIN OrgTechName: Microsoft Routing, Peering, and DNS OrgTechPhone: +1-425-882-8080 OrgTechEmail: IOC@microsoft.com OrgTechRef: https://rdap.arin.net/registry/entity/MRPD-ARIN OrgAbuseHandle: MAC74-ARIN OrgAbuseName: Microsoft Abuse Contact OrgAbusePhone: +1-425-882-8080 OrgAbuseEmail: abuse@microsoft.com OrgAbuseRef: https://rdap.arin.net/registry/entity/MAC74-ARIN # # ARIN WHOIS data and services are subject to the Terms of Use # available at: https://www.arin.net/resources/registry/whois/tou/ # # If you see inaccuracies in the results, please report at # https://www.arin.net/resources/registry/whois/inaccuracy_reporting/ # # Copyright 1997-2020, American Registry for Internet Numbers, Ltd. #
実に簡単なことで、CIDRブロック13.64.0.0/11、即ちマイクロソフト社、MSNのクローラーからのアクセスであることがわかった。
しかしそれにしても、なんで今更、MSNがこのブログなんか
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集第12巻、「美の本体(岸田劉生)/芸術に関する101章(アラン)/ロダンの言葉(A.ロダン)/ゴッホの手紙(V.ゴッホ)/回想のセザンヌ(E.ベルナール)/ベートーヴェンの生涯(ロマン・ロラン)」を読んでいる。
収載書の三つ目、「ロダンの言葉」(A.ロダン François-Auguste-René Rodin 著・高村光太郎訳・今泉篤男編)を読み終わった。
ロダンと言えば知らぬ人のない大彫刻家であり、学校の教科書にも「考える人」の写真が載っているし、日本では上野の西洋美術館に「地獄の門」や「考える人」、「カレーの市民」の同鋳作品があるから、多くの人がその作品にも
一方、訳者の高村光太郎というと、日本の誇る大芸術家で、こちらも知らぬ人などない。
本書の成り立ちについては、「ロダンの言葉」というロダンその人の著作がもともとあったわけではなく、ロダンが数多く残した断章を、高村光太郎が収集・翻訳してまとめたものだ。高村光太郎は、ここにおいては透明な翻訳者であるが、しかし、その選択や表現におのずと高村光太郎の芸術に対する気持ちやロダンへの畏敬が現れ、自然「高村光太郎を通したロダンの言葉」となって本書はまとまり、光彩を放っている。また、さすがは彫刻家であることは勿論、詩人にして歌人、多くの文筆を残した高村光太郎の翻訳で、翻訳専業家や研究者の翻訳とは異なり、日本語として成り立たないような解りづらい表現が少なく、格調、詩的な美などが横溢していて読みやすい。
本書の底本として挙げられている資料のうち、「クラデル編『ロダン』」というのがあり、ひょっとして「クラデル」というのは「クローデル」の古い書き方で、かのカミーユ・クローデルのことか!?愛じゃないか!……などと少し動悸が高まったが全然違っていて、この「クラデル」というのはジュディット・クラデルというロダンと同時代のフランスの女性ジャーナリストである。
私の目指すのは、忘れてくださるな、諸君の旅する時ランス、ラン、ソワツソン、ボーヹーという光栄ある道筋を諸君が取るように納得させることである。
ここで、「ランス」はランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims)、「ラン」はラン・ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Laon)であるが、「ソワツソン」「ボーヹ―」は聞き慣れないし、だいいち「ヹ」ってどう読むんだよ、などという声も聞こえてきそうである。これは「ヴェ」と思えばよい。古い翻訳なので、こういう仮名遣いが出て来るわけである。似たような古い仮名遣いには、「
「ソワツソン」は想像のつく通り「ソワッソン」あるいは「ソワソン」で、ソワソン・サン=ジェルヴェ・サン=プロテ大聖堂(Cathédrale Saint-Gervais-et-Saint-Protais de Soissons)、ボーヹ―は「ボーヴェ」で、ボーヴェ聖ピーター大聖堂(Cathédrale Saint-Pierre de Beauvais)のことである。
本書には他に、「
ずいぶん長い間、中世期の芸術というものは存在していなかったと定められてあった。それは――わかるまで飽かずに繰り返すが――三世紀間も飽かずに繰り返していわれた侮辱であった。
上の言葉は、ランスやサン・レミの大聖堂とそのキリスト教芸術に心からの賛嘆を述べた後に出て来る言葉である。
辛抱です! 神来を頼みにするな。そんなものは存在しません。芸術家の資格はただ智慧と、注意と、誠実と、意志とだけです。正直な労働者のように君たちの仕事をやり遂げよ。
これは、同じようなことをアランも、ヴァン・ルーンも言っている。アランはミケランジェロの書簡の中にそうしたことを見出して戒めとしている。
芸術家は傾聴さるべきものである。
倣 ねられるのではない。聴かれるのだ!
自然を矯正し得ると思うな。模写家たることを恐れるな。見たものきり作るな。この模写は手にくる前に心を通る。知らぬところにいつでも独創はあり余る。
……この言葉は、私の趣味の俳句にもあてはまるように思え、感じるところがあった。
このようにあるためには、家から出て、多くのものを見なければならぬ。それを写さなければならぬ。
(クレールが彼の素描を見て日本芸術を思うといった時)
――それは西洋の手段で出来た日本芸術です。日本人は自然の大讃美者です。彼らはそれを驚いたやりかたで研究しまた会得しました。御存知の通り、芸術というものは自然の研究に過ぎませんからね。古代やゴチックを偉大にしたのはこの研究です。自然です。何もかもそこにあります。私たちは何にも発明しません。何にも創造しません。
自分の描形におめかしをする芸術家だの、自分の文体で賞讃をを博そうとする文学者だのは、軍服を着て威張るけれども、戦争にゆくのを断わる兵卒や、光らせるために鋤の刃を年中研いでいながら、地面へそれを打ち込まない農夫のようなものです。
そのまま音読みすれば「えいくつ」だが、本書中にはこの言葉に「カタコンブ」とルビが打ってある。
「塋崛」で検索しても判然とはしないが、「塋」「崛」と文字ごとに調べれば、「塋」とは墓地のこと、「崛」とは山などが聳え立ち、抜きん出る、独立している様子を表すという。
これらの意味からすると、「塋崛」でカタコンブを指すのも、無理はないようには思うが、しかし、同じ「クツ」でも、「窟」をあてて「塋窟」とした方が、地下墓地であるカタコンブには合っているのではなかろうか。……などと思って「塋窟」で検索してみると、やはりこのほうがヒットする。
いずれにせよ、古い古い書き方と文字である。決して日本語の普通の文脈に出てくる文字ではあるまい。
形律の感動! じつに古くからのものだ。かすかな道すじによって、思念は遡りまた流れ下り、ついにフランス建築の大河の源、
塋崛 にいたる。
「あいたい」と読む。
この朝は最後の地平線にいたるまで静かである。いっさいが休む。いたるところのんびりとした、整然とした効果に満ちる。幸福はそこら中に見えている。好い日和に色づき薫らされた
靉靆 の気。
「
剜型 は、その内面精神で、その本質で、製作家のあらゆる思想を再現する。言明する。剜型 を見、剜型を会得する者は建築を見る。
最初のルビの「ムーリユール」で検索しても、さっぱりわからない。
ところが、「繰形」でWikipediaを見ると、「廻り縁」のことであるとわかり、更にそのフランス語版を見ると、「Moulure」とあって、「ムーリヨ」みたいな発音である。
しかし、ここで言っている「剜型」というのは、次のようなもののことであろう。
本書中の他の部分でも、「卵型を埋め込んだ……」云々、と言及しているところがあるからである。
「
「冕冠」の「冕」の字は、「冠」とほぼ同じ意味と思ってよい。
私が人体に多くの変化ある美があり、多くの偉大があるという時、私は、閉じ込められているこの傑作の中の魂が、すなわちこの傑作の冕冠であり、主権であるということを、明らかな真理として仮定しているのである。体躯の中から魂を発見しましょう。
「
心は傑作の上に盤桓する。われわれは傑作に対してしか心を持たない。
これが、辞書を引いても、漢和辞典を引いても、まったく意味が解らなかった。どなたか教えていただきたい。読みは多分「
世人の考えるところでは、私は何かしらぬ異常なもの、夢幻、文学的彫刻、つまりあの人たちの想像の中にしか存在しないような甕想を求めていたというのです。
次は四つ目、「ゴッホの手紙 Correspondance generale de Vincent Van Gogh 」(V.ゴッホ Vincent Willem van Gogh、三好達治訳)である。
美術家のゴッホの手紙を、これまた高名な詩人である三好達治が訳したというものだ。
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題「524」は「冬旱(ふゆひでり)」。寒旱でも。冬の晴天は気持ちが良いですね、でも、乾燥で喉がカラカラになりますよね。今はちょっとした風邪ひきも難儀ですから。ご自愛のほど。「傷なめて傷あまかりし寒旱」能村登四郎 #saezuriha_odai #saezuriha
— boubun (@boubun) December 19, 2020
同僚の佐藤を入れて、亡くなるまで煮溶かします pic.twitter.com/qIvFNT4cmS
— みなせ ★ かばやき蓄養なう (@Ton_beri) December 9, 2020
ともかく、同僚の「佐藤俊夫」こと「サトウ ト シオ」こと「砂糖と塩」である私としては、亡くなるまで煮溶かされなくて済んだわけである。半身の「塩」は入っていないから(笑)。
鷲見玲奈と言うと、もう5~6年くらいも前になるだろうか、深夜テレビの隙間番組で「鷲見玲奈、お肉 吟じます。」などと題して、焼き肉屋に行って肉を食べては詩吟を
それにしても、この人は美しいし、写真も愛らしいとは思うが、セーラー服というのは、ちょっとキツいような気がする。
なんというか、いささか古い喩えで恐縮だが、韓流ドラマ「冬ソナ」が流行していた頃、ドラマのスタートで
俳人の有馬
有馬氏は、私にとっては高名な俳人で、かつて「NHK俳句」の選者をしていた人だ。有馬氏が選者の頃、NHK俳句にせっせと投句したものだった。残念ながら1句も採用はされなかったが。
私の愛用の歳時記、角川の「合本俳句歳時記第4版」には氏の作品が例句としていくつも取り上げられている。
春
朧夜の消しゴムで消す我が名かな
光堂より一筋の雪解水
草餅を焼く天平の色に焼く
火の山に真向ひて播く花の種
受難日のすらりと抜けし魚の骨
蠅生まる白銀無垢の翅をもち
菜の花や西の遥かにぽるとがる夏
長崎も丸山にゐて豆御飯
水中花誰か死ぬかも知れぬ夜も
一管の麦笛光る真昼の野
亀の子のその渾身の一歩かな秋
後の月宗祇の超えし山一つ
国取りの国なる新酒汲みにけり
亡びたる城の高きに登りけり
陽関や天馬 たらむと馬肥ゆる
銀杏散る万巻の書の頁より
天涯に風吹いてをりをみなへし冬
千本の氷柱の中にめざめけり
竹林に寒声つかふ女かな
暖房のぬくもりを持ち鍵一房
薄墨のどこか朱を引く亥の子餅
うす紅の和菓子の紙や漱石忌
ドイツ製鉛筆を愛で青邨忌
珈琲の渦を見てゐる寅彦忌
冬眠の蛇に滅びし社あり
晩成を待つ顔をして狸かな
根の国のこの魴鮄のつらがまへ
寒牡丹夕影まとふこと迅し新年
元朝や飛鳥の村の鍬一丁
あかねさす近江の国の飾臼
書初の龍は愈々 翔 たむとす
一息に魂を入れ木偶廻し
三山の真中に打つ鍬始
赤ん坊に敷く大いなる宝舟
粛として講書始の椅子一つ
初烏ニライカナイを呼びにけり
若菜摘む女に礎石のみの城
こうして改めて鑑賞してみると、悠々として、穏やかでありながら端正な視線による観察が感じられ、優しいのに格調があると思う。
しかし、無論、この方は俳人としてよりも、本業の学者にして東大学長、文部大臣をも歴任した政治家としての名の方が高い。