千一夜物語(10)~(11)

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 通勤電車の楽しみ「千一夜物語」、10巻を読み終わり、次は11巻に進む。

 本当に読み飽きない物語集で、楽しめる。

 この古い物語の中のイスラム教徒は、酒を飲み、「釜掘り野郎」などと言って変態を軽蔑しつつも、なんとはなしにホモやらレズも友達で、「邪教徒は滅ぼされよかし」と口では言いながら、なんだかんだ言ってユダヤ人やキリスト教徒と仲良く暮らしており、つまりは非常に寛容だ。

 アメリカのテロとの戦いの文脈で聞かされるイスラム教徒の頑迷さとは少し違う。

 物語と現実は違うということはわかっている。しかし、本来は多分、現代のムスリムーンも、物語の中の古いアラビアの人たちのように、もっと優しい感じなのではないかと思う。

 なぜ今のように変化したのか、それとも、変化なんかしておらず、イスラム教徒が変な風に感じられるのはアメリカの宣伝によるもので、今も寛容で優しいのか、研究するなりしてみないと本当のところはわからない。いつかよく調べてみようと思う。

正義の国、てw

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 以前、こんなことを書いたことがある。

 どう考えたって正義からほど遠いような殺戮の嵐に正義の看板をあげたがる、そういうのが嫌なのだ。正義正義言って他人に無理強いを持って来る、そういう人も嫌いなのだ。

 ところが、今日FB見てたら、いやもう、「アメリカは正義の国」という言葉が見えて、吹き出してしまった。

(誤解のないよう書き添えすれば、このサイトさんは「アメリカは正義の国です」などと主張しているわけでは決してない。そういう言葉が文の流れの上で出てくるというだけだ。この記事自体は「いろんな意見があるが、それでも、人類は誠実に平和を希求していくのだ」ということを言っておられるものと理解できる。そのことに私は何ら異存はない。)

 私流の「正義」というコトバ理解だと、「アメリカは正義の国」なんて言うのは「アメリカはガキの国」って言っているのと同じってことになるんだから。

 かえすがえすも、アメリカに正義正義言われると、なんっか、ハラ立つんだよな。

 ゴミ捨てよろしくそういうようなゴタクをダラダラネットに放流というか投棄していたら、ふと気づくと、この前作った核実験場訪問動画の広告収益が無効化されている。

 いや、まあ、アメリカ人はバカとか言っているそばからアメリカン・システムで小遣い稼ごうという私も(ずる)いっちゃあ狡いが(笑)、なに、あれ。突然収益化無効はなかろうぜ。

 ひょっとして、動画の中で「アメリカ人はバカ」って言ってるのが向うのシャクに障ったのかしらん。

 そういや、以前、ツイッターでキリスト教批判をしたら、ツイート消されたことがあった。で、抗議したら、しばらくしてから「いや?消えてないですけど?」という返事が来て、確かめたらいつの間にか見れるようになっていた。知らん間に消して、知らん間に戻しやがったコイツ、と思った。

 そういうシステム管理って、多分、何か名前があるんだと思う。苦情が来てから「いや、何も処置はしてないですけど?」ってすっとぼけるような。……実は、私にも身に覚えがあるのだ。……細部は書きませんが(笑)。

クリスマス(聖誕節)に聖書繰らなかったな

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 私はキリスト教が嫌いだが、クリスマス(聖誕節)に聖書を読むということを毎年やる。

 恰好(カッコ)を付けているわけではない。嫌いなものでも、それをよく理解するということが必要だと思うからだ。生理が遠ざけよう遠ざけようとするものをムリヤリ読もうというのだから、自分なりに工夫がいる。

 こういう読書には、読む気になるような、読書の楽しみが得られるような、ちょっと持って回った工夫が必要だ。世間も私も心の浮つくクリスマスにそれをやる、というのも私の工夫の一つだ。

 また、次のような、ベースとなる工夫もある。私が若い頃から持っている聖書は日本聖書協会の「新旧約聖書 引照附」(ISBN-13: 978-4820210078)、この一点のみである。

 読んで面白いと思える聖書はこれだけだ。その特徴は「文語訳であること」、一点これあるのみである。キリスト教の、不自由でキッツい感じ、神との契約に責め立てられるキビしいマゾ感、高圧的で頭ごなしに怒鳴りつけてくるようなムリヤリ感、チョッピリ嘘をついただけで「お前は死刑」と言われるデジタル感、幅のなさ、狭量な感じ、これは、文語体で読まなければ官能あるいは肉の痛みとして脳裏に味わうことができないと思うのである。

 で、例年はクリスマスの夜更けに興味の湧いた個所を繰り返し読むということをするのだが、どうしたわけか、忙しかったことも有之(これあり)、今年はこれをしなかった。

 回教徒に心を寄せると同時に、キリスト教徒にもやはり心を寄せ、これを理解するようつとめなければならぬ。私はキリスト教が嫌いだが、嫌いなものも嫌わないようにしないといけない。受け付けぬものも飲み込まなければ立派な人にはなれぬ。子供が無理やりピーマンやニンジンやセロリを食うようなものであろうか。キリスト教に栄養価があるとは思えないが、それでも、それを飲み干さねばならぬ。

 精神衛生には悪いが、内容をよく把握し、研究することである。しかるをもって、毎年毎年、この苦行、とはいえ、表裏一体としての読書の楽しみを続けている。

六曜は差別だそうな

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○ 六曜カレンダー「差別につながる」と大分で配布中止 なぜ?

 いやー、これは、ナイわ~、……。

 馬鹿なこと言うよなァ……。こんなことしてたら、六曜だけじゃない、日月火水木金土の七曜だって、科学的根拠のない俗習だぜ?1年365日の某日の特定は「第1日」「第2日」って数えていきゃあ農業なんかの目安にはちゃーんとなるんだし、5日置きに2日休み、って決めれば「土日」なんて必要ないんだし。まあ、毎週日曜日にミサに出るキリスト教徒は困るんだろうけど、そんなの宗教上の理由じゃねえか、俺ら関係ねえだろ。クリスマスだって宗教上の節目で、差別なんじゃないの、六曜がダメなんだったら。盆踊りだってハロウィンだって正月だって、みんな差別だろ。

 だけど、七曜は、()るんだよ、みんなが使ってるから。クリスマスも非科学的で迷信だけど、でも、()るんだよ。盆踊りも正月も、差別じゃないし、必要なんだよ。ハロウィンだって、みんなで楽しくやってるんだろ?別にいいじゃん。俺はハロウィンは無視してるけど。

 だからやっぱり、六曜も、()るんだよ。

祝いまつれ畏みまつれ13日の金曜日

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PHM04_0714 キリスト教が嫌いである。

 であるにもかかわらず、クリスマスにはクリスマスツリーを飾って子供にプレゼントをやるという、思えば私も変ちくりんな仏教徒である。

 さておき、昨日は13日の金曜日であった。ゴルゴダの丘に磔刑(たっけい)のあった日ということで、この日をキリスト教徒は忌み嫌うという。その嫌い方は、日本人が病院の病室番号や車のナンバーに「四」(死)や「九」(苦・柩)を嫌うのと同じくらいに縁起を担ぎ、いろいろな番号に「13」が入るのを避けるのだという。

 しかし、変じゃないか?

 キリストは磔刑にかけられて、確かに母や友の眼前で苦しみ死にしたが、それは人間・ナザレのイエスその人の災難であって、救世主(メシヤ・キリスト)の立場でなら、それは聖なる事象であるはずだ。磔刑あってこそ敬虔なる復活の聖蹟があったわけだし、石抱き十露盤(そろばん)とか獄門台などと同列の拷問道具である「十字架」は、今や陰惨な責め具の位置をはるかに遠く離れ、キリスト教の聖なるシンボルになってさえいるではないか。

 してみれば、キリスト教徒は13日の金曜日を花火を上げて祝ってもいいくらいで、むしろ祝祭日ではいか。なぜ聖人の聖人たるべき所以の日、神の神たるべき聖なる日を忌み嫌うのか。まったく、キリスト教徒ってやつは、意味がわからん。

 まあ、そのまた逆に、こうしてキリスト教が起こったからこそ、いまだにキリスト教徒はイスラム教徒と戦争で殺し合いを続けなければならず、もともとそんなことに無関係であった日本でさえもがそのお先棒を担ぎかかっている昨今の世相を考えれば、確かに、人類にとって不吉な日かもしれないが……。

 ちなみに、Wikipediaにはこれは俗説であると書かれている。

だからと言って

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 だからと言って、キリスト教が優れた宗教である、というような紛れ込ませを肯うことは決してないから、左様、心しておくがよいわ。

2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 (375a)

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 昨日、ふとモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ ニ長調 K.448 (375a)」のことが話に出た。華やかで明るく、モーツァルトらしさのあふれた名曲だ。

 久しぶりに聴いてみたくなり、かけてみる。有名な演奏のCDは持っていないが、あまり芸術性のない演奏なら、今は著作権切れのクラシックはいくらでもMIDIやmp3が転がっている。手持ちにもこんなのがある。

 何年か前、たしか漫画やドラマ、映画でもよくかかったので、知っている人は多い。曲名を聴いてわからなくても、聴けば「あ、アレな」と多くの人が知っている。

 私の次女がお世話になっているピアノの先生に聞いたことだが、連弾と言うのは「男女のひそやかな楽しみの演出」でもあったそうな。いわく、キリスト教の戒律厳しい当時のヨーロッパであってみれば、無論男女の間の敷居と言うのは低くはなく、建前上恋愛と言うのは奥ゆかしくひそやかなものであった。

 しかしモーツァルトのごときはその天性の破天荒、面白がりな性格もこれあり、1台ピアノで二人で演奏すると、ことさら手が交差したり体が触れたりせざるを得ないような連弾曲を作り、弟子の男女連弾ペアにこれを演奏させては、二人の手や体が触れて頬を赤らめたりするのを面白がったそうである。

 さて、この「2台ピアノ……」に関しては、更になにやら少し人間らしい滑稽談がある。モーツァルトは女弟子のためにこの曲を書き、連弾をしたものの、実はこの女弟子がブスだったので内心嫌いだったという。それかあろうか、2台ピアノにして向かい合わせで離れて座り、女弟子とくっつかずに済むようにしたそうな。

レーウェンフック伝

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 私はオランダの誇る科学者、レーウェンフックをとても尊敬している。

 微生物の発見者として名高いレーウェンフックの名は、正しくは「アントニー・ファン・レーウェンフック Antonie van Leeuwenhoek」という。今から400年近く前にオランダのデルフトで生まれた。ちなみに、同じ年、同じデルフトの街に、「真珠の耳飾の少女」で有名な画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。

 レーウェンフックが生まれた1632年は日本でいうと江戸幕府がはじまったばかり、三代徳川家光の頃である。ヨーロッパでは清教徒がアメリカ大陸へ逃げ出しつつあった頃であろうか。

 また、レーウェンフックが生まれたオランダは、この頃鎖国をはじめた日本と、ヨーロッパでは唯一付き合いのあった国ということも覚えておかねばならない。

 オランダも世界の国々と同じく、都市に住む者が人と成るには、多くが「丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)」をしたものであった。レーウェンフックも16歳の頃、アムステルダムの布屋の丁稚(でっち)になった。

 この丁稚奉公が彼の大学であった。

 釣りが足りない布の質がどうだ、値段が高い負けろ、あるいは商売と関係のない雑談、怒鳴りつける主人、意地悪な先輩の手代や同僚後輩、仲買人、オッサン、オバハン、当時目覚ましく躍進中のオランダ、その首都アムステルダムの、そういうやかましい誰彼を相手に彼もその時代の人と同じく苦労と修行をした。

 21歳の頃、何があったのかは今となってはわからないが、日本でいう「のれん分け」というようなことでもあったろうか、彼はアムステルダムの布屋をやめ、デルフトに戻って自分の店を持った。結婚し、子供ももうけた。当時のことだから、死別も含め、バツイチ、バツ2、くらいのことにもなったらしい。

 後年世界的有名人になったとはいえ、この頃のレーウェンフックはまだ、ただの丁稚上がりの布屋に過ぎなかったから、記録はあまりないようだ。どうも布屋も畳んだらしく、市民会館の門番の親父(おやじ)になったという。

 ただ、洋の東西を問わず、後世の人間にとってありがたいことには、なぜかこの頃彼は「レンズ」にとりつかれてしまったのだ。

 この頃の「レンズ」というのは、どうやら特別なものであったようだ。今でいうと「IT機器」とか「ネットワーク」のように、なにやら知れぬ未知の世界への魅力を開くものであったのだ。惑星の表面、はるか宇宙の珍しい恒星、翻って生物、昆虫、こういう大から小にいたるあらゆるものをつまびらかにするレンズは、当時もっとも斬新で、魅力に富んだ、興奮を(しん)()するものであった。

 要するにマニア、である。もっと言えば、「オタク」かもしれない。いい年こいて、女房子供もいるのに、部屋にこもってはレンズばかり磨いている変なオッサン。彼の女房子供が、「ウチのお父さん、どうしちゃったんだろ……?」と、不安な面差しでそっと覗いているのが目に浮かぶようではないか。

 彼は質のよいガラスを炎で溶かしては、手指に火傷(やけど)()(ぶく)れをこしらえて「あちちち!」などと悲鳴を上げつつ、せっせとレンズを磨き、しかも一つでは飽き足らず、来る日も来る日も、これではダメだ、もっと見えるのを、とばかり、憑かれたようにレンズを磨いた。

 当時のレンズは、ガラス塊を砥石で削り、次第に目を細かくして、最後には布に磨き粉をつけて磨き、さらに磨きに磨くことを繰り返して作ったものだという。手技で磨き抜いて作ったのである。

 近所の細工師や鍛冶屋のもとへも通ったのであろう、磨き抜いたレンズを真鍮の枠に()め込む技術も身につけ、精巧な螺子(ネジ)や、調節機構を作る技も会得した。

 レンズを小さくすればするほど屈折率が強くなり、見(づら)くなる反面、微小なものを信じられないほど大きく見ることができるのを体得した彼は、またしても、これでは駄目だ、もっと小さく、もっと小さく……と、小さく小さくレンズを磨き減らしていった。そして、それをごく上等の枠金にはめ込んだ。

 ついにそのレンズは、直径わずか2ミリほどの、ガラスビーズのような、極端な曲面と精妙な細かさを持ったものとなった。

 単なるトンボ玉とか、ガラスビーズではない。レンズとして機能しなければならない。その曲面が、手技によってどれほどの精密度を持っていたか、想像するにあまりある。

 本業は布屋で、また門番である彼だ。つまりアマチュアだ。だが、当時既に世の中にあった「顕微鏡」を僭称(せんしょう)して(はばか)らぬものが、複数のレンズを組み合わせてなお40~50倍の倍率を得るのがせいぜいであったのに、レーウェンフックが磨き抜いた極小レンズは、(のぞ)くのに特別のコツは要したものの、なんと200倍を超える倍率を達成していた。単一のレンズだけで、である。他を遥かに圧倒し去っていた。

 彼は世界中で自分だけが手にすることのできた、自分だけのレンズで、おもしろおかしくあちらこちらを覗きまわった。昆虫の手足、調味料、酒、フケ、鼻くそ、歯くそ、花粉、池の水、雨水、ウンコ、腐った食い物……あらゆるもの、なんでもである。

 しまいにはセンズリをこいて、自分の精液まで見た。

 その結果は、()して知るべし、彼の名を永久に科学史にとどめることとなった。

 ただ、彼は、自分では学者であるなどとはまったく思っていない、単に世界で自分だけが手にすることのできた最高峰のレンズであちこちを(のぞ)きまわることを楽しみにしているアマチュアに過ぎなかったから、自分がどれほどのことを達成したのかもよくはわかっていなかったらしい。

 そんな自由な、自分だけが達成しえた高みにほほえましく満足しているレーウェンフックであったが、これほどの至高の業績は、やはり彼の信じるキリスト教の神が放っておかなかったものであろうか。

 どうも、デルフトの街には大変な人物が、自分ではそれと知らずに在野のままに埋もれているらしい。……そういう声望が先であったか、それとも、彼がみずから言上げをするのが先であったか。……それには諸説があるようだ。

 私が参照している底本では、レーウェンフックは微生物を発見したあまりの驚きのために、これは当時の学問の聖地、本場英国の学会へなんとしても報告せねばならぬ、と自ら手紙を書いた、ということになっている。当時オランダは発展中の国であるとは言っても、学問の本場はやはりイギリスである。かのニュートンもいる、イギリス王立協会こそ学問の中心なのだ。

 オランダ語の日常文章で、時候の挨拶からはじまって結びまで、長々とその手紙はしたためられてあったという。

 現代と強引な比較をしてみよう。現代、学術論文を英語で書かぬような学究は誰にも相手にされない。同じように、レーウェンフックが生きていた当時は、学術と言うものは「ラテン語」で書き表さねば、それは学問としての値打ちを認められなかった。今の英語のようなものだ。

 それを、天真爛漫、正直なアマチュアのレーウェンフックは、オランダ語の手紙で本場英国、王立協会に報告したのであった。

 だが、純朴なレーウェンフックは、嘘は決して書かなかった。そのゆえに、英国王立学会の人々はその手紙を認めたばかりか、貴重なものとして累積・整理し、後には「レーウェンフック全集」としてまとめ、またデルフトの彼のもとへ学者を派遣すらしている。

 彼は細菌の発見者、また精子の発見者として後年名を残したが、そのすべては彼が唯一知っている母国の言葉、オランダ語で長々と述べられていた。

 レーウェンフックは誠実の人であったから、観察記録に憶測を混入することがなかった。見たまま、実験したままを重んじた。それは、若い頃の丁稚奉公で鍛え上げられた頑迷さでもあった。

 知らず身に着けた実証主義的な観察手法のゆえに、ついには王立協会員として貴顕の地位を得た。飽くことなく自慢の顕微鏡であちこちを覗いては、きわめて精密な報告をオランダ語の手紙で学会に上げ続けた。

 同い年の画家のフェルメールの遺産管財人をつとめたことが公的な記録に残っているという。その経緯までははっきりわからないらしいが、同じ街に生まれた同い年の、また当時から有名な二人であったから、なんらかのつながりはあったものと言われている。フェルメールが描いた有名な作品、「天文学者」「地理学者」の二つは、レーウェンフックがモデルなのではないか、と言われているのはこのようなことに由来するらしい。

 余談、フェルメールの「天文学者」は、絵の中でガウンのような「キモノ」を着ていることが見て取れる。これは、当時のオランダの大流行だったそうである。ヨーロッパで唯一日本と国交を持つオランダでは、「謎の国・日本」の珍品として着物がもてはやされたらしい。金持ちとスノッブな知識人は競って「キモノ」を着用に及んだそうで、この絵にもそれが描かれているのだ。独自に最先端の学問に到達しえたレーウェンフックも、もしかすると、そんな珍品を身に着けたものかも知れない。

 ともあれ、……。

 レーウェンフックは長命し、91歳まで生きた。死ぬまでその旺盛な「オタク的アマチュア精神」は衰えることがなく、また、まやかしの学問への批判精神は極めて軒昂かつ頑固で、ライデン大学の学究たちをやっつけること、痛快そのものであったそうである。

来世と意識の高い層

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 善行の正しいありかたが奈辺にあるか、できるだけゲスっぽく考える。

 日本人のトラッドな宗教観からすると、古来の自然信仰道に神道と仏教がほどよく入り混じった考え方になる。しかもなお、日本人の場合、仏教にも大乗と小乗がほどよく入り混じり、善行の発露のしかたに影響している。なおかつ近代はキリスト教の裁きの日を恐れる気持ちなどまで流入して、一種独特の考え方になっていると言える。

 善行による結果の取得先が自か他かで多少議論はあるだろうが、シンプルに書けば「よりよい来世を得るため、他に善行を施し、自に徳を積む」ということでだいたい合っているだろう。

 よりよい来世が得られるかどうかというのは、一種の確率である。六道輪廻転生などと言えば、確率×確率×確率……、つまり確率の6乗ということで、一種の確率過程で屁理屈をこねて遊べるかもしれない。善行のマルコフ過程、などと専門用語をちりばめると、私もいかにも頭が良い人に見え、実力以上の尊敬が得られることは疑いない。

 話を戻す。まず、最初の「来世なるものが存在するか否か」というのが確率で言えるのであるが、これは言い出すとハナから話にならぬから、とりあえずアッチへうっちゃる。

 次に、「よい来世」というのが何かということの定義である。指標を持ち出して言える定義はなかなかないので、不本意ながらゼニカネで言ってみる。ここがまあ下司な話で、「金持ちに生まれ変わる」というのを仮に「良い来世」とするわけだ。

 では、「金持ちとはなんですか」という、金持ちの定義ということになる。

 こんなものは相対的なもので、100万持ってるから金持ちとか1億持ってるから金持ちとかいう絶対量では言う事はできない。所詮、「人より金を持っている」という比較論でしかない。ちなみに仏教用語ではこうした相対論を「戯論」といい、逆に絶対論でいう事を「金剛論」という。宗教家が金持ちをさげすんで見せるのはそういうところにも原因がある。ま、多くの宗教家はお金が大好きですけどね。

 また脱線した。

 ここで、いわゆる「意識の高い層」の考え方を借りようではないか。世界の人口は今、ざっと72億人と言われている。彼らによるとそのうち1%が世界の富を独占する富裕な人々であるという。昔の共産主義者めいた憎悪を込めると、「悪しき連中」だ(笑)。なんにせよ、彼らゼニカネ独占貴族を除けた、それ以外の99%、71億人は貧乏人と言ってしまおう。アナタもワタシもドイツもフランスも、いや違った、ドイツもコイツも貧乏人、である。

 カネとか富裕とか貧困とかいうこと「だけ」でいえば、よりよい来世が得られる確率は、その1%にもぐり込める確率である。つまり、0.01である、ということになる。

 これを期待値ということで考えると、自分が善行に使えるリソースにこの確率を乗ずれば、使ってもよい量が出る。

 具体的にしてみよう。今、誰かのために喜捨をする、それに使ってもよい捨てガネが100万円ある、そして、期待するのが自分の来世だとする。そうすると、

100万円 × 0.01 = 1万円

 まあ、1万円ほど喜捨をしておくのがせいぜいのいいところ、だ。

 多分であるが、捨ててもよいカネが100万円もある、という人などあまりいない。例えば私あたりの凡百の貧乏人は、募金箱に入れているのは5円だの1円だの、そういうあさましい額でしかない。独身の頃、5万円ほど寄付したことがあったが、これはもう、一世一代の多額であった。

 逆にいうと、募金箱に喜捨する額を0.01で割れば、その人がその人自身の「金持ちに生まれ変わる来世」のために捨ててよいと考えている額が推定できるということになる。

5円 ÷ 0.01 = 500円

 我ながら、まったくしみったれている。情けなくなるほどだ。

 某富豪は、自分の来世のためと言うわけではなかろうが、大震災の時には100億と言う途方もない金員を寄付した。しかし彼のことだ、そこには単純な浪花節やら人類愛、郷土愛なんかではなく、期待値や確率に基づく冷厳な計算がなかったとは言えぬ、いや、なかったとは言えないどころではない、ひょっとするとそればかりだったかも知れない。

 どういう確率を寄付できる総額に乗じたのか、恐れ入ってしまうのはここである。

 私ごとき、500円ほどの額を動かすことで金持ちに生まれ変わりたいなぞ、虫が良すぎると怒鳴りつけられるだろう。

 してみれば、金持ちとしての来世を確率(イコール「運」(笑))で願う者のめでたさには一警をとなえざるを得ない。

 これには逆がある。

 「今と変わらぬ暮らし、凡百の貧乏人」に生まれ変わる率が0.99なら、期待値で考えれば、さっきの500円のうち、495円まではつぎ込んでよいのである。

 つまり、はやく言えば生まれ変わって金持ちになることに現世のリソースをかけるなどムダなのだ。今と変わらぬ不易のほうへ費やす方がよっぽど賢い。

 なんにせよ、金持ちになりたいなどと、下司な来世など願わぬのが賢にして明というべきであろう。

セルバンテスの苦労控

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 先日、スペインの修道院の床下で遺骨が発見されたと伝わるセルバンテス。抱腹絶倒の傑作「ドン・キホーテ」の作者で、400年前の人だ。

 晩成型の作家で、その不運や苦労に満ちた人生を私は尊敬している。

 彼の来歴を見てみると、後世これほど有名な作家であるにもかかわらず、とてものことに順調な作家人生を送った人物とは言い難い。

 貧乏人の家庭に生まれたセルバンテスは、無学の人とはいうものの、幼少から読み書きを身に付けていた。少年時代は道端に落ちている紙くずであろうと文字が書いてあればそれを拾って読んだといい、その頃から晩年の文才の片鱗が見えていた。

 だがしかし、彼も時代の子であり、文筆の道へは進まなかった。兵隊になり、戦いの日々に身を投ずる。時あたかも無敵スペインの絶頂期である。かの「レパントの海戦」でもセルバンテスは戦った。

 レパントの海戦は、コンスタンチノープル陥落以来200年もの間、オスマン帝国率いる回教徒に苦杯を舐めさせられ続けていたキリスト教圏の初めての大勝利であった。

 勝ち戦の中にいたにもかかわらず、セルバンテスは撃たれて隻腕(かたうで)になってしまう。胸に2発、腕に1発、火縄銃の弾を受けたというから、瀕死の重傷である。からくも命を拾った彼は、後に至ってもキリスト教徒としてこの名誉の負傷を誇りにした。そのとき、連合艦隊司令長官から、勇気ある兵士として激賞する感状を与えられたが、これが後年あだとなる。

 隻腕となってからも数年戦い続けたが、帰国の途中で回教徒に捕まってしまう。当時の捕虜は、身代金と交換されるのが常であったが、持っていた感状のせいで大物とみなされ、大金獲得の切り札として交渉の後の方に回されてしまったのだ。結局、5年もの間捕虜として苦難の日々を送る。仲間を糾合して4度も脱獄を企てたが、ことごとく失敗。その都度辛い仕打ちがあったろうことは容易に想像できる。

 ようやく身請けされて帰国した彼を待っていたのは、祖国の冷遇であった。感状を持つ英雄であるはずなのに、与えられた役職は無敵艦隊の食料徴発係である。無骨な来歴で、しかも傷痍軍人であるセルバンテスに、貧しい人々から軍用食料を要領よく徴発するような仕事など向くはずがない。帳尻が合わず、しょっちゅう上司に呼び出されては怒られる日々。それではというので豊かな教会から食料を徴発したところ、キリスト教徒に(あら)ざる不届(ふとどき)者とされてしまい、キリスト教から破門されている。しかも2度もだ。キリスト教のために回教徒と戦い、隻腕となった誇りある軍人である彼がどれほどそれで傷ついたことだろうか。

 ところが、しばらくするうち、スペイン無敵艦隊は、「アルマダの海戦」でイギリス海軍に撃破され、なんと消滅してしまう。すなわちセルバンテスの勤務先が消滅してしまったということで、彼は路頭に放り出され、無職になってしまったのである。

 セルバンテスは仕方なしに仕事を探し、今度は徴税吏になった。

 セルバンテスの不運の最底辺はこのあたりだろう。彼は税金を取り立てて回り、それを国に納める前、安全を期して一時銀行に預けた。ところがその銀行が、破綻してしまったのである。無論取り立てた大事な税金は消滅。セルバンテスはその債務をすべて個人的に負うことになってしまったのだ。勿論払えるはずもなく、当時の法では「破産者は刑務所送り」である。

 放り込まれた刑務所の中で、彼は失意と不遇の中にあって、なんでこんな目に俺が…、と泣けもせずに泣きつつ、「ドン・キホーテ」の物語を構想した。

 セルバンテスという人がぶっ飛んでいるな、と私が思うのは、こんな不運のどん底にあって構想した物語が「ギャグ漫画」のようなものであることだ。400年も前に書かれた「ドン・キホーテ」は、現代の私たちが読んでも思わず爆笑せずにはおられないドタバタの連続であり、徳川家康がようやく天下統一を成し遂げた時代の小説とはとても思えないほどの傑作だ。赤貧洗うが如し、隻腕の傷痍軍人で、しかも50歳を過ぎて疲れ切った男が、不運により放り込まれた刑務所の中であの物語を考えたのだ。

 刑務所出所後、数年かかって物語を完成させた時、セルバンテスは既に58歳になっていた。400年前の寿命を考慮すると、これは現代の70歳にも80歳にもあたるだろう。

 なんとか文学的な名は得たものの、ところがまだ苦労は続く。「ドン・キホーテ」は発売直後から空前の大ヒットになり、英訳・仏訳もすぐに出るという異例の出世作となったが、そんなに急激な大ヒットになると思っていなかったので、版権を売り渡してしまっていたのだ。ために、貧乏にはまったく変化がなかった。

 しかも、煩わしい悩みが続く。セルバンテスはこの頃、妻、老姉、老姉の不義の娘、妹、自分の不義の娘、という奇怪極まる5人の女達と暮らしていた。せっかく作家としてなんとか名を得、執筆に集中しようにも、この女どものためにそうはいかなかったのだ。彼女らは、男を騙して婚約しては難癖をつけ婚約不履行にし、それを盾に慰謝料をせびるというようなことを繰り返して儲けているという、ふしだらで喧騒(けんそう)な女どもであった。そのため、セルバンテスは静謐な執筆環境など到底得ることができず、ぎゃあぎゃあうるさい5人の女たちに毎日邪魔され、訴訟に巻き込まれて煩瑣な思いをし、休まることがなかった。

 セルバンテスが死んだのはこの10年後、69歳だった。当時の記録にも、三位一体会の修道院に埋葬された、と記されてあるそうだ。日本で言えば、合葬の無縁仏にでも当たろうか。それが、このほど遺骨が見つかったとされるマドリードの修道院である。