聖書でも読もうか

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 クリスマスだが、一昨日家族のために新調したハードディスクレコーダー(PanasocicのDIGA DMR-UCX4060)が昨日届き、その使い方などを試していたから、いつものように読書三昧というわけにはいかなかった。

 今日は更に、日立の乾燥機が届いた。今日届く予定というから、外出もせず今か今かと待ち受けていたら夜の20時近くにもなって届く始末である。

 乾燥機は大きいので、これをえっちらおっちら運ぶやら、開梱するやら、説明書を読むやら。本格的な据え付けは明日にするとして、結局今の時間になった。22時半。

 さて、クリスマスである。

 毎年毎年同じことをこのブログに書いているが、私はキリスト教徒ではないから、クリスマスに縁はない。むしろ、キリスト教など嫌いである。

 伝説の宗教者、ナザレのイエスがいつ生まれたのであろうと、はたまたいつどこで死んだのであろうと、自分にはまったく関係ない。

 だが、子供の頃から大人になるまで、クリスマスにはプレゼントを交換したり御馳走を食べたりケーキを切ったり、そういう楽しみ方はしていた。キリスト教が好きとか嫌いとか言うような観念がなかったし、何より自分も周囲もそうすることが楽しかったからである。

 長じて結婚し、子供が生まれてからも、自分自身が子供の頃、父母が私にそうしたように、自分の子供たちも楽しませてやろうと思ったので、殊更クリスマスを否定することはなく、御馳走を作ったりケーキを焼いたりプレゼントを奮発したり、のみならずクリスマスツリーの飾り付けは年々大きくなり、しまいには2メートルにもなんなんとするポップアップ式のものに満艦飾にオーナメントをぶら下げたりもしてきた。

 勿論、今も「否定」まではしていない。キリスト教徒が大切にしている祭日を、頭ごなしに唾棄するようなことは、人間らしくない。他人が大切にしているものは、やはり尊重すべきであろう。

 だから、今の私は聖書などを紐解くことにしている。

 私が若い頃から持っている聖書はこの文語訳の「(きゅう)新約聖書」だ。美しく格調高い文語体のものである。

 日が変わる前に、「マタイ(でん)」から(さら)ってみよう。

日本聖書協会小形引照付聖書より引用。ルビは佐藤俊夫による現代かなづかい。
以下の<blockquote>タグ同じ。
「マタイ傳福音書」より

 イエス・キリストの誕生は()のごとし。 その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ(とも)にならざりしに、聖靈(せいれい)によりて(みごも)り、その孕りたること(あらわ)れたり。夫ヨセフは正しき人にして、之を公然にするを好まず、(ひそか)に離縁せんと思ふ。かくて、これらの事を思ひ(めぐ)らしをるとき、()よ、主の使、夢に現れて言ふ『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを()るる事を恐るな。 その(はら)に宿る者は聖靈によるなり。かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。 己が民をその罪より救ひ給ふ故なり』すべて此の事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言の成就せん爲なり。 曰く、『視よ、處女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと(とな)へられん』(これ)(ひもと)けば、神われらと(とも)(いま)すといふ意なり。ヨセフ(ねむり)より起き、主の使の命ぜし如くして妻を納れたり。されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。 かくてその子をイエスと名づけたり。

「ルカ傳福音書」より

 ユダヤの王ヘロデの時、アビヤの組の祭司に、ザカリヤという人あり。その妻はアロンの(すえ)にて、名をエリサベツといふ。二人ながら神の前に正しくして、主の誡命(いましめ)定規(さだめ)とを、みな(かけ)なく行へり。エリサベツ石女(うまずめ)なれば、彼らに子なし、また二人とも年(すす)みぬ。

 さてザカリヤその組の順番(まわり)(あた)りて、神の前に祭司の(つとめ)を行ふとき、祭司の慣例にしたがひて、(くじ)をひき主の聖所に入りて、香を()くこととなりぬ。香を燒くとき、民の群みな外にありて祈りゐたり。時に主の使あらはれて、香壇の右に立ちたれば、ザカリヤ之を見て、心さわぎ(おそれ)を生ず。御使いふ『ザカリヤよ、懼るな、汝の(ねがい)()かれたり。汝の妻エリサベツ男子を生まん、汝その名をヨハネと名づくべし。なんぢに喜悦(よろこび)歡樂(たのしみ)とあらん、又おほく(多く)の人もその生るるを喜ぶべし。この子、主の前に(おおい)ならん、また葡萄酒と濃き酒とを飮まず、母の胎を出づるや聖靈にて滿されん。また多くのイスラエルの子らを、主なる彼らの神に歸らしめ、且エリヤの靈と能力(ちから)とをもて、主の前に往かん。これ父の心を子に、戻れる者を義人の聰明に(かえ)らせて、整へたる民を主のために備へんとてなり』ザカリヤ御使にいふ『何に()りてか此の事あるを知らん。我は老人にて、妻もまた年(すす)みたり』御使(みつかい)こたへて言ふ『われは神の御前に立つガブリエルなり、汝に語りてこの()音信(おとづれ)を告げん(ため)(つかわ)さる。()よ、時いたらば必ず成就すべき我が(ことば)を信ぜぬに()り、なんぢ物言へずなりて、(これ)らの事の成る日までは語ること(あた)()じ』民はザカリヤを()ちゐて、其の聖所の内に久しく留まるを怪しむ。遂に出で來りたれど語ること能はねば、彼らその聖所の内にて異象を見たることを悟る。ザカリヤは、ただ首にて示すのみ、なほ(おうし)なりき。(かく)(つとめ)の日滿ちたれば、家に歸りぬ。

 此の後その妻エリサベツ孕りて、五月ほど隱れをりて言ふ、『主わが恥を人の中に(すす)がせんとて、我を顧み給ふときは、斯く爲し給ふなり』

 その六月めに、御使ガブリエル、ナザレといふガリラヤの町にをる處女(おとめ)のもとに、神より遣さる。この處女はダビデの家のヨセフといふ人と許嫁(いいなずけ)せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使、處女の許にきたりて言ふ『めでたし、惠まるる者よ、主なんぢと(とも)(いま)せり』マリヤこの言によりて心いたく騷ぎ、(かか)る挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻らしたるに、御使いふ『マリヤよ、懼るな、汝は神の御前(みまえ)(めぐみ)を得たり。視よ、なんぢ孕りて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。彼は大ならん、至高者(いとたかきもの)の子と(とな)へられん。また主たる神、これに其の父ダビデの座位(くらい)をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その國は終ることなかるべし』マリヤ御使に言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事のあるべき』御使こたへて言ふ『聖靈なんぢに臨み、至高者の能力(ちから)なんぢを(おお)はん。此の故に汝が生むところの聖なる者は、神の子と稱へらるべし。視よ、なんぢの親族エリサベツも、年老いたれど、男子を孕めり。石女といはれたる者なるに、今は孕りてはや六月(むつき)になりぬ。それ神の(ことば)には(あた)()ぬ所なし』マリヤ言ふ『視よ、われは主の婢女(はしため)なり。汝の言のごとく、我に成れかし』つひに御使はなれ去りぬ。

 その頃マリヤ立ちて山里に急ぎ往き、ユダの町にいたり、ザカリヤの家に入りてエリサベツに挨拶せしに、エリサベツその挨拶を聞くや、兒は胎内にて躍れり。エリサベツ聖靈にて滿され、(こえ)高らかに(よば)()りて言ふ『をんなの中にて汝は祝福せられ、その(たい)()もまた祝福せられたり。わが主の母われに來る、われ何によりてか(これ)()し。()よ、なんぢの挨拶の(こえ)、わが耳に入るや、我が()、胎内にて喜びをど()れり。信ぜし者は幸福(さいわい)なるかな、主の語り給ふことは必ず成就すべければなり』マリヤ言ふ、『わが心、主を(あが)め、わが靈はわが救主(すくいぬし)なる神を喜びまつる。その婢女の卑しきをも(かえり)み給へばなり。視よ、今よりのち萬世(よろずよ)の人、われを幸福とせん。全能者われに大なる事を爲したまへばなり。その御名(みな)(せい)なり、その憐憫(あわれみ)代々(よよ)(かしこ)み恐るる者に臨むなり。神は御腕(みうで)にて權力をあらはし、心の(おもい)に高ぶる者を散らし、權勢ある者を座位(くらい)より下し、いやしき者を高うし、飢ゑたる者を善き物に飽かせ、富める者を空しく去らせ給ふ。また我らの先祖に告げ給ひし如く、アブラハムとその裔とに(たい)するあはれみを永遠に忘れじとて、(しもべ)イスラエルを助け(たま)へり』かくてマリヤは、三月ばかりエリサベツと(とも)に居りて、己が家に(かえ)れり。

 さてエリサベツ産む(とき)みちて男子を生みたれば、その最寄のもの親族の者ども、主の(おおい)なる憐憫(あわれみ)をエリサベツに垂れ給ひしことを聞きて、彼とともに喜ぶ。八日(ようか)めになりて、其の子に割禮(かつれい)を行はんとて人々きたり、父の名に(ちな)みてザカリヤと名づけんとせしに、母こたへて言ふ『否、ヨハネと名づくべし』かれら言ふ『なんぢの親族の中には此の名をつけたる者なし』(しか)して父に(こうべ)にて示し、いかに名づけんと思ふか、問ひたるに、ザカリヤ書板(かきいた)を求めて『その名はヨハネなり』と書きしかば、みな怪しむ。

 ザカリヤの口たちどころに開け、舌ゆるみ、物いひて神を()めたり。最寄に住む者みな(おそれ)をいだき、又すべて此等のこと(あまね)くユダヤの山里に言ひ(はや)されたれば、聞く者みな之を心にとめて言ふ『この子は如何なる者にか成らん』主の手かれと偕に在りしなり。かくて父ザカリヤ聖靈にて滿され預言して言ふ、『讃むべきかな、主イスラエルの神、その民をかへりみて贖罪(あがない)をなし、我らのために(すくい)(つの)を、その(しもべ)ダビデの家に立て給へり。これぞ古へより聖預言者の口をもて言ひ給ひし如く、我らを仇より、(すべ)て我らを憎む者の手より、取り出したまふ(すくい)なる。我らの先祖に憐憫(あわれ)を垂れ、その聖なる契約を(おぼ)し、我らの先祖アブラハムに立て給ひし御誓(みちかい)を忘れずして、我らを(あだ)の手より救ひ、生涯、主の御前(みまえ)に、聖と義とをもて(おそれ)なく(つか)へしめたまふなり。幼兒(おさなご)よ、なんぢは至高者(いとたかきもの)の預言者と()へられん。これ主の御前に先だちゆきて、其の道を備へ、主の民に罪の(ゆるし)による(すくい)を知らしむればなり。これ我らの神の深き憐憫(あわれみ)によるなり。この憐憫によりて朝のひかり、上より臨み、暗黒と死の蔭とに坐する者をてらし、我らの足を平和の(みち)にみちびかん』かくて幼兒は(やや)に成長し、その靈強くなり、イスラエルに現るる日まで荒野にゐたり。

 その頃、天下の人を戸籍に()かすべき詔令、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの總督(そうとく)たりし時に行はれし初のものなり。さて人みな戸籍に著かんとて、各自その故郷(ふるさと)に歸る。ヨセフもダビデの家系また血統(ちすじ)なれば、既に(はら)める許嫁の妻マリヤとともに、戸籍に著かんとて、ガリラヤの町ナザレを出でてユダヤに上り、ダビデの町ベツレヘムといふ處に到りぬ。此處(ここ)に居るほどに、マリヤ月滿ちて、初子(ういご)をうみ、之を布に包みて馬槽(うまぶね)()させたり。旅舍(はたごや)にをる(ところ)なかりし(ゆえ)なり。

 この地に野宿して夜、群を守りをる牧者(ひつじかい)ありしが、主の使その(かたわ)らに立ち、主の榮光(えいこう)その周圍(まわり)を照したれば、(いた)(おそ)る。御使(みつかい)かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜(よろこび)音信(おとづれ)を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主(すくいぬし)うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒(みどりご)を見ん、(これ)その(しるし)なり』(たちま)ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ、『いと高き處には榮光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』御使(みつかい)(たち)さりて天に往きしとき、牧者(ひつじかい)たがひに語る『いざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起れる事を見ん』(すなわ)ち急ぎ()きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰兒とに尋ねあふ。既に見て、この子につき御使の語りしことを告げたれば、聞く者はみな牧者の語りしことを怪しみたり。而してマリヤは(すべ)て此等のことを心に留めて思ひ(まわ)せり。牧者は御使の語りしごとく凡ての事を見聞せしによりて、神を崇めかつ讃美しつつ歸れり。

 八日みちて幼兒に割禮を施すべき日となりたれば、未だ胎内に宿らぬ先に御使の名づけし如く、その名をイエスと名づけたり。

悪い冗談だろ

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 いつもの習慣でGoogleニュースを開いたら、ありがたがれと言わぬばかりにローマ法王猊下の平和のための御高説記事がトップに出て、そのすぐ下に、バグダディを殺した軍用犬の顕彰記事が出ている。

 犬に人を襲わせるような外道と、嘘臭いローマ法王の説教。

 皆さん、これがね、白人の正体ですわ。平和だクソだと言う口先の一方で、お前を愛していると言いながら両手で人間の首を絞める、それがヨーロッパとアメリカの人々ですよ。

 ああ、嫌だ嫌だ。

読書

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 (りん)()(どう)(Lin Yutang、リン・ユータン)の「生活の発見」(原題は『The Importance of Living』)を読み終わる。60年前の古書、平凡社の世界教養全集第4巻に収録されている。

 先週、読書中にも書いたが、私の感覚にはピッタリと合い、納得できる内容だった。やはり同じ東洋人だからだろうか。

 著者の姿勢は、きっぱり西洋哲学と対立するものである。込み入った西洋哲学を一刀両断、「西洋流の厳粛な哲学は、人生が何であるかということについては、理解の理までもいっていない。」と昂然と言い放つところなど、痛快そのものだと感じた。

気に入った個所
平凡社世界教養全集4「生活の発見」(林語堂著・坂本勝訳)から引用。
以下、他の<blockquote>タグも同じ。
p.158より

 私はサルがサルを食うということは聞いたことがないが、人間相()むということは知っている。人類学はあらゆる証拠をかざして、食人の風習が相当ひろく行なわれて((原文ママ))いたことを明らかに教えている。彼らはわれわれ肉食類の祖先であった。それだから、人間が今なお、いろいろの意味であい食んでいるということになんのふしぎがあろうか。――個人的に、社会的に、国際的に。食人種について特筆すべきことは、人を殺すということの善悪をよくわきまえていることである。すなわち、人を殺すということは望ましいことではないが、避けがたい悪であることを認めながらも、成仏した敵のうまい腰肉(サーロイン)、あばら肉、肝臓などを食って、その殺戮(さつりく)からなんらかの成果をえようとする。食人種と文明人との違いは、食人種が敵を殺して食うのに対し、文明人は敵を殺して葬り、その遺骸の上に十字架を安置し、その霊魂のために祈禱を捧げるところにあるらしい。かくして人間の自惚と短気のうえに、もひとつばか(、、)ということが加わる。

p.160より

罪のない聖人には興味が持てぬ、私はそういったようなヒューマニストである。

p.161より

 人間の心というものに魅力のあるのは、そこに不合理性があり、済度しがたい偏見があり、むら気があり、予測しがたいところがあるからである。もしこの真理を学ばないなら、一世紀にわたる人類心理学の研究も畢竟(ひっきょう)空だ。

同じく

われわれはみな、精神の本当の機能は思考するにあるという思い違いのもとに苦労している。

p.183より

 私は今、旧式な民主的個人主義について語っているにすぎない。それはもちろん承知している。だがまたマルキストにも、カール・マルクス自身が、一世紀以前のヘーゲル論理学と、ヴィクトリア中期のイギリス正統経済学派の産物であることを想起していただくとしよう。今日ヘーゲル論理学や、ヴィクトリア中期の経済思想の正統学派ほど旧式なものはない。――中国人の人間主義的見地から見て、これほど合点のゆかぬ、うそっぱちな、非常識きわまるしろものはない。

p.189より

この意味では、哲学というものは、自然と人生全般に関する、平凡でお粗末で、ざらにある考え方にすぎない、この程度のものなら、何人も多少は持っている。現実の全景を、その表面的価値において眺めることを拒み、あるいは新聞紙に現れる言葉を信ずることを拒むものなら、何人も多少の哲学者といえよう。つまり彼は、だまされない人間である。

p.194より

 私自身の目で人生を観察すると、人間的妄執のかような仏教徒的分類は完全だとはいえない。人生の大妄執は二種でなく三種である。すなわち名声、富貴、および権力。この三つのものを一つの大きな妄執に包括する恰好の言葉がアメリカにある。いわく、「成功」。しかし、多くの賢明な人々にはわかっていることであるが、成功、すなわち名声、富貴に対する欲望というのは、失敗、貧困、無名に対する恐怖を婉曲にいい表した名称であって、かような恐怖がわれわれの生活を支配しているのである。

p.199より

 八世紀の人、柳宗元は、近所の山を「愚丘」と呼び、側を流れる川を「愚渓」と称した。十八世紀の人、鄭板橋には有名なつぎの言葉がある。「愚も難く賢も難い。しかし賢を()えて愚に入るの道は、なおさら難い。」中国文学に愚の賛美の尽きたことがない。こういう態度を持する叡知は、かつてアメリカ人でも、つぎのような方言を通じて理解されたことがある。いわく、「利口もほどらい。」だから最高の賢者は、ときに「大まぬけづら」している人のなかにあるものである。

p.201より

「大隠は(まち)に隠る。」

p.201より

 われわれはこの世に生きてゆかねばならぬ。だから、哲学を天上から地上へ引きおろさなければならない。

p.211より

人生には目的や意義がかならずなければならぬなどと、私は臆断しない。「こうして生きている、それだけで十分だ。」とウォールト・ホイットマンもいっている。

p.242より

中国人の哲学を簡明に定義すると、真理を知るということより、人生を知るということに夢中になっている哲学といえる。およそ形而上な思弁などというものは、人間が生きるということについては邪魔ものであって、人間の知性のなかに生まれた青白い反省にすぎないものであるから、さようなものはことごとく掃き捨ててしまって、人生そのものにしがみつき、つねに最初にして終局の自問をする――「いかに生きるべきか?」

p.247より

 しかしながら、結局アメリカ人が中国人のように悠々として暮らすことのできないのは、彼らの仕事欲と、行動(アクション)することを生きている(ビーイング)ということよりたいせつに考えるところに、直接由来しているのである。

p.374より

学問がしたければ、最良の学校はいたるところにある。昔、曾国藩は家族に宛てた手紙のなかで、弟が首都に出てもっとよい学校にゆきたいといっているのに答えていった。「勉強がしたければ田舎の学校ででもできる。砂漠ででも、人のゆき交う街頭ででもできるし、樵夫や牧人になってもできる。勉強する意思がなければ、田舎の学校がだめなばかりでなく、静かな田舎の家庭も、神仙の島も、勉学には適しない。」

p.394より

つまりこうだ、アダムとイヴが蜜月にリンゴを食った、神はたいへん怒って二人を罰した、この二人の男女のちょっとした罪のために、その後裔たる人類は世々末代罪を背負うて苦しまねばならぬことになった、ところが神が罰したその後裔が神の独り子たるキリストを殺したとき、神はおおいに喜んで彼らを許したというのだ。人はなんと論議解釈するかしらないが、こんなふざけた話を私は黙認することはできない。

言葉
匡救(きょうきゅう)

 (ただ)しくし、救うこと。

寇讎(こうしゅう)

 「寇讐」と同じ。仇、敵のこと。「讎」は「讐」の異体字。

犬儒(けんじゅ)哲学

 人生を自由で自足的なものとみなし、かつ、皮肉に見る哲学。創始者が野良犬のような暮らしを実践したことから。

ほどらい

 「程合い」と同じ。程度、ほどほど。

婚礼轎(こんれいきょう)

 「轎」というのは椅子の乗った駕籠のことで、花嫁を乗せるもののようだ。

(やもお)

 見たこともない字、聞いたこともない訓みである。文中には孟子の説く「世の中で最も無力な四種の人々」として「寡、、孤、独」というふうに使われている。

 ちなみに、「寡」(カ・やもめ)は独身女、「孤」は孤児、「独」は独居老人のことである。

 「鰥」で「やもお」と()む。想像のつく通り、独身男のことである。音読みは「カン」「ケン」、訓読みは「()む」「(やもお)」である。

饕餮(とうてつ)

 いつだったか読んだ開高健の「最後の晩餐」の中に出てきた。「最後の晩餐」では「とうてつ」としてあったが、この「生活の発見」では「饕餮(タオチイエ)仙」と中国語の読みでルビが振ってある。

庭牆(ていしょう)

 「牆」は「かきね」と()み、「庭牆」はそのまま、「庭の(かきね)」である。

カリカチュア

 しょっちゅう見聞きする言葉なので、敢えて調べておくような言葉ではないような気もするが、「風刺画」のことである。

槎枒(さが)

 「()」には「いかだ」の意味もあるが、木を切り落とすという意味もある。

  •  (漢字辞典オンライン)

 2文字目の「()」という漢字がなかなか調べ当たらないが、「椰子の木」の意味があり、枝が入り組んでいることを表す。

  •  (漢字辞典オンライン)

 「槎」と「枒」で、「槎枒」だが、これは木の枝が非常に絡み合い、入り組んでいる様子のことを言うそうな。

ふつうのカンランにはマツのような槎枒(さが)たる気品はなく、ヤナギは優雅ではあるが、「荘重」とか「霊感的」とかいえないことは争えない。

エピグラム

自然は人生全般の中に入り込むのである。自然はことごとく音である、色である、形である、気分である、雰囲気である。慧敏(けいびん)な生活芸術家たる人間は、まず自然の適当な気分を選びだし、それを自分の気分に調和させることから始める。これは中国のすべての詩人文人の態度である。がそのもっともすぐれた表現は、張潮(十七世紀中葉の人)の著書『幽夢影』のなかのエピグラムに見出されると思う。

 短文、警句、寸鉄詩、碑文など、いろいろな短い文章のことを言うようだが、ここでは「短文」と言っておいてよいであろう。

罅隙(かげき)

 「罅隙(かげき)」の「()」は「ひび」のこと、「隙」は文字通り「すきま」のことであるから、「罅隙」ですきまや割れ目のことである。

 青年にして書を読むは罅隙を通して月を眺めるごとく、中年にして書を読むは自家の庭より月を眺めるごとく、老境にいたって書を読むは蒼穹(そうきゅう)のもと露台に立って月を眺めるがごとし。読みの深さが体験の深さに応じて変わるからである。

創造と娯楽

 「創造と娯楽」と書かれてもピンと来ないが、

 芸術は創造(クリエーション)であるとともに娯楽(レクリエーション)である。

……というふうに、ルビを振って書かれると、二つの言葉が急に意味を持って迫ってくる。recreation は creationに「re」をくっつけた言葉だ。「娯楽」というとどうもピンと来ないが、「回復のための行動」というと、なるほど、創造と言うのは苦しみである、というふうに納得がいく。

ドグマ

 独断的で強い教義、とでも言えばよかろう。

 中国文学と中国哲学の世界を通観して何が発見できるであろうか。中国には科学がないということ、極端な理論、ドグマがないということ、実際あい異なる哲学の大学派がないということである。

次の読書

 さて、次の読書は、この本収録の3著作め、R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」である。原題は「Virginibus Puerisque」だが、この邦題の訳ではまるで意味が違っていることは言うまでもない。この原題はラテン語で、意味は『処女・童貞』である。

未来と言うよりも現代は素晴らしい

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 ツイッターのタイムラインで、こんなビデオが流れてきた。

 本当に、私は驚くべき時代に生きている。

 私は以前から、翻訳・通訳に携わる人たちが知的な職業であることに疑いをいれる余地はないかのようになんとなく考えてきた。

 しかし、最近なかなか精度の良いポケット翻訳機などが発売され、テレビで明石家さんまが宣伝しているのを見るにつけ、なにやら風向きが変わってきたな、と感じるようになってきていた。

 そのぼんやりとした感じが、前掲のビデオを見て鮮明になり始めた。

 遠からず、翻訳者・通訳者までもが機械的な作業に携わっているだけであるとされ、いずれAIに駆逐されてしまうという幻影が垣間見えるのだ。語学に通暁した者は、もはやAIに学習させるための教師や、翻訳ロジックを記述する仕事でもするより他はなくなるかも知れない。

 そして数十年を経ると、AIは語学に関して「Bootstrap(ブートストラップ)」し、自らによって自らを立ち上げ、遂に人手を要しなくなるだろう。AIそれ自身によってロジックも高度に仕上がっていく。

 キリスト教徒の所説によれば、その昔、バベルの塔を積み上げて自ら神たらんとした人間たちは神の怒りに触れ、人々の言葉は相通ずることなきようバラバラにされたという。塔の建設はそのため中断し、言葉の通じなくなった人たちは世界中に分かれてしまい、話すことができなくなったのだ。旧約聖書には「(この)(ゆゑ)(その)()はバベル(淆亂(みだれ))と呼ばる」とある。つまり、人ぞ知る「バベルの塔」の名は、塔の建設が中断した後で名づけられた格好だ。

 全地(ぜんち)(ひとつ)言語(ことば)(ひとつ)(おん)のみなりき

 (こゝ)人衆(ひとびと)東に移りてシナルの地に平野を得て其處(そこ)居住(すめ)

 彼等(かれら)(たがひ)(いひ)けるは去來(いざ)甎石(かはら)を作り(これ)()(やか)んと遂に石の(かはり)甎石(かはら)()灰沙(しっくひ)(かはり)石漆(ちゃん)を獲たり

 又(いひ)けるは去來(いざ)(まち)と塔とを建て(その)塔の(いただき)を天にいたらしめん(かく)して我等(われら)名を(あげ)全地(ぜんち)表面(おもて)に散ることを(まぬか)れんと

 ヱホバ降臨(くだ)りて(かの)人衆(ひとびと)(たつ)(まち)と塔とを()たまへり

 ヱホバ(いひ)たまひけるは()(たみ)(ひとつ)にして(みな)(ひとつ)言語(ことば)(もち)ふ今(すで)(これ)()し始めたり(され)(すべ)(その)(なさ)んと圖維(はか)る事は禁止(とど)め得られざるべし

 去來(いざ)我等(われら)(くだ)彼處(かしこ)にて彼等(かれら)言語(ことば)(みだ)(たがひ)言語(ことば)を通ずることを得ざらしめんと

 ヱホバ(つひ)彼等(かれら)彼處(かしこ)より全地(ぜんち)の表面に(ちら)したまひければ彼等(まち)(たつ)ることを(やめ)たり

 (この)(ゆゑ)(その)名はバベル(淆亂(みだれ))と呼ばる()はヱホバ彼處(かしこ)に全地の言語(ことば)(みだ)したまひしに(より)てなり彼處(かしこ)よりヱホバ彼等(かれら)を全地の(おもて)(ちら)したまへり

 いかにもキリスト教らしいおとぎ話ではあるが、これを奉ずる白人たちはAIやクラウドにより再び一つの言葉を手に入れようとしている。彼ら白人は彼ら自ら信ずるところを否定して前に進む。キリスト教徒にとってキリスト教は、もはや雰囲気を愛でるための詩以下でしかない。

復活祭、あるいは除酵(イースター)祭とも逾越(すぎこし)祭とも

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 今日のGoogleはイースターのDoodleページになっている。

 宗教色が強く気に入らないが、彼らにとっては無邪気なお祭りなのだろうから、文句を言うまい。

 しかしそれにしても、どうして皆さんはイースターや逾越(すぎこし)を差別的で禍々(まがまが)しい、呪術的な怖いものと思わないんですか?

 ユダヤ人の子供は助かってエジプト人の子供は死ね。……とか、血(まみ)れで刑死したナザレのイエスが墓からむっくり起き上がるとか。

 ……。頭ダイジョウブですか。

恵方巻もクリスマスケーキも全部一緒

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 節分である。

 毎年毎年恵方巻が大量に廃棄されることは話題になるのに、更にもっと捨てられているであろうクリスマスケーキとかハロウィーンの生菓子のことなど欠片ほども話題にならないのはどうしたことか。

 というより、日本人は口が驕るようになり、節分であろうと春彼岸であろうと雛祭りであろうとゴールデンウィークであろうと子どもの日であろうと、はたまた、夏休みであろうと秋彼岸であろうと大晦日であろうと正月であろうと、なんだかんだと理由をつけて嫌いなものを汚ならしく食べ残し、酷く醜く捨ててしまうような民族になり果ててしまった、ということと、キリスト教はよくて和風はダメ、みたいな風潮に腹が立つ話と、ビジネスマンはすぐに損失とか経済とかなんとか言いたがるよな、食い物が勿体ないという気分の問題の話にさ、というような話が綯い交ぜとなって、もはや、逆になんだか面白い。

読書

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 昨夜はクリスマス・イブということで、目下読書中の「菜の花の沖」第2巻は脇へ置き、キリスト教の理解に努めんものと、手元の文語体「舊新約聖書」のうち新約から「マタイ傳福音書」「マルコ傳福音書」「ルカ傳福音書」「ヨハネ傳福音書」を交々(こもごも)読み、「使徒行傳」に少し入ったかな、というあたりで深更1時となり、力尽きた。

 私の持っている聖書はこの文語訳版1冊のみだ。文語訳の方が口語訳のものよりも格調が高く、読んでいて楽しい。

 なにしろ、クリスマス・イブの晩に聖誕譚、聖跡譚なぞ読み耽ろうというのだから、我ながら、キリスト教徒よりもキリスト教徒らしいのではなかろうか、などと思わぬでもない。

 しかし、信仰心で読んでいるわけではなく、冷静な理解の一助としようとして読んでいるのであり、また他面、聖書は物語として読むと結構人間臭くて面白いと思うから楽しんで読んでいるのであって、キリスト教徒から言わせれば恐らく不埒という他なく、その点私は我知らずというような無意識をも含めて、キリスト教徒ではない。

 むしろキリスト教なぞ嫌いですらある。

キリスト教と北朝鮮

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 今日は話題の映画二本をハシゴしてきた。以前も見たいなあと書いた「沈黙」「太陽の下で」だ。映画のハシゴなんてことは、生まれて初めてした。

 どちらも見応えがあった。



 「沈黙 ―サイレンス―」は原作に忠実な映画だったが、ラストシーンにはかなり野心的というか、原作に対して挑戦的な解釈が加えられていたと思う。

 「太陽の下で」は興味深く、私としては見応えはあったが、反面淡々とした映画で、映画評で騒ぎ立てられているほどの見応えでもなかった。とは言え、平壌の景色風物、主人公の少女の心の動きが活写されていて、それに費やした制作陣の労苦を思うと興味深かった。あのような映画が公開されて、製作陣や、(いわ)んや少女の一家が苦難に()ったりしていなければよいが、と思う。

 二つの映画を見て、洗脳、という言葉が我知らず反芻される。キリスト教の洗脳と、北朝鮮主体(チュチェ)思想の洗脳だ。その二つの共通項にどうしても思いが向いてしまう。

 多分、私などが「往古のキリスト教宣教師など、教会に洗脳された狂信者集団だ、その教会はエホバの威圧によせて支配と圧迫を強制するもので、所詮北朝鮮の中間軍人や官僚と異なるところなどない、彼らが(さげす)む特攻隊、カミカゼよりも残酷で非人道だ」と(うそぶ)けば、いやそれは違う 、それは偏った見方だ、純粋なキリスト教徒を洗脳したのは日本の幕府の方だろうなどと本気で反論されるだろう。だが私に言わせれば、キリスト教だからと言って正義だ洗練されているカッコいい頭良さそう、とばかり無条件に加点から始めるような人の方が偏っている。「アメリカサイコー!」も「金日成(きんにっせい)マンセー」も、結局一緒だということだ。

 筋金入りのキリスト教徒・遠藤周作はそこが分かっていたと思う。文庫でたった300ページほどに過ぎないあの短い原作で、それを言内言外両面からえぐり出して見せている。

 残念ながら、名監督マーティン・スコセッシにしてなお、多少見解に相違があるようだ。スコセッシは最後のシーンの作り込みで、そこのところを惜しくも取り(こぼ)してしまったのではないかと私には感じられた。

 他に、読書感というのは変わるものだと強く思った。

 私が「沈黙」を読んだのは二十年以上前で、神戸松蔭を出た妻の持ち物の中にあったから手に取ったものだった。

 私はキリスト教なぞ大嫌いだ。その説くところも嫌いだし、歴史的背景や、まとっている空気感も生理がうけつけない。

 だが、数十年来それを理解すべく、無駄なこととは知りながら努力をしている。なぜそんな努力をするかというと、殺し合いが良くないことだと思うからだ。相互に解り合おうとしなければ、また殺し合いが繰り返される。

 今日映画を見るつもりだったからこの機会に読み直そうと思い、妻に「あれ、どこにいったかな」と問うてみても、この数十年、引っ越しを繰り返した後のこととて詮もない。

 昨日駅前の書店で文庫を(もと)めなおし、今日映画を見る迄の間、久しぶりに読み直してみたのだ。

 私にとっては沁み入るように美しく、かつ、尖った文体と構成だと再び思う。

 昔読んだときと違って登場人物が若く感じられる。

 覚える痛みの質も違う。若い頃はキリスト教徒の痛みに強く共感したが、今は主人公の敵である日本の武士たちの描写すら痛く感じる。思えば老練の書き手遠藤周作は、それを当時から全て書きとってあった。作品は発表当時から寸分も変化していないのだ。

 遠藤周作は、情報取得不自由な往時にあって、調布にある岡本三衛門ことジュゼッペ・キアラ(主人公ロドリゴ・岡田三衛門のモデル)の墓所をも訪ね調べたものであろうか。そうした営為を思うと、作家と言うのは(あだ)(おろそ)かなものではない。こんなに苦しく痛く残酷で緊張した文章を、読み手にとっては読めば半日のこととはいえ、書くのにどうやったらいいのだろうかと、想像すらつかぬ。

顔隠しマスクと妻の話と女の心理とヒジャブとブルキニ

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 ネットなどで話題になっていることに、

「風邪とかアレルギーとか言うわけではないのにマスクをつける」

……という人が結構いるらしい、というのがある。

 いわゆる「顔隠しマスク」だ。これは「眩しいわけではないけどサングラスをかける」というのと似ている。

 私の妻子もそういうところがあり、どこも悪くないのに殊更マスクをつけて外出することがある。妻にあらためて聞いてみると「友達など、周りの女の人たちも、顔を隠すためにマスクをつけるというのはわりと普通」なのだという。のみならず、私の娘どもなど、「マスクがあるから人前に出られるし、というよりマスクがないと恥ずかしくて生きていけない」とまで言うのであった。

 そんな大げさな、お前、この父、この母から貰った何不自由ない立派な顔を隠したいだなんて、何を恥ずかしがる必要がある、そんな弱々しいことでどうするかッ!……などと()いるのはオッサン特有のデリカシーのなさであって、人間、目立たず引っ込んでいたいときは引っ込んでいたいものである、というのは理解できる。

 そんなふうに思いを巡らしていたら、ふと、回教徒の女性がつける「ヒジャブ」や「ブルカ」のことに考えが至る。

 この「ヒジャブ」や「ブルカ」は回教特有のひねくれた女性抑圧、男尊女卑の象徴だなどとして、特に退廃した白人文化圏から排撃されることがある。また、昨年夏、ヨーロッパ辺りでは回教徒女性が海水浴場などで使う「ブルキニ」が問題視されたことも思い出される。曰く、「女性を解放し、女権を確立しようとする世界的趨勢、ひいてはこれによって人類全般を進歩させようとする正義の観点から言って、回教徒のように女性を隠そうとするが如きは、文明に対する挑戦であって、断じて許容されない」というのだ。

 白人文化圏なんてものは最近(とみ)に多様性を標榜しだした割にはちっともそういう異質なものを受け入れようとしないよな、言ってることがなにかとチグハグだよまったく、などという欧米への不満はひとまず置くとしても、非寛容なのは回教徒側だけでなく、欧米白人も負けず劣らずであることは否めまい。

 仮に宗教的抑圧や戒律、強制がなくても、自ら(はだ)など(さら)したくない、顔を隠したい、だって恥ずかしいんだもの、なにが女性の解放よ、私はイヤよジロジロ見られるのなんか……という女性は、実は大変多いのではないか。

 実際、日本には顔を隠せというようなルールや戒律などないが、今の時期、都内を歩くと、感覚で言って9割の人がマスクをかけている。このすべてがインフルエンザ予防やアレルギー性鼻炎の治療のためなどという医療的な意味合いでマスクをかけているとは思えず、相当多くの人が顔を隠すためにマスクをかけているのであろうことは、前掲のニッセイのコラムによらずとも想像に難くない。

 であれば、ヒジャブやブルカを強制されていなくても、「だって、海水浴場でおハダなんか見られるの、恥ずかしいじゃない」という回教徒女性は、たくさんいるはずである。日本人女性だって、「ビキニなんて絶対イヤ。お腹が出てるの見られちゃうんだもの」などと言う人はたくさんおり、それと同じだ。

 そう考えてくると、フランスなどで騒動になった「ブルキニ問題」など、欧米キリスト教白人の「余計なお世話」というものだ。隠そうがどうしようが、はたまた逆にオッパイ出そうがフリチンになろうが、そんなの人の勝手である。

 そんなに裸体になりたきゃ、自分たちだけでいくらでもスッポンポンになってりゃいいじゃない、あたしは恥ずかしいのよッ、嫌よ、人にジロジロ顔や体を見られるのなんか。私はモデルとか女優じゃないんだから。……たとえ回教徒でなくたって女性の多くはそう言いたいだろう。

 つける意味がわかんねえ、機能上の意味がないから外せ、などと言うなら、「ネクタイ」なんてものだって、何のためにつけてるんだかさっぱりわからない。機能上の意味なんか、ない。むしろ、ネクタイなんてものは引っかかったりして邪魔であり、電車のドアに挟まって難渋する場合もある。昔、発車する列車にネクタイが巻き込まれ、挙句それで首が締まって死んでしまった人もいるくらいだ。だからと言って、危険で無駄だからネクタイなんてものは廃止しろ、こんなものは健全な人類の肉体に対する抑圧だ、などと言われて納得する人もいるまい。

 ならば、ブルカやヒジャブやブルキニだって、許されなければなるまい。

沈黙

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 遠藤周作の「沈黙」、かのマーティン・スコセッシ監督がメガホンをとって映画化され、今ちょうど掛かっているのだそうな。

 「沈黙」、若い頃読んだっけ。たしか結婚したばかりの頃で、妻の持ち物のハードカバーの中にあり、元は義兄のものだったのだったか。小説の発表自体はそれよりも更に20年くらい前だったように思う。

 原作は遠藤周作得意の「キリスト教もの」で、彼の代表作と言ってよい。いわゆる「(ころ)伴天連(バテレン)」の物語で、ロドリゴというパードレ(神父)が主人公である。

 苦しく、重い物語だ。

 このパードレ・ロドリゴにはモデルがあったことも近年広く知られている。モデルはジュゼッペ・キアラという実在の人物で、東京・調布市には墓もあるそうな。また、小説中に出てくる同じ転び伴天連のフェレイラも実在の人物であるという。

 この映画、見たいなあ。妻と一緒に見たいが、妻は結構歴史ものなどが好きなくせに、拷問シーンや血が出たりする映画がダメで、時代劇はすぐ合戦で人が泥まぶれになって死んだり、切腹したりするから苦手なのである。多分、切支丹が逆さ(はりつけ)水刑(みずぜめ)になったりするシーンなんて、妻に見せたらショックを受けて体調を悪くしてしまう。うーん、小説は大丈夫なクセに……。

 ……そのうち一人で見に行くか……。

 あと、未読だけど、コレあたりも読んどかなくちゃダメかなあ……。