このエントリの話は、別のエントリで、少し脚色して、別の話にして書いたことがある。下のリンクの通りだ。
- 妄想・究極破壊兵器(このブログのエントリ)
今回書くのは、上リンクのエントリの元になった話である。
先祖の数とビット数
ある日、ある時、ある場所で、ある人が次のような話をした。 “2の
オッサンは生きている。
このエントリの話は、別のエントリで、少し脚色して、別の話にして書いたことがある。下のリンクの通りだ。
今回書くのは、上リンクのエントリの元になった話である。
ある日、ある時、ある場所で、ある人が次のような話をした。 “2の
ああ、これ、ねえ。別に「最近」ってことはないんじゃないかな。「『産んでやった』『育ててやった』とか、恩を売るようなことを言うなら、なんで生んだんだ!お前らが勝手にしたことだろ!?」なんてことは、親に反抗する子の常套句で、取り立てて言うほどのことではない。
それはさておき、出生の否定は人生の否定、ひいては世界の否定でもある。私はキリスト教の回し者ではないし、キリスト教なんか嫌いだが、このことに関する解決の無視すべからざる有力な一方策は、既に2千年の昔、ナザレの大工の息子、ガラリヤの説教師、イエスによって提示されている。
そのいわく、「世界は悲痛や苦悩でできてはいない。喜びによって満たされている」すなわちこれである。ただ、その根拠について、キリスト教は強引なる
実は仏教も似たり寄ったりのことを別の経路で発見・定義・教示しており、各宗派によってそれは様々なのであるが、悲しいことに我々日本人には中途半端なキリスト教
ところが、哲学者が
悪いことに、
結局、欧州で数百世紀にも及んだ図らざる集団的宗教実験はあまり成功していない、などとと吐き捨てるのは急ぎ過ぎだろうが、では他に納得のいく解決の選択肢が欧州の人々に与えられているかと言うとどうも怪しい。まして欧州以外においてをや。「選択肢が与えられているかというと」と書いたが、「与えられる」? 誰から? ……みたいな堂々巡りにもなるだろう。
いずれにせよ、苦悩の解決に自ら到達する前に、圧倒的大多数の人間は長かろうと短かろうと命が尽きて死ぬわけだ。
私ですか?
私なんぞ、誰かに責任をおっかぶせて何かから逃れようなんてことは、とうに、してませんわ。いや、正確に言うなら、そんなことができる状況に、昔ッから、ない。だから幸福も歓喜もヘッタクレも、また苦悩も悲痛もクソも、そんなモン、アナタ(微苦笑)。そもそも誰かに責任をとらせよう、さて誰に責任を取らせよう、なんて選択肢の置かれた岐路自体が、私にはハナっから、ない。
出生なんて所詮は親の
餓鬼みたいなこと言ってンじゃねえよ。……あ、文字通りガキか。
まあ、あくまで私にとっては、ではありますけどね。だからこんな暴論めいた自分流の解決を、自分の妻や子供も含め、誰かに押し付ける気もないですわ。「反出生主義」なるほど、ええ、ええ、結構なことじゃないですかね、おお、ヨシヨシ、オジサンが聴いてあげるよネンネちゃん、ってなモンですわ。
あんまりにも無残で
この
故 に我 なんぢらに告ぐ、何を食 ひ、何を飮まんと生命 のことを思 ひ煩 ひ、何を著 んと體 のことを思ひ煩ふな。生命は糧 にまさり、體は衣 に勝 るならずや。空の鳥を見よ、
播 かず、刈らず、倉 に收 めず、然 るに汝 らの天の父は、これを養 ひたまふ。汝らは之 よりも遙 に優 るる者ならずや。
大発会でこれなら、明日以降なかなか期待が持てるな。
「『期待』だと?」
……ええ、そうです。ほぼ全力売り中ですゴメンナサイ。
まあ、そりゃ、そうなんだろうねえ……。
理由もヘッタクレも、下世話で恐縮だが、若い人には性欲ってモンも、そりゃ、あるからねえ。会わなきゃそれこそ「始まらない……」わけではある。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいる。
この巻の4つ目の収載作品、「禅の第一義」(鈴木大拙著)を帰りの電車の中で読み終わる。
鈴木大拙師は第3巻の「無心と言うこと」の著者でもあり、昨年の初秋、8月末に読んだところである。
全部文語体で書かれた古い著作ではあるが、平明に書かれてあり、わかりやすい。ただ、「
そうはいうものの、私も含め、いまや「ナンチャッテ欧米人」とでもいうべきヘンチクリンなものになってしまっている日本人にとって、遠く明治の頃に十数年以上も欧米に在住して西洋の思想を吸収し、東西宗教の深い理解の上に立って欧米に禅の思想を普及した鈴木大拙師の論は、西洋思想を例にとるなどしながら述べているところなど、かえってわかりやすいかもしれない。
本論中では、繰り返し繰り返し、「禅は学問ではなく、哲学でもなく、
他に、
換言すれば、仏陀は仏教の開山、元祖というべく、キリストはキリスト教の本尊となすべし。実際をいえば、今のキリスト教を建立したるはキリストその人にはあらずして、その使徒中の元首ともいうべきパウロなり。これを呼びてキリスト教といえども、あるいはパウロ教というほう適切なるべし。キリストのキリスト教における関係は仏陀の仏教における関係と同一ならざること、これにて知るべし。
上の喝破から、鈴木大拙師の、他宗派のみならず、他宗教への該博な理解と知識が、あふれんばかりに伝わってくる。実際、引用箇所の周辺の1ページほどで「キリスト教の大意」と一節を起こし、
読みは「
「這鈍漢」というのが、これがサッパリわからない。ネットで検索すると中国語の仏教サイトが出て来る。それも「這鈍漢」ではなくて「這頓漢」と、微妙に違う字だ。
意味がわからないながらも、前後の文脈から「これこれ、愚か者め」「オイオイ、このスットコドッコイが」くらいの意味ではないかと思われる。
もし釈迦なり、達磨なりを歴史のうちから呼び起こしきたりて、我が所為を見せしめなば「咄、這鈍漢、何を為さんとするか」と一喝を下すは必定なり。
「
「道は冲なり、而して之を用ゐれば盈たざることあり、淵乎として万物の宗に似たり」
「
「江月照らし、松風吹く、永夜の清霄何の所為ぞ。」
「
丹霞といえる人は木像を燬きて冬の日に暖をとれりといえど、その心には、尋常ならぬ敬仏の念ありしならん。
「
しかしかくのごとき神を信ずるだけにては、キリスト教徒というを得ず、そはキリスト教の要旨は神のうえにありというよりもキリストのうえにありというがむしろ剴切なればなり。
「
で、「一踢に踢翻する」というのは「ひと蹴りに蹴っ飛ばしてひっくり返す」が文字通りの意味であるが、使われている文脈には「一気に脱し去って」というくらいの意味で出てくる。
何となれば禅の禅とするところは、よろずの葛藤、よろずの説明、よろずの形式、よろずの法門を一踢に踢翻して、蒼竜頷下の明珠を握りきたるにあればなり。
それにしても、「一踢」「踢翻」などという単語で検索しても、中国語のサイトしか出てこないので、日本語の文章でこんな難しい単語を使うことはほとんどないと言ってよく、一般に出ている書籍では、多分、仏教書を除いては、鈴木大拙師くらいしか使っていないだろう。……あ、そうか、この作品、仏教書か。
「
我いずれよりきたりて、いずれに去るか、わがこの生を送るゆえんは何の所にあるか、かくのごときの疑問みな倐忽に解け去る。禅の存在の理由はまったくこの一点にあり。
これもまた、こんな難しい字、見たことがない。「
また万物の底に深く深く浸みわたれる一物を感じたるごとくにて崇高いうべからず、しかしこの一物は、いまや没し去らんとする太陽の光明と、かぎりなき大海と、生々たる氛氳の気と、蒼々たる天界と、またわが心意とを以ってその安住の所となせり。
「
それにしても、仏教書にして、なんでまたこんな
それには
……というような、非常に深い(笑)極端な問答があるのだ。形の上では文語体の問答で、
……などと短い問答をするわけである。これぞ、知る人ぞ知る「禅問答」というもので、ある意味象徴的、代表的な極端な例と言えるだろう。
凡夫と弥陀とを離してみれば、救う力は彼にあり、救わるる機はこれにありとすべからんも、すでに「一つになし給い」たるうえよりみれば、不念弥陀仏、南無乾屎橛、われは禅旨のかえって他力宗にあるを認めんと欲す。
「
ここに眼を注ぐべきは全体作用の一句子にあり、全体作用とはわが存在の一分をなせる智慧、思量、測度などいうものを働かすの謂いにあらず、全智を尽くし、全心を尽くし、全生命を尽くし、全存在を尽くしての作用なり、一棒一喝はただ手頭唇辺のわざにあらず、その身と心を竭くし、全体の精神を傾注してのうえの働きなり。
ここでは「
この「卓つる」という言葉は「臨刃偈」という有名な禅句のなかで使われており、本作品中ではそれを引用している。
昔、仏光国師の元兵の難に逢うや、「
乾坤 孤 笻 を卓 つるに地 なし、且 喜 すらくは人 空 、法 もまた空 、珍 重 す大元 三 尺 の剣 、電光影 裡 に春 風 を斬 る」と唱えられたりと伝う。
もとの漢文は次のとおりである。
仏光国師こと無学祖元は鎌倉時代に日本に来た中国僧である。日本に来る前のこと、元軍に取り巻かれ、もはや処刑されるばかりになった。いよいよ危機一髪の時、元兵の剣の前で(臨刃)これを詠じ、
「
這個の公案多少の人錯って会す、直に是れ咬嚼し難し、儞が口を下す処なし。
「
禅における呼吸法について解説しているところに出てくる。
「胎息を得る者は能く鼻口を以て噓吸せず、胞胎の中に在るが如くなれば則ち道成る。初めは炁を行ふことを学ぶ。鼻中炁を引いて之を陰に閉ぢ、心を以て数へて一百二十に至る。
「
しかも性として見らるるものなく、眼として見るものなし、禅はもと分別的対境のなかに跼蹐するものにあらざればなり。
次はこの巻最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)である。著者の倉田百三については、第3巻の「愛と認識の出発」の著者でもあり、これも昨年の晩夏、8月のはじめに読んだところだ。
なかなか梅雨が明けず、相変わらずよく降る。しかし、窓外の雨を時折眺めては、安らかに座って読書するのもなかなか楽しい。と言って、私の読書時間のほとんどは通勤電車内なのであるが……(苦笑)。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。
第9巻最後の「後世への最大遺物」(内村鑑三著)を帰宅後の自宅で読み終わった。朝の通勤電車内でこのひとつ前の「信仰への苦悶」を読み終わった後そのまま続けて読み、帰りの通勤電車内でも読み、帰宅後読み終わった。この「後世への最大遺物」は短い著作であったから、「信仰への苦悶」と
著者内村鑑三は他に、「余は如何にして基督信徒となりし乎」など、キリスト者としての著書が有名である。私も、若い頃「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだことがある。
一方、本著作は明治時代に著者内村鑑三が行った講演の講演録であるが、「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読んだときにはわからなかった、著者の漢学・国学に対する深い理解がわかって少し驚いた。「余は如何にして基督信徒となりし乎」は著者が英文で著したもので、私の読んだものは岩波の翻訳であったから、そういうことがあまり現れていなかったのである。
そのことの表れであろう、この本の書き出しは、頼山陽の漢詩の引用から始まる。
もし私に金を溜める事が出来ず、又社会は私の事業をする事を許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持つて居ます。何んであるかと云ふと、私の
思想 です。
文学といふものは我々の心に常に抱いて居るところの思想を後世に伝へる道具に相違ない。それが文学の実用だと思ひます。
我々の文学者になれないのは筆が執れないから成れないのでは無い、我々に漢文が書けないから文学者になれないのでも無い。我々の心に鬱勃たる思想が籠つて居つて、我々が心の儘をジヨン・バンヤンがやつた様に綴ることが出来るならば、それが第一等の立派な文学であります。
それならば最大遺物とは何であるか。私が考へて見ますに人間が後世にのこす事の出来る、さうして是は誰にも遺す事の出来るところの遺物で利益ばかりあつて害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思ひます。是が本当の遺物ではないかと思ふ。他の遺物は誰にものこす事の出来る遺物ではないと思ひます。而して高尚なる勇ましい生涯とは何であるかといふと、私がこゝで申す迄もなく、諸君も我々も前から承知して居る生涯であります。即ち此の世の中は是は決して悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であると云ふ事を信ずる事である。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずる事である。此の世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるといふ考を我々の生涯に実行して、其の生涯を世の中の遺物として此の世を去るといふことであります。其の遺物は誰にも遺すことの出来る遺物ではないかと思ふ。
訓読みは「天地に始終なく、人生に生死あり」である。
「天地無始終、人生有生死」であります。然し生死ある人生に無死の生命を得るの途が供へてあります。
これは本書冒頭の「改版に附する序」で述べられている言葉で、巻末の鈴木敏郎による解説にある通り、頼山陽が13歳の時に作った漢詩、
十有三春秋、逝く者はすでに水の如し、天地始終無し、人生生死有り、いずくんぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん
述懐十有三春秋
逝者已如水
天地無始終
人生有生死
安得類古人
千載列青史
……からの引用である。
このエントリの最初の方で私が述べた、著者の漢学などへの深い理解がわかった、ということがこのあたりに表れている。
「
丁度埃及の昔の王様が己れの名が万世に伝はる様にと思うて
三角塔 を作つた、即ち世の中の人に彼は国の王であつたと云ふことを知らしむる為に万民の労力を使役して大きな三角塔を作つたと云ふやうなことは、実に基督信者としては持つべからざる考だと思はれます。
「
併し山陽はそんな馬鹿ではなかつた。彼は彼の在世中迚も此の事の出来ない事を知つて居たから、自身の志を日本外史に述べた。
「
それが為に欧羅巴中が動き出して、此の十九世紀の始に於てもジヨン・ロツクの著書で欧羅巴が動いた。それから合衆国が生れた。それから仏蘭西の共和国が生れて来た。それから匈牙利の改革があつた。それから伊太利の独立があつた。実にジヨン・ロツクが欧羅巴の改革に及ぼした影響は非常であります。
そのまま音読みで「けりょう」等とも読むが、ここでは「
仮令我々が文学者になりたい、学校の先生になりたいといふ望があつても、是れ必ずしも誰にも出来るものでは無いと思ひます。
第9巻はこれで最後、次は第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」である。第9巻は一巻これすべてキリスト教であったが、第10巻は見た通り仏教がテーマである。
引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集、全38巻のうち、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」を読んでいる。
4つ目の「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)を行きの通勤電車の中で読み終わった。
この本は、あるファンレターが詩人ポール・クローデルのもとへ送られてきたことから始まる。
クローデルはフランスの外交官だが、詩人としての声名が高く、数々の名作を残している。だが、その姉が「分別盛り」などの彫刻作品で知られる天才彫刻家、かのロダンの愛人にして弟子、カミーユ・クローデルであると知ると、この方が知る人は多いかもしれない。
ファンレターの送り主は、後年評論家として名を成すジャック・リヴィエールであった。彼はこの時若干20歳、一方ファンレターを送り付けられたリヴィエールは38歳の不惑近い年である。そんな酸いも甘いも噛み分けたような、年上の有名詩人に、ずけずけと正直に、しかも取り留めなく、今のTwitterなどでの作者と読者のやり取りで言えば「何この粘着野郎」とでもいうような、グダグダしたファンレターをクローデルに送り付け、多分「勝手に」であろうけれどもクローデル作品の評論を雑誌に書いたり、随分失礼なファンである。
ところが、クローデルはこの変なファンに真摯に向き合い、敬虔なカトリック信者らしく寛容と落ち着きのある返信を
往復書簡の内容は主としてキリスト教、
Scepticism。懐疑主義・懐疑論のことである。「
私をルナンやグールモンの方へ追いやることが、どんなに間違っているか知っていただけたら! グールモン、あの憐れむべき生理学者の方へ! おそらく私は、セプティシスムの外見によって、そうした同一視の口実を与えたのでしょう。しかし私のセプティシスムは情熱的で、盲目で、緊張しています。
讃美歌中の一曲である。
涙と嗚咽がきた。そしてアデステのあの優しい歌声が私の感動をいやがうえにも深めた。
次は五つ目、第9巻最後の収載作「後世への最大遺物」(内村鑑三著)である。
だが、そうは言うものの、いかにも梅雨らしく豊かに降る、とでも言えば季節を愛でようという気にもなる。ふと気づくと近所の家々の庭の
盛夏の予感がする。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、三つ目の「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中
マルティン・ルターの名前は誰もが学校で習うので知っている。学校では「ルター、カルビン」などと、フランスのカルビンと一組で習う。しかし、そのルターが何を言ったのかは、学校では少ししか習わないから、その所説を知っている人は少ない。
もちろん私もそうであったが、この読書によってなるほどと膝を打つこと大であった。
本書はルターの代表的論説で、誤解を恐れずザックリと内容を要約すると、
「物質的な形から入るのは誤りである。まず初めに精神がなくてはならぬ。精神から形はおのずと現れる。だがしかし、精神が成ったのち、それが物質的形となって慈愛とともに溢れ出さなければ、精神もまた誤りであったということになる。」
……ということとなろうか。ルターはこれを、「免罪符を買う」とか「ひざまずいて祈る」とかいう「形」が、「キリスト教信仰」という精神なしに横行していることを憂えて言っているのである。
これはしかし、実に考え込まされることだ。キリスト教信仰だけでなく、例えば日本人の日常生活での「礼儀」などにも投げかけるものがあるからだ。つまり、内心では相手を蔑み、馬鹿にしているのに、態度は慇懃丁寧に相手を思いやり、いたわって見せる、というようなことに意味があるか、という問いに通じる。
その一方で、「形は心を作り、心は形を導く」という説もある。例えば、日本ではその昔、吉田兼好法師が
「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。
驥 を学ぶは驥の類ひ 、舜 を学ぶは舜の徒 なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」
……と言っている。形から入って、それを無心になぞるうち、精神も自然に導かれ、導かれた精神は更に形を磨いていく、ということが日本では一般に肯定されていると思う。
ここで、しかし、ルターの所説を曲解してはならない。ルターは「形など永久に棄却されるべし」などとは少しも言っていないのである。
すなわち、本書は大きく分けて2部から構成されている。第1部では「まず精神あるべし」、つまり、信仰心のない外面だけの宗教ごっこを徹底的に攻撃する。ところが、第2部では「精神成ったのち、徹底的に物心両面、利他に徹すべし。利他の功による神の救いなど求むべからず」と、一見第一部の真逆に見える事を説いてやまないのである。
これは、単に、形と心のサイクルの、スタートをどこに持ってきているかという些細な点が違うだけで、やはり形も大事なのである、……ルターは言外にそう言っているように私には感じられる。
また他に、ルターは非キリスト教徒にはわかりにくい「旧約聖書」と「新約聖書」の違いを誠に明快に一刀両断している。すなわち、「人を絶望させる神の厳しい『掟』、つまり『罪に対する罰』を述べたものが旧約であり、その絶望からすべての人が救われる『
「罪と罰」による悲哀と絶望が極限に達して
そしてまた聖書全体は、おきて、すなわち神の戒めと、契約、すなわち約束と言う二つの言葉に分けられるということを知らなければなりません。おきては、私たちにさまざまの善行を教え、規定していますが、それによって善行は生じません。なるほど、おきては指示しますが、助けはしません。おきては人間のなすべきことを教えますが、それを実行するための何らの力をも与えません。したがって、おきてが定められているのは、ただそれによって人間が善をなすのに無力であることを悟り、自分自身に絶望することを学ぶためだけです。ですから、それは『旧約』と呼ばれ、すべてのおきては、『旧約』に属しております。
さて、人間がおきてによってその無力を学び、自覚するようになりますと、どうしておきてを満たすことができるかと不安になってきます。おきては満たされなければならず、さもなければ罪に定められるからです。そのとき、人間は、ほんとうに謙虚になり、自分の目に無となり、自分のうちに義とされる何ものも見出さなくなります。そのときはじめて、ほかの言葉、すなわち神の約束と契約がきたって、次のように語ります。
「おまえがおきての強要するとおりに、おまえの悪い欲望や罪から解放されたいと思うなら、キリストを信ぜよ、キリストにおいてわたしはおまえにすべての恵みと義と平和と自由を約束する。おまえが信ずるなら得られるが、信じないならえられない。おきてのあらゆる行い――それは当然多くあるが、しかも一つとして役にたたない――をもってしても、おまえにできないことが、信仰によって容易になり、簡単になる。なぜなら、わたしは信仰のうちにすべてを要約しておいたからである。したがって、信仰をもつ者は、すべてをもち、そして救われ、信仰をもたない者は、何ももつことはできない」
このように神の約束は、おきてが要求するものを与え、おきてが命ずるものを成就します。このようにして、おきても、その成就も、すべてが神のものとなるためです。
神のみが命じ、神のみが成就されます。したがって神の約束は、『新約』の言葉であり、『新約』に属しています。
次は四つ目、「信仰への苦悶」(J・リヴィエール Jacques Rivière 、P・クローデル Paul Claudel 著、木村太郎訳)である。
ぐずつく天気、なかなかスッキリとはしない日々である。今日も一日降ったり止んだりしたが、なに、季節らしいと思えば逆に美しくもある。
引き続き通勤電車の中で、約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの通勤電車を降りる直前に、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、二つ目の「キリストの生涯」(J・M・マリー John Middleton Murry 著、中橋一夫訳)を読み終わった。
文字通りキリストことナザレのイエスの出生、ヨハネによる洗礼、修行、病者治療の奇跡、因習ユダヤ教への抵抗、布教、マグダラのマリアとのこと、最後の晩餐、磔刑、復活、そしてその後に至るまでを、年月を追って丹念に記述したものだ。共観福音書、すなわちマタイ
大正15年(1926)にイギリスで出版され、日本では昭和16年(1941)に翻訳出版されている。よい翻訳で、読みやすく平易簡潔な文体となっている。
正義の神の奉仕者たるパリサイ人は、愛する神の子たるイエスをどうしても理解できなかったし、愛する神の子は正義の神の奉仕者をどうしても理解できなかった。しかし神の名において一方は人を殺し、一方は人を赦した。そこに相違がある。
イエスの如き人物にとって重要なことは、想像力の序列と性質だけであって、想像力の扱う事柄ではない。彼は高等批評家がしばしば考えるような高等批評家ではなかった。彼は最高の人間――詩人、予言者、英雄であった。実際、最高の人間性を示す言葉で彼にあてはまらない言葉はないとおもう。これはイスラエルのことを語っているのか、メシヤの事を語っているのかという質問のような地上的な下らない疑惑が、イエスのような人の心にはいってくるはずはなかった。イエスはみずから予言者ではなかったのか、いな、予言者以上のものであった。予言者の言葉の意味は文字にあるのではなく、そこに輝いている神への認識にあったことをイエスが知らないはずがあろうか。「なんじゃもんじゃ教授」が読むようにイエスがイザヤ書第五三章を読んだのだろうか、そんなことはあるまい。神の計画の深奥な秘義として徹底的な敗北からの勝利、イザヤ書第五三章はイエスにはそういう意味なのであった。
われらが
宣 るところを信ぜしものは誰 ぞや ヱホバの手はたれにあらはれしや かれは主 のまへに芽 えのごとく燥 きたる土よりいづる樹株 のごとくそだちたり われらが見るべきうるはしき容 なく うつくしき貌 はなく われらがしたふべき艶色 なし かれは侮られて人にすてられ悲哀 の人にして病患 をしれり また面 をおほひて避 ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりきまことに彼はわれらの病患をおひ
我儕 のかなしみを擔 へり然 るにわれら思へらく彼はせめられ神にうたれ苦しめらるるなりと 彼はわれらの愆 のために傷 けられ われらの不義のために碎 かれ みづから懲罰 をうけてわれらに平安 をあたふ そのうたれし痍 によりてわれらは癒 されたり われらはみな羊のごとく迷ひておのおの己が道にむかひゆけり 然るにヱホバはわれら凡 てのものの不義をかれのうへに置 たまへり彼はくるしめらるれどもみづから
謙 だりて口をひらかず屠場 にひかるる羔羊 の如く毛をきる者のまへにもだす羊の如くしてその口をひらかざりき かれは虐待 と審判 とによりて取去 れたり その代 の人のうち誰 か彼が活 るものの地より絶 れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり その墓はあしき者とともに設けられたれど死 るときは富 るものとともになれり かれは暴 をおこなはずその口には虚僞 なかりきされどヱホバはかれを碎くことをよろこびて
之 をなやましたまへり斯 てかれの靈魂 とがの献物 をなすにいたらば彼その末をみるを得その日は永からん かつヱホバの悦 び給 ふことは彼の手によりて榮 ゆべし かれは己がたましひの煩勞 をみて心 たらはん わが義 しき僕 はその知識によりておほく の人を義とし又かれらの不義をおはん このゆゑに我かれをして大 なるものとともに物をわかち取 しめん かれは強きものとともに掠物 をわかちとるべし 彼はおのが靈魂をかたぶけて死にいたらしめ愆 あるものとともに數 へられたればなり 彼はおほくの人の罪をおひ愆あるものの爲にとりなしをなせり
イエスの教えの多くのかつ重大な誤解は、イエスが心と魂の変化をもとめたのにたいして、「悔い改め」をもとめたと考えることから起った。「悔い改め」ということは、要するに極端な罪の意識に主として基礎をおいている観念である。この「悔い改め」という言葉や特にこの言葉の背後にある意識は、イエスの思想や教えのなかにはじつは存在しなかった。
愛というものはそれ自体、追及の対象となるものではない。事実、愛を追及などすれば、かならず虚偽がはいってくる。
「
「翹」には「もたげる」「挙げる」というような意味がある。
どういう危険を冒しても、もう一度、家を見て、できれば町の人の心に訴えようという翹望であった。
上の引用箇所は、生地ガリラヤ地方で民衆からそっぽを向かれてしまったイエスが、もう一度自分の生家付近を訪れようとしたところの描写である。
次は三つ目、「キリスト者の自由」(M・ルター Martin Luther 著、田中理夫訳)である。
梅雨も半ば、雨が盛んである。繰り返し強く降っており、梅雨明けはまだまだ先のようである。
引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。仕事帰りの電車の中で、第9巻「基督教の起源/キリストの生涯/キリスト者の自由/信仰への苦悶/後世への最大遺物」のうち、ひとつ目の「基督教の起源」(波多野精一著)を読み終わった。
著者の波多野精一博士は戦前に活躍した宗教哲学者で、東大・京大で教鞭を執ってきた研究者である。本著作は戦前の東大・京大で行われた講義ノートを整理して出版したもので、いかにも戦前の実直誠実な研究者らしい硬質の文語体で全文が記されている。
序文には昭和16年(1941)出版とあり、日米開戦の年だ。読者としては、この頃でもきちんと欧米の文化を洞察・研究する努力が続けられていたのだな、と感じるところ大である。
前巻の「聖書物語」を読んだ後なので、理解もより深まるという感じがするのはさすが古書らしく、
さて新約全書に載つた福音書は四ある。そのうち第四の、通常ヨハネ福音書と呼ばるゝものは他の三と甚しく内容を異にする。
これで「
「霄壤」とは「霄」が空、「壤」が地面のことである。要するに「天と地」だ。「逕庭」とは「へだたり」のことをいう。つまり、「天と地ほどの差」ということを格調高く書けば「霄壤も啻ならぬ逕庭」ということになるのである。
本文中では下の引用例の通り、更に
これをかのいかなる者もその前には一様に罪人たる神の絶対的神聖と、しかも
義 しき人にあらず罪人をあはれみ救ふ神の絶対的の愛とを合せて有するパウロの福音と比較せば、誰か両者の精神に於て霄壤も啻ならぬ逕庭を否むことが出来よう。
訓みは普通に「
かくの如く超自然出生は比較的新しく発生した伝説でしかも古き伝説に於て保存せられた正確なる事実と氷炭相容れぬ。
音読みで「
イエスは苟合妥協をよき事と思ふ人でない。
「
専門宗教家より瀆神罪の譏を受くるをも顧みず、彼は悩める者に「汝の罪赦されたり」との宣告を与へた(マルコ二の五)。
「
尤も世の終が目の前に迫つたといふ考は勢ひ要求を極度に高め、時としては社会の具体的関係を顧みる遑なからしめた。
まことに難読であるが、「
彼等のうなだれた首をもたげ、彼等の失望落胆を何物をも恐れず凡てを献ぐる喜ばしき確信と雙少き勇気とに変じたものは何であるか、――イエスの復活の信仰である。
読みは「
彼は渾身の力を父祖の宗教に捧げ熱心に於て
遥 に儕輩を抜出 た。
「
彼自身
猶太 人であつたを思ひ、また律法のうちに風俗習慣の瓦石に蔽はれて美しきけだかき宗教及 道徳の玉のひそめるを思へば、彼のこの見解は別に恠しむに足らぬ。
「
この世界観は宗教の方面に於て種々の観念(例へば霊魂の死後の存続の如き)を産出したが其最大功績は幾多の深邃なる宗教家思想家を動かした神秘説の土台をなし準備をなした事である。
家屋の
本文中では次のように用いられている。
己が眼のうつばりを忘れて他人の目の塵に留意する専門宗教家もあれば、彼等よりは罪人よ愚民よと蔑まれつゝ神の国の義を
饑渇 ける如く慕ふ下層の民もある。
少し難しいのはこの用いられ方だ。これは聖書に通暁していないとわかりにくい。「目のうつばり」というのは聖書に出て来る有名な一節で、イエス得意の
文語訳聖書では、マタイ伝福音書に
とある。
この一節、「目のうつばりの喩え」は、日本のキリスト教徒でもとりわけ熱心な人にはよく知られるところだと思われる。しかし、クリスマスに酩酊して騒ぐくらいしか能のない、いい加減な「なんちゃってキリスト教徒」には、翻訳のやまとことば「うつばり」も、英語の「Beam」も、いわんやギリシャ語の「ドコス」も、何を言っているのかさっぱりわからないことだろう。
「塵」と「梁」は実は対句である。この対句は理解しにくい。理解するにはこの言葉が唱えられた背景に目を向ける必要がある。
その背景とは、キリストことナザレのイエスの生業が大工であったということだ。すなわち、和訳では「塵」となっているが、原語「カルフォス」には「おが屑」の意味があるのだ。これは大工特有の
つまり、2000年前の
そういう事情を理解して聖書のこの部分を読めば、
「お前は『アンタの目にはおが屑が入ってるよ』と同輩に注意しているが、笑わせンな、そう言うお前の目には角材が入ってるワイ」
……と言っている、本業が大工のイエスらしい、絶妙な喩え話がよくわかるというものである。
次は二つ目、「キリストの生涯」(J・M・マリー著 中橋一夫訳)である。
梅雨までのわずかな期間、初夏の風が薫る心地のする候となった。爽やかだ。
しかし世相は依然
これを見れば、いまや欧米諸国人が疫病蔓延の元凶であることは明らかである。ところが、数か月前、「中国人を入国させるな」などと
おかしい。
これは、テレビや新聞が悪い。検察官の定年なんぞで扇動なんかしていやがって、木っ端役人の1年や2年の
仕事をしろよ仕事を>ブン屋どもめ
違うな。
中国を責める前に、「米国大統領は力及ばず、国内で新型コロナウイルスを培養・蔓延させ、数多くの自国民を病死させてしまったばかりか、これを欧州その他世界へ再びばら
迷惑だよ。
だいたい、今日現在、8万5千にも及ぶ死人を出してるんだぜ米国は。よろしいか、感染者じゃないぞ。死人だぞ、死人。もはや亡くなった人々を哀しみ
中国なんぞに因縁つける前に、もっとしっかり、国民が政治をせい。
……。
こんなニュースを見るにつけ、いつも感じるのだが、そもそも、北朝鮮なんかより、米、露、中、仏、英なんかのほうが、よっぽど怖くねえか?核とかICBMとか核原潜とかそういう危険なアレやコレやが常態化しちゃってるってだけであって。
中国に対する米国の態度は、そのままでは首肯できかねるものも多いが、これはなんとなく、「ああ、そういうサイバー攻撃なんかは、ありそうだな」と思わせる。
しかし、読売の書きっぷりも「中国『系』ハッカー集団」などと記していて、「系」ってなんだよ「系」って、はっきり書けよオラ、……という感じもする。多分、そこいらあたりがどうもうまく調べられないのだろう。
さておき、戦争マニア国家米国は、「敵」「我」という、戦争を想定した対立軸でしか国のアイデンティティを保てない。もはや哀れである。
マァ、さすが、あの狭い国土にいまだに70万人もの地上兵力を擁し、徴兵制を
国民を監視カメラで追い掛け回して感染源を徹底追及しようってんだから、北朝鮮も真っ青だな。
で?何?「韓国が優れたコロナウイルス対策をして称賛されているから日本政府も見習え糞アベガー」……ですか?
……嫌です、そんなの。私は日本流がいい。今のところ日本のコロナ対策は世界に冠たるレベルにあると自信を持って言える。
これ、さあ。トランプ氏の下品さが際立つように思うでしょ?
私が思うに、それは違うな。トランプが下品なんじゃない。アメリカ人なんて、どいつもこいつも、もともとこれくらい下品なんだよ。このトランプ氏の言動って、普通~ぅの米国人の、
ましてや、日本なんぞ。米国人なんてものは、日本人なんか、鼻糞くらいか、それ以下の
キリスト教徒のクセして、愛なんてゼロだよ。
「死にたい」などと書くと物騒だし人様の迷惑でもあるから言いたくも書きたくもないし、思いたくもない。だが、「消えたい」とは思う。誰の迷惑にもならずスッと消えるのだ。
そんなふうに消えられないものかと思うが、もし消えたら、私の妻は私を探さざるを得ない。たとえ本人が探したいと思っていなくても、社会的責任は私を探せと妻に命じるだろう。これは妻にとっては負担以外の何物でもない。
だから、消えたい死にたいと願うのならば、探されることなく、妻をはじめ、両親兄弟、友人知己の記憶から完全に消えなければならない。
そんなことは不可能だとわかっているから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。
親不孝という見方がある。親は自分の勝手で子を作ったのであるから、子が死んだり行方不明になったりすれば、そりゃあ、葬式を出すなり探すなりしなくちゃならんだろう。だが、それが悲しく慟哭の極みであって、そんなことを親にさせるのは不孝である、親に損失を負わせることだという。いや、損失、て……。つまり我が子の痛み苦しみを悲しむのではなく、親の損失であるからそれはよせ、というのである。
なんか、ねえ。
キリスト教は自殺を禁じるが、そこには「人間は放っておいたらどんどん自殺する、だから死なないように脅しておかないと」という宗教的歯止めのあざとさが透けて見える。そりゃあ、教団にゼニカネを持ってくるのは死人ではなくて生きている人なんであるから、できるだけ多くの人に生きていてもらわないと坊さんも困るだろう。