引き続き約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第10巻「釈尊の生涯/般若心経講義/歎異鈔講話/禅の第一義/生活と一枚の宗教」を読んでいる。
この巻の4つ目の収載作品、「禅の第一義」(鈴木大拙著)を帰りの電車の中で読み終わる。
鈴木大拙師は第3巻の「無心と言うこと」の著者でもあり、昨年の初秋、8月末に読んだところである。
全部文語体で書かれた古い著作ではあるが、平明に書かれてあり、わかりやすい。ただ、「
そうはいうものの、私も含め、いまや「ナンチャッテ欧米人」とでもいうべきヘンチクリンなものになってしまっている日本人にとって、遠く明治の頃に十数年以上も欧米に在住して西洋の思想を吸収し、東西宗教の深い理解の上に立って欧米に禅の思想を普及した鈴木大拙師の論は、西洋思想を例にとるなどしながら述べているところなど、かえってわかりやすいかもしれない。
本論中では、繰り返し繰り返し、「禅は学問ではなく、哲学でもなく、
他に、
気になった箇所
他の<blockquote>タグ同じ。p.376より
換言すれば、仏陀は仏教の開山、元祖というべく、キリストはキリスト教の本尊となすべし。実際をいえば、今のキリスト教を建立したるはキリストその人にはあらずして、その使徒中の元首ともいうべきパウロなり。これを呼びてキリスト教といえども、あるいはパウロ教というほう適切なるべし。キリストのキリスト教における関係は仏陀の仏教における関係と同一ならざること、これにて知るべし。
上の喝破から、鈴木大拙師の、他宗派のみならず、他宗教への該博な理解と知識が、あふれんばかりに伝わってくる。実際、引用箇所の周辺の1ページほどで「キリスト教の大意」と一節を起こし、
言葉
咄、這鈍漢
読みは「
「這鈍漢」というのが、これがサッパリわからない。ネットで検索すると中国語の仏教サイトが出て来る。それも「這鈍漢」ではなくて「這頓漢」と、微妙に違う字だ。
意味がわからないながらも、前後の文脈から「これこれ、愚か者め」「オイオイ、このスットコドッコイが」くらいの意味ではないかと思われる。
もし釈迦なり、達磨なりを歴史のうちから呼び起こしきたりて、我が所為を見せしめなば「咄、這鈍漢、何を為さんとするか」と一喝を下すは必定なり。
盈つ
「
- 盈(漢字ペディア)
「道は冲なり、而して之を用ゐれば盈たざることあり、淵乎として万物の宗に似たり」
清霄
「
- 「霄」の画数・部首・書き順・読み方・意味まとめ(モジナビ)
「江月照らし、松風吹く、永夜の清霄何の所為ぞ。」
燬く
「
- 「燬」の画数・部首・書き順・読み方・意味まとめ(モジナビ)
丹霞といえる人は木像を燬きて冬の日に暖をとれりといえど、その心には、尋常ならぬ敬仏の念ありしならん。
剴切
「
- 剴切(がいせつ)の意味(goo辞書)
しかしかくのごとき神を信ずるだけにては、キリスト教徒というを得ず、そはキリスト教の要旨は神のうえにありというよりもキリストのうえにありというがむしろ剴切なればなり。
一踢に踢翻す
「
で、「一踢に踢翻する」というのは「ひと蹴りに蹴っ飛ばしてひっくり返す」が文字通りの意味であるが、使われている文脈には「一気に脱し去って」というくらいの意味で出てくる。
- 踢の意味・解説 (weblio辞書)
何となれば禅の禅とするところは、よろずの葛藤、よろずの説明、よろずの形式、よろずの法門を一踢に踢翻して、蒼竜頷下の明珠を握りきたるにあればなり。
それにしても、「一踢」「踢翻」などという単語で検索しても、中国語のサイトしか出てこないので、日本語の文章でこんな難しい単語を使うことはほとんどないと言ってよく、一般に出ている書籍では、多分、仏教書を除いては、鈴木大拙師くらいしか使っていないだろう。……あ、そうか、この作品、仏教書か。
倐忽
「
- 倐忽・倏忽・儵忽(読み)しゅっこつ(コトバンク)
我いずれよりきたりて、いずれに去るか、わがこの生を送るゆえんは何の所にあるか、かくのごときの疑問みな倐忽に解け去る。禅の存在の理由はまったくこの一点にあり。
氛氳
これもまた、こんな難しい字、見たことがない。「
- 氛氳(読み)ふんうん(コトバンク)
また万物の底に深く深く浸みわたれる一物を感じたるごとくにて崇高いうべからず、しかしこの一物は、いまや没し去らんとする太陽の光明と、かぎりなき大海と、生々たる氛氳の気と、蒼々たる天界と、またわが心意とを以ってその安住の所となせり。
乾屎橛
「
それにしても、仏教書にして、なんでまたこんな
それには
答 「ウンコと同じである」
……というような、非常に深い(笑)極端な問答があるのだ。形の上では文語体の問答で、
答 「乾屎橛。」
……などと短い問答をするわけである。これぞ、知る人ぞ知る「禅問答」というもので、ある意味象徴的、代表的な極端な例と言えるだろう。
凡夫と弥陀とを離してみれば、救う力は彼にあり、救わるる機はこれにありとすべからんも、すでに「一つになし給い」たるうえよりみれば、不念弥陀仏、南無乾屎橛、われは禅旨のかえって他力宗にあるを認めんと欲す。
竭くす
「
- 竭 ー ▲竭くす(漢字ペディア)
ここに眼を注ぐべきは全体作用の一句子にあり、全体作用とはわが存在の一分をなせる智慧、思量、測度などいうものを働かすの謂いにあらず、全智を尽くし、全心を尽くし、全生命を尽くし、全存在を尽くしての作用なり、一棒一喝はただ手頭唇辺のわざにあらず、その身と心を竭くし、全体の精神を傾注してのうえの働きなり。
卓つる
ここでは「
この「卓つる」という言葉は「臨刃偈」という有名な禅句のなかで使われており、本作品中ではそれを引用している。
昔、仏光国師の元兵の難に逢うや、「
乾坤 孤 笻 を卓 つるに地 なし、且 喜 すらくは人 空 、法 もまた空 、珍 重 す大元 三 尺 の剣 、電光影 裡 に春 風 を斬 る」と唱えられたりと伝う。
もとの漢文は次のとおりである。
乾坤無地卓孤笻
且喜人空法亦空
珍重大元三尺劍
電光影裡斬春風
仏光国師こと無学祖元は鎌倉時代に日本に来た中国僧である。日本に来る前のこと、元軍に取り巻かれ、もはや処刑されるばかりになった。いよいよ危機一髪の時、元兵の剣の前で(臨刃)これを詠じ、
人は
さらばぞ
わしの首なぞ
- 無学祖元(Wikipedia)
錯って
「
這個の公案多少の人錯って会す、直に是れ咬嚼し難し、儞が口を下す処なし。
炁
「
- 炁の意味・解説(Weblio辞書)
禅における呼吸法について解説しているところに出てくる。
「胎息を得る者は能く鼻口を以て噓吸せず、胞胎の中に在るが如くなれば則ち道成る。初めは炁を行ふことを学ぶ。鼻中炁を引いて之を陰に閉ぢ、心を以て数へて一百二十に至る。
跼蹐
「
- きょく せき [0]【跼▼ 蹐▼・局蹐▼】(Weblio辞書)
しかも性として見らるるものなく、眼として見るものなし、禅はもと分別的対境のなかに跼蹐するものにあらざればなり。
次
次はこの巻最後の収載作品「生活と一枚の宗教」(倉田百三著)である。著者の倉田百三については、第3巻の「愛と認識の出発」の著者でもあり、これも昨年の晩夏、8月のはじめに読んだところだ。