反戦・不戦、まあ、いろいろあるが、それらの言葉の定義はひとまず置くとして、戦争が悪いことであるのはわかりきった話である。
戦争を防ぐ、他国から侮られたり攻撃を受けない、また、万一攻撃を受けた場合でも勝つか、有利条件で講和する、そのために必要なものは何か。
軍事力は当然であるからそれはもはや論ずるまい。
それよりも、軍事力と同等か、あるいは “戦争をしない” の続きを読む
オッサンは生きている。
反戦・不戦、まあ、いろいろあるが、それらの言葉の定義はひとまず置くとして、戦争が悪いことであるのはわかりきった話である。
戦争を防ぐ、他国から侮られたり攻撃を受けない、また、万一攻撃を受けた場合でも勝つか、有利条件で講和する、そのために必要なものは何か。
軍事力は当然であるからそれはもはや論ずるまい。
それよりも、軍事力と同等か、あるいは “戦争をしない” の続きを読む
近所のドラッグ・ストアではニュースで報じられているのと同じく、トイレットペーパーが払底している。
我々は全く、浅はかなものだ。
私はというと、コロナウイルス騒ぎも、もはや、飽きてきた。どうでもいい、こんなの。
ほっとけばそのうち、医学者が特効薬でも作るだろう。ペストだろうと天然痘だろうと結核だろうと、はたまたチフス、炭疽病、梅毒、黄熱病、その他あらゆる微生物病を、人類はそうやって克服してきたのだ。
何?そんな悠長なこと言ってる間にお前自身がコロナウイルスに感染して死んだらどうするんだって?
そりゃあ、
さておき。
確かに、ポテトチップスを
しかしまあ、それはとりもなおさず、「あれほど大量の油を摂取してしまう食べ物も他にない」ということを言ってもおり、この点からポテトチップスというと「デブの素」の代表格食品であるというのは定説でもある。
これだと一袋くらいあっという間に腹に収まってしまい、どんどん肥満してしまうに違いない。
しかし、よく考えると、この「飲み口」みたいな奴がなくても、袋の角っこを三角に切り取れば、同じ喰い方ができるのではなかろうか。
世界一古い企業は日本にあるのだという。それは「金剛組」という建築会社だそうだ。
創業は西暦578年というから、遠く飛鳥時代にまで
なんだか、クスッと笑ってしまった。……いや、失敬、失敬。要するに、「アッチの右翼」ですな、これは。
よくよく考えると地上波デジタルの前に、堀江何某が「そんなの既存のテレビをネットにつなげばいいだけじゃん」なぞと、「お前、それを言っちゃあ身も蓋もねェじゃん」みたいなことを言い放ったものだが、あれからハテ、かれこれ10年ほども経ったろうか。
作ったコンテンツをネットに放流することなぞ、技術上は大した話ではない。そんなこと、
しかしこうして、結局はテレビもネットも、ダラダラと融合していくより他にないのだ。
昔、SGIの創業者のジム・クラークは、インタラクティブ・テレビこそが次世代の
そういう誰が
受信料がどうとか陰謀だとか何とかは、そんなことどうだっていい。
婚活サイトのネット広告で、「ゲーマーの旦那さんください」というキャッチ・コピーのものがあって、思わずクスリと笑ってしまった。
パズルゲームが大好きな婚活女子が、念願
どうしてそういうふうに思うのか。
私は、ごくクローズドな範囲の、小さい読書コミュニティの世話人をしている。この2~3年ほどそこの中核メンバーである。
ところが、単に「読書」というタイトルで人が集まっても、これがまた、話なんざ、全く合わないのだ。なぜと言って、それは簡単な理屈で、世の中に本は何百億冊とあるからだ。そして、その内容はすべて異なる。本はメディアに過ぎず、話が合う合わないはどんなジャンルが好きかとか、今どんな内容の本を読んでいるかということに依存する。これを仮に「小説が好き」というふうにジャンルを狭めたとしても、世の中にはこれまた何億という数の小説があり、単に小説が好きというだけでは話を合わせることが難しい。
こんな経験から、漠然とした「読書」「本」という枠組みだけではどうにもならないということが私にはよくわかる。
そこからすると、ゲーミングも読書と同じだ。今やゲームは、本と同じ「媒体」と見てよい。ゲームは新しい分野であるとはいえ、もう既に数十年の歴史を経つつある。
こうして考えてみると、新たなものを何か考える際、それが「プラットフォーム化」「基盤化」「媒体化」したとき、はじめて、そこから十分なお金を安定して引き出すことができるようになるのだろう。
かつて、「無線」は、それ自体が趣味や職業として成立し得た。アマチュア無線や市民無線(CB)の免許をとり、他人と話をすることはなかなか程度の高い趣味であった。話の内容なんか、どうだっていいわけである。「無線機を使って話をするということそのもの」に意味があった。また、無線従事者の資格を持つ者は職業として幅広い選択が可能であった。だがしかし、万人が「携帯電話」という名の無線電話を持つ今となっては、アマチュア無線などもはや風前の
同じことはかつての「マイコン」、現在の「パソコン」にも言える。これらは、かつてはそれ自体で立派な一分野で、趣味としても、職業としても成立し得た。だが、今やそうではない。パソコンはネットへの窓口としての安価なコミュニケーション端末か、安い汎用事務機器か、ゲームマシンか、そういうものに過ぎなくなってしまった。大切なのはパソコンで何をするかである。昔のように「パソコンが趣味です」などと言っても、ほとんど意味をなさない。パソコンで絵を描くのか、著述をするのか、音楽を楽しむのか、ゲームを楽しむのか、他人とのコミュニケーションを楽しむのか、その内容による。また、パソコンが仕事です、と言って意味をなすのは、PCの設計や製造、CPUの開発に従事している、アプリケーション・ソフトのプログラミングをしている、というようなことであって、完成品のパソコンを買い漁ったり、出来合いの電源やマザーを組み合わせてパソコンを組み立てたりしても、もはやコレクションとしての意味はおろか、趣味として形をなすかどうかすら疑わしい。
自動車も似ている。かつては自動車の所有それ自体がステイタスの誇示であり、どこへいくという目的などなくとも、「ドライブ」ということそのものに意味があった。だが、今もし意味を持ったステイタスの誇示やドライブをしたいなら、1千万円を超える高級車でも所有して、外国のハイウェイでもブッ飛ばさない限りはなんの意味もない。これだけ普及すると、自動車は物を運ぶとか、人を乗せて仕事に行くとか、そういう実用的な「媒体」の一種でしかない。こうなってくると、大事なのは自動車を使って何をするかだ、ということになる。
こうして、人間はいろいろな手段に熟達した挙句、ふと我に返って「私はいったいこれで何をしたかったのだろう」と自問するのだろうと思う。目的のない手段、魂のない科学、中身が薄い媒体、目標のない技術、こういうものが地球上には溢れかえっている。
ここで道は二つに分かれる。次の二説だ。
実はこんなことは、古くから先人が論述済みである。
私は今、
林語堂は明治28年(1895)~昭和51年(1976)の激動の時代に生きた中国人著述家だ。現代の共産党中国に生きる人々とは違う、古い時代の中国人のものの考え方・見方をこの「生活の発見 The Importance of Living」で著述した。
彼が述べる中国人の考え方や姿勢は、雑に言うことが許されるなら、「手段や媒体そのものを楽しめ」である。花鳥風月を愛でることや茶や酒や書や詩や絵画や道具や居宅、日月山川、そういうものを生活として再発見し、生活そのものに人間の存在意義としての価値を認め、それによって幸福に生涯を送れ、としている。
しかし、西洋哲学はどうも違う。同じ全集シリーズの最初の方は、ソクラテスから始まって、ジョージ・サンタヤーナなどまでに至る西洋哲学体系であったが、これらは人間の目的、人間の精神の存在、魂や神など、形而上に意義と目標を求め続けるというような、そういうものであった。
実は林語堂は、これを
さんざんヨーロッパの形而上学を読まされた後だと、林語堂のこうした
もしここで、イスラムの古い哲学などを読むと、またいろいろと違うのだろうな、と思う。それには、ヨーロッパが十字軍遠征などを通じて持ち帰ったイスラムの膨大な書籍がどのようにヨーロッパの学問に取り込まれていったのか、ということに関する詳しい理解が下敷きとして必要だろう。
妻と娘は、何か「晩御飯会」に出かけて行った。
彼女らがつけっぱなしにしていったテレビの音がうるさく、不愉快なのでスイッチを切る。
なんでテレビの音を不愉快に感じるのだろう、と思って「テレビからは不愉快な雑音しか流れてこない。」でググッてみたら、「人の話が音として聞こえるけど、言葉として聞こえない現象に思い当たる人多数→「聴覚情報処理障害」かも…?」というtogetterまとめが出てきた。
……う~ん。雑音、っていうわけじゃなくて、断片的に「韓国」「反日」「あおり運転」とかいう不愉快な単語が聞こえてくるから、不愉快なんだよな……。
と言って、意味がわかるからそれで不愉快というわけでもなく、実は、人と対面して話していて、全部雑音に聞こえてしまい、「ちょっと、お前!聞いてるのか!?」と怒鳴られたことも若い頃にはある。今でもそうで、実は子供の頃からそうである。人の言っていることが雑音にしか聞こえず、目の前に喋る顔だけが感情をこめて自分の前に映画の看板のようにある。相手が怒っていて、怖い、それぐらいしか伝わってこない。言葉は聞こえない。音が聞こえる。
そんな私だからテレビがうるさいのかな、とも思うが、テレビの音声は断片的に意味を持って脳に入ってきていて、それが不愉快なのだから、完全に雑音にしか感じない、というわけでもない。
それが不愉快なのである。俺の脳に入ってくるな、と思う。
これは多分、遺伝なのではなかろうか。私の父は「目が見えないのは
「包み隠さず打ち明ければXX情勢は」というふうに書けばいいものを「ぶっちゃけ、XXは」と表現するテレビ・新聞・雑誌が多いようだ。
なんだよ、「ぶっちゃけ」って。汚い言葉だ。どこの方言だ?東京か?
どいつもこいつもぶっちゃけぶっちゃけ言いやがって、目障りである。
「ぶちまけて言えば」と言いたいのだろうか。だとしても、「ぶちまけて」というのも、相当下品だ。「ぶちまけて」の「ぶち」というところが駄目だ。
「正直に言えば」とか「包み隠さず書けば」とか、他に書きよう言いようはいくらもあるはずだ。
思うに、今上陛下を「今の天皇」と書いたり、皇后陛下を「美智子さま」と書いたりするのと同様の下品さだと思う。
何?このブログの言葉
大会社の大学出の学士様修士様の報道であるなら、もうちょっと自分の親から貰った学歴を汚さぬような言葉で記事をものしてもらいたい。
梅雨も半ばとはなったか、通勤路の紫陽花が曇り空に色を添え、殺伐とした気持ちを少し和らげてくれる。
近所の駅からいつもの電車に乗る。
いつ頃からだろうか、通勤客のほとんどがスマホを持ってなにか見ているようになったのは。
少し前ならスマホのゲームに没頭しているのなど、若者の専売特許みたいなもんだったが、いまや中年どころか、50がらみ、いや、下手すりゃ60代とおぼしい、頭に霜を置いた分別盛りがゲームに没頭している。
残りは眠っている。
眠っているか、ゲームしているか。
私の家には長女が飼っているハムスターがいるが、眠っているか、餌を食っているか、暴れているかの三態なので、通勤時に限って言えば、通勤客よりはハムスターのほうが多態性において勝る。
そういえば、今私が乗車している周囲5メートル半径だけに限って言えば、「『紙』の新聞」を読んでいる人がいない。いつのまにか車内の景色は変わった。こうなってしまっては、新聞も、もうダメだろう。人々を思想的に洗脳するために、新聞社や新聞記者に工作するのなど、こうなっては時代遅れだということだ。
私も、もうかれこれ17、8年前から新聞を購読していない。金がもったいないと思うようになったのと、ウソ記事ばかり読まされるのに辟易したのと、大きくはこの二つの理由からである。あの頃はまだ新聞は健在だったから、その点、私は結構新しい。
……。
なにしろ、攻撃型原潜だからねえ。そのうちに、「ポチッとな(笑)」とかいうフザけたノリで核戦争をおっぱじめるキチガイも出てきかねない。
いやまあ、そういう世相なんだろうけど、ナイわー……。こんなの、負け惜しみなんじゃねえの?
アメリカにせよ、ロシアにせよ。……ハラ立つなあ。
日本では戦争で倒れた世代は、世界各地を侵略し、アジア全域の女をレイプしまくったカスの集団ということになってしまっている。あまりにも悔しい。敗軍敗国は、ここまで愚弄されなければならない、ということかもしれないが、いや、まて、愚弄しているのは自分たち自身ではないか?
個人の記憶についてもう1つ言えるのは、ある個人が自分の戦争体験をよく覚えていても、それについて話さないということだ。例えば兵士であれば勝者側と敗者側の双方、ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の生存者や終戦時のベルリンでソ連軍に強姦された女性たちなど、戦争を体験したたくさんの人々は当時の暴力や恐怖について語ることをしなかった。
年がたってから口を開く人もいるが、一生語ることのないまま亡くなる人もいる。後になって話し始める人たちは、自分の物語が社会に受け入れられるようになった、という共通の記憶の変化に反応して口を開くことが多い。個人とは社会的文脈の中で思い出すわけだ。
戦争を体験したことのない世代の個人の記憶も同じように構築されるが、戦争そのものというより戦争について話される物語を覚えているというように、より非直接的な記憶になる。しかし、これらいわゆる「ポスト・メモリー」も、戦争体験と同じくらい力を持ち得るだろう。
これで集団の記憶は正しくなるよ、みたいなことを言われても……。日本の場合、もう当時の大人としての記憶を形式知にできる人は、90歳を超えちゃって、絶滅しつつあるもんなあ……。
これって、なんか、口喧嘩の応酬みたいなことなんだろうけど、核兵器がそういう、言葉のやり取りのアヤでちょっと間違って発射しちゃって人の2~3人が死んでどうにかなる、とかいうような、シャレで済むようなものじゃない、ってことを、やっぱり実感としてわかってないのよ、コイツら。所詮死ぬのは国民だ、みたいな。
人それぞれの勝手だとは思うし、事情もあるんだろうけど、どうも、この、旅先にまで犬なんか連れて行こうという、そのあたりがわからんなあ……。いや、盲導犬とか、そういうどうしても必要な場合はあるだろうし、大きな転勤、移住ってのもあると思うんだが、そうでないような、遊び半分の旅行なら、人に預けていくとか、やりようがあると思うんだが。
アハハハ、根拠と覚悟って、文春をはじめ、週刊誌だけじゃなくって、テレビだって新聞だって、それどころかマスコミ全部、そんな、「覚悟」なんてもの、あるわけないじゃん。ゼロだよ。
愛すべきところの多々あった人だったんだなあ、と改めて認識。祈冥福。
「まあ、そうだろうねえ」という感じと、「そんなの、Android自体、それそのもの全体がマルウェアみたいなもんだろ、電話番号から写真から何もかもアメリカの支配下にあるクラウドに送ってんだからさ、何を今更」という見方もあって、笑ってしまう。
ほほ~……。
……というか、ドナルド・トランプじゃなくて、
あー、ゼニカネ、ですかやっぱり。なんでもかんでも安くすれば正義、入札でさえあればオッケー、という愚かなやりかたのせいで、残すべきものが滅んでいくわけですわ。
昔から根本敬のファンだし、「映像夜間中学」にサインを貰いに行ったこともある私だ。それで、一瞬、ちょっと、投げ銭的に払おうという気になったのだが……
……だが、思い止まった。なんか、軽はずみな感じがする。
う~ん?これは、こんなふうに伝えるアメリカの新聞やテレビ、あるいはアメリカの新聞やテレビがそう伝えていないのだとすればこんなことを言うNHKの方がおかしいんじゃないか?
ワケのわからんヘンな記者が思うさま捻じ曲げた嘘記事を読まされたり、自称ジャーナリストのテレビタレントが都合の悪いところを端折り、都合のいいところばかり切り取って伝えるニュース紛いなんか見せられるより、本人の直接ツイートでも見た方が、よっぽどましなんじゃないか?新聞やテレビに「コイツの言っていることは間違っていますよ」と教えられるより、直接本人のツイートでも見て、「あ、コイツの言ってることは間違ってるな」と自分で思った方がよっぽどいい。そのほうが新しいと思うけどなァ。
発信側の政治家にしたって、そうしたほうがよっぽど国民とインタラクティブに交われるのと違うか?ドナルド・トランプはウソばっかり報道されて足を引っ張られたから、新聞やテレビを全然信用してないんだろうし。
「つぶやくなーッ!」って言うのが一般の人だったらいいんだけど、新聞やテレビが「つぶやくなーッ!」はないと思うんだよな。お前ら、呟くより前に取材してちゃんと書けよ載せろよ、と。だいたい、そういう本来の仕事をしてないから、お前らが書いたり撮ったりする前に呟いてしまうんじゃないの?
まあ、何年か先、日本もこうなるワケだよ。
やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。
前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。
後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。
私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと
「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」
「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」
「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!」
「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」
……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。
だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、
反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。
つまりは最高法規の姿をした強力な