読書

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 引き続き60年近く前の古書、平凡社の世界教養全集第3「愛と認識との出発/無心ということ/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」を読んでいる。

 第1巻から延々と西洋哲学を読んできて、この第3巻でやっと日本人の著作に来たと思ったら、よりにもよって最初が倉田百三である。

 ドイツ哲学へドップリ傾倒しつつなぜかプロテスタンティズムへも我が身をなすり込んで慟哭し、しまいには親鸞に(すが)って啼泣(ていきゅう)するという、倉田百三のもはや何が何だかわけの分からぬ懊悩満載の文章に、多少うんざりしていた私である。

 そこへ、やっと来ました、鈴木大拙師の「無心と言うこと」。

 心に沁みる。疲労がたまりにたまっていたところへ、温かい茶を一服のむような安らいだ感じがする。この達観、達意。どうだろう。

 この「平凡社世界教養全集」、38巻あるうちのまだ3巻目に手を付けたにしか過ぎないが、当時の編集陣による配列の妙に驚嘆せざるを得ない。

言葉
(以下、引用(blockquote)は特に断りなき限り、平凡社世界教養全集第3(昭和35年(1960)11月29日初版)所収の「無心ということ」(鈴木大拙著)からの引用である)
一竹葉堦を掃って塵動かず

 本書の文中には

(ふりがなは筆者)

 よく禅宗の人の言う句にこういうのがある。

 「一竹葉(いっちくよう)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)なし

……というふうに書かれているが、どうも「一竹葉」というところなどが「……?」と思えなくもない。

 検索してみると、「竹影掃堦塵不動、月穿潭底水無痕」(竹影(ちくえい)(かい)(はら)って(ちり)動かず、(つき)潭底(たんてい)穿(うが)ちて水に(あと)無し)等とあり、出典も明記されているところから、おそらくこちらが正しいのであろう。

 意義は読んで字のごとく、竹の影が石の(きざはし)をはらっても塵が動くわけではなく、月の光が(ふかみ)の底を照らしても水に波一つ立つわけではない、というほどの意味である。なかなか味わいのある禅語である。

 この泰然自若、この不動、不変。自称「改革派」などに聞かせてやりたいと思う。

止揚(しよう)

 そういえばこの言葉、以前にどこかで見たなと思った。開高健の「最後の晩餐」で読んだのだった。

 ドイツ語の「Aufheben(アウフヘーベン)」である。

……今の哲学者の言葉で言うと、揚棄するとか、止揚するとでもするか。

応無所住、而生其心

 「まさに住する所なくしてその心を生ずべし」と()み下す。

 ところが無住ということが『金剛経』の中にある、『般若経』はどれでもそういう思想だが、ことに禅宗の人はよく「応無所住、而生其心」と申します。よほど面白いと思うのです。

 (作品中では返り点が打ってあるのだが、このブログでは返り点の表現は無理なので、上記引用には打っていない。)

 で、この言葉の意味よりも、「応」という字は確か漢文では「再読文字」なのだが、忘れてしまっていて、パッと()み下すことができなかった、というそのことが気になって、ここに書き出した。

 これは「まさに~べし」である。

 漢文を読んでいると、この「応(まさに~べし)」もよく出てくるが、他に、

  •  「将」(まさに~んとす)
  •  「且」(まさに~んとす)
  •  「当」(まさに~べし)
  •  「須」(すべからく~べし)
  •  「宜」(よろしく~べし)
  •  「未」(いまだ~ず)
  •  「蓋」(なんぞ~ざる)
  •  「猶」(なお~がごとし、なお~の
  • ごとし)

  •  「由」(なお~がごとし、なお~のごとし)

……なんてのがあって、覚えておきたいが、……いや、忘れる(笑)。忘れるからここに書いとく。

 これもなんだっけ、再読なんだったっけどうだったっけ、……と少し考えてから、ああ、「而」なんかと同じ「置き字」だった、……と思い出す。それほど気にして読まなくてもいい字だ。音読は「兮(ケイ・ゲ)」である。同じ置き字でも、「而」などは「て」とか「して」と()ませる場合も多いが、置き字の中でもこの「兮」だけは漢語での音読上の調子を整えるために置かれることが多く、日本語の()み下しではほとんど無視されるという気の毒そのものの字である。

 本文中には

大道寂無相、万像窃無名。

……とあった。()み下し文は付されていなかったのだが、多分、「大道(たいどう)(さび)れて(おもて)無く、万像(ばんぞう)(ひそ)やかにして()無し。」と()むものと思う。

表詮(ひょうせん)

 ネットではこの語の意味はわからず、手元の三省堂広辞林を引いても見当たらず、同じく手元の「仏教語辞典」を引いてもわからなかった。

 但し、「表」は見た通り「(あらわ)す」であり、「詮」は「あきらか」という訓読があるので、「明確に示す」というような意味でよかろうかと思われる。

……道元禅師が静止の状態を道破したとすれば、この方は活躍の様子を表詮(ひょうせん)しているといってよかろうと思います。

肯綮(こうけい)

 「腱」のことのようである。転じて、ものごとのポイント、そのものずばりの急所のことを「肯綮」と言うそうな。

……また甲と乙と同じ世界だ、自他あるいは自と非自というものが一つになった、それが実在の世界だといっても、どうも肯綮(こうけい)に当たらぬのです。

(せん)新羅(しんら)を過ぐ

 これがまた、検索してもサッパリわからない単語である。

……動くものが見えるときには、対立の世界がおのずから消えてゆく、すなわちこの世界は(せん)新羅(しんら)を過ぎて作り上げたものになってしまう。

 唯一、このサイトに解らしきものがあった。

(上記「佛學大辭典」より引用)

(譬喻)新羅遠在支那東方,若放矢遠過新羅去,則誰知其落處,以喻物之落著難知。

 「((たと)(たと)う)新羅は支那の東方遠くに()り,()し矢を(はな)ちて遠く新羅を過ぎて去らば、(すなわ)()()の落つる(ところ)を知る、()って物の落ち()くところ知り(がた)きを(たと)う。」

……とでも()み下すのであろうか。

 そうすると「この世界は箭新羅を過ぎて作り上げたものになってしまう」という文は、この世界は目標や着地点がまったくわからないまま作り上げられたものになってしまう、……という意味になろうか。

 本書中では「(せん)新羅を過ぎる」とルビが振ってあったが、サイトによっては「()新羅を過ぎる」と訓読しているところもあるようだ。

只麼(しも)にいる

 これもまた、実に難しい言葉である。只々(ただただ)、麼(ちっぽけ、矮小)、というほどの意味であるようだ。

……独坐大雄峰とは、ここにこうしている、ただ何となくいる、只麼(しも)にいるということ、これが一番不思議なのだ。

蹉過(さか)(りょう)

 「蹉過(さか)」というのは「無駄にしてしまうこと」だそうである。「蹉」という字にはつまづく、足がもつれる、というような意味がある

 してみると、「蹉過了」というのは「蹉過し(おわ)る」ということであるから、「とうとう全部が無駄だ」とでもいうような意味であろうか。

……これほど摩訶不思議なことはないのだ。こうしているというと、もうすでに蹉過了というべきだが、しかしそういわぬと、人間としてはまた仕方がない。

読書

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 平凡社の世界教養全集第3巻のうち、最初の収録、倉田百三の「愛と認識との出発」を読み終わる。

 現代かなづかいに直してあるので読みにくくはないが、内容は苛烈・苦悩・極端・懊悩・煩悶・煩悩と言ったもので、私に限っては心地よい共感や同感はなかった。「こういう腹の立つ若い奴って、実際にいるよな」などとも思えて、なじめない。

 キリスト教者で文芸評論家の佐古純一郎は解説において本作を「誰しもが若き日の過程において通る道筋」とでも言わぬばかりに大肯定しているのだが、若き日の私はこんな小難しくてかつ惰弱(だじゃく)な性情は持っていなかったし、そんな奴は嫌いでもあった。

 しかも作品を通底しているのはキリスト教礼讃である。それも、まるで、「畢竟人間など皆原罪を持つのだから、生まれ落ちた瞬間から詫び続けろ、謝れ!」と、こっちを睨み据え、唸り、迫り続けているように感じられる。そこには切々とした詩というものがまるでない。

 性欲を霊的なものと勘違いしたような興奮を「異性の内に自己を見出さんとする心」に書き付けたかと思えば、あっという間に冷めて、一部が表題ともなっている「恋を失うた者の歩む道――愛と認識との出発――」では、所詮ただの失恋を、またイジイジ恋々(れんれん)と言い訳している。見ちゃおれないほど痛い。

 中でも、「地上の男女」なる一篇などは、私にとっては狂人の所説、しかも完全に狂っていないだけに始末の悪い屁理屈にしか思えず、到底共感することはできなかった。こんな世迷言を若者に薦めることも到底いたしかねる。

 なによりも、この著作は女性を蔑んでいる。女性を大事なものの如くに気を付けて文章を書き付けていながら、その蔑視の内心がまるで隠せていない。江戸時代の文章であるならまだしも、せいぜい戦前の著作でこれでは、落胆せざるを得ない。

 こんなものがよく記念せられるべき古典として後世に残ったものだと思う。

 ただ一点だけ、少しここは良いかな、と同意できたのは、キリスト教を全面狂信というのではなしに、汎宗教のようにとらえ、同時に仏教、特に浄土真宗、親鸞と言った方向にも深い愛着を寄せていることである。実際、倉田百三の代表作「出家とその弟子」は親鸞伝をモチーフにした文学作品である。

言葉

 「愛と認識との出発」の文章は、今日び(きょうび)見かけない難解語のオンパレードである。漢字・漢語だけでなく、ドイツ語の哲学術語が多く使われ、前後のコンテキストだけに頼って読み進めることは極めて難しかった。辞書なしで読むのは無理である。通勤電車内の読書だから、まさか広辞苑・ドイツ語辞書・漢和辞典・英和辞典・和英辞典の5冊を担ぎ込むわけにもいかない。いきおい、スマホでネットの辞書を頼りながら読むこととなった。

オブスキュリチー

 Obscurity曖昧(あいまい)さ。

……身オブスキュリチーに隠るるとも自己の性格と仕事との価値を自ら認識して自ら満足しなくては、とても寂しい思索生活は永続しはしない。

(えら)

 これで「えらい」と訓むそうな。

……エミネンシイに対する欲求も無理とは言わない、がそこを忍耐しなくては豪い哲学者にはなれない。

エミネンシイ

 Eminency。傑出。

……後生だからエミネンシイとポピュラリチーとの欲求を抑制してくれたまえ。

向陵(こうりょう)

 向陵と言うのは、旧制一高のことだそうである。

……月日の((ママ))つのは早いものだ。君が向陵の人となってから、小一年になるではないか。

エルヘーベン

 Erheben。高揚。

 今年の私のこの心持は一層にエルヘーベンされたのである。

デスペレート

 Desperate。絶望、自暴自棄、やけ。

……君は(すく)なからず蕭殺(しょうさつ)たる色相とデスペレートな気分とを帯びてる((ママ))如く見えたからである。

インディフェレント

 Indifferent。無関心。

……私だって快楽にインディフェレントなほどに冷淡な男では万万ない。

自爾(みずから)

 これで「みずから」と訓む。連体詞のような副詞のような。

「現象の裡には始終物自爾(みずから)がくっついているのだから驚いた次の刹那にはその方へ廻って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私が言った。

 「始終物自爾」で始終(しじゅう)(もの)自爾(みずから)、である。

口を(かん)して

 「口を()じて」の誤植かな、とも思ったが、音読みどおりの「口を(かん)して」でよいようだ。

 私は口を(かん)してじっと考えた。((ママ))け放した障子の間から吹き込む夜風は又しても蚊帳の裾を翻した。

ザイン

 Sein。実在。

……自然は生死に関しては「ザイン」そのままを傲然として主張するのだ。

ヴント

 ヴィルヘルム・ヴント。

……氏はむしろヴント等と立脚地を同じくせる絶対論者である。

プラグマチズム

 Pragmatism。実用主義、実利主義。

……氏は誠にプラグマチズムの弊風を一身に集めた哲学者である。

Wollen(ウォルレン)Sollen(ゾルレン)

 主体と客体、主観と客観、というようなことだそうで、特に「Sollen」はドイツ語の難しいところであるようだ。自分の主張か、他人がそう主張しているか、というような解説もネット上にはある。

……実にこの本然の要求こそ我等自身の本体である。Wollenを離れてはSollenは無意義である。

斧鑿(ふさく)

 文字通り斧と(のみ)のことであり、転じて技巧のことを言うそうであるが、鑿の音読みが「サク」であるとは知らなかった。

  •  斧鑿(デジタル大辞泉)

……何等斧鑿の痕を((ママ))めざる純一無雑なる自然あるのみである。

Vorstellung

 フォーシュテルン。「表象」である。

……私はどう思っても主観のVorstellungとしての外は他人の存在を認めることができなかった。

Nachdenken・Vordenken

 ナハデンケン・フォーデンケン。内的な思考と他に関連する思考、とでも言うような意味か。特にVordenkenについては、抽象的な解しかなく、なんだかよくわからない。

……苦しんでも悶えてもいい考えは出なかった。先人の残した足跡を辿って、わずかにnachdenkenするばかりで、自ら進んでvordenkenすることなどはできなかった。

 わかりにくいぞ百三ッ!(笑)。

Leben・Denken

 リーブン。「生活」である。

 デンケン。「思考」である。

……私は子供心にも何か物を考えるような人になりたいと思って大きくなった。私はlebenせんためにはdenkenしなければならないと思った。

 ……いや、あの、百三(モモゾー)さぁ、なんで「生きていくためには思考しなければならないと思った」ではダメなわけ?変だよ、お前(笑)。

裂罅(れっか)

 なんと難しい、一般の日本語の文脈では見かけぬ単語であることか。しかし意味はそんなに難しくなく、「裂けてできた隙間」のことである。「裂」はそのままの意味、「()」は訓読みすれば「(ひび)」と()む。

……知識と情意とは相背いてる((ママ))。私の生命には裂罅がある。生々(なまなま)とした割れ目がある。

 別件だが、上の引用の「生々とした」という語が変換できなかったので、IMEに素早く登録しようとして品詞で困った。「生々」が語幹なら、これは「だろ・だっ・で・に……」の活用が完全にできない不完全形容動詞になるが、「生々し」が語幹になると「かろ・かっ・く・い・い……」と活用できる形容詞になる。

 似た単語としては「堂々」がある。普通の形容動詞のように「堂々だろう」なんていう使い方はないのだが、これは口語文法ではうまく整理できない。ところが、文語文法だと「堂々たる」「堂々たり」という「タリ」活用というのがあって、これは形容動詞である。では「生々」は「生々たる」なんて言い方があるかというとどうも怪しく、分類が難しい。

 「生々と」までを語幹としてその後を活用させず、「する」を動詞と見れば「副詞」だ、という整理もできる。

(ひそ)める

 「屏風(びょうぶ)」の「屏」の字に「める」を送った言葉である。

 この()み方はどうもネットの辞書等には見当たらない。「屏」の訓読みは「(おお)う・(かき)(しりぞ)く・(しりぞ)ける・(ついたて)」が一般的であるようだ。

 しかし、前後の文脈から言って「ひそめる」が最も妥当な読み方だと思う。

 私は何も読まず、何も書かず、ただ家の中にごろごろしたり、堪えかねては山を徘徊したりした。私の生命は呼吸を屏めて何物かを凝視していた。

コンヴェンショナル

 Conventional。月並み・ありきたり。

 私の傍を種々なる女の影が通りすぎた。私はまず女のコンベンショナルなのに驚いた。

ツァルト

 Zart。優しい。

……自分が今日キリスト者に対して、あるツァルトな感情を抱いているのは君に負う処が多い。

ウィッセンシャフトリッヒ

Wissenschaftlich。科学的。

……私はもっとしっかりした歩調で歩けるであろう。それには私の思索をもっとウィッセンシャフトリッヒにしなければならない。

……なんで普通に「科学的」って書かないかな、百三ェ……(笑)。

シュルド

 Schuld。有罪、借金、責任、……等々の意味がある。

……自分のある友は「彼と交わってよかったことは無い。自分は彼との交わりをシュルドとして感ずる」と言ったそうである。

 前後の文脈から言って「責任」「負い目」「責め」というふうに解するのが適当であろうか。

ベギールデ・ミスチーヴァス

 Begierde。欲望。

 Mischievous。いたずらな。人を傷つけるような。

……自分のやり方でこの少女の運命はいかに傷つけられるかも知れない。いわんやときにはベギールデが働いたり、ミスチーヴァスな気持ちになりかねない自分等が、平気で少女に対することができようか。

遑々(こうこう)として

 「煌々として」かな、と思ったら全然違っていて、部首が「しんにょう」である。意味も全然違う。「煌々」は「きらきら光り輝く様子」のことだが、「遑々として」というのは慌ただしく心が落ち着かないことを言う。

……親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。

Tugend

 トゥゲント。徳。

……社会に階級があるのが不服なのはその階級がTugendの高下に従っていないからである。

インニッヒ

 innig。心からの、真心の、誠実な、等々の意味がある。

 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。

 しかし、この文脈から言って、ここは「睦まじい」というふうに解するのが適切か。

Seelenunglücklichkeit

 ジーレンオングリックリッヒカイト。魂の不幸。

 文中ではSeelenunglücklichkeitと長大な一単語として書かれてあるが、Seelen unglücklichkeitという二つの言葉であるようだ。

……かかるseelenunglücklichkeitは人間が、真に人間として願うべき願いが満たされない地上の運命を感ずるところから起こる。

レフュージ

 Refuge。避難所。

……仕事場にあっても、家庭にあっても、教会にあっても、絶えず心がいらいらする、レフュージを芸術に求むれば胸を刺し貫くようなことが何の痛ましげも、なだめるような調子もなく、むしろそれを喜ぶように書いてある。

 文脈から言って「逃げ道」とでも解するのが適切か。

イルネーチュアード

 Ill-natured。意地の悪い。不健全な。

……文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。

 これも前後の文脈から言って、「意地悪」と解するのが適切だろう。それにしても、その数行前には

 一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い文章を書く。

……という文章が現れるのだが、ではなんで百三(ヒャクゾー)っち、ここでは「意地悪」と書かずにわざわざ「イルネーチュアード」なんて書くのか。まるで意味がワカンネェ(笑)。

ハンブル

 Humble。謙虚な。控えめな。謙遜な。

 『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持になっている。

ハンドルング

 Handlung。筋書き。

……それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作は面白くないに違いない。

次の収録作

 さて、平凡社世界教養全集第3の次の収録作は、鈴木大拙(だいせつ)の「無心と言うこと」である。今度は少し爽やかな読書になるだろうと思う。倉田百三は私には合わない。

読書

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 平凡社の世界教養全集第2巻を読み終わった。

 今、収載の最後、フランスのモラリスト文学者、サント・ブーヴの「覚書と随想」を全部読み終わったところである。

 作品は当時のフランスの人物批評などが過半を占めるため、それら人物の作品や時代の空気を知らなければ殆ど意味不明である。勿論、私も登場する人物については、ごくわずかな人数と、その作品をひとつ知っているかどうか、という状況であった。

 この作品は、ちと口幅ったいかもしれないが、不肖・この私にして知らない言葉や漢字がたくさん出てきた。もちろん海外文学であるから、原著に難しい漢字が書かれているわけではないに決まっており、これは翻訳者の癖なのだろう。翻訳者は権守操一(明治41年(1908)~昭和47年(1972))というフランス文学者である。

言葉
齷齪(あくせく)

 「齷齪」。難しい漢字である。これで、「あくせく」だそうな。

誄辞(るいじ)

 「誄辞」。難しい漢字である。()みは「るいじ」で、これは「弔辞」「弔詞」とだいたい同じような意味である。「誄詞(るいし)」という言葉もあるそうだ。

 「誄」という漢字は、音読は「るい」だが訓読は「しのびごと」だそうである。

 貴人、国王とか皇帝とか、そういう地位の人の死へのおくやみに使う敬意の言葉である。

淬を入れる

 訓み方がさっぱりわからなかった。知らない言葉である。

 「淬」は音読みで「サイ」だそうだが、動詞として「ぐ」を送ると、これで「(にら)ぐ」と訓読するそうである。

 意味は鋼鉄に()きを入れることだそうで、そんなに難しい意味はないようだ。鍛冶屋で「ジュ~ッ!」とやる、アレである。

 この「淬を入れる」の前後のコンテキストは、

(平凡社世界教養全集第2巻(昭和37年(1962))「覚書と随想」(サント・ブーヴ)p.495より引用)

(前略)彼の精神は、さながら、淬を入れた鋼鉄に似ているが、しかし、その淬は少々強すぎるようだ。というのは、出来上がった剣は、何かを突き刺す度ごとに折れてしまうので、彼は、再び、剣を造り直さなければならないからだ。

 思うに、音読してみて「ニラを入れる」「そのニラは少々強すぎるようだ」と訓むのはなんだか変だし、さりとて、「サイを入れる」「そのサイは少々強すぎるようだ」というのもおかしいように思う。「ニラギを入れる」「そのニラギは少々強すぎるようだ」と訓むと近いような感じだが、あまり聞きなれない。

 ここは「(やき)を入れる」「その(やき)は少々強すぎるようだ」というふうに訓むのが自然であるように思う。……「(やき)」という訓みは、どこにも書かれてはいないのだけれども。

面紗(めんしゃ)

 「面紗(めんしゃ)」。洋装、特にウェディングドレス等の女の、あるいはイスラムの女の、顔を隠すヴェールのことである。


 さて、次は同じく平凡社世界教養全集第3巻、「愛と認識との出発/無心と言うこと/侏儒の言葉/人生論ノート/愛の無常について」である。前2巻は西洋哲学~フランス思想であったが、一転して倉田百三・鈴木大拙・芥川龍之介・三木清・亀井勝一郎と、日本の著者揃いである。

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 ブレズ・パスカルの「パンセ」。平凡社の世界教養全集第2巻に収載されている。

 随分かかって読んでいる。いよいよ、第346節から始まる有名なくだりに来た。

346

 思考が人間の偉大をなす。

347

 人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひと滴も、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりも一そう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。

 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は、思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根源がある。

348

 考える葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してでなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

 実に味わい深い一節だ。パスカルが狂信的なキリスト教徒でさえなければよかったのだが。

 ……と、更に読み進めていって、中途半端に記憶にある、どうも読み覚えている一節にさしかかる。

418

 人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣(きんじゅう)にひとしいかということばかり知らせるのは、危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。

 人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。

 ハテ。どうも、つい最近、読んだ気がする。ウィリアム・デュラントが引用していたのだっけ、モンテーニュの言葉を引用したのだっけ。本当につい、先月頃読み飛ばした気がする言葉なのだが。

 どうしてもわからず、自分のブログを検索してみたらわかった。先月どころか。平成28年、今から3年弱ほど前に、読んでいたことがわかった。

 なんだか、もう、ね。脳味噌が溶けかかってますナ。

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 ブレズ・パスカルの「パンセ」。平凡社の世界教養全集第2巻に収載されており、もうかれこれ1か月以上もこれを読んでいる。

 1か月以上もかかるのは、難解だからだ。ゆっくりと読んでいる。ゆっくり読んでも、おおよそ3割ほどがわかるというと、それでも少し「盛って」いる感想であることが否めない。

 パンセのこの狂信的なまでのキリスト教礼賛は、貴族的な、いや、貴族そのものである学者が、世界にキリスト教がどのような悲惨をもたらしたかを知らぬまま書き付けた妄想集のように思える。論理の飛躍がある。まだしもニーチェがゾロアスター(ツァラトゥストラ)にものを言わせた著作の方が、東洋人にはスッと入るようにも思える。

 雑念だが、ニーテェがゾロアスターでなく、マホメットに語らせていたら、ムスリムとクリスチャンの関係は、今頃どうなっていただろうね。

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・新玉葱と明太子の和え物

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 先週ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」を読みながら、新玉葱と明太子の和え物を作って一杯やり、動画に撮った。

 編集してYouTubeに上げた。

 動画の中で飲んでいる酒は、いつもと同じ「会津ほまれ からくち米だけの酒 純米酒」である。

 動画の中で読んでいる本は、「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」である。

読書

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 引き続き「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、ラ・ロシュフコーの「箴言と省察」を読んでいる。

 解説(平岡昇(明治37年(1904)~昭和60年(1985)、仏文学者)によると、モンテーニュの随想録や、パスカルのパンセなどに比べると、「内容の深さにおいて劣ることは否めない」(同)と評されるものだそうである。

 しかし、箴言の一つ一つは短くわかりやすい。

気になった言葉――箴言集より――
箴言
【22】 哲学は過ぎ去つた不幸と来るべき不幸には容易に打ち勝つ、しかし現在の不幸は哲学に勝つ。

【23】 死を知つてゐる者は少い。人は普通の場合決意にによつて死を堪へ忍ぶのではなく、愚昧と習慣による、そして大部分の人間は、死なざるを得ないから死ぬのである。

【26】 太陽も死も凝視することはできない。

【38】 我々は期待によつて約束をし、恐怖によつてそれを守る。

【73】 色恋沙汰を一度も経験したことのない女はいくらもゐるが、たつた一度しか色恋したことのないといふ女は、めつたに見つからない。

【79】 沈黙は、自信のない人間の最も確実な方策だ。

【90】 我々が生活上の交際で人の気に入るのは、我々の長所よりも欠点による方が多い。

【251】 欠点が似つかわしい人もあれば、長所と凡そ不釣合な人もある。

【264】 憐れみの情とは、他人の不幸を介して自分自身の不幸を顧る気持ちであることが多い。我々が将来陥るかも知れない不幸に対する巧妙な先見の明なのだ。我々が他人に救ひの手をさしのべるのは、我々が同じやうな不幸にあつた場合に、我々にもさうしてくれることを彼らに覚悟させておくためである。だから、我々が彼らに捧げるこのやうな奉仕は、本来から言へば、我々があらかじめ自身のために利益を図つたことになる。

【266】 野心や恋愛のやうな激しい情念でなければ、他の情念に打ち勝てるものではないと思ひこむのは、考へ違ひである。怠惰は、どんなにだらしがなくても、しばしば情念を制御せずにはおかない。即ち、怠惰は人生のあらゆる計画とあらゆる行為を(むしば)み、知らず知らずのうちに情念と美徳を破壊し、根絶やししてしまふ。

【270】 既得の名誉は、これから獲得すべき名誉の保証である。

【276】 相手がゐなくなれば、月並みな情熱は()め、大きな情熱はつのる、風が吹けば蝋燭が消え、焚火が燃えるやうに。

【277】 女は、愛してゐないのに愛してゐると思つてゐることがよくある。つまり、或る恋のたくらみにいつぱいな胸、言ひ寄られて起きた気の高ぶり、愛される楽しさに自づと引きこまれる心、それに、愛を退ける心苦しさ、かうしたことから、彼女らは唯媚態を演じてゐるにすぎないのに、恋情に燃えてゐると思ひこんでしまふ。

【282】 あまり巧妙に真理を仮装してゐるので、それに騙されなければ却つて判断を誤つたことにされさうな仮面をつけた虚偽がある。

【287】 同一の事柄について方策を幾つも思ひつかせるのは、精神の豊かさよりもむしろ明智の欠如である。この欠如のために我々は想像に浮ぶものすべてに気を取られ、まづ、何が最もよいのかの見分けがつかなくなるのだ。

【301】 財宝を軽蔑する人は相当に多い。しかし、それを与へ方を知つてゐる人は殆どゐない。

【308】 人は節制を一つの美徳としたが、それは偉人の野心を制限するためであり、又、凡庸な人々が幸運や才能に恵まれないのを慰めるためであつた。

【342】 人が生れた国の訛りは、言葉ばかりでなく、精神や心情の中にも残つてゐる。

【354】 欠点によつては、巧みに用ひれば美徳そのものよりも光り輝くものがある。

【372】 大多数の青年は、洗練されもせず、粗野であるにすぎないのに、気取らない人間だと思ひこんでゐる。

【414】 馬鹿と気違ひは、自分の気紛れを通してしかものを見ない。

【427】 大部分の友人は人を友愛嫌ひにさせ、大部分の信心家は人を信心嫌ひにさせる。

【436】 人間一般を知ることは、個々の人間を知ることよりも容易である。

【458】 我々の敵は、我々に対する評価においては、我々自身よりもずつと真実に近づくものだ。

【571】 自分自身の中に安心が見出せない場合は、他にそれを探しても無駄である。

【610】 人間のすることでは、極端になれば善も悪もない。

【611】 大きな罪を犯す能力のない人々は、他人がそれを犯しても容易には感づかない。

【612】 葬式の華やかさは、死者の名誉よりも生者の虚栄にかかはる方が多い。

【618】 人真似は常にうまくゆかないものだ。すべてまがひものは、実物の時は人を魅惑するものでも、人を不快にする。

【622】 自分は人に好かれてゐるといふ自信は、しばしば、間違ひなく人に嫌はれる道である。

様々な省察
〇 大抵の子供が人に好かれるのは、彼らが持つて生れた様子や態度からまだぬけ出さないためであり、それ以外の様子や態度を知らないためである。

〇 つまるところ、人が生れつきどんな長所なり欠点なりを授かつてゐようとも、自分の身分と容貌にふさはしい様子や口調や態度や感情を持ち続けてゐる程度に応じて、他人に好かれるものであり、それらから人が遠ざかつてゐる程度に応じて他人に嫌はれるものである。

〇 雄弁な沈黙といふものがある。それは時として是認することにも、非難することにも役立つ。人をあざ笑ふ沈黙もある。(うやうや)しい沈黙もある。 

Today’s drinking and snacks 今日の酒肴・えのき茸と茗荷の酒肴

投稿日:

 えのき茸と茗荷と梅肉で酒肴を作って一杯やった。

 例によって動画に撮り、YouTubeに上げた。

 動画の中で飲んでいる酒は、「会津ほまれ からくち米だけの酒 純米酒」である。

 動画の中で読んでいる本は「平凡社 世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」から、モンテーニュの「随想録」である。

読書

投稿日:

 先だってより、平凡社の「世界教養全集第2 随想録/箴言と省察/パンセ/覚書と随想」に収められている「随想録」を読んでいた。モンテーニュの思想的著作である。

 私などの無学者には本来馴染まない、哲学・思想の世界的大著であるので、なかなかスラスラとは読み進まず、しかも通勤電車の中などでの読書であるから、去る5月3日の金曜日、憲法記念日から読み始めて、今日まで約1か月かかった。

 しかもなお、十分に理解して読み進めたかと言うと恥ずかしいことだが実はそうではなく、ざっと3割もわかったと言えばそれでも不遜すぎる自己評価かもしれない。

 モンテーニュという人がどういう人で、何をした人か、ということは、フランスの「宗教戦争」、あるいは「ナントの勅令」あたりで検索すればだいたいわかる。

 そして、彼がどういう思想のもとにヨーロッパ史に残る見事な調停を成しえたかが、この本を読めばわかるわけである。

 さて、次に、この本収載著作の二つ目、「箴言と省察」を読む。ラ・ロシュフコー著、市原豊太・平岡昇 訳、である。モンテーニュは名前ぐらいは知っていたが、このラ・ロシュフコーについては名前も知らない。とにかく読んでみよう。

言葉ノート

 この本を読む上で出てくる、すぐには思い出せないような言葉をノートしておきたい。

ピロニスム  懐疑主義
ストア主義  厳格主義、禁欲主義。むしろ、ストア学派等と言うよりも、「ストイック」「ストイシズム」と言った方が通りが良いかもしれない。
スコラ学者  昔のヨーロッパの「学校」を基盤とした学術主義の学者。
エピクロス主義  「快楽主義」。「エピキュリアン」という言葉があるが、それから考えるとピンと来る。
Que sais-je?  「ク・セ・ジュ?」。フランス語である。「我何をか知る」という言葉であり、前記ピロニスムに関連して、この「随想録」及びモンテーニュを一言で表せとなれば、この「ク・セ・ジュ?」である、ということにもなろう。英語で言えば「What do I know?」である。

酒肴と哲学物語

投稿日:

 本を読みながら酒を呑む、という動画を作っている。

 先日、50年前の古書、38巻からなる全集・平凡社の「世界教養全集」を入手したが、その第1巻、「哲学物語」を読みつつ呑んでいたら、読むのに時間がかかり、第1巻を読むためだけに、ついに動画9本(1本あたりだいたい6~7分)を費やした。

 面白いからそれだけで「動画リスト」にまとめた。