薬喰(くすりぐい)~SOBA満月~読書

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 薬喰(くすりぐい)」で一句詠んだりなぞしていると、何やら今晩、肉でも食ってみようかという気にもなる。

 薬喰と言えば無論、冬の牡丹(ぼたん)鍋に紅葉(もみじ)鍋、桜鍋あたりの肉料理のことである。その昔、肉は表向き禁忌で、喰うなら隠れて喰うべきものだったそうだが、山鯨(やまくじら)だの(かしわ)だのと言う隠語も公然として、もはや人目を(はばか)るということ自体が形式でしかなかったようである。

 だが維新後、明治大帝におかせられては「ひとつ(ちん)が文明開化の手本を」とて肉をお召し上がりになり、これを契機に肉食が大いに普及した。日本はそんな時代から、まだ百数十年かそこらしか経っていない。

 ともかく、薬喰は冬の季語とて、今日も寒い。高校3年生は今日センター試験であるという。このところ毎年のことだが、センター試験と言えば東京周辺は雪と決まったもので、今日も雪交じりの冷たい(みぞれ)が降った。

 読みかけの古書、平凡社の世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」を携えて、行き付けの蕎麦店・南越谷駅傍「SOBA満月」へ足を運ぶ。

 今日の蕎麦前は、新メニューの「白子ぽん酢」に新潟の銘酒「吉乃川」をぬる燗で2合。「白子ぽん酢」は昨日から始めたばかりの肴メニューなのだという。この店で魚介の生ものは珍しい。新鮮でみずみずしくクリーミーで、紅葉おろしと(あさつき)の、なんと合うこと。付け合わせに和布(わかめ)と胡瓜の飾り切りが入り、さっぱりする。

 読書しつつ酒を飲み、飲み終わったら蕎麦にする。今日は寒いから、「卵とじ蕎麦」にする。

 熱々のかけ蕎麦に、フワフワのとじ卵がたっぷりかかり、三つ葉と葱のアクセントがおいしい。ふうふう吹きながら手繰り込み、半分ほど食べて、やおら七味唐辛子を効かせると、寒さなどどこへやら、芯からホカホカと温まってくる。

 飲み喰いしつつ、本を読む。

 「現代人のための結婚論」は、結婚ということそのものについては勿論のこと、結婚後の夫婦の日常生活についても多く言及している。それが、夫婦間だけではない、職場の人間関係などにも大いに参考になる、強く共感を覚える示唆を沢山(たくさん)含んでいて、意外に納得感の強い読書となっている。私にとってこの評論は、同じ巻の他の評論に比べて、最も共感が強く、理解もしやすい。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」から引用。
他のblockquoteタグ同じ。

p.438から

 そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。

p.457から

成熟した人間は服従をとおして真の自由を見つけ出す。ところが未成熟な人間は不服従によって自由をかち取ろうとする。

p.461から

成熟した人間はその行動をコントロールする。

 これはわかりきったことだ。だが、たいへん重要なことだ。自分をコントロールするとは、手っ取り早く言えば、将来のために現在の苦痛や不満を我慢するということだ。自分の現在の欲望や衝動だけを行動の原理とする人間は成人になっていないわけだ。子どもというものは現在の欲望をコントロールすることができないからだ。多くの学生結婚はこうした未成熟の結果であることが稀ではない。彼らは待つことができなかったのだ。自分をコントロールするとは、「待つ」ことができるということだ。

 つまり、自分をコントロールする人間の行動は、苦痛とか快楽とかいったものではなく、むしろいろんな原則に基づいて決定されるわけだ。若い人はしばしば、成人になれば何でもかってにできるのだと考えたがる。言いかえれば、自分の行動を制限するものがいっさいなくなること、それが成人になることだと考える。けれどもそんなふうに考えることは、彼がまだ成人になっていない、未熟であることの証明でしかない。成人とは成人の行動原則を自分に課する人間のことだ。たとえば、子供は他人の思想や行動のプライヴァシイ(私的な性質)をいっさい認めようとしない。だが成熟した成人は他人のこのプライヴァシイを充分認める。

p.474から

とにかく、なぜある人間が現在あるような人間であるのか、このことをもし私たちが理解するならば、たといそのような彼を変えることができなくても、私たちと彼との関係をいくらかでも気持よいものにさせることになるだろう。つまり私たちは彼の行動を変えさせることはできない。しかし私たちは彼の行動について私たちの解釈を改めることはできる。そしてこの事自体、意義のあることなのだ。

 上の部分、実に、職場での人間関係においても適用可能な示唆に富む。

p.477から

 忠告(アドバイス)もむずかしいものだ。相手が忠告を求めていないときに忠告するのは、無用であるどころか、有害かもしれない。それに忠告は命令ではない。だがしばしば、私たちは忠告と命令とをとっちがえる。命令だったら、相手がそれを守ってくれるか否かを見守る必要がある。だが忠告は、相手がこれを受け入れようが受け入れまいが、本当はこっちの知ったことではないのだ。世の中には何かをさせようとこちらから働きかければかけるほど、しりごみする人がいる。劣等感がそうさせるのだろう。こういう人に対しては、こちらが相手にしてやる、あるいは相手を助けてやるよりも、相手をしてこちらの手伝いをさせるように仕むけることだ。相手がこっちのために何かを自発的にするように仕むければ、やがて劣等感という心のシコリはほぐれるだろう。

 この部分も夫婦間ではなく、職場における上下関係などにおいても適用可能な示唆に富む。

p.477から

夫婦は大いに話し合い議論し合った方がいいという意見がある。だが、本当はそういうことはむずかしい。なぜなら、議論というものは表面上は理性と論理の上に立っているように見えるが、じつは感情(エモーション)の上に立っている場合が多いからだ。

P.478から

議論のきっかけが相手の行動や考え方に対する反駁であるとすれば、へたな議論をしないためには、この反駁や反論を中途でやめるというか、「反論はできるのだが、今はしたくないのだよ」という態度を示すことがいい。反対論をしばらく括弧の中にくるみこんでしまう態度、それが「寛容」といわれるものだ。

 上の箇所も前の箇所と同じく。

p.479から

 相手につまらぬことで干渉しないことだ。

 さらにまた、もし諸君が小さなつまらない事がらで相手と意見が一致している、そして一致していることをお互いに気持よく認め合うことができれば、大きな事がらで意見が一致しなくても、諸君は平静にまた効果的に相手を動かすことができる。反対に、諸君が日常の小さなつまらないことでいつも妻と意見を異にしているとすれば、重大な問題で、意見を一致させることはたいへんむずかしくなる。

 上の箇所も前の箇所と同じく。

言葉
暁天(ぎょうてん)の星

 勿論、読んで字の如く、明け方の星のことであるから、「数が少ないこと」を言う。

引用元前記と同じ。下線太字は佐藤俊夫による。

外から与えられるものを素直に受け取って、そのままそれを実行するような従順な、あるいは個性のない人間なんて、いまどき、暁天の星ほどにもおるまい。

異世界転生もの

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 最近あまり書店に行っていない。ずっと平凡社の古書「世界教養全集」ばかり読んでいることと、仮にそれでなくても、Amazonで本を求めることが多くなってしまっているからだ。

 そんな最近ではあるが、一昨日、新越谷駅近くの蕎麦屋「SOBA 満月」さんへ蕎麦を手繰りに行った帰り、珍しく新越谷VARIEの旭屋書店へフラリと入ってみた。

 漫画の棚へ行ってみた。以前はBL(ボーイズ・ラブ)ものばかりが並び、腐女子が(たむ)ろして瘴気(しょうき)が立ち込めていた(あた)りの品揃えがガラリと入れ替わっていて驚いた。

 全部「異世界転生もの」に入れ替わっていたのである。

 異世界転生ものについては、去年、私が司会をしているささやかな読書サークルの参加者から「最果てのパラディン」(柳野かなた著)という本を教えてもらい、そういうジャンルが流行している、ということを知ったばかりである。残念ながら私はこの「最果てのパラディン」については未読なのであるが、その参加者女史によると大変面白いのだという。

 最近の漫画売り場は「体験立ち読み」サンプルが吊るしてあるなどして親しみやすくなっている。旭屋には「とんでもスキルで異世界放浪メシ」(赤岸K著)というのと「異世界おじさん」(ほとんど死んでる著)の2冊の、それぞれ第1巻が立ち読み可になっていた。

 2冊とも読んでみた。どちらも非常に面白かった。

 特に二つ目の「異世界おじさん」は、もう既に異世界放浪は終了して通常の世界へ戻ってきたところから話が始まっていて、もうプロットのバリエーションもこれくらい拡がっているんだな、と感じられた。

 しかし、どちらも続巻は買わなかった(苦笑)。今別の本(言わずと知れた平凡社の世界教養全集)を読んでいるからである。

 なにしろ、コッチのほうは親の生前形見分けみたいなもんだからタダだし。

読書

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 約60年前の古書、平凡社の世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」のうち、スタンダールの「恋愛論」までを読み終わる。

 全体として、解説にもあるが、本書は「スタンダールの実際の恋愛に際しての心の動きの記録」なのだそうな。スタンダールは本論を(したた)めつつ、マチルデ・デンボースキーなる人妻に恋をしていたのだそうである。結局、その恋は成就することなく破れたそうな。

 巻末に近く、諸外国の恋愛について論ずるところがある。その中に、往古のスイスには、日本における「夜這い」と似た風習があったとするくだりがあり、興味を引くものがあった。

 次はH.A.ボウマン著・堀秀彦訳「現代人のための結婚論」である。

読書

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 引き続き約60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻に所載の評論「恋愛論」を読む。

 Googleでふと「スタンダール」を検索してみたら、キーワード・サジェスチョンに「症候群」と出る。「スタンダール症候群」というものがあるらしく、何か文学的な偏執症のようなことなのかな、と思いきや、その昔、スタンダールが有名な聖堂のフロアで丸天井の壮大な装飾を見上げて、眩暈(めまい)と動揺に襲われたそうで、そのような症状をスタンダール症候群というのだそうである。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」より引用。以下の<blockquote>タグも同じ。
p.316から

 恋する技術とは結局そのときどきの陶酔の程度に応じて自分の気持ちを正確にいうことに尽きるようだ。つまり自分の魂に聞くことである。これがあまりたやすく出来ると思ってはならない。真に恋している男は、恋人から嬉しい言葉をかけられると、もう口をきく力がない。

p.340から

 ある有名な女がボナパルト将軍に突然いった。彼がまだ光栄に包まれた若い英雄で自由に対し罪悪を犯していなかったころの話である。「将軍様、女はあなたの妻となるか妹になるほかはありませんのね」英雄はこのお世辞を理解しなかった。相手は巧妙な悪口で仇を((ママ))った。こういう女は恋人に軽蔑されることを好む。恋人が残酷でなければ気に入らない。

p.355註〈1〉より

「スペイン人の目的は光栄ではなく独立です。もしスペイン人が名誉のためにのみ戦ったのだったら、戦闘は、トウデラの戦い(一八〇八年十一月)で終わっていたでしょう。名誉心は変わった性質をもっています。一度汚されると動けなくなってしまう。……スペインの前線部隊はやはり名誉の偏見に囚われていたので(つまりヨーロッパ風現代風になったのです)一度敗北すると、全ては名誉とともに失われたと考えて壊滅しました」

p.357註〈3〉より

 ああ、時代の哀れな芸術に当たるやいかに辛き。
 子らはいとけなくして、ただ人にもてはやされんことをのみ願う。

ティブルス、一、四。
言葉
丁年

 「定年」「停年」というと、老齢による退職の年齢だが、「丁年」は一人前の年齢、ということだそうである。

下線太字佐藤。以下の<blockquote>タグ同じ。
p.333より

ついにドンナ・ディアナの丁年が近づいた。彼女は父親に勝手にわが身の始末をする権利を行使するつもりだと告げた。

 まだこの評論、半分ほどである。引き続きこれを読む。

読書

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 約60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻に所載の評論「恋愛論」を読む。

 フランスの小説家、スタンダールが(もの)した評論である。

 何分(なにぶん)昔の著作であるので、どうも男より女を低く見ているようなところが否めない。現代では受け入れられないように思う。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」より引用。以下の<blockquote>タグも同じ。
p.257より

 憎悪も結晶作用を持つ。恨みを晴らす希望が生じるやいなや改めて憎み始める。

 「結晶作用」というのは、スタンダールが本論で提示した恋愛における主要現象の一つである。恋する者が相手に想像上の価値を付け加えていく様子を、ザルツブルグの塩坑での現象に例えたものだ。

p.249より

 ザルツブルクの塩坑では、廃坑の奥深く、冬葉を落とした木の枝を投げ込む。二、三ヵ月して取り出して見ると、それは輝かしい結晶で蔽われている。山雀の足ほどもないいちばん細い枝すら、まばゆいばかり揺れてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はすでに認められない。

 私が結晶作用と呼ぶのは、我々の遭遇するあらゆることから発して、愛する者が新しい美点を持つことを発見する精神の作用である。

p.257より

 もっとも賢明なる人々が音楽において狂信者であるのは、彼らが彼らの感情の「何故」を知ることが出来ないからである。

 かかる反対者に対し自説を固持するのは容易ではない。

p.277より

 情熱恋愛を感じ得ない男は同時におそらくいちばん烈しく美の効果を感じる男だ。すくなくともこれは彼が女から受けるもっとも強い印象である。

 遠くに愛する女の白繻子の帽子を見て心のときめきを感じる男は、社交界随一の美人が近づくのを見ても、自分が冷淡なのに驚く。他人の熱中を見て、彼はちょっと悲しくなったりする。

 絶世の美人も二日目にはそれほど驚かせない。これは非常に不幸なことで結晶作用を頓挫させる。彼女らの値打ちは誰にもわかり、いわば飾り物にすぎないから、彼女たちの恋人のリストには馬鹿者が多いに相違ない。大公とか百万長者とか(<1>)

<1> 著者が大公でも百万長者でもないことはいうまでもない。私がこの機智を弄するのはちょっと読者に先廻りしたいと思ったからにすぎない。
p.301より

 もし女特有の自尊心の強い女の前で、悪口を笑って受けたりすると(これは軍隊生活の習慣からあり勝ちなことだ)、諸君はこの気高い魂をがっかりさせる。彼女は諸君を卑怯者と思い、間もなく侮辱するようになる。こうした高慢な性格は他の男に容赦しないような男に屈服するのを喜ぶ。とにかく我々は女の側へつかねばならぬ。恋人と喧嘩しないためには隣人と喧嘩しなければならないことはよくあるものである。

 上記、「ああ、いるよなァ、こういう女」と深く共感した(笑)。

言葉
諂い

 これで「(へつら)い」と()む。

下線太字佐藤。以下の<blockquote>タグ同じ。
p.246から

多少とも諂われもしくは傷つけられた虚栄心は熱中を生ぜしめる。

佯る

 これで「(いつわ)る」なのだという。

p.252より

 恋する女は自分の感じる感情にあまりにも幸福であるから、上面を佯ることはできない。

スタンダリアン

 熱烈なスタンダール・ファンのことをこう言うらしい。

p.297訳者注より

(11) Vol.Guarna――スタンダリアンはVol=Volterreすなわち前出スタンダールが一八一九年六月メチルドを追ったヴォルテルラ。Guarna=giorgi彼の恋敵の若い士官ジョルジュと解読している。「彼女は親しげに彼によりかかった」
揶揄った

 これは()める向きもあるかもしれない。「揶揄(からか)う」である。

p.302より

フランソア一世の王妃付きの若い女官を皆がその恋人の浮気について揶揄った

桃金嬢

 「モモカネジョウ」ではない。これで「桃金嬢(てんにんか)」、と訓む。「天人花」と素直に書けば良いようなものだが、文脈に床しさが溢れ出て、これはこれで良い。

p.313より

ごらん、あそこに小川が
桃金嬢を洗っているところ
あそこに私の憩いの場
私のお墓を立てるだろ。

 まだ半分ほどしか読んでいない。引き続き本論を読む。

読書

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 冬物の黒ズボンをもう一本、ユニクロのオンラインストアで注文した。気に入ったサイズのものがなかったので、1サイズほど小さいものを選んだ。気に入っているサイズがなかったのは残念だが、いつも選ぶのはピッタリよりもだいぶ大きいサイズのものなので、1サイズ小さくしたからと言って着るのに多分支障はないだろう。

 さておき、60年前の古書、平凡社世界教養全集第5巻。引き続きゆっくり読んでいる。

 収録著作の二つ目、フランスのモラリスト作家、ボナール(Abel Bonnard)の「友情論」を朝の通勤電車で読み終わった。

 友情を至高の精神的境地として扱っており、うわべの友情や、男女間の友情を徹底的にこき下ろしている。また、昔の著作であるため、女性を低く見ているように感じられ、多分このような点は現代では受け入れられないだろう。

 本著作は全部で6部からなるが、その第5部で「男女間の友情」について友人との対話の形式で書いている。友人とは論が対立し、結論は出していないが、友人は「男女の間の友情など成立しない。男女間の友情など恋愛の劣化品に過ぎない。そして、女同士の友情は男同士のそれのようには高みに達し得ない」と言い、著者はこれに有効な反論ができない。しかし、こうした論を嫌う人は、現代には多いと思う。

 内容とはあまり関係がないことだが、どうも翻訳が良くないようだ。論が(にわ)かには理解し(がた)い。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))「友情論」(A・ボナール著、安東次男訳)より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.180より

ほんとうの友達は、たがいの隠れた類似から近づくが、凡庸な友達は、うわっ面の類似で近づくものだ。

p.199より

 友情が嘘のおかげで滅びることがあるように、恋愛は、本当のことのせいで滅びることがある。

p.203より

 感情を害しやすい人々の行為には一つの深い理由がある。つまり、かれらが言いわけを聞くのを厭がるのは、持っているつもりの不平の種が消えてしまうのを恐れるからだ。しかるに、それこそ、かれらが何よりも避けたがっていることなのだ。泣き言の種をつねに大げさに言いたがり、そのくせけっしてはっきりとはさせたがらない。かれらは不幸であることを望む。こうした心情の策謀家たちには、忿懣や言いがかりや誤解が必要であって、このような気質はある種の人々にあっては、一種の偏執か悪徳にまで達することさえある。結局のところ、かれらが友情を愛するのは、ただ仲たがいするためにすぎない。

 次の部分は、籠池何某氏に対する菅野(すがの)(たもつ)氏の関係のような感じが、何となく、した。

p.205より

 偽りの友情が偽りの恋愛よりはるかに少ないのは当然のことである。というのは、恋愛などおよそがらに合わない人間でも、肉体の力でそれに引きこまれることもあるからだ。これに反して友情の場合は、たいてい、そんな能力のない人間は、かかり合わない。とはいえ、単に計算や利害だけでは説明のつかぬもっと奇妙な性質の、偽りの友情も存在する。ある種の人々はわれわれに対して、同情のない好奇心ともいうべきものを感じる。かれらは、われわれが正しいというのでもなく、われわれの味方になるのでもないが、まちがっているともあえて言わぬ。けっして助けてくれようとはせず、生きるという劇をわれわれがどんなふうに切り抜けていくかを、見たがっているようだ。世捨て人の生活をいとなむ人々でさえその孤独を囲む生垣の隙から、こうした注意深い間諜の目が光っているのを目にするものだ。この連中は、われわれの友達というよりも、敵のまわし者である。世間は、かれらがわれわれのもとに出入りするから、われわれのことをよく識っていると思うし、じじつかれらは、他人に一切の情報を、そのおかげで世間がわれわれの真の姿を見失うような情報を、提供する役目をひき受ける。かれら慈悲深い中傷家、愛情にみちた裏切者が、われわれの弁護をしてくれることもあるが、それは、一瞬あとでは、かれらの感情の高潔さとともにわれわれに関する悪評の正しさを聞き手に確認させるような性質のものである。こういう連中に対しては、かれらをよく識るということ以外の復讐をしてはならない。われわれの心がかれらから離れる一方、かれらの姿はわれわれの目に喜劇と映る。ときとして、あまりひどい悪口を言ったときなど、かれらは、われわれと出会うとすっかりまごつく。そんなときは、はっきり顔を見つめることができないものだから、握手に力をこめ、やたら甘言をふりまきいきなり、当のわれわれに向かって、他の人にはけっして言うまいと思われるほど、あらゆる賛辞を並べたてる。しかしわれわれは、じつはそれが悪口の裏返しにすぎないというぐらいのことは、すでに見抜いているから、それを聞いて微笑を禁じ得ない。

 次の部分は全論の結語部である。これが「揚棄(アウフヘーヴェン)」というようなことなのかな、と感じられた。

p.236より

 たしかに、人間は、自由で晴朗で高雅な方法でのみ、おのれの力を証明する。かれはこれによってひき起こされる孤独に耐える。だが、もしあまり容易にこの孤独に至りつけば、そんな孤独には何の価値もないであろう。まずはじめに、ありとあらゆる欲求を感じていたということが必要なのだ。その性質が進展していくにつれて、もはや自分とだけしか真の交わりを結べぬまでにいたったときでさえも、いま一度、この状態と、人間嫌いとを、絶対に区別しなければならない。人間嫌いは、怒りっぽくなり、いじけてくる。孤独は、おのれをくりひろげ、純化する。人間嫌いは、相変わらず人間たちの間にとどまりながら、人間たちにバリケードをきずく。孤独な人は、おのれを高めるのであって、閉じこもるのではない。かれの魂は、茨に守られた家ではない。高所にはあるが、いつでも出入り自由な宮殿なのだ。そこには、誰ひとり姿を現さぬとしても、やはり、客を喜び迎えることに変りはない。われわれとともに楽しみにくるはずのあのすばらしい君子たちのために、毎夜、饗宴は催されるのである。すでに発ったが、ひどく遠いところから来るためにすこし遅れるあの婦人のためには、彼女の部屋の豪華な内部装飾まで、すっかり準備が整っている。この祝祭に列するのが、祝祭を開いた当人ひとりだけという結果になっても、やはりこのうたげが、〈友情〉や〈愛〉に対して開かれていたことには変りはあるまい。生きる(すべ)とは、あらゆるものを迎え入れる力を持ちながら、何ものをも持たずに済ますすべを学ぶことである。

言葉

 翻訳なので、難しい言葉はそんなになかったが、しかし古い時代の翻訳であるから、中には読み慣れないものもあった。

穹窿(きゅうりゅう)

 建設・建築方面の言葉で、欧州の古寺院にあるような丸天井のことである。

 さて、次は3つ目の著作「恋愛論」である。同じくフランスの作家、スタンダール(Stendhal)の著作だ。スタンダールと言えば「赤と黒」などの小説が有名だが、自分では小説家ではなく哲学者だと思っていたのだそうで、そのためこの「恋愛論」などの著作もあるのだという。

読書

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 約60年前の古書、平凡社の「世界教養全集 第5巻」を読んでいる。

 収録著作の一つ目、「幸福論」(アラン著、白井健三郎訳)を読み終わった。

 著者のアランは本名エミール・オーギュスト・シャルティエ Emile Auguste Chartier といい、フランスの哲学者である。

 この「幸福論」は「世界三大幸福論」に数えられるのだという。

 全編を通じて、「体と心、行動と幸福は表裏一体」という点で一貫していて、上機嫌で幸福そうにすれば、それは自分にも周囲にも幸福を伝播させる、だから上機嫌でいるべきだ、というふうに説いている。

気に入った箇所
平凡社世界教養全集第5巻(昭和36年(1961))より引用。以下、他の<blockquote>タグ同じ。
p.51より

 だれでも求めるものはえられる。若い者はこの点を思いちがいして、棚からぼた(もち)の落ちるのを待っている。ところが、ぼた餅は落ちてこない。そして、欲しいものはすべて山と同じようなもので、わたしたちを待っており、逃げて行きはしない。だがそれゆえ、よじ登らなければならない。わたしの見たところ、しっかりした足どりで出発した野心家たちはみな目的にたどり着いている。しかもわたしが思ったより早く着いている。

p.68より

 男が建設すべきもの、破壊すべきものがなくなるときは、たいへん不幸である。女たち、と言ってもつくろいものをしたり、赤ん坊の世話をしたりして忙しい女たちのことだが、なぜ男たちがキャフェに行ったり、トランプ遊びをしたりするか、たぶんけっして理解できないだろう。自分と暮らし、自分について考え込むことは、なんの役にもたたない。

 ゲーテのみごとな『ヴィルヘルム・マイスター』のなかに、「あきらめ会」というのがあって、その会員たちはけっして未来のことも過去のことも考えてはならないことになっている。この規則は、守られさえすれば、たいへんいい規則である。しかし、守られるためには、手や目を忙しく働かしていなければならない。知覚し、行動すること、これが真の療法である。その反対に、指をひねくってぶらぶらしていれば、やがて不安や悔恨に落ちこむにちがいない。思考というものは、必ずしも健全とは言えない一種の遊戯である。ふつうは、堂々巡りして先へ進まない。偉大なジャン・ジャック(フランス十八世紀の自由思想家ジャン・ジャック・ルソーのこと)が、「考え込む人間は堕落した動物である」と書いたのは、このためである。

p.72より

 戦争には、たしかに賭けに似たところがある。戦争を起こすのは倦怠である。その証拠は、一番好戦的なのは、仕事や心配事も一番少ない人間であるのが常であるということにある。こういう原因をよく承知していれば、大言壮語にそう心を動かされることはないだろう。金持で、暇のある人間が次のようなことを言うと、ひどく強そうに見える。「おれにとっては暮らしはらくだ。おれがこんなに危険に身をさらし、こういう恐ろしい危険を心から求めるのは、そこになにかやむにやまれぬ理由か、避けがたい必然性を見るからにほかならない」と。だがそうではない。かれは退屈している人間にすぎない。もしかれが朝から晩まで働いていたら、こんなに退屈しないだろう。それゆえ、富の不平等な分配には、なによりもまず、栄養のいい多くの人間を退屈させるという不つごうがある。そのため、かれらは退屈からのがれるために、自分を夢中にさせるような心配や怒りを、わざわざ自分にあたえるようになるのだ。そして、こういうぜいたくな感情は、貧乏人にとっての最大の重税なのだ。

読書

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 平凡社世界教養全集第4巻収録、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)を読み終わる。

気に入った個所
 以下、平凡社世界教養全集第4収録「愛、愛よりも豊かなるもの」より引用。
 他の<blockquote>タグ同じ。
p.519より

 強烈な感情をもちうることのできる人は、ときにはまた、解脱という特異な能力を示す。こうした人は、真にわが身を持するに充分な生命力をもっているので、何の苦もなくいっさいを放棄することができるのである。それとは逆に、内的な沈滞とか、感情的な欠陥に悩むものは、慣れ親しんだ取るに足らぬ獲得物を手放すことができない。彼は律義者だが、そのために極度に疲れ果てる。

p.533より

 最良の動機でさえも、その唱道者たちによってこわされる。祖国は愛国者たちによってつぶされるものだ。常に正義を口にするものは、そのために嘲笑される。

p.563より

 あらゆる文明は、その同時代人たちには、衰退したもの、狂気じみたものと見えた。愛国者たちは、戦争で手にした宝を寺院建設に浪費するペリクレス(古代ギリシアの政治家。前四九五年ごろ―二九年)を非難した。もし、ゲーテ以後の有識者たちの嘆息を文字どおりに受け取るとすれば、ローマはつねに、野蛮人や建築家たちによって荒らされてきたということになる。が、ローマは依然として美しい都として残っている。

p.564より

 やがて、社会生活のある形態、慣習、原理、根強く残っているもろもろの感情なども、消滅してしまうことであろう。人々は、われわれが生きた社会を、死に絶えたものと思うかもしれない。もし人にして、今の社会を未来の社会にあって思い起こすならば、今の社会も、人間の歴史の魅力ある一刻として姿を見せることであろう。すると人々は次のようにいうにちがいない。《あのころはまだ、金持ちや貧乏人がいたし、占領すべき要塞や、よじ登らねばならない階級があったのだな。また、防備の壁を厚くしてその魅力を保ち続けた、人々の憧れとなったものもあったっけ。要するにあのころは、偶然という奴が、われわれにつきまとっていたわけさ》と。

p.581より

 私は新しい型の人間などは求めない。とくに、人々の手をわずらわしてつくりあげられた新しい人間などはなおのことである。私はただ、いつになってもこの世に、私が知っているような欠点と限度をもった人間たちが生まれてきてくれることを望もう。そうした連中は、人間の中にある、人間以上に偉大な何かについて考えさせてくれた。


 他に、「Ⅵ」章に記された、画家のアントワーヌとその妻ペガの物語は、美しく、残酷でもあり、読んで非常に心に残ったが、引用と称してここに書き写すには分量が多いので、心に残ったということのみをここに覚え書きしておきたい。

 さて、これで平凡社世界教養全集第4巻を読み終わった。

 この巻の中では、「三太郎の日記 第一」が最もつまらなかった。「生活の発見」、ついで「若き人々のために」「愛、愛よりも豊かなるもの」の順に私の気持ちにぴったりと合った。

 次は同じく第5巻、「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」である。

読書

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 二百十日以降、狂乱のように台風や低気圧が押し寄せ、各地に甚大な被害を残したが、その後急激に気温は下がり、11月となった。来週11月8日金曜日ははや立冬だ。

 「冬隣」である。秋の小鳥が帰ってきて、美しい声で鳴きつつ飛び交っている。

 R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」を読み終わる。60年前の古書、平凡社の「世界教養全集・第4巻」に収録されている。

 R・L・スティーヴンスン(嘉永3年(1850)11月13日~明治27年(1894)12月3日)は「宝島」「ジキルとハイド」など、日本でもよく知られる小説の作者である。

気に入った個所
以下「平凡社世界教養全集4」所収「若き人々のために」より引用。他の<blockquote>タグも同じ。
p.435より

 しかし一方の性が他方の性について知る知識をあいまいなものにするだけでなく、両性間の自然的な相違を拡大させるのが、高等普通教育なるものの目的となっている。人間はパンのみによって生きるものではなくて、主として標語によって生きている。したがって単に少女たちには一連の標語を教え、少年たちには別の一連の標語を教えるというそれだけのことで、両性間のちょっとした裂け目が驚くばかりに拡げられる。少女たちにはごく狭い経験の領域が示されるにすぎず、しかも判断と行動についてはきわめてきびしい原則が教え込まれる。少年たちにはもっと広々とした生活の世界が展開され、彼らの行為の規範も比較的融通性を与えられている。男女はそれぞれ異なった美徳に従い、異なった悪徳をにくみ、お互いのための理想ですらも、異なった目標をめざすように、教えられる。このような教育の行き着く所はどこだろうか? ウマが物に驚いて駆けだし、馬車の中の二人の狼狽した人間がそれぞれ一本ずつの手綱を握っていた場合、この乗り物の行き着く所が溝のなかだろうということを我々は知っている。したがって世慣れない青年と、ういういしい少女とが増えや提琴に合わせて踊るように、この世でもっとも重大な契約にはいり、呆れるばかりにかけ離れた観念をいだいたまま人生という旅行に旅立つとき、難破するものがあっても当然であり、港に着くのがふしぎなくらいであろう。青年が男らしい微罪として得意に近い気持ちでやることを、少女は下劣な悪徳としておぞけをふるうだろう。少女にとっては日常のちょっとしたかけひきにすぎないことを、青年は恥ずべき行為として唾棄するだろう。

p.446より

 ちょっと考えても明らかに嘘っぱちであるにもかかわらず、その誤謬に偶然結びついていた別の問題についての半真理のために通用している諺があるが、甚だしい例は、嘘を吐くことはむずかしいが本当のことをいうのはやさしいという、途方もない主張を伝えている諺であろう。もしそのとおりであってくれれば、わたしなどどんなに嬉しいかわからない。しかし真理は一つである。真理はまず第一に発見されなければならず、第二に正しく正確に表現されなければならない。特にそういう目的のために工夫された器具――ものさしや水準器や経緯儀――をもってしてすら、正確であることは容易ではない。情けないことには、不正確であることの方がやさしい。秤の目盛りを見る人間から、国の面積、天の星々への距離を測る人間にいたるまで、外的な不動の物についてすらの、物質上の正確さや確実な知識に到達するには、細心周到な手段と綿密な疲れを知らない注意力とによらねばならないのである。しかし一つの山の輪郭を描くよりは、一人の人間の顔の移り変わる表情を描くほうがむずかしい。人間関係の心理はそれよりもさらにつかみにくく、まぎらわしい性質のものである。把握することがむずかしく、伝えることはさらにむずかしい。厳密な意味でなく日常対話的な意味で、事実に正直であること――実際に私は一度もイギリスより外へ出たこともないくせに、マラーバーに行ったことがあるなどといわないこと、実際には私は一語もスペイン語を知らないくせに、セルバンテスを原語で読んだなどといわないこと――こうしたことなら、実際やさしいが、それだけに本来重要でもない。この種の嘘は事情に応じて重要な場合もあれば重要でない場合もある。ある意味では、それは虚偽である場合も虚偽でない場合すらもある。常に嘘ばかりいっている人間が非常に正直な人間で、妻や友とともに誠実に暮らしているかもしれない。一方、生涯のうちに一度も形式的な嘘をいったことのない人間が、内実は嘘のかたまり――心も顔も、頭から足先まで――でないとも限らない。これは親密さを毒する種類の嘘である。その反対に感情への正直さ、人間関係での誠実さ、自分の心や友に対する真実、決して感動を装わずいつわらないこと――これは愛を可能にし、、人類を幸福にならせる真実である。

 L’art de bein dire(上手にしゃべる術)も、それが真理への奉仕に強要されないかぎりは、ただの客観的才芸にすぎない。文学の困難さは書くことにあるのではなくて、自分のいいたいことを書く点にある。

p.482より

「何人も世界を初めから終りまで探ることはできない、世界は彼の心の中にあるのであるから」とソロモンがいっている。

 次はフランスの作家、J.シャルドンヌ(明治17年(1884)~昭和43年(1968))著、窪田般彌訳の「愛、愛より豊かなるもの」(L’AMOUR C’EST BEAUCOUP PLUS QUE L’AMOUR)である。世界教養全集第4の最後の著作だ。

読書

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 (りん)()(どう)(Lin Yutang、リン・ユータン)の「生活の発見」(原題は『The Importance of Living』)を読み終わる。60年前の古書、平凡社の世界教養全集第4巻に収録されている。

 先週、読書中にも書いたが、私の感覚にはピッタリと合い、納得できる内容だった。やはり同じ東洋人だからだろうか。

 著者の姿勢は、きっぱり西洋哲学と対立するものである。込み入った西洋哲学を一刀両断、「西洋流の厳粛な哲学は、人生が何であるかということについては、理解の理までもいっていない。」と昂然と言い放つところなど、痛快そのものだと感じた。

気に入った個所
平凡社世界教養全集4「生活の発見」(林語堂著・坂本勝訳)から引用。
以下、他の<blockquote>タグも同じ。
p.158より

 私はサルがサルを食うということは聞いたことがないが、人間相()むということは知っている。人類学はあらゆる証拠をかざして、食人の風習が相当ひろく行なわれて((原文ママ))いたことを明らかに教えている。彼らはわれわれ肉食類の祖先であった。それだから、人間が今なお、いろいろの意味であい食んでいるということになんのふしぎがあろうか。――個人的に、社会的に、国際的に。食人種について特筆すべきことは、人を殺すということの善悪をよくわきまえていることである。すなわち、人を殺すということは望ましいことではないが、避けがたい悪であることを認めながらも、成仏した敵のうまい腰肉(サーロイン)、あばら肉、肝臓などを食って、その殺戮(さつりく)からなんらかの成果をえようとする。食人種と文明人との違いは、食人種が敵を殺して食うのに対し、文明人は敵を殺して葬り、その遺骸の上に十字架を安置し、その霊魂のために祈禱を捧げるところにあるらしい。かくして人間の自惚と短気のうえに、もひとつばか(、、)ということが加わる。

p.160より

罪のない聖人には興味が持てぬ、私はそういったようなヒューマニストである。

p.161より

 人間の心というものに魅力のあるのは、そこに不合理性があり、済度しがたい偏見があり、むら気があり、予測しがたいところがあるからである。もしこの真理を学ばないなら、一世紀にわたる人類心理学の研究も畢竟(ひっきょう)空だ。

同じく

われわれはみな、精神の本当の機能は思考するにあるという思い違いのもとに苦労している。

p.183より

 私は今、旧式な民主的個人主義について語っているにすぎない。それはもちろん承知している。だがまたマルキストにも、カール・マルクス自身が、一世紀以前のヘーゲル論理学と、ヴィクトリア中期のイギリス正統経済学派の産物であることを想起していただくとしよう。今日ヘーゲル論理学や、ヴィクトリア中期の経済思想の正統学派ほど旧式なものはない。――中国人の人間主義的見地から見て、これほど合点のゆかぬ、うそっぱちな、非常識きわまるしろものはない。

p.189より

この意味では、哲学というものは、自然と人生全般に関する、平凡でお粗末で、ざらにある考え方にすぎない、この程度のものなら、何人も多少は持っている。現実の全景を、その表面的価値において眺めることを拒み、あるいは新聞紙に現れる言葉を信ずることを拒むものなら、何人も多少の哲学者といえよう。つまり彼は、だまされない人間である。

p.194より

 私自身の目で人生を観察すると、人間的妄執のかような仏教徒的分類は完全だとはいえない。人生の大妄執は二種でなく三種である。すなわち名声、富貴、および権力。この三つのものを一つの大きな妄執に包括する恰好の言葉がアメリカにある。いわく、「成功」。しかし、多くの賢明な人々にはわかっていることであるが、成功、すなわち名声、富貴に対する欲望というのは、失敗、貧困、無名に対する恐怖を婉曲にいい表した名称であって、かような恐怖がわれわれの生活を支配しているのである。

p.199より

 八世紀の人、柳宗元は、近所の山を「愚丘」と呼び、側を流れる川を「愚渓」と称した。十八世紀の人、鄭板橋には有名なつぎの言葉がある。「愚も難く賢も難い。しかし賢を()えて愚に入るの道は、なおさら難い。」中国文学に愚の賛美の尽きたことがない。こういう態度を持する叡知は、かつてアメリカ人でも、つぎのような方言を通じて理解されたことがある。いわく、「利口もほどらい。」だから最高の賢者は、ときに「大まぬけづら」している人のなかにあるものである。

p.201より

「大隠は(まち)に隠る。」

p.201より

 われわれはこの世に生きてゆかねばならぬ。だから、哲学を天上から地上へ引きおろさなければならない。

p.211より

人生には目的や意義がかならずなければならぬなどと、私は臆断しない。「こうして生きている、それだけで十分だ。」とウォールト・ホイットマンもいっている。

p.242より

中国人の哲学を簡明に定義すると、真理を知るということより、人生を知るということに夢中になっている哲学といえる。およそ形而上な思弁などというものは、人間が生きるということについては邪魔ものであって、人間の知性のなかに生まれた青白い反省にすぎないものであるから、さようなものはことごとく掃き捨ててしまって、人生そのものにしがみつき、つねに最初にして終局の自問をする――「いかに生きるべきか?」

p.247より

 しかしながら、結局アメリカ人が中国人のように悠々として暮らすことのできないのは、彼らの仕事欲と、行動(アクション)することを生きている(ビーイング)ということよりたいせつに考えるところに、直接由来しているのである。

p.374より

学問がしたければ、最良の学校はいたるところにある。昔、曾国藩は家族に宛てた手紙のなかで、弟が首都に出てもっとよい学校にゆきたいといっているのに答えていった。「勉強がしたければ田舎の学校ででもできる。砂漠ででも、人のゆき交う街頭ででもできるし、樵夫や牧人になってもできる。勉強する意思がなければ、田舎の学校がだめなばかりでなく、静かな田舎の家庭も、神仙の島も、勉学には適しない。」

p.394より

つまりこうだ、アダムとイヴが蜜月にリンゴを食った、神はたいへん怒って二人を罰した、この二人の男女のちょっとした罪のために、その後裔たる人類は世々末代罪を背負うて苦しまねばならぬことになった、ところが神が罰したその後裔が神の独り子たるキリストを殺したとき、神はおおいに喜んで彼らを許したというのだ。人はなんと論議解釈するかしらないが、こんなふざけた話を私は黙認することはできない。

言葉
匡救(きょうきゅう)

 (ただ)しくし、救うこと。

寇讎(こうしゅう)

 「寇讐」と同じ。仇、敵のこと。「讎」は「讐」の異体字。

犬儒(けんじゅ)哲学

 人生を自由で自足的なものとみなし、かつ、皮肉に見る哲学。創始者が野良犬のような暮らしを実践したことから。

ほどらい

 「程合い」と同じ。程度、ほどほど。

婚礼轎(こんれいきょう)

 「轎」というのは椅子の乗った駕籠のことで、花嫁を乗せるもののようだ。

(やもお)

 見たこともない字、聞いたこともない訓みである。文中には孟子の説く「世の中で最も無力な四種の人々」として「寡、、孤、独」というふうに使われている。

 ちなみに、「寡」(カ・やもめ)は独身女、「孤」は孤児、「独」は独居老人のことである。

 「鰥」で「やもお」と()む。想像のつく通り、独身男のことである。音読みは「カン」「ケン」、訓読みは「()む」「(やもお)」である。

饕餮(とうてつ)

 いつだったか読んだ開高健の「最後の晩餐」の中に出てきた。「最後の晩餐」では「とうてつ」としてあったが、この「生活の発見」では「饕餮(タオチイエ)仙」と中国語の読みでルビが振ってある。

庭牆(ていしょう)

 「牆」は「かきね」と()み、「庭牆」はそのまま、「庭の(かきね)」である。

カリカチュア

 しょっちゅう見聞きする言葉なので、敢えて調べておくような言葉ではないような気もするが、「風刺画」のことである。

槎枒(さが)

 「()」には「いかだ」の意味もあるが、木を切り落とすという意味もある。

  •  (漢字辞典オンライン)

 2文字目の「()」という漢字がなかなか調べ当たらないが、「椰子の木」の意味があり、枝が入り組んでいることを表す。

  •  (漢字辞典オンライン)

 「槎」と「枒」で、「槎枒」だが、これは木の枝が非常に絡み合い、入り組んでいる様子のことを言うそうな。

ふつうのカンランにはマツのような槎枒(さが)たる気品はなく、ヤナギは優雅ではあるが、「荘重」とか「霊感的」とかいえないことは争えない。

エピグラム

自然は人生全般の中に入り込むのである。自然はことごとく音である、色である、形である、気分である、雰囲気である。慧敏(けいびん)な生活芸術家たる人間は、まず自然の適当な気分を選びだし、それを自分の気分に調和させることから始める。これは中国のすべての詩人文人の態度である。がそのもっともすぐれた表現は、張潮(十七世紀中葉の人)の著書『幽夢影』のなかのエピグラムに見出されると思う。

 短文、警句、寸鉄詩、碑文など、いろいろな短い文章のことを言うようだが、ここでは「短文」と言っておいてよいであろう。

罅隙(かげき)

 「罅隙(かげき)」の「()」は「ひび」のこと、「隙」は文字通り「すきま」のことであるから、「罅隙」ですきまや割れ目のことである。

 青年にして書を読むは罅隙を通して月を眺めるごとく、中年にして書を読むは自家の庭より月を眺めるごとく、老境にいたって書を読むは蒼穹(そうきゅう)のもと露台に立って月を眺めるがごとし。読みの深さが体験の深さに応じて変わるからである。

創造と娯楽

 「創造と娯楽」と書かれてもピンと来ないが、

 芸術は創造(クリエーション)であるとともに娯楽(レクリエーション)である。

……というふうに、ルビを振って書かれると、二つの言葉が急に意味を持って迫ってくる。recreation は creationに「re」をくっつけた言葉だ。「娯楽」というとどうもピンと来ないが、「回復のための行動」というと、なるほど、創造と言うのは苦しみである、というふうに納得がいく。

ドグマ

 独断的で強い教義、とでも言えばよかろう。

 中国文学と中国哲学の世界を通観して何が発見できるであろうか。中国には科学がないということ、極端な理論、ドグマがないということ、実際あい異なる哲学の大学派がないということである。

次の読書

 さて、次の読書は、この本収録の3著作め、R・L・スティーヴンスン著、橋本福夫訳の「若き人々のために」である。原題は「Virginibus Puerisque」だが、この邦題の訳ではまるで意味が違っていることは言うまでもない。この原題はラテン語で、意味は『処女・童貞』である。