読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。第18巻、「黄河の水 中国小史」(鳥山喜一著)「史記の世界」(武田泰淳著)「敦煌物語」(松岡譲著)「長安の春」(石田幹之助著)を読みはじめた。

 一つ目の「黄河の水 中国小史」(鳥山喜一著)を()きの通勤電車の中、ちょうど通勤先の駅に着いたところで本編を読み終わり、職場についてから始業までのひと時で解説を読み終わった。

 前巻の「おらんだ正月――日本の科学者たち――」も少年向けに書かれたものであったが、この「黄河の水」も元々は少年向けに書かれたものだそうで、なるほど、読みやすく、面白い。大正末に出版され、戦前すでに50版を超し、戦後しばらくの間まで十数版もの改版を重ねたものだそうで、広く読まれたという。

 この書は中国の歴史を、夏王朝よりも前の時代、「三皇五帝」と言われる数千年前のところから語りはじめ、一気に共産党中国まで語りつくすというものだ。テンポよく一気に数千年を経る。興味深いエピソードや教養として知っておくべき有名な話も漏らさず押さえてあり、実に面白い読書であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第18巻「黄河の水 中国小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.29より

 始皇帝の次にはその末子の()(がい)というのが立って、二世皇帝となりました。この二世皇帝は、父に似もやらぬ愚かな性質で、天下を治める腕もなく、ただ自分の快楽ばかり考える人でした。皇帝は賢くなく、政をまかされた大臣等は、勝手なことをして、政をみだすということになったから、始皇帝のときには、その権力に恐れて、反抗したくも反抗のできなかった不平の民は、これを機会に方々でむほんをはじめました。その最初に事を起こしたのが(ちん)(しょう)という()(やとい)(にん)()。まあニコヨンですね。かれは人夫から兵卒となり一隊の長に出世しましたが、軍規にそむいて死刑になりそうになったので、どうせ殺されるなら一つ大きなことをして見ようと、(なか)()()(こう)と相談して、(しん)政府打倒の兵を挙げたのです。それで物の最初をはじめることを「陳呉となる」という熟語もできました。陳勝につづいた中でも最も有名なのが、(こう)()(りゅう)(ほう)です。

p.30より

 秦についてなお一言しておきたいことは、その名が中国をいう名称として、いまに至るまで世界中に広まっているという事実なのです。皆さんは西洋で、例えばイギリスでは中国のことを、チャイナ(China)ということをご存知でしょう。これは(しん)の名から起こったのです。というわけは、中国語で秦をチン(Chin)と発音します。これがインドに伝わって、チナ(Cina, China)となり、それに国の意味のインド語がつくとチニスターン(Chinistan)となりました。それがローマに入るとシネー(Sinae)となり、これからヨーロッパ諸国の中国をいう語になるので、チャイナなどもその一つ。大体これと同じ音のものです。またインドに巡礼に来た中国の僧侶はインドのこの語を聞いて、それを本国に逆輸入すると、その音を支那・脂那または震旦などの漢字であらわしました。秦は帝国としてたった十五年で亡びましたが、その名はこういうわけでいまもなお不滅に生きているのは、おもしろいではありませんか。

 それからついでに申しておきますと、前にいったように中華民国の名も、中華人民共和国というのも、もとは古い中華・中国の考えから来たものですが、その国名を西洋(ふう)にあらわすときには、決して中華の音をローマであらわさないで、ザ・チャイニーズ・リパブリック(The Chinese Republic)とか、ザ・リパブリック・オブ・ザ・チャイニーズ・ピープル(The Republic of the Chinese People)というように、このシナの名称を使っているのです。

 なお、解説を読んでみると、上の一節には著者・編集者の苦渋が見て取れる。戦前の本書の題は、「支那小史 黄河の水」だったのである。ところが、この平凡社世界教養全集に収められるにあたり、「支那」「シナ」という用語を努めて「中国」その他の用語に改めたのだという。この平凡社世界教養全集は昭和40年代の刊行であるが、その頃すでに中国を支那と呼ばないというような取り決めが、出版界では行われていたのである。

 しかしそれにしても、欧米ではそんなことを全く意に介せず「支那」を語源とする China を用い、また当の中国もまったくそれに異など唱えず、ところが日本で「支那」と書いた途端怒り出すというのは、改めて言うことでもなかろうけれども、変なことである。

p.71より

 学者には程顥(ていこう)(てい)()の兄弟が、儒学に新しい説を立てましたが、それを大成したのが、(しゅ)()(すなわち(しゅ)())であります。朱子は多くの著書を残しましたが、その学説は次の元・明・清に影響したばかりでなく、わが国にも朝鮮にもおよびました。徳川時代などは、漢学といえばすぐこの朱子の学問の別名と思う位でした。文章の名家も多くありましたが、詩文ともにすぐれたのは(おう)(よう)(しゅう)や蘇東坡(名は軾〔しょく〕)です。東坡の「赤壁(せきへき)()」はよく知られています(この人は衛生のことにも注意し、料理法にも通じていました。その発明したというものに、おいしい東坡肉〔とうばにく〕というのがあります。中華料理でご承知の方もありましょう)。

言葉
汴京

 地名であるが、この「汴」という字の読み方が難しい。これで「(べん)(けい)」と読む。宋の都である。「べんきょう」とも読むが、「べんけい」の方が一般的であるようだ。場所はここである。

下線太字は佐藤俊夫による。p.69より

しかしこの戦争の間に、宋の弱いことを見ぬいた金は、その野心(たくま)逞しくして、宋をも併呑(へいどん)しようと、大兵を下して国都汴京を攻めおとし、徽宗とそれについだ欽宗や、皇后をはじめ、大臣以下の官吏や人民を捕虜とし、また宮中や国都の、目ぼしい財宝を(りゃく)(だつ)して、北に帰りました。

 引き続き第18巻から「史記の世界 ――司馬遷」(武田泰淳著)を読む。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻の四つめ、「おらんだ正月――日本の科学者たち――」(森銑三著)を休みの土曜の夜、自宅の居間で読み終わった。

 読みはじめるとすぐにわかることなのであるが、この書は少年向けに書かれたものである。江戸時代以前に活躍した日本の科学者たちについて、驚くべし、五十二人を取り上げ、戦前、雑誌「子供の科学」に連載されたものだ。「子供の科学」は戦前から現在までおよそ100年も続く子供雑誌である。

 子供向けの連載であったにもかかわらず大人の鑑賞に堪える。読んで面白く、一つ一つの伝記が胸に迫る。

 本書の皮切りはそのかみの名医「永田徳本(とくほん)」なのであるが、この人の名はかの湿布薬「トクホン」に使われている。昔から「トクホンって、なんでトクホンっていうんだろう?」と思っていたが、本書を読み、またトクホン製造元のホームページなどを見て、ようやく納得がいった次第である。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「おらんだ正月――日本の科学者たち――」のうち、沼田次郎による「解説」より引用。
p.544より

 森さんは『おらんだ正月』を少年たちのための書物として書かれた。しかしそれはおとなの読物として歓迎される結果となった。森さんはそれが多少ご不満のようである。しかしそれはこの書物が少年向きの書物として不適当なことを意味するものではない。それはこの書物が少年向きに書かれながら、その内容がしっかりしているために、おとなにも歓迎されたことを意味する。私はこの書物が今後ますます少年諸君に読まれると同時に、またいっそうおとなの読者にも読まれることを希望するものである。

 次は第18巻を読む。「黄河の水」(鳥山喜一著)「史記の世界」(武田泰淳著)「敦煌物語」(松岡譲著)「長安の春」(石田幹之助著)の4書だ。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻の三つめ、「蘭学事始」(杉田玄白著・緒方富雄訳)を帰りの通勤電車の中、東武スカイツリーラインの西新井と草加の間の辺りで読み終わった。

 菊池寛の小説「蘭学事始」は読んだことがある。また、本書は同じものをデジタル書店の「グーテンベルク21」がKindleで割合に安く出している。そのサンプルは見たことがあるのだが、購入まではしなかった。それをこの全集で読んでみたわけである。

 著者の杉田玄白は言わずと知れた「解体新書(ターヘル・アナトミア)」の共同翻訳者、杉田玄白その人である。本書はその杉田玄白の著書を現代語訳したものであるが、その訳者・緒方富雄氏というのが、かの緒方洪庵の曾孫だったというから驚く。この人も医学者で、かつ文筆家だったそうだ。平成元年(1989)没というから、30年あまり前まで存命であったということだ。

 本書は杉田玄白自身が老境にあって蘭学の草創期から普及に至るまでを回想したものだ。玄白が壮年の頃、日本では、まだ蘭学は無論、洋学、ことにヨーロッパの国語を解するということ、とりわけ書かれた文章を読んだり、いわんや翻訳などということは、まったく行われていなかった。杉田玄白は知己の前野良沢と協力し合って初めてオランダ語の書物「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り組んで完成させ、それがきっかけとなって日本に蘭学が普及したことは誰しもこれを知る。

 本作は現代語訳で、読みやすく、かつては中学生などにも読み物として大変親しまれたものであるという。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「蘭学事始」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.336より
一七
明和八年三月四日――(こつ)(はら)のふわけ

 これから、みなうち連れて、(こつ)(はら)のふわけを見る予定の場所へ着いた。この日のお()(おき)の死体は、五十才ばかりの女で、大罪を犯したものだそうである。京都の生まれで、あだ名を青茶婆(あおちゃばば)と呼ばれたという。さてふわけの仕事は虎松(とらまつ)というのが巧みだというので、かねて約束しておいて、この日もこの男にさせることに決めてあったところ、急に病気で、その祖父だという老人で、年は九十才だという男が代わりに出た。丈夫な老人であった。かれは若いときからふわけはたびたび手がけていて、数人はしたことがあると語った。それまでのふわけというのは、こういう人たちまかせで、その連中がこれは肺臓(はいぞう)ですと教え、これは肝臓(かんぞう)、これは腎臓(じんぞう)ですと、切り開いて見せるのであって、それを見に行った人々は、ただ見ただけで帰り、われわれは直接に内臓を見きわめたといっていたまでのことであったようである。もとより内臓にその名が書きしるしてあるわけでないから、彼らがさし示すものを見て「ああそうか」とがてんするというのが、そのころまでのならわしであったそうである。

 この日も、この老人がいろいろあれこれとさし示して、心臓・肝臓・胆嚢(たんのう)()、そのほかに、名のついていないものをさして、これの名は知りませんが、自分が若いときから手がけた数人のどの腹の中を見ても、ここにこんなものがあります。あそこにこんなものがありますといって見せた。図と照らし合わせて考えると、あとではっきりわかったのであったが、動脈と静脈との二本の幹や、副腎などであった。老人はまた、今までふわけのたびごとに医者の方にいろいろ見せたけれども、だれ一人それは何、これは何と疑われたお方もありませんといった。

 これをいちいち、良沢とわたしが二人とも持って行ったオランダの図と照らし合わせてみたところ、ひとつとしてその図とちがっていない。古い医学の本に説いている、肺の六葉(ろくよう)(りょう)()、肝の(ひだり)三葉(さんよう)(みぎ)()(よう)などというような区別もなく、腸や胃の位置も形も、むかしの説とは大いにちがう。

 官医の(おか)()養仙(ようせん)藤本立泉(ふじもとりっせん)のお二人などは、そのころまで七―八度もふわけされたそうであるが、みなむかしの説とちがっているので、そのたびごとに疑問が解けず、異常と思われたものを写しておかれた。そして、シナ人と外国人とでちがいがあるのであろうか、などと書かれたものを見たこともあった。

 さてその日のふわけも終わり、とてものことに骨の形も見ようと、刑場に野ざらしになっている骨などを拾って、たくさん見たが、今までの古い説とはちがっていて、すべてオランダの図とは少しもちがっていない。これにはみなおどろいてしまった。

 次は同じく17巻から、「おらんだ正月――日本の科学者たち――」(森銑三著)を読む。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻の二つめ、「黒船前後」(服部()(そう)著)を往きの通勤電車の中、中央線秋葉原とお茶の水の間の辺りで読み終わった。

 著者の服部之総はだいぶ年季の入った共産主義者(アカ)学者だが、そんじょそこらのチャラチャラした主義者ではない。記録を見ると2回逮捕されて物相飯(モッソウめし)を喰らい、学界での地位を失っているが、それでもへこたれずに研究し、著作をものして学界に復帰している。しかしまあ、共産主義者のくせに大資本中の大資本、「花王」の重役や取締役をつとめたのは、冗談のようでもあってむしろ微笑ましくもある。

 本書は随筆で、その題の通り黒船の前後の時代について語る表題作の他、明治維新に関連するその他の作品10作の集成だ。その視野の広さと切り口や角度の独自性に、はなから圧倒されてしまう。表題作は黒船前後と題されてはいるが、黒船のそのもののことはほとんど語らない。私たちは日本国内から見た黒船の歴史は明治維新と関連付けてよく知るが、一方、ヨーロッパやアメリカから見て、なぜあの時期に黒船が来寇したのかという背景事情には無頓着である。本書は、そうした読者の虚を突くように、当時の欧州経済、大西洋を取り巻く事情などを、「造船技術の急速な進歩」を皮切りとして語りはじめる。

 文章は闊達でこなれた、読みやすい名文だと感じられ、藤井松一による解説にも文章家としての著者について特筆されている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「黒船前後」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.238より
五 「和親」条約

 旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はお断りだといった種類の条約が、足かけ五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛してちょうだいなどという類のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。

 ペルリとハリスことにハリスを、幕府がかたくなな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局ものにしたその道の名外交官扱いにするのはかってであるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。

「亜墨利加船、薪水、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調候丈は給候為、渡来の儀差許候」

――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call ――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマ浜が是が非でも当年のアメリカに必要だったのである。

言葉
Moods cashey

 短めの一編の表題がこの「Moods cashey」である。はじめ、この言葉が文中に現れたときには、何のことかすぐにはわからなかった。

 この作品の冒頭の一文は次のとおりだ。

p.254より

 How much dollar? を「ハ・マ・チ・ド・リ」と、居留地の人力車夫仲間で決めてしまう。こうしてできた実用英語がピジン・イングリッシュである。

同じく

 これにたいしてピジン・ジャパニーズとでもいうようなものが居留地の外人の間で生まれることも当然である。英語なまりで理解された日本語であり、実用国際語のヨコハマ版であり、欧米人の間で Yokohamaese またはヨコハマ・ジャパニーズと呼ばれたものである。進駐軍の兵士が Oh heigh yoh! と発音するたぐいである。

 「Moods cashey」はこの一編の最後に洒落た感じで書かれる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.257より

 それにしてもこの文献が慶応三年以前のものでないことは、さきに述べたところから明らかである。してみると、横浜開港以来八年の歳月を経ており、ヨコハマ・ジャパニーズも、独自の風格をととのえたものとしなければならぬ。事実それは、ととのえている――

 Physician = Doctorsan
 Dentist = Hahdykesan
 Banker = Dora donnyson

 銀行家が「ドル旦那さん」はよいとして、海上保険検査員のことを、

 Serampan funney high kin donnyson にいたってはいう言葉がない。

 大使= Yakamash’sto
 兵士= Ah kye kimono sto

 大使は租界の絶対権者だから、やかましい人にちがいない。横浜のイギリス駐屯軍は赤い制服を着て「赤兵」と呼ばれていた。

 それにしても水兵の Dam your eye sto はどう解するべきであろうか? ずいぶん私は頭をひねってみるのだが、その解答は、単語欄に見出された左の言葉におちつくほかはないのである――

 Difficult = Moods cashey

矗々として

 「矗々(ちくちく)として」と読む。長くて真っ直ぐ、という意味である。

p.262より

雲浜の時代はまだ「討幕」を現前の綱領として出さなかったのに、彼が組織したこの圧力はすぐさまそれをあえてするまで、矗々として成長した。

壅蔽

 「壅蔽(ようへい)」と読む。覆い隠すことである。

p.270より

 非常時京都の警視総監として何よりも検索しなければならぬ「浪士」のなかに、松平容保は他のあらゆるものを――たとえば身分制度に対する、言語壅蔽に対する、外夷跳梁に対する、物価暴騰世路困難に対する彼らの不満を。またたとえば彼らの背後にあるときには「長州」を、後には「薩州」を――認識することができたが、ただ一つ、これらすべてを「歴史」の爆薬に転ずる一筋の黄色な導線にだけは最後まで気がつくことができなかった。

輦轂

 「輦轂(れんこく)」と読む。天皇の乗り物のことである。「輦」も「轂」もどちらも人が()く車のことであるが、「輦轂」と書くと貴人の乗り物全般の意が強くなり、輦台(れんだい)のような、人が担ぐものをも指す。

  •  輦轂(Weblio辞書)
  •  (漢字ペディア)
  •  (同じく)
p.271より

 「攘夷御一決のこの節、御改革仰出され候付ては、旧弊一新、人心協和候様これなく候ては相成らざる儀に候ところ、近来輦轂の下、私に殺害等の儀これあり、……

囂然

 「囂然(ごうぜん)」と読む。やかましいことである。「囂」は訓読みで「かま」と読むようで、コトバンクには「形容詞『かまし』の語幹か」と書かれている。

  •  囂然(goo辞書)
  •  (コトバンク)
p.272より

若御下向遊ばされ候ては天下囂然の節、虚に乗じ万一為謀計者も計り難く候。

 次は同じく17巻から、「蘭学事始」(杉田玄白著・緒方富雄訳)を読む。菊池寛の小説「蘭学事始」や、関連する吉村昭の小説「冬の鷹」は読んだことがあるが、はたしてこちらはどうだろう。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第17巻を読みはじめ、最初の「日本文化史研究」(内藤虎次郎著)を往きの通勤電車の中で読み終わった。秋葉原での乗り換え前、仲御徒町の駅辺りであったか。

 著者の内藤虎次郎は戦前に活躍した中国学者である。本文中で何か所も「日本史については私は専門外である」という意味のことを言っているが、その実、東洋文化に関する幅広い視点から日本史を俯瞰し、しかもその通低ぶりたるや、日本史専門の学識をはるかに凌駕するものがある。

 本書は日本文化の概観からはじまり、上古時代、奈良~飛鳥、天平、平安、鎌倉、室町、応仁の乱、江戸や大阪の文化、維新史、日本の自然の風景など、さまざまな部分を取り上げてこれに評論を加えるもので、この巻544ページのうちの216ページを占める大著である。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第17巻「日本文化史研究」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.210より
輸入風景観の堕落

 最近我邦では西洋文化を受入れることになつてからその画法をも伝へるやうになつたが、西洋画を習ひはじめる時に先づ最も感心するのは透視法の応用であつて、これは我邦のみならず、支那においても康熙、乾隆頃、西洋画からして同じやうな影響を受けた。我邦の司馬江漢等の心酔したのもこの点であつたが、その実、西洋の風景画はこれを支那画に比べると極めて幼稚なもので、十六七世紀頃に盛んになつたオランダ派等の風景画でも、支那でいへば十一世紀乃至十三世紀頃の董源、郭熙等のかいた平遠なる風景の画法を好んで用ひるに過ぎない。自己精神を象徴すべくゑがゝれた風景画の起つたのは、最近七八十年この方のことで、その以前の風景画は大部分説明的な、日本でいへば「名勝図会」の挿絵ぐらゐの程度のものが多い。もつとも部分的なスケツチにおいては特種な長所があり、或は又岩とか波とか霧とか光線とかいふやうなものを特別にうまくゑがいたものはある。しかし支那風な構成的な画法においてはその特別な長所が応用せられないところから、西洋風景画の輸入は我風景観に大した影響を与へなかつた。もつとも最近において登山といふことが一種の流行になつたところから、日本の風景に好んで西洋の出店のやうな名称を用ひ、「日本アルプス」「日本ライン」とかいふやうなことが盛んに唱へられるが、それらは多くは詩的若しくは絵画的な芸術眼を必ずしも備へないで地理学、地質学のやうな科学的知識をなまかじりした登山家によつて風景が紹介されるので、素人趣味としても到底芸術的雅趣にはならぬ見方を以て風景を批評するやうな風が起つて来てゐる。一部画家等は又この新流行の悪趣味に捉はれて、如何に風景を画中にとり入れるべきかの考へもなく、たゞ登山家が見て感心するやうな見処をそのまゝ画にしようとつとめて、つまらない失敗を重ねるものが多い。これは実に風景観に関する古来未曾有の堕落といつてもよいのである。

これらの見方は西洋趣味といつても、西洋の芸術家の見方を理解してゐるでもなく、単に西洋風な名目にかぶれて、写真で見た山岳とか渓谷とかの風景で、我邦においてそれに類似したものを拾ひ出して、世界的の景色などと称するに過ぎない。そのいはゆる世界的といふのは、西洋の非芸術家の悪趣味に近いものを日本で見出すだけのことで、日本における特有の景色で他の国にないやうなものを、芸術的にも或は非芸術的にも見出すでもなく、又前にもいつた広重などの如く、読書人階級の趣味以外に新らしき風景の見方を見出すでもなく、或は又蕪村などの如く支那風の手法を用ひながら、日本の或地方において自分の個性で見出した風景を写し出すやうなこともなく、単に新時代において流行的にありふれた景色に心酔してゐるに過ぎない。風景観として最も排斥しなければならぬのはこれらの悪趣味である。

 上の部分は本書の最後のほうに置かれた「日本風景観」という章の一部であるが、もう、似非西洋趣味を排撃してコテンパンである。

言葉

 本書は明治~昭和の初期にかけての戦前の評論なので、古い字づらの言葉が多かった。

動もすれば

 これで「(やや)もすれば」と()む。

下線太字は佐藤俊夫による。p.19より

……外国の材料に依つて研究することは、動もすれば記録の不確実なる朝鮮の歴史から推究さるゝことは寛容しながら、……

 「あと」である。

  •  (モジナビ)
p.22より

……その分布のは近来に至つてますます明瞭になつて来た。

琅玕

 「琅玕(ろうかん)」と読み、碧の宝玉のことである。

p.23より

……恐らく日本人の愛好するが為に特別に製造して輸入したらしく思はるゝ琅玕の勾玉等を見、……

和栲

 これで「和栲(にきたえ)」と訓む。織の細かな布のことである。

p.23より

……当時恐らく日本人は之を以て和栲と称して居つたかと思はるゝので、……

諄い

 「(くど)い」である。「諄々」と書いて「くどくど」と訓む使い方もある。

p.28より

……それまでやりますと余り諄くなりますからやめて置きますが、……

臨菑

 「(リン)()」と読み、中国の地名である。

p.37より

……天主といふものは斉の国の都、臨菑といふ所でありますが、……

竟に

 「(つい)に」と訓む。同じ意味・訓みで「遂に」「終に」などがあるが、「遂に」などがより一般的ではあろう。

p.59より

さういふ関係から日本文化が東洋において、どういふ径路を経て、竟に東洋文化の中心になるか、今日既になりつゝあると思ふのでありますが、……

曩きに

 「()きに」と訓み、「先だって」の意味での「先に」と同じである。

p.75より

……例へば顧凱之の女史箴の巻中にあります人物、其外曩きに日本へ一度来たことがありましたが、買手がないので持つて帰つた閻立本の帝王図巻の人物の姿勢がやはり流動式姿勢を持つてゐます。

摹本

 「()(ほん)」であり、「模本」と同じ意味、すなわち複製のことである。

p.76より

張萱の画はボストンの博物館に宋の徽宗の摹本がありまして、……

態々

 「態々(わざわざ)」と訓む。

p.96より

是は私のやうな別に真言宗の信者でもなく、弘法大師の研究者でもない者が、こんな厚い六冊もある本を何故に態々写して置かなければならぬ程のものかと云ふことを申せば、……

迚も

 「(とて)も」と訓む。

p.99より

私は迚も其処までは研究が届いては居りませぬ。

弥る

 「(わた)る」と訓む。

p.113より

閻立本は唐初の人にして、此等各帝王の時代は数百年に弥れるを以て此等肖像は単に想像によりて画きしものならんとの疑を生ずれども、……

縉紳

 「縉紳(しんしん)」と読み、身分が高く立派な人のことである。「紳士」と同じようなものと思えばよかろう。「縉」は訓読みでは「(さしはさ)む」で、「笏を帯に挟む」意味があり、そのことから身分の高さを言うようである。

  •  縉紳(コトバンク)
  •  (漢字ペディア)
p.120より

……身分高き中央縉紳の生活を模倣せんことを欲求する風盛んとなり、……

滋〻

 「滋〻(ますます)」と訓む。ネット上には「滋〻」での訓みや意味はヒットしないが、用例として「法令(ほうれい)滋々(ますます)(あきら)かにして盗賊(とうぞく)多く有り」などというものが見つかる。「滋」という字には「ふえる・ます」という意味があるので、このように訓むのである。

p.121より

支那肖像画の流行は、唐以来滋〻盛んにして、士大夫の間まで拡がり、……

却々

 「却々(なかなか)」である。仮名で「なかなか」と書く場合と意味は同じである。

p.132より

却々面白い。

暹羅国

 「(せん)()(こく)」と読む。「暹羅」とだけ書けば「シャム」と訓み、言うまでもなくこれは現在のタイ付近のことである。今も「日」「米」「英」などと同じく、タイのことを一字のみで表す場合に、古い書き方では「暹」とする場合がある。

p.143より

羅斛は今日の暹羅国の一部分であつて、支那の元代に出来た島夷志略には……

纔に

 なんて難しい字を書くことだろう。拡大すると「纔」で、訓みは「(わずか)に」である。

  •  (コトバンク)
p.181より

……纔に百余年前にその国訓の附いた文字だけの抄録本が先づ世に行はれたが、……

幽邃

 「幽邃(ゆうすい)」と読む。奥深く静かなことを言う。

p.203より

道教の方からいへば、支那で最も風景の幽邃なところを三十六洞天、七十二福地などゝいふ風に選定して、……

峰巒

 「峰巒(ほうらん)」と読む。単純に山岳の峰のことを言う。「巒」は「やまなみ」を表す字である。

  •  峰巒(コトバンク)
  •  (モジナビ)
ルビは佐藤俊夫による。p.210より。

……山の(みゃく)(らく)、水の原委を峰巒樹石の間に見え隠れにゑがくといふことなどは、初めは最も新しい手法であらうが、……

 次は同じく17巻から、「黒船前後」(服部()(そう)著)を読む。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の三つ目、「歴史とは何か」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)、本文を往きの通勤電車の中で、解説を帰りの通勤電車の中で読み終わった。

 著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

 本書は、歴史をさまざまな学問の分野から見るとき、例えば工業技術の歴史から見るとき、あるいは文字から文学への変遷の歴史から見るとき、また宗教史から見るときなど、様々な角度からどのように歴史を読み解くことができるかを論じている。結論に近づいていくにつれて、結局は次第にマルクス主義礼讃の筆致へと傾いていくが、そこが難点と言える。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「歴史とは何か」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.574より

 旧石器時代の狩人は、マンモス狩りのときには自分の一族の助けを必要とした、もっとも当時の装備があまりに貧弱であって、孤立している個人では、マンモスの群れを向こうにまわして大したこともできなかった、という事情にもよるのである。近代のライフル銃一(ちょう)をもっていれば、ヨーロッパ人ひとりでも、やすやすとゾウをうつことができるし、この点に関するかぎり、彼は旧石器時代の祖先よりも独立しているのである。ところが、この狩りをするときにもっている独立性たるや、彼が猟銃や弾薬の生産と分配に従事するすべての人々に依存しているために、得られたわけである。狩人として石器時代の未開人よりもすぐれた資格をもたせる、ただひとつのこの道具を手にいれるためには、彼はこれらの未知の人たちすべてとの間に、人間としての関係ではなくて、また自分の意思とも関係のない関係をむすばなければならなかった。

p.582より

 また「人間は自分の歴史を作るとはいえ、それは共同計画にしたがって共通の意思によるのではない、それどころか、ひとつの特定の構成をもつ社会のなかでつくられるのでもない。万人の努力は衝突する。そしてまさにこのゆえにこそ、こういった社会はすべて必然性によって支配されるのである。この必然性は偶然によって補なわれ、また偶然という形をとって出現するのである」(エンゲルス「シュタルケンベルクへの手紙」、選集、英語版三九二ページ――著者注)

 この部分などは、全体主義、結束、一本化、統一といったことと対極にあるものの考え方を示していると思う。

 次は第17巻である。第17巻は日本の著作ばかりで、「日本文化史研究」(内藤虎次郎著)「黒船前後」(服部之総著)「蘭学事始」(杉田玄白著)「おらんだ正月」(森銑三著)の四つである。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻の二つ目、「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を帰りの通勤電車の中で読み終わった。中央線水道橋のあたりだった。

 著者ウェルズはSF小説の創始者として誰知らぬ人のない大家であるが、平和運動や歴史書の執筆でも多くの功績がある。本書は第16巻約600ページのうち300ページ以上を占める大著なのだが、これをしもウェルズは「小史 short history」と題している。さもあろう、ウェルズは本書より先に厖大浩瀚(ぼうだいこうかん)の一大著作「世界文化史」を(あら)わしており、本書はその入門編であると自身の手になる序文に記しているのだ。

 本書はなんと、地球の生成から語り始められ、一気呵成に第2次世界大戦前夜までを語り尽くす。欧州史に重心が置かれていることはウェルズの立場から言って当然ではあるが、公平にアラビアや東洋についても語られ、日本についても特に一項を割いてその歴史を通観している。

 著述の姿勢は実に公平・公正と言える。戦争について記すにしても、弱者が劣っていた、誤っていた、敗者がすべて悪かった、というような見方を徹底的に排除しているように感じられる。

 ここで、翻訳者藤本良造による看過すべからざる悪辣な加筆が加えられていることを指弾しておかねばならぬ。解説に記されているが、藤本は翻訳するにあたり、第2次大戦後に出された本書の改訂版に、ウェルズによって付け加えられた巻末の「補遺」を「大した意味がない」(p.499の藤本による解説)として切り捨て、あたかもウェルズの手になるかのような誤解を招く形で自分が書いた文章を挿入しているのである。その文章は下手糞な筆致で敗戦した日本への不満を垂れ流したものであり、歴史に冷静な視線をもって対しているとは言いがたく、ウェルズの公平無私の著述態度とは正反対の下らないものだ。ウェルズの闊達で俯瞰的な姿勢には到底及ばない。この無残な改変は原書に対する甚だしい侮辱であり暴挙であって、翻訳の労による折角の功績をゼロにするばかりか、マイナスにもしかねない。藤本は「ウェルズはこの改変を許すであろう」という意味のことを書いているが、こんな下らぬ内容の文など決して許されまい。その一点のみ、読書していて残念であった。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「世界文化小史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.227より

 どんな未開人でも一種の因果論をもたないほど低級なものはない。しかし原始人は因果関係についてはあまり批判的ではなかった。かれらはひじょうに簡単に一つの結果を、その原因とはまったく異なった他のものに結びつけてしまうのである。「そうしたからそうなった。だからそうすればそういうことになる」と考える。子供にある果実を与えると幼児は死ぬ。剛勇な敵の心臓を食べれば強くなる。この二つの因果関係の一つは真実であり、一つは誤りである。われわれは未開人の考える因果の体系を「庶物崇拝」と呼んでいる。しかし庶物崇拝はたんに未開人の科学にすぎない。それが現代の科学と異なっているのは、それがまったく非体系的、非批判的であり、それゆえに時々誤っていることである。

 原因と結果を連絡させるということが困難でない多くの場合もあり、また誤った考えが経験によってただちに訂正される場合もたくさんあった。しかし原始人にとってひじょうに重大な出来事のうちには、かれらが辛抱強くその原因を探求して発見した説明が誤ってはいたが、といってその誤りを見破られるほど、明白な誤りでもなかった場合が数多くあった。狩りの獲物が豊富なことや、魚がたくさんいて容易に獲れるということは、かれらにとっては重大な事柄であり、たしかにかれらは無数の呪文や前兆によって、この望んでいる結果の解決をえようと試みたり信じたりしていた。

p.228より

原始宗教はわれわれがいま宗教といっているようなものではなくて、むしろ習慣であり、行事であり、初期の聖職者が指図したことは、実際には独断的で原始的、実用的な科学だったのである。

p.334より

どんな帝国も、どんな国家も、どんな人類社会の組織であっても、つまるところは理解と意思によって成り立つものなのである。ところがローマ帝国のための意思はなにものこっていなかった。そしてローマ帝国は崩壊していったのである。

p.350より

九世紀の初めのイングランドは、シャールマーニュの臣下のエクバート王が支配するキリスト教化された低ゲルマン語国であった。ところがノルマン人はこの王国の半分を、エクバート王の後継者であるアルフレッド大王(八八六年)から強奪し、ついにはカヌート(一〇一六年)の指揮のもとにその全土の支配者となった。また一方のノルマン人の隊長ロルフ(九一二年)のひきいる別の一群のノルマン人はフランス北部を征服したが、これはノルマンディ公国となった。

 カヌートはイングランドだけでなくノルウェーやデンマークさえ支配していたが、そのはかない帝国はかれの死によって、領地をその息子に分配するという未開種族の政治的な欠点のために分裂してしまった。このノルマン人の一時的な統一が継続されたとしたら、どんなことになったかを考えてみるのは面白いことである。

p.425より

人間はもはやたんに無差別な動力の源泉として求められはしなくなった。人間によって機械的になされていたことは、機械によってさらに速く、いっそう巧みになされるのであった。人間はいまや選択力と知性を働かすべきときだけに必要となった。人間は人間としてのみ要求されるようになった。これまでのすべての文明を支えていた労役者、たんなる服従の動物、頭脳のない人間、そうしたものは人類の幸福には不用のものとなったのである。

 上の部分は産業革命について述べた部分であるが、これについてはしかし、多少疑問も覚える。というのは、現在も同じようなことが人工知能(AI)に関して言われているが、労役者としての人間が不要とされる時代はこの情報革命後の現在においても、結局来てはいないからである。

p.452より

 ロシア軍は、指揮も下手で供給品にも不正があったため、海上でも陸上でも敗北した。しかもロシアのバルチック艦隊はアフリカを回航していったが、対馬海峡で完全に撃滅されてしまった。そしてこうした遠方での無意義な殺戮に憤激したロシア民衆の間には革命運動が起こり、そのためにロシア皇帝は仕方なく戦争を中止することにしたのであった(一九〇五年)。かれは一八七五年にロシアが奪った樺太(からふと)(サハリン)の南半分を返し、撤兵して朝鮮を日本にまかせた。こうしてヨーロッパ人のアジア侵略は終りとなって、ヨーロッパの触手は収縮し始めたのである。

 そうした意思を日本が持っていたかどうかは別として、欧州人の東亜侵略を他ならぬ日本が終わらせたのだとウェルズは言っているわけである。私がウェルズの著述姿勢を公平無私であると思う所以(ゆえん)は、こうしたところにある。

言葉

 これで「(けり)」と()み、チドリ科の鳥の一種のことなのだが、本書中では次のように使われている。

下線太字は佐藤俊夫による。訳者藤本良造による「補遺」p.477より 

そして交渉の結果は、ついにソヴェトの連続的爆撃によって高価にはついたが三ヵ月の後に、ともかくも問題の(けり)はつけられることになった。

 「ケリをつける」という慣用句のよってきたる(いわ)れは、文語体の助動詞の「けり」が、文の「おしまい」を「切る」働きがあることから、「おしまいにする」「結論を出す」というところにある。俳句の切れ字で「やみにけり」などと句の終わりなどに使われることからもわかる通りだ。

 だが、古い文章などでは洒落(シャレ)のめしてか、この「鳧」という字を使うことが多いようだ。しかし、鳥の鳧と、ケリをつけるという意味の「鳧」との間には、直接の繋がりはない。

 次は同じく第16巻から「歴史とは何か History」(G.チャイルド Vere Gordon Childe著・ねず まさし訳)を読む。著者のチャイルドはオーストラリアの学者で、「マルクス主義考古学」なる変わった学問の提唱者である。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第16巻を読み始めた。この巻には「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)の三つが収められている。

 まずは一つ目の「人間の歴史 Kak stal chelovek gigantom / Как человек стал великаном」(ミハイル・イリーン Mikhail Il’in / Михаил Ильин著・八住利雄訳)を往きの通勤電車の中で読み終わった。

 私は子供の頃に「燈火の歴史」でイリーンに親しんだ。これは短い本だったから、小学生の頃読んだ。しかし、この「人間の歴史」を読み通したのはこれが初めてである。

 「人間の歴史」はもともと子供向けの読み物だそうだが、なかなかどうして、大人が読むに足る。

 人類の発生から有史直前までを壮大な視野とスケールで語るもので、これはそのまま、著者イリーンと言う人がどういう視野を持つ人であったかを物語る。

 最近は国際的に「SDGs」が提唱されている。しかし一方で、人間は環境との不適合による困難と、その克服によってかくまでに地上の王、万物の霊長たりえた。本書を読むとそういう思いが深くなる。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第16巻「人間の歴史」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.146より

 他の民族に対する古代の敵意の名残りや断片は、現在でも見られる。これは不思議なことである。鉄器時代、いや、さらにアルミニュームや電気の時代になっても、他の民族に対する敵意や人種的な憎悪を説いている人々がいる。その人々は、人間は自分たちだけだと考えている。彼らの意見によれば他の人々は人間ではなく、低い種類の存在であるようである。

 他の人々(異種族)、他の血縁の人々に対する敵意は、古代原始人たちの感情や信仰の名残りである。

 歴史は、私たちに、この地上には高い民族も低い民族もないということを教えている。進歩した民族と、文化の途上でとり残された民族とがあるだけである。仕事の暦によれば、いっさいの現代人たちは、まったく同じ時代には属していない。進歩した民族は、おくれた民族を助けてやらねばならないのだ。

 が、ヨーロッパには、黒人たちや、オーストラリア人や、その他の「未開人たち」に対しては、上から見おろすような態度が取られている国がある。

 そのような国の人々は、たとえば、現在のポリネシア人は過去のヨーロッパ人であるということを理解しないし、また理解することを欲しないのである。

p.148より
アメリカの発見

 アメリカを発見したヨーロッパ人たちは、新しい世界を見つけだしたと考えたのである。

 コロンブスは、次のような言葉をきざんだ勲章を贈られた。

カスチリア(スペイン王国)とレオンのために
コロンブスは
新しい世界を発見したのである。

 が、この新しい世界は、実際は古い世界であった。ヨーロッパ人たちは、アメリカにおいて、もうとっくに忘れてしまった自分たち自身の過去を発見したのであったが、それには気がつかなかったのだ。

 イリーンは上の記述に続けて、コロンブスがアメリカを訪れた頃の先住民が母系社会を作っていたこと、また、多くの地域、もちろんヨーロッパでも古代は母系社会であったことを紹介し、論拠としている。

 次は同じく第16巻から「世界文化小史 A short history of the world」(H.G.ウェルズ Herbert George Wells著・藤本良造訳)を読む。著者のH.G.ウェルズは、SF小説の中でのことではあるが、「タイム・マシン」を世界で初めて「発明」した作家として知られる。ジュール・ヴェルヌと並ぶSF小説の父であるが、評論や論説も数多く残しており、本書はそのうちの一つである。

読書

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、五つ目、「第二貧乏物語」(河上肇著)を()きの通勤電車の中で読み終わった。本巻の(ほぼ)半分を占める大著であった。

 著者は戦前の筋金入りの共産主義者である。当時「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ古強者だ。

 その著者が「貧乏とは何か。なにゆえ我々はかくも貧困にあえぐのか」というところから共産主義を説くのが本書である。

 今本書を読むと、批判、非難や弾圧にも屈せず切々と共産主義の正しさを説き続けている著者の筆致が、誠実を尽くしているだけに、むしろ悲しくさえある。

 刊行当時は検閲が厳しく、多くの部分が伏字で出され、それを戦後発見された原稿によって修復した旨が序や解説に記されてある。当時伏字であった部分には亀甲括弧〔〕や二重山括弧《》が付され、それと判るようになっている。だが、今日(こんにち)本書を読んでみると、そうした当時の伏字部分には大した単語は書かれておらず、逆にそれしきの単語に過敏に反応した当時の検閲がどれほど厳しく馬鹿らしいものであったかが想像される。

 この本が書かれておよそ40年が経った後、高度経済成長期後の、一億総中流社会と言われた日本の、程よく共産主義的味付けの効いた日本流修正資本主義の隆盛ぶりを著者が見たら一体何と言っただろうか。随喜の涙を流して満足したろうか、それとも「そうじゃない」と、毛沢東の言う「矛盾による成長、止揚、揚棄(アウフヘーベン)」のようなことを資本主義と共産主義との間に見出し、修正資本主義と市場社会主義は相互作用による成長の結果であるとして、目標を先へ延伸したろうか。

 そうした点で今は本書が共産主義の古典的理解になってしまっているという見方もやむを得ない。末川博による解説にも、ブハーリンの「史的唯物論」の偏向と誤謬を取り入れている点などで、昭和5年(1930)に出された本書は一時代前のものとなっている、という意味のことが書かれている。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「第二貧乏物語」より引用。
他の<blockquote>タグ同じ。p.300より

 人間の頭のなかから地球や日月星辰やが生まれ出るのではない。人間はもちろんのこと、いっさいの生物がまだこの地球上に発生しない以前から、地球そのものは存在しておる。それからずっと後になって、この地球の上に、はじめて人間が発生し、そしてその人間の頭脳へ地球や日月星辰やが反映して、それが人間の意識となり観念となるのである。これは極めて理解しやすいことだ。

 著者河上肇はマルクスとエンゲルスにそれこそ逆に宗教的とすらいえるほどに帰依し、徹底して弁証法的唯物論の正しさを唱え、形而上学を排撃している。そんな著者による上の一文には、本書の過半が代表されているように思う。著者の弁証法的唯物論は、デカルトの「我思う故に我あり」など吹き飛ばさんばかりの勢いで、堂々とその対極にある。

言葉
六合(りくごう)括嚢(かつのう)する

 「括」には「(くく)る」、「嚢」には「(おさ)める」との()み方がある。一方、「六合(りくごう)」とは上下と左右前後を合せた6方向のすべてをいい、世界や宇宙のことを言うものと思ってよい。そうすると「六合を括嚢する」とは、「世界をすべてひとまとめにする」という意味となる。

下線太字は佐藤俊夫による。p.247より
(引用者注 以下は著者河上肇による江戸時代の書『混同秘策』(佐藤信淵(のぶひろ)著)の引用である。)

()深く()(いく)の大恩に感じ、ひそかに六合を括嚢するの意あり、しかれどもいかんせん家貧にして年の老いたることを、ここにおいてこの書を筆記し、題して混同秘策と名づけ、いささか以って晩遠の鬱憤を写し、固封して児孫に遺す、云々」

喣育

 上の「六合を括嚢する」の引用文中、「()(いく)の大恩に感じ」という句が出て来る。この「喣育」の「喣」には「色を出す、あらわし、しめす」という意味がある。そうすると「喣育」とは、「形になるよう育てる」という意味となる。

老残羸弱

 「老残(ろうざん)(るい)(じゃく)」と読む。「羸」は疲れ弱ることで、「羸弱」で著しく疲れ衰えることを言う。

p.366より

 今まではだいたい気持ちのうえだけで嵐のなかに立っていたが、今年からはいよいよ奮発して、老残(るい)(じゃく)のこの身を現実に嵐にさらすつもりだ。

 さて、第15巻を読み終わった。さながら「共産主義まつり」のおもむきすらあり、辟易したりウンザリしたりこそしなかったものの、論の数々は右翼の私には腹の底から(うべな)えるものではなかった。

 次は第16巻。収載作品は「人間の歴史」(M.イリーン著・八住利雄訳)「世界文化小史」(H.G.ウェルズ著・藤本良造訳)「歴史とは何か」(G.チャイルド著・ねず まさし訳)だ。今度は人間そのものの歴史を俯瞰するものとなる。

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 引き続き60年前の古書、平凡社の世界教養全集を読んでいる。

 第15巻、「空想から科学へ(F.エンゲルス著、宮川実訳)/共産党宣言(K.マルクス・F.エンゲルス著、宮川実訳)/職業としての政治(M.ヴェーバー著、清水幾太郎・清水礼子訳)/矛盾論(毛沢東著、竹内好訳)/第二貧乏物語(川上肇著)」のうち、四つ目の「矛盾論」(毛沢東著、竹内好訳)、帰りの通勤電車の中で本編を、帰宅してから解説を、それぞれ読み終わった。40ページ弱なので、すぐに読んでしまった。

 毛沢東と言えば無論、かの毛沢東である。「はて、矛盾とな?なんのことやら?」と最初は思ったが、「矛盾」という言葉を聞いて我々が思い浮かべる、「議論してもどうにもならない馬鹿々々しいパラドックス」というようなことではなく、現代風な表現で言うと「対立」のことを毛沢東は「矛盾」と言っている。そして、さまざまな事象に見られる「対立」が、物事を前進させ、成長させると説く。対立には様々な軸があり、「東と西」なども毛沢東流にいえば矛盾であり、その他、学問でも、数学の正と負、微分と積分、力学の作用と反作用、電気のプラスとマイナス、等々、さまざまなものが対立、すなわち矛盾である。

 共産主義者は無神論者、唯物論者と決まったものだが、この本を読んで、毛沢東が形而上学を嫌い、弁証法的唯物論を称揚していることがよくわかり、ますます共産主義者の唯物的なことに納得がいった。また、弁証法につながる共産主義の唯物論から、ふと冷厳な「OR(オペレーションズ・リサーチ)」を連想した。日本の共産主義者はどうもヒステリックで情緒的だが、本当のマルクス主義者は科学的なのだ。

 現代の修正資本主義、毛沢東が否定した教条主義、封建社会からブルジョア社会を経ずに社会主義革命をなした毛沢東流テーラリングというかカスタマイズ、「現実への適合」を毛沢東が強く唱えていることなども印象に残った。

気になった箇所
平凡社世界教養全集第15巻「矛盾論」より引用。p.203より

 レーニンも、矛盾の普遍性を、こう説明した。

「数学では、正と負、微分と積分。
力学では、作用と反作用。
物理学では、陽電気と陰電気。
科学では、原子の化合と分解。
社会科学では、階級闘争」

 戦争における攻守、進退、勝敗は、みな矛盾した現象である。一方を消せば他方も存在しなくなる。双方が闘争し、かつ結合して、戦争の全体を形成し、戦争の発展を推進し、戦争の問題を解決する。

 次は引き続き第15巻から「第二貧乏物語」(河上肇著)を読む。共産主義に関する著作で、戦前のものだ。著者は学者だが、戦前、「赤旗」の編集などしていたため、刑務所(ムショ)で5年も臭い物相(モッソウ)(めし)を喰らい込んだ筋金入りの共産主義者だ。