日経新聞のビジュアル・マップがなかなか見やすい。
- 新型コロナ感染 世界マップ(日経新聞)
日本政府の努力ぶりがよくわかると思う。
オッサンは生きている。
トイレットペーパーがない、アベは責任をとれ!!
……なぞという
呆れてしまう。クソ紙の面倒まで総理大臣にかぶせるなど。
そこで、私としては次のように提唱したい。すなわち、朝日新聞を購読し、読まずに尻を拭くのである。思うに日本では便座洗浄機が普及しており、トイレットペーパーは水拭きの役にしかたっていない。ただ、水に溶ける性質のため、そのまま下水に流せるというその部分だけがトイレットペーパーの役割である。
しかし、便座洗浄機で尻を洗った後であれば、その水滴を拭ったあと、下水に流す必要などない。可燃ごみとして捨てればよろしい。であれば、朝日新聞はこれに最適である。
朝日新聞に書いてあることはどうでもいい。尻拭きに最適なのである。
朝日と
何、東京新聞!?……東京新聞は
近所のドラッグ・ストアではニュースで報じられているのと同じく、トイレットペーパーが払底している。
我々は全く、浅はかなものだ。
私はというと、コロナウイルス騒ぎも、もはや、飽きてきた。どうでもいい、こんなの。
ほっとけばそのうち、医学者が特効薬でも作るだろう。ペストだろうと天然痘だろうと結核だろうと、はたまたチフス、炭疽病、梅毒、黄熱病、その他あらゆる微生物病を、人類はそうやって克服してきたのだ。
何?そんな悠長なこと言ってる間にお前自身がコロナウイルスに感染して死んだらどうするんだって?
そりゃあ、
さておき。
確かに、ポテトチップスを
しかしまあ、それはとりもなおさず、「あれほど大量の油を摂取してしまう食べ物も他にない」ということを言ってもおり、この点からポテトチップスというと「デブの素」の代表格食品であるというのは定説でもある。
これだと一袋くらいあっという間に腹に収まってしまい、どんどん肥満してしまうに違いない。
しかし、よく考えると、この「飲み口」みたいな奴がなくても、袋の角っこを三角に切り取れば、同じ喰い方ができるのではなかろうか。
世界一古い企業は日本にあるのだという。それは「金剛組」という建築会社だそうだ。
創業は西暦578年というから、遠く飛鳥時代にまで
なんだか、クスッと笑ってしまった。……いや、失敬、失敬。要するに、「アッチの右翼」ですな、これは。
よくよく考えると地上波デジタルの前に、堀江何某が「そんなの既存のテレビをネットにつなげばいいだけじゃん」なぞと、「お前、それを言っちゃあ身も蓋もねェじゃん」みたいなことを言い放ったものだが、あれからハテ、かれこれ10年ほども経ったろうか。
作ったコンテンツをネットに放流することなぞ、技術上は大した話ではない。そんなこと、
しかしこうして、結局はテレビもネットも、ダラダラと融合していくより他にないのだ。
昔、SGIの創業者のジム・クラークは、インタラクティブ・テレビこそが次世代の
そういう誰が
受信料がどうとか陰謀だとか何とかは、そんなことどうだっていい。
それにしても大東京のサラリーマン諸氏には恐れ入る。学校が休みになろうが政府の自粛指示があろうが、なんの関係もなく押し合いへし合いの満員電車で沈黙通勤、混み具合なんか普段と全く変わらない。「テレワーク?なんスかソレ。営業は足で稼ぐんスよ」みたいな顔をしている人が半分ぐらいいて、残りの半分は「ワシはマスクなんか絶対するものか、アメリカでは効果がないと言っている、だいたいマスクなんてものは、菌がこもって気色悪いんぢゃッ!」……というような顔をしたスッピン・マスクなしの頑固爺の群れである。女の人も、ヒールの
今日の夜なんて、いつもどおり「ハナキン」の夜、街の居酒屋の入り口をちょっと覗くと、
思うに、ネットで恐怖説を拡散しているのは、おそらくこうした、どこ吹く風の実際の光景など全く見ていないような自営業の人などが主体なのではあるまいか。
人類はこれまで、梅毒やペストや結核や黄熱病など、恐るべき微生物感染症を克服してきた。そこからすると、今般の事態が収束した暁には、また新たな人類に進化しているだろう。無論、それは、このコロナウイルスなどどこ吹く風の強靭な背広通勤集団によってなされるのであろうことに疑いを
私は新型コロナウイルスに感染しないという妙な自信があるのですが、それは次のような馬鹿々々しい理由によります。
私は毎年宝
コロナウイルスにせよ宝くじにせよ、「分母の取り方」が大変難しいので、一概には言えませんが、しかし、運・不運の違いこそあれ、今日現在、国内に1000人以下ほどいるというコロナウイルス感染者は、宝くじで大当たりに当選した億万長者と同じくらいの運の持ち主だと言えるのではないでしょうか。
であれば、私がコロナウイルスに感染した暁には、みごと宝くじにも当たって億万長者になり、仕事も辞められると思うのです。
しかし、そんな日は永久に来ないでしょう。
60年前の古書、平凡社世界教養全集第6巻「日本的性格/大和古寺風物誌/陰翳禮讃/無常といふ事/茶の本」のうち、二つ目の収録作、亀井勝一郎著「大和古寺風物誌」を帰りの通勤電車内で読み終わる。
この全集のほんの入り口、第6巻途中まで読み進んだうちでは、私の心に一番ぴったり来る評論であったように思う。
解説が、私などが子供の頃、「奈良の面白いお坊さん」として有名であった高田好胤氏であるというのも面白く、またなお、その解説に落涙切々たるものがあるのも面白い。
空襲が激化し、朝に夕にわが都市が崩壊していった頃、奈良も所詮はこの運命を免れまいと僕は観念していた。夢殿や法隆寺や多くの古寺が、爆撃のもとにたちまち灰燼と帰す日は間近いと思われた。戦いの終わった後、その廃墟に立ち、わずかに残った礎の上にいかなる涙を注ぐであろうか。そういう日に、何に拠って悲しみに堪えようか。自分の悲歌の調べを予想し、心の中であれこれと思いめぐらしてさえいたのであった。国宝級の仏像の疎開は久しい以前から識者の間に要望されていた。東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かしえぬにしても、救世観音や百済観音等は疎開可能であろう。しかし僕は仏像の疎開には反対を表明した。災難がふりかかってくるからといって疎開するような仏さまが古来あったろうか。災厄に殉じるのが仏ではないか。歴史はそれを証明している。仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという迷い言が出るのであろう。そう思ったので僕は反対したのである。
観光地としてではなく、聖地としての再生――これこそ僕らの念願ではなかろうか。観光地として繁栄する平和の日などは軽蔑しよう。日本を世界に冠絶する美の国、信仰の国たらしめたい。そのためにはどんな峻厳な精神の訓練にも堪えねばならぬと僕は思っている。一切を失った今、これだけが僕らの希望であり、生きる道となった。そういう厳しい心と、それに伴う生々した表情を古都にみなぎらすことが大事だ。かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い危惧の念をもって僕はいまの祖国を眺める。
知性は博物館の案内者としてはじつに適任であろう。だが信仰の導者としては「無智」が必要だ。「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。人は聰明に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、ただ一筋の道に殉じることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか。宗教や芸術や教育について、さまざまに饒舌する自分の姿に嫌悪を感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことをいっている僕が、愚に見えるだろうか。
p.165より
私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己れの再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行なわれねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。
だが、はじめてみたもろもろの古仏は、「教養」を欲する乞食に見向きもしなかったということ――これは私のつねに感謝して想起するところである。美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして
唯仏 であった。半眼にひらいた眼差しと深い微笑と、悲心の挙措は、一切を放下せよという一事のみを語っていたにすぎなかったのである。教養の蓄積というさもしい性根を、一挙にして打ち砕くような勁さをもって佇立していた。
現代人は、思想でなく思想の罐詰を食って生きているようにみうけられる。国産の配給品もあれば、外国製のもある。急いで缶詰を食いちらしている状景は、戦前も戦後も変わらない。自分で畑を耕し、種子をまき、あらゆる風雨に堪えて、やっと収穫したというような思想に出会うことは稀だ。たとい貧しく拙劣でも、自ら額に汗してえた思想を私はほしい。そういう勤労の観念がいまどこにあるだろうか。勤労者の味方をもって自認する政党の思想が、もっとも罐詰臭いのは不思議なことである。私はそういう贅沢を好まない。
亀井勝一郎のような筋金入りの共産主義者がこう言ってのけるのは、晩年の円熟だったのだろうか。
しかし信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断じるのは不当である。まことの信仰はかならず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。あの豪壮荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにゆかない。天皇の生涯を偲ぶとき、私はいっそうその感を深くする。
小野老朝臣 が「あをによし寧楽 の都は咲く花の薫 ふがごとく今盛りなり」と詠じたように、天平時代はたしかに稀有の黄金時代であったろう。飛鳥白鳳を通じて交流しきたった文化の、更なる昂揚があったであろう。だがそういう開花の根底には、かならずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。
こんな奴、根絶やしにできないものか。
警視庁のSPだった品田容疑者、2007年に高市早苗大臣のSPを務めていた当時、痴漢行為で逮捕されていた。
前に、盗癖のある者についても感じたことがあるが、破廉恥事件を起こす者は、再び、やる。暴力をふるう者も、いずれまた、やる。
こういう者から、安全かつ科学的に、危険な犯罪的性質を除去することはできないものか。かつての危険で非人道的な「ロボトミー」等によらずして、である。例えば遺伝子から痴漢因子、暴力因子その他を取り除き、子孫に
誰も彼もがネットですぐに発言できる時代だ。浅ましいもので、福島の原発の時は誰も彼も核物理学者、コロナウイルスでは猫も杓子も感染症の専門家である。
Twitterでは検疫中のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号に潜り込んだ研究者が叩かれている。
そりゃあ、叩かれもするだろう。そもそもこの船は外国船舶で、本来はイギリスが法的義務と責任を持っている。しかし、何分にも今後が憂慮される事態であるから、日本の当局としては、やむなく緊急の処置をもって何とかしようと努力しているわけである。それを、あの手この手を尽くして潜り込んだわけだから、いろいろ言われるのはやむを得ない。
ダイヤモンド・プリンセスはCOVID-19製造機。なぜ船に入って一日で追い出されたのか。 https://t.co/g2d1C5HSuI @YouTubeさんから ダイヤモンド・プリンセスに入りましたが、何者かによって1日で追い出されました。感染対策は飛散な状態で、アフリカのそれより悪く、感
— 岩田健太郎 Kentaro Iwata (@georgebest1969) February 18, 2020
岩田教授というこの研究者は、
この教授も変なところがある。「個人の見解だ」などとおっしゃっているが、それなら「私は神戸大学の教授で、感染症の専門家だ」などと肩書をチラつかせる必要などない。
まあ、やむにやまれぬ使命感で、なんとか世の中の力になりたいと思っておられるのであろうことは理解できるが、それであれば、こんな騒ぎなど起こさなくても、御自分の本分を勤務先で尽くされることで、十分以上に世の為人の為になると思う。
で、それに提灯を付ける大新聞もあって、まあ、忍び笑いも漏れようというものだ。
現在、ダイヤモンド・プリンセス号では検疫終了者の下船に向けた準備が進んでいます。荷物は先にターミナルに降りており、対象者は10:30以降順次下船の運びとなります。明日、明後日も順次下船いただけるよう、クルーや自衛隊はじめ多くの皆さまにご協力をいただきながら、オペレーションを進めます。
— はしもとがく(橋本岳) (@ga9_h) February 19, 2020
それをまた、「勝手なことをしおって」みたいに、抗議しているのは政治家先生である。これがまた、政治家先生なんてものは人気商売なのに、ネットで
誰も彼も、訳知りぶるのも結構だが、ちょっとは私心を滅却して
「死にたい」などと書くと物騒だし人様の迷惑でもあるから言いたくも書きたくもないし、思いたくもない。だが、「消えたい」とは思う。誰の迷惑にもならずスッと消えるのだ。
そんなふうに消えられないものかと思うが、もし消えたら、私の妻は私を探さざるを得ない。たとえ本人が探したいと思っていなくても、社会的責任は私を探せと妻に命じるだろう。これは妻にとっては負担以外の何物でもない。
だから、消えたい死にたいと願うのならば、探されることなく、妻をはじめ、両親兄弟、友人知己の記憶から完全に消えなければならない。
そんなことは不可能だとわかっているから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。
親不孝という見方がある。親は自分の勝手で子を作ったのであるから、子が死んだり行方不明になったりすれば、そりゃあ、葬式を出すなり探すなりしなくちゃならんだろう。だが、それが悲しく慟哭の極みであって、そんなことを親にさせるのは不孝である、親に損失を負わせることだという。いや、損失、て……。つまり我が子の痛み苦しみを悲しむのではなく、親の損失であるからそれはよせ、というのである。
なんか、ねえ。
キリスト教は自殺を禁じるが、そこには「人間は放っておいたらどんどん自殺する、だから死なないように脅しておかないと」という宗教的歯止めのあざとさが透けて見える。そりゃあ、教団にゼニカネを持ってくるのは死人ではなくて生きている人なんであるから、できるだけ多くの人に生きていてもらわないと坊さんも困るだろう。