欠席者と(くじ)

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 次女の中学校の入学式に出た。懇意にさせていただいている方がPTA会長をしていらっしゃるので、なにか参列する気持ちもいつもより粛然とするのであった。

 入学式後、PTAの役員・係の(くじ)引きなどもある。

 そのことで、ふと思い出したことがある。数年前、長女が中学2年生くらいだった頃の、クラスのPTAの係を選出する籤引きでのことだ。

 PTAのクラスの係の籤引きは、たとえ欠席者があっても、代理がその人の分も籤を引き、当たればそれを伝えることになっている。平等に役を割り当て、いわばズル休みを防ぐ効果もあって、文句の出ようのないところだ。

 さて、その日は、全部で30人の保護者のうち、3人の欠席者があった。出席している保護者が、30本の籤を順番に引き始めた。役員は3人決めることになっていて、つまり「当たり」籤は3本だ。たいてい、15、6人ほども引く頃には、1人か2人は当たり、籤の終盤になると、全員が引き終わる前に3人の役員が決まるのが普通だろう。

 ところが、その日はどうしたことであったろう。

 15人ほどが引いても一本も当たりが出ないのには、残りの人たちも既に引いた人たちも、「面白いわね」「なかなか白熱してまいりましたな、これは」などと冗談のひとつも飛ばして盛り上がる余裕があった。

 しかし、18人が引き終わり、20人が引き終わる頃には、やや会場がざわつき始めた。「ちょっと、これ、当たり籤は本当に入っていますか?」という質問も、わりあいに真面目な調子で出始める。「ええ、先ほど、絶対に間違いなく入れましたよ、皆さんも見ておられたはずです」と、籤を作成した人が言う。

 ついに、25人。引いた人が「ハズレ!」と言ったときの、一同の驚きの声たるや!。26人!またもやハズレ!もっと大きな声が上がる。

 そして、ついに27人が引き終わってしまった。残りは3人の欠席者の代理引きだけだ。果たして、箱に残った三つの籤は全部PTAの係に大当たり。欠席者3人がPTAの係ということになってしまったのである。

 保護者たちは欠席している人にこれを伝えるのに、「いないのをいいことに、面倒を押し付けたのではないか?」と思われはすまいかと内心穏やかでなかったが、まあ、衆人環視のうちに行われた籤引きのこと、なんの不正もなかったことは全員が保証しうるので、そこはなんとかなったようだ。

 そして、保護者たちは、「欠席者3人のために残された最後3つの籤が当たる」ということが、一体どれほどの偶然によるものか、天の配剤を思って、だいぶしばらくの間、これを噂話にも茶飲み話の種にもしたものである。

 さてこの話は、まあ、「順列組合せ」の算数の問題として扱いうる。

_n C _k = \dfrac{n!}{k!(n-k)!}

…というアレだ。

 これを書き出して遊んでみる。写真のような計算になると思う。階乗の計算が面倒だが、分母分子に同じ数字が多いから、わりあい簡単な計算である。

春夜

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 降りつのっていた雨がからりと晴れ上がると、うたた高気圧性の風に吹かれて既に桜は散りはじめている。

 市ヶ谷見附の交差点で外濠の水面をながめていると、つい足が靖国通りへ向く。

 靖国通りの桜が散る下、金曜の夜を夜桜で楽しもうというつとめ人の男女が、罪のない笑顔を浮かべて和やかにそぞろ歩いていく。

 私もふと千鳥ヶ淵の夜の花筏に心惹かれぬでもなかったのだが、去年の大鳥居から手前の喧騒が思いやられ、増辰海苔店で好物の海苔を需めて引き返す。

 五日の月がするどい筈の尖りをおぼろに鈍らせてひょいと浮かんでいる。春夜は花の匂いの底に麝香のような淫靡な香りをしのばせている。

「眼をそらす」考

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 かなり前のことだが、新聞でこんな話を読んだことがある。

 ある工学者が、ロボット研究の一環としてちょっとした玩具を作った。縦横に走り回るタイヤがついた一種のロボットで、十数個ほどが組になっている。ランダムに走り回るのだが、ロボットの前方にはCDSセルなどに類する受光素子が、後方にはLEDの発光器がついている。これをバラバラに走り回らせて放っておくと、他の個体の後ろにあるLEDを感知して追従し、次第次第に列をなし、しまいには十数個が自然に一列になってぐるぐる走り回る、というおもちゃである。

 どの個体も、機械的に同じように作られている。したがって、どう走らせようと列をなす順番はランダムになるはずである。ところが、なぜか、どうしても先頭になりやすい個体があり、何度も試して統計をとると、統計上無視すべからざる有意な傾きで、先頭になりやすいもの、2番目になりやすいもの、ビリになりやすいもの、と、電子的な機械なのに、癖が出てくるものなのだそうな。

 工学者はそのことがどうにも不可解なのでよく調べてみたという。

 原因は意外なところにあった。

 このロボットは、正面から向き合ったときに衝突するのを防ぐため、正面にも発光器をつけてあり、別の個体が正面から向かってくるのを衝突回避用の受光器が感知すると、必ず右に向きをそらせて走行するようになっていた。いわば「眼をそらす」ようにして、衝突を避けるしくみなのである。この「眼をそらす」動作に、ほんのごくわずかな工作加工上の差があり、個体によって回避動作がゼロコンマ何秒かづつ違うことがわかったという。このやや回避動作の遅いものは、自然直進しがちとなり、どうしても他の個体はこれに追従するようになる、その回避速度の差が、個体ごとに順序の癖となって現れていることがわかった、というのだ。

 この、かなり前に聞いた単純なおもちゃの話が、私にはどうも、我々人間様も、例えば 餓鬼大将の決まり方などに、似たような理由が作用しているように思えてならなかった。というのも、子供の頃の「先頭の奴」は、かならずしも優秀とか能力が高いとか言うわけではなく、また親切でもなく優しくもなかったように思うからだ。

 どちらかというと、「適度に鈍い奴」が先頭になっていた気がする。

 中学生くらいになって、ヤンキーの怖い奴の眼を見ると、

「『めんち』を切った」

…なぞと言って因縁を吹っ掛けられるので、触らぬ神にたたりなしと、私など弱小のその他大勢は、まともにヤンキーの眼など見なかったものである。ちなみに、この「めんち」というのは、関西弁の言い方だ。私は大阪出身なので、この言い方のオイシさにゾクゾクきてしまうが、関東の人などは「ガンをつける・飛ばす」などと言うのが普通だろう。

 さておき、それよりもう少し成長して、武道を学んだり、社会に出たりなどすると、

「相手の眼をよく見ろ、眼をそらすな、相手の気持ちもこちらの気持ちも眼に現れるのだ」

…なぞと(しつ)けられるようになる。素直な若者であった私も、こうした上司や先輩の教えをよく聞いて、人の眼を見るようになったものだが、これがまた、落とし穴なのだ。

 だんだんと実際の生活を送るようになればわかることだが、いつでもどこでも誰の眼でも、じっと睨み付ければそれでいいというものではないのである。

 上司などは、目下の部下を叱責などしているときに、じっと眼なんぞ見られると「コイツ、ふてぶてしい奴だ」と不快を覚える場合もある。あるいは、これも場合によるが、女性などは男にじっと眼を見られると、恐怖を覚えたりする。これは、顔が笑っていればそれでいいというものでもなく、笑っていようが真剣な顔であろうが、眼を見られれば不快なときには不快なのである。

 ある「面接試験の受験心得」のようなものを読んだことがある。それには、

「基本的には面接員の顔、特に眼を見るべきではある。しかし、面接員の眼をあんまり激しい視線でじっと見つめすぎると、人によっては不快を覚えたり、生意気な受験者だとの印象を与えてしまう場合もある。そこで、面接員の眼がみづらいな、と感じたら、自然に胸の辺りを見れば、それほどとがった印象を与えずにすむ」

…などと書かれていて、これはだいぶ世間というものをわかった人が書いたのだな、と思ったことがある。ただ、それはかなり古いテキストで、女性の面接官や面接員があまりいなかった時代だ。今だと、女性の胸などじろじろと見ていたら、それはそれで多少問題があり、どこを見たものか、なかなか難しい。

 なにしろ、「人の眼を見ろ!」なんてことを厳しく躾けるオッサンに限って、自分の眼を見つめられると怒り出す、なんていう笑えない一幕も世の中にはよくあるのであるから、生活と言うのはこれでなかなかどうして、微妙なものである。

 人と向き合うときに眼を見ることには、このように少しばかり気遣いが必要だが、街の雑踏などを歩いていて、向かってくる相手を見る、見ないということに、いろんな類型を見いだして興味深く思うことがある。

 例えば、「あ、このまま直進すると、向こうから来るあの人とぶつかるな」と気づいた際の行動だ。こうしたとき、

● 相手をよく見て、その出方で、こちらも避ける方向を決める。

という、ノーマルな行動をとる人がほとんどだと思う。だが、ありがちなことだがこの方法は、お互いに同じ方向に避けあって、2、3度タタラを踏んでしまう、という滑稽なシーンを現出させる。

 時々見かける、決して少なくはない類型に、

● ぶつかりそうだな、と思ったとたん、「えーっと」と、横や後ろに眼をそらしてしまい、そのまま直進する。

…という人がある。意外とこういう人は多い。こうなると、相手の方が「あ、あいつ、こっちを見てないな、しょうがない、俺が避けよう、やれやれ」と瞬時の判断で自然に避けるわけである。

 これはうまいやりかたのようでいて、どうも、快くはないやりかたである。時々、双方ともそういう行動をとって、ついにぶつかってしまい、双方がすんませんすんません、と謝りあっている光景などを駅で見かける。

 実はこの私も、一時期そんな癖がついてしまったことがある。ところが、あることがあってやめた。

 大人になってからなのだが、向こうから来た人にぶつかりそうになり、その頃のなんとはない癖で、ひょいと眼をそらして直進した。ところが、向こうから来た、金髪入れ墨のヤンキー兄ちゃんは、どうもじっと私を注視しながら直進を敢行したとおぼしく、どんとぶつかって、低い声で「コラ」と言ったものだ。

 その時には、あ、ごめんなさいで済んでしまい、特段トラブルにもならなかったのだが、自分の行動様式を見直した私は、この「眼そらし直進」をやめ、向こうの眼などを見て通行するようになった。そうすると、こちらが避けるにせよ、相手が避けるにせよ、意外に通行しやすいことがわかったのである。

 困るのは、この「眼そらし直進」を、自動車を運転中に、歩行者に対して実行する人物がいることだ。これはもう、ぶつかって「すんませんすんません」ではすまない危険極まるやりかたであるから、やめるべきである。自動車を運転しているときに「『めんち』を切った」なぞと中学生のような因縁をつける者などいないのであるから、どうか周囲の車や横断歩行者の動向をもれなく注視してもらいたいものである。

 私などには、実は別の悩みもある。どうも、私は裸眼のせいもあってか、「どこを見ているかわかりやすい」らしい。自分ではわからないのだが、つまり、視線に遠慮がないようなのである。

 雑踏などで向こうから来た若い女性が、私と眼が合うや、急に胸元をかきあわせたり、そわそわと自分の服装をチェックしたりすることが多く、なんでだろう、と思っていたのだが、どうも、私がじろじろ見るのがいけないらしい。そのため、昼間はおろか、真夜中にすら視線隠しのサングラスをかけるようになってしまった。私も見ず知らずの人に視姦魔扱いされて嫌われたいわけではないからである。

 とまれ、眼を見てみたり今度は逆にそらしてみたり、なかなか視線の置き所がないものだ。若い女が極端に短いデニムのパンツなどを穿いて白い脚をむき出しに組んでいたりするのを見ると「眼のやり場に困る」という慣用句を使いたくなるが、別段裸体の女性がいるわけでもないのに眼のやり場に困っている私は、まったく因果なことを気にしているな、とも思うのであった。

1億倍で言わないと消滅する。

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 以前、「中国人13億人と日本人1億3千万とが全力で殺し合いをしたら、秒殺で日本人全滅。戦い方で工夫をして勝つなら、あらゆる能力が100倍優れてないとダメ」みたいなことを、ランチェスターの二次則にからめて書いた。

 簡単な理屈で、100倍というのは勢力比の自乗である。

 もう一度書くならこういうことだ。ランチェスターの2次則によれば、損耗は勢力比の自乗で作用する。

{B_0}^2 - {B_t}^2 = E({R_0}^2 - {R_t}^2)

 ここに、
  B 青軍
  R 赤軍
  B0、R0:  青・赤両軍の最初の兵力
  Bt、Rt:  ある同じ時点での青・赤両軍の残存兵力
  E:  兵力の質の比。赤軍の質が青の倍であれば2、半分であれば0.5。

 式を変形すると、例えば、

{B_t = \sqrt{{B_0}^2 - E({R_0}^2 - {R_t}^2)}}

 このR0に日本の人口、Rtにはゼロを、B0に中国の人口、Eに1.0を代入すれば、つまり「日本人が全滅を期して捨て身の特別攻撃をしかけて、中国にどれだけの損耗を強いることができるか」という冷厳な計算となる。

 言うまでもないが、この計算はするだけムダだ。それでもあえて計算してグラフを描けば、こうなる。

Photo_3

 日本人の人数の、10分の1の損耗すら、与えることが出来ない。一人十殺どころか、10人がかりで1人殺すこともできないのである。

 これを互角にするには、兵力の質の比「E」を高めることだが、これも計算するだけムダである。100倍以上という数字が出るだけだ。

E=\cfrac{{B_0}^2 - {B_t}^2}{{R_0}^2 - {R_t}^2}

 この式にそれぞれ中国と日本の人口、互角となるようにBtとRtにゼロを代入すれば、約106という途方もない数字になってしまう。

 これが、先日私が書いた、じつにお粗末で簡単な理屈である。だがしかし、「殺し合い」なぞと物騒な書き方をしたから、どうにも老幼婦女子に刺激が強すぎたと言おうか、まず「穏当でなかった…」のは否めない。

 だが、殺し合いまでは行かない、例えばあることに関する意見や主張、ということではどうだろう。

 「昭和10年~20年(1935年~1945年)までをリアルに過ごした全ての日本人は悪魔で殺人鬼で血も涙もない許すべからざる鬼畜で、レイプ大好きな人類の敵だった」

…ということを、13億人の中国人が全員で言い、そして、かたやの日本人の、まあ、せいぜい100万人ほどのかわいい勢力が、小さな声で

「そ、そんなことないよぉ…当時の日本人にだって、いい人はたくさんいたんだよぉ…」

と、ボソボソ口ごもるとする。まあ、大声の大合唱と、小さな声のつぶやきとの戦いだ。そうすると、どうなるのだろう。

 この際、10億ナンボという土台に対して、朝鮮半島の5、6千万なぞ、計算の埒外、誤差というか、ゴミのようなものであることをあらかじめ言っておく。

 13億人の中国人全員が全力で100%の力を出し切ってこんなことを言うというのも、非現実的だ。中国人の中にだって、「いやいや、それは言い過ぎだって。日本だって、当時当時の情勢ってものもあったわけだから」と、一定の理解を示す知性のある人も少なからずいるだろう。だから、方程式の入力に「13億」と叩き込むのはよろしくない。また、全員が100%で主張するというわけでもなく、かなりラジカルな活動家でも、1%ぐらい「日本人だって人間なんだから」と心の片隅で思っていなくもないだろう。そういったところをあれこれ差し引きして、

「13億人中の10億人が全力で『A』と主張する」

…とでもしようではないか。

そして対する日本が、「100万人のかわいい勢力が小さな声で言う」というところを置き換えて

「10万人の勢力が全力で『非A』と主張する」

とでもしようではないか。

 先日の私の遊びのように、13億対1億3千万をランチェスターの二次則に代入するなど、代入する前からわかりきった馬鹿馬鹿しいことだった。それが10億対10万である。これは馬鹿馬鹿しいを通り越して頭脳の目方を疑われるような無意味なことだ。

 それでも、あえてグラフを描こう。

Photo_4

 横軸の、中国の10億が、まったく変化していないことに注目しよう。実は変化しているのだが、桁が小さすぎて表示できないのだ。つまり、ただの一人たりと、日本の意見に同意してもらうことなど出来ない。

 では、これを互角にするにはどうしたらよいのだろう。互角にするためには、交換比Eを計算すればよい。

E=\cfrac{{B_0}^2-{B_t}^2}{{R_0}^2-{R_t}^2}=\cfrac{10^2}{0.001^2}=\cfrac{100}{0.000001}=100000000

 1億倍である。

 こちらの主張を、日本人特有のおくゆかしさでもって、「いつかはどちらが正しいかをちゃんと天が見定めてくれる」とわけしりぶって小さな声で言っていることには、数値上の意味はまったくない、ということだ。

 正しいとか、正しくないとかはこの際置こう。おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃん、我々を産み育てた父祖の世代が、「クズでカスで大便みたいなゴミだった」という認定が、世界的定説になるかならないか、それをどうするのかということなのだ。

 それを互角に保つには、キチガイ右翼の街宣車のボリュームがやかましいなどという、そんなどころの騒ぎではまったくダメで、「1億倍の強度でそれを言わなければならない」ということである。

 「1億倍の強度で言う」ということは、簡単なことではない。これは例えではないからだ。

 例えではない、ということはどういうことか。具体的に書けば、中国人一人がネットに

「日本カス。死ね。」

…と8文字ほど書いたら、互角に対抗するために、10万人の日本側は

「日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です

~(中略)~

日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です」

…と、8億文字ほどの情報をネットに流せ、ということなのだ。そうしないと、「日本人は昔から罪深い糞でアホでカスだった」という認定が、朝夕に迫るのである。

 そんなことは、到底できることではない。

不快な正義

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 正義が心地よいものであるか否かは、例えばアメリカ人の正義が、核爆弾で敵はおろか人類の文明をすら破却するような類いのものであることを想像するとよくわかる。一言で表現するのに、「戦争の名分は大抵、正義だ」と言うと多くの人は頷いてくれる。

 正義は不快だ。

 しかし正義の不快さを想像するのに、何もアメリカ人の核爆弾と文明の破却の例を持ち出すまでもない。日常生活のあらゆる時と場所に、正義の不快さを納得できる場面が転がっている。

 私は先輩が運転する自動車の助手席に乗っていて、15km/hほどのスピード違反を注意したところ、「うるせえな!嫌なら降りろ!」と怒鳴り付けられたことがある。この先輩はよほど不快だったのだろう。だが、正義はいずれにあったかというと、こんなことは考察するまでもない。

 この例えによらなくても、スピード違反で検挙された人が、警察官に食って掛かって怒鳴っているというような図式はしょっちゅう見かける。

 こういう人にとっては警察官なぞというものは人々を苦しめる圧政の手先、腐った公務員の代表であって何ら従うべき余地はなく、ナニヲ、道路設計上の安全限界だと!?馬鹿馬鹿しい、そんなものは怠慢な自治体や官僚が、面倒臭くて適当に40km/hと決めただけだろうが!…というようなことなのであろう。

 あるいはまた、これは最近見かけないから例えがよくないかもしれないが、人の家の玄関先で立ち小便をしているオッサンに「ダメですよ立小便なんかしたら」と注意したら、オッサンがブチ切れて怒鳴りだした、というのもある。変なものをまろび出させたまま怒鳴り、詰め寄ってくるわけだから、あともう一歩間違うと変質者で、これは相当に紙一重だ。

 任務放棄や遅刻を叱ると怒り出す部下、というのも、少なからずいる。

 往来で煙草を吹かしているヤンキーの高校生に注意すると、「なんやとオッサンこらいっぺんシメたろか!」と殴りかかってくるだろう。昔はカミナリ族という言葉もあったそうだが、これだと文字通り桑原(クワバラ)、である。

 どちら側が正しいとかなんとか、そんなことはまったく関係ない。問題は正しさの量なんかではないからだ。

 ただ、これらのいずれの例も、「まぁ、そりゃ、ヤッコさんも怒るわなあ、ああ言われたら」という、それを(うべな)う気分も私にはある。それが、「正義は不快だ」という、そのことなのだ。

 では、正義のほうで不正義に(おもね)り、申し訳なさそうに「すみませんがスピードを落としていただけないでしょうか」とか「ごめんねえ、ここは職場だからできれば遅刻はしないようにしてもらえるかなあ、悪いねえ」などと、まるで正義が快適なものであるかのようなふりをして言わなければならないのだろうか。私はそれは否であると思う。怒るのも無理はない、と感じる気持ちと同じくらいの強度で、またこれを(いな)むのである。

 正義は不快で、厳しいのが当然なのである。そして、不快で厳しいものを持ってこられたら怒り出すのも、また当然なのだ。正義は姿のない金属や岩石に似ているが、人間は金属や岩石ではないから、もとより正義なんてものは馴染(なじ)まないのである。

 その、馴染まない、変な、不快なものにぶら下がっていかないと、生きていけない。怒り、衝突しながらでないと、社会は作れない。

 正義のことを「ジャスティス Justice」と英語で言ってみると、途端に、なんだか胡散臭い、異質で不快なエグ味が滲み出して来るように感じられる点も、ちょっと脱線して考察してみたい枝道である。

ラーメン旨い

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 妻が出掛けているので、娘どもにインスタントラーメンをつくって食わせる。

 若い頃、旭川に7、8年ほど暮らした。札幌の歓楽街は「薄野(すすきの)」と言うが、北海道第二の大都市たる旭川の歓楽街には特に名前というものはなく、ただ繁華な一帯は地番が「三条六丁目」であるので、「サンロク」と言っている。

 旭川のラーメン屋はどこに入っても旨く、安かったので当時はよく食った。休みになるとサンロクに飲みに出掛けたが、飲む前の腹ごしらえには決まってラーメンを食った。時々は、さんざん飲んで酔っぱらってから、またラーメンを食ったりした。

 サンロクに今もあるのか知らないが、私がよく入ったのは「ピリカ」というラーメン屋だ。醤油ラーメンを注文すると、大きな鉄鍋にもやしを中心とした野菜の千切りを山ほど入れて強火で炒め、そこへ「ジューッ!」と音を立ててスープを注ぎ入れて火を通し、それを太い目の麺の上にたっぷりとのせて出したもので、野菜の味が麺に馴染んで旨かった。

 今、娘どもと昼めしにするのに、インスタントラーメンをそのまま食うのも芸がないと思い、 ピリカのことを思い出して、まず胡麻油を強く熱してモヤシと豚小間を焦がし、ほどのよいところへじゅぅ~っとスープを注ぎ入れてほんの少し煮た。ゆでたインスタントラーメンの上にこの具と汁を一緒にかけまわし、茹で玉子をあしらって出来上がりである。

 娘どもは私の旭川懐古などには頓着なく、「胡麻油のいいにおいがするー!」と喜んでラーメンを食っている。

 さて私はというと、その後兵庫県の姫路市に転勤になったのだが、それから、どこのラーメン屋で食っても旭川にいた頃ほど旨いと思わなくなった。いや、食えば旨いことは旨い。姫路に行く前にしばらく福岡に暮らしたが、博多の繁華街の屋台の豚骨ラーメンなど、出色の旨さだったとは思うし、東京づとめになってからは各地の味のラーメンを試すのに不自由はないから、だいぶ色々な店のを試しもした。ことに、10年ほど前の勤め先だった恵比寿~目黒のあたりはラーメン激戦地で、旭川にいた頃から知っている「山頭火」なども出店していた。また、最近になってからの第何次かのラーメンブームでは、うまい店を挙げるのに労はないと言ってよい。

 ただ、どうも若い頃食いなれた旭川のラーメンとは比べられないのである。私の好みが変わっただけかも知れないし、あるいは旭川の安いラーメン屋より、他の土地のラーメンが不味いのかもしれない。

靖国神社と春香クリスティーンと私

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 「春香クリスティーン」とヒョンなことで検索エンジンにキーワードアシストが出てきて、なにコレ誰?と何の気なしに手繰ってみたら、まあ、面白いことwwwww。

 まあ、罪のない女のコのおバカ、と見るか、嘆かわしいと見るか、いろいろと見方はある。

「…それを言うならアーリントン墓地なんて、テロリストの集団埋葬所だろ。戦士の墓?笑わせんな、原爆落とすような人殺し連中がワンサカ埋められてる墓だぜ?しかも、「命令されてしかたなくやった」んじゃねえ、任務達成の充実感を味わいながら大喜びでやりやがったんだ。つまり、洗脳された狂信者たちだ。そんな連中が埋められてる墓なんだアーリントン墓地なんてものは。

 ケッ。言ってやった、ザマァ見ろ。そう言われて胸糞が悪けりゃあ、コッチのやることにもいちいち文句をつけンなよな。」

 …なぞと暴言のひとつも書いてみたくもなるが、実のところ、これしきのことで腹を立てる私ではないし、そこまでヒドい気持ちは持っていない。だいたい、人間、中年になると、怒ろうと思っても逆になかなか腹も立たたないものなのだ。それに、アメリカは靖国神社のことなどいまやハナも引っ掛けない。終戦時は焼き払おうとしたらしいが、むしろ最近献花しようとして逆に日本政府から再検討を促されたくらいだそうな。支那、朝鮮にしても、単に新聞売りたかっただけの朝日新聞が中曽根総理のころに書きたてたから、ああ、そうなの、それなら、まあ、反対の立場で言説でも組み立てときましょうか、ってんで成り行きでこうなっただけで、靖国神社なんて彼らにとってはどうでもよかったのである。

 つまり、靖国神社が無残にコケにされるのも、もとはと言えば日本人が自分自身で招きよせたことであるから、人のことは悪くは言えないのだ。だいたい、中曽根サンのころまでは天皇陛下も御親拝、あるいは悪くしても勅使が参じていたくらいなんである。こうなってしまったのは、気分は悪いが、かえすがえすも私たちが自分で招き寄せた結果なのだ。

 「戦う」と書くが、本当に殺し合いをしている人たちなんて、日本にはごく特殊なやくざ者などを除いてほとんどいない。「必死」と書くが、それは比喩の文字面であって、文字通り「必ず死のう」なんて考えて仕事をしている者もいないのだ。ほとんどの戦いは、所詮デスクワークのたぐいだ。「必死で仕事をする」というのが文字通りなら、日本の自殺者なんて3万人どころではない、3000万人くらいになってしまう。

 だから戦え、というのではない。戦わなくてよくて、本当に幸せなこっちゃ、と腹の底から思わないことがあろうか。

 戦うことや死ぬことを、一生懸命に追体験しようと、また、わがこととしてそれを考えようとするかしないかだけでも、だいぶ違うのだが、実際に戦うということとの間には、それでも天と地ほどの違いがある。

 支那にも朝鮮にもアメリカにもドイツにも、同様の戦士の墓や顕彰所はあり、そして、戦うということを考え込む場所がそういうところなのである。平和主義の人は

「国家権力にだまされた知能の低い人を思いのままに操って、命を捨てさせたりするためには、権力がそういう風にうまくだます場所が必要だ」

…などと言うと思う。自分のことを「知能の低い人」と言われたように感じて、右翼や保守の人はここで激昂するのだが、まあ、会社の命令にだまされて、首をつる人もたくさんいる世の中だ。政府が企業にさしかわっても、2000年来海ゆかば水漬くかばね、みたいなもので、だからだまされているというのも、そんなに間違ってない。

 これらのことをくだくだと言い立てたところで、通じないし、噛み合わないし、議論などもするだけ無駄なのだろう。無駄なことはしないことだ。それを言うと、こうやってヒマにあかせて文字列を量産している私も、まあ、無駄なことをしてるわなあ…。


 この記事は、平成25年12月30日(月)にFacebookに書いたものをコピー・ペーストしたものである。(下リンク)

法定冷涼

投稿日:

 まことに申し訳ないけれども、私は、日本と言う国が再び力を得て、人類と文明全般に対する責任と言うものを果たすためにはグローバル化などではなく、「核武装」が必要であって、100年かかるか200年かかるかわからないけれども、いつの日か欧米白人の頭上に神罰の鉄槌を炸裂させて奴ばらの非を悟らしめるためにも、原子力発電所は必要であると考えるような非道なオッサンである。

 どうか、そのことをなんとでも責めてくれたまえ。

 ただ、今日と言う今日は、そこを、百歩どころか、万歩、億歩ほど譲ろう。

 譲りに譲って、原子力発電所は、全廃しようという、そういう主義になりましょうよ、ええ、ええ。

 それであるならば、キミたち。この夏場の、電力がなんとかフクシマがどうとか、したり顔でヌカすわりには、この、冷房のための電力需要はどうしたことか。

 これは、わけもなく厚着をしているのが悪いのである。服なんか脱げ。脱いで、パンツ一丁になってしまえ。

 クールビズなどと言っているが、何を甘いことを言っているのか。

 あらゆる職場における、男の「パンツ一丁」を法制化すべきだ。

 女性は、これは、薄着にすると性犯罪が増えるし、女は冷え性と相場が決まっており、ただでさえ女性が職場に増えている昨今、冷房の温度設定が低すぎると男女間のトラブルの原因にもなっているから、オーバーでも毛布でもなんでもかぶって、暖かくして勝手にすればよろしい。ただ、オッサンは、総員、職場における全裸を許可、いや、許可などと甘ッちょろい、義務とすべきだ。

 フォーマルの場合はパンツ一丁にビーチサンダル、首にはネクタイを結ぶ。カジュアルはフリチンか、パンツ一丁だ。

 こうすることによって、体感温度は人によるとはいうものの最大5℃ほどは下がり、夏場の電力需要を著しく低下させることができるにちがいない。

 品とか見た目がどうとか、そんなのは気分の問題で、「全裸法制化」ののち、5年ほどもガマンすれば、なに、全員慣れるに決まっている。

 見た目を気にするキザな連中は「筋トレ」を始めるなどして、体脂肪が減少して健康になり、生活習慣病が激減して、健康保険問題が劇的に改善されるであろう。

 あと、夏場に湯など使うのは、罪深いことだ。男は全員、4月から11月まで風呂のかわりに「(みず)垢離(ごり)」をすべしと、エネルギー消費制限法というようなものでも作って強制すればよろしい。ぜいたくをやめさせろ。そうすると、原子力発電所の半基ぶんくらいは廃止できるのではあるまいか。ナニ、冷たい!?アンタらの言う、子孫のため、地球のためだ、ガマンせんかい。

 女性は、まあ、冷え性だから、湯でも何でも好きなだけつかえばよろしい。

機械と人間と男女

投稿日:

 妻に言わせると「機械ほど私のいうことを聞かぬものはない。人間はそんなことはない。」のだそうだが、私に言わせれば「人間ほど私のいうことを聞かぬものはない。機械はそんなことはない。」のである。

 実際、妻と来たら、毎日毎日意のごとくならぬHDDレコーダーやスマートフォンの操作に癇癪を起こしかけ、私はというと妻にとってのHDDレコーダーやスマートフォンを人間に置き換えればそのまま同じだ。

 これを「男女の差」と言えばなかなか世間受けする書き物になるのだろうが、多分そうではない。単に妻と私の性格の差だろう。


 これは平成25年(2013)08月14日(水)22時43分にFacebookのウォールに書いた文章です。

(あつもの)()りて(なます)を吹く如きイベント運営

投稿日:

 「ももいろクローバーZ」のコンサート運営は、よろしくない。これからは厳に注意を要する。

 「ももいろクローバーZ」のコンサートを見るため、妻と次女は、朝から嬉々として横浜へ出かけていった。

 だが、半べそかいた声で電話がかかってきた。

 窓口の係が、「子供さんが購入したチケットなので、本人の確認ができる書類がないと、入場できません」と言うらしい。

…ハァ!?なんだそりゃ。

 カネを払った、正真正銘のチケットだ。それを所持していることがなによりの本人証明ではないか。だが、窓口の係はかたくなで、どうしても入れてくれないという。

 事前にそんな注意喚起や説明があったわけでもない。どこかに書かれているのかもしれないが、おそらく例によって最も見づらいところへ最も読みにくい小さいポイントで書かれているだけだろう。

 妻の免許証では「お連れさんが本当にお子さんかどうかわからないので、ダメ」なのだそうな。

 「小6の子供の本人確認ができる書類」なぞと、入試か兵役検査でもあるまいに、たかが流行歌手のコンサートの入場に、そんなバカげた話など聞いたことがない。

 保険証が考えられるが、そんなものを常時持ち歩いているわけがない。

 妻は思案して、「コンビニのFAX受け取りで受け取るから、保険証をFAXで送ってくれない?」という。よしきた、と、少し調べると、「クロネコFAX」というサービスはローソンなどでやっていて、番号の授受により全国どこのコンビニでもFAXが受け取れる。保険証をこれで送信した。

 なんとか入場できたようだが、開演時間を大幅に遅れ、せっかくのコンサートが半分ほどになってしまったようだ。

 わが子のこととはいいながら、次女は6月からずっと楽しみにしていたので、不憫である。たとえ半分でも見られるならよしとせねばなるまいが、たかがアイドル歌手ごときのコンサート入場に、「小6の子供の本人証明書類を提出しろ」とは、いったいどこの役所だと言いたい。

 もともとこんな入念な確認は役所の専売特許だった。少しのことには拘泥せず、自由闊達に商売をして、どんどん経済を発展させることが民間企業の持ち味であったはずである。だが、いつごろからか、民間企業がこんなことをやり始めるようになった。

 悪意の者がいるからである。

 悪意の者を排除するために、私の次女如き、なんの含むところもない善良な子供が、正しくお金を払ったコンサートを半分見れない。

 バカバカしくて、話にもならぬ。不愉快である。

 これは、平成25年(2013)08月04日(日)16時58分にFacebookのウォールに書いた記事です。