流石は大会社の創業・経営一族の御曹司だよな

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 この人は総理大臣の時に言い間違いや読み間違いが多かったり、漫画などへの態度が鷹揚だったりして、アホだバカだと叩かれたが、こういう分かり易い喋りを見ていると、また、財務大臣を長くつとめていることなどを思い返すと、なんだか相応しい、政治家らしい政治家なのだな、と思えてくるのだ。

 そもそも大会社の創業・経営一族の御曹司であるからには、生来身についた経営のセンス、しかもケチ臭い中小企業のそれではない、巨視的な何かがあるものと思う。

理屈っぽいな

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 いや、そんな理屈っぽいワケなんてネェよ。単にそいつがデブなだけだ。

思い直した

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 私はカジノ法案には反対であった。なぜ今更、国が堕落と退廃の代名詞、賭博への道筋を開こうというのか、むしろ競馬などの公営賭博をじりじりと引き締めていくべきではないのか、と思っていた。

 だが、考え直した。法の運用にもよるが、カジノ法案は日本と日本人を健全化できるかもしれない。

 どういうことか。妄想アイデアだが、大規模な複合リゾートに、街のパチンコ屋に据え付けられているのと同じパチンコ台を据え付けるのだ。

 国で許可するものなので、街のパチンコ屋のように、景品に交換してその景品を自称別経営の買取屋にもっていくなどと言うまだるっこしいシステムなぞ不要だ。出玉をダイレクトに現金に交換できる魅力を備え、しかも公的・合法的な営業であるため、街のパチンコ屋よりも確率が甘く、多少儲かり易い、というふうにする。

 そうするとどうなるか。

 街のパチンコ屋は(すた)れる。

 街のパチンコ屋が善良な店ばかりなのなら文句はないが、実際は不健全で悪い店がほとんどだ。これらが朝鮮人の暗躍基盤となっていることは、もはや知らぬ人のない事実である。パチンコ屋にはそういう不健全さが根底にある。そのため、暴力団の容喙(ようかい)、借金、覚醒剤などの麻薬禍、駐車場に放置された乳幼児の死亡など、忌むべき事象の巣になってしまっているのだ。

 また、パチンコ屋の営業許認可に、得体の知れない警察権力が深く食い込んでいることも取り上げるべきことだ。

 パチンコ屋はもはや浄化することは不可能という段階にある。

 カジノ法案は、これらダニのように喰い付いて日本を蝕み続けている不逞朝鮮人のパチンコ経営基盤を壊滅させる可能性がある。ひいては、北朝鮮への送金源を遮断できるかもしれない。

 そう考えてきて見ると、いろいろと気づく。カジノ法案に反対しているのはどの政党か。ここに着目すると、その政党が何者かがよくわかるわけだ。

リベラル

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 リベラル、というのは本来自由で物にこだわらない、闊達な立場の事を言うはずだったが、この言葉の日本的な定義はもはやガタガタに変質してしまっている。

 いまやリベラルというのは、それを標榜する人々の高齢化に伴い、コチコチに我流と狂信に凝り固まり、裏から工作し、決して異論を受け付けぬ老朽性格、全体主義的性格、独裁礼賛者の定義になり果ててしまった。

 もはやリベラルの中には自由もなにもあったものではなく、ただただ、ひたすらに屈従するだけの奴隷的人生のみが残滓(ざんし)となって浮きつ沈みつしているに過ぎない。

獺祭(だっさい)

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 昔は、以前から自分が秘かに好きだったものに人気が出て、広く知られるようになったりすると、例えば小説なんかだったら「ああ、俺の北方謙三がああ!何もわからん一般人に汚されていくぅう!」などと残念に思ったものだった。

 最近はそういうことをあまり思わなくなり、「ヒットしてよかったなあ」などと思うようになった。

 以前から「おいしいなあ」と思っていた酒、「獺祭(だっさい)」が、いよいよ行き渡り、定番の酒の地位を獲得しつつあるのだそうな。

 なんかこう、嬉しい感じがする。

デデ・たま

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 長女が「お父さん、『デデデデ』の新しいの、読んだんだっけ?」と聞いてくる。

「おう、そういやアレ、出たんだったか?」

「そうそう、この前5巻出たよ、……お父さん4巻読んだっけ?」

「いや、えーっと、どうだったかな……」

「じゃ、……ほら、これ」

……と、4巻と5巻を両方とも出してきて並べてくれる。

 長女は、自分の好みの仲間を増やしたい気持ちもこれあり、私と一緒に面白がることができそうなものを推奨(リコメンド)してくるようになった。

 そうかと思うと、先日などはゴソゴソとロフトを漁っている。何しているのかな、と思ううち、私が昔購入して大事に仕舞っておいた「たま」のアルバム「さんだる」を引っ張り出してきて、「お父さん、これ、何、何?!」と聞いてきたりする。初盤限定オリジナルカード付きの逸品だ。

「おう、これ、お父さんが時々カーステレオでかけてる、『♪今日~人類がはじめてェ~……』って曲あるだろ、アレの入ったやつだ」

「あ、あれ、これだったんだ!?」

「お前が生まれる前、お父さんとお母さんが知り合うよりもまだ前で、お父さんは20代だったがな。『イカすバンド天国』っていう深夜番組があって、ロックバンドが勝ち抜き戦で競うんだけど、ある年の最強チャンピオンがこの『たま』だったんだよ。……割と最近、何年か前まで活動してたけど、解散しちゃったんだよな」

「へえ……これ、貰ってもいい?」

「……。お、おう。やる」

 長女は熱心に古いCDを聴いては「たまは天才だー!」「何か新しい~」などと言っている。我が娘ながら、なんだか変わっているとは思う。

 子供というものも好みや趣味はだんだんと変遷するもので、まあ、長女は今そういう時期なのだろう。

メディアとしての憲法

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 やろうと思えばまだできる、という時期に「もうしません、永久にやめました」とアピールするのと、やろうと思ってももうできない、という時期に同じことを言うのでは、相手の受け取り方は全く違う。

 前者なら、「よくぞ言った!偉いッ!」と受け取られたかも知れない。

 後者だと、「いや、永久にやめましたもヘッタクレも、そもそもお前んとこ、元からそんなこと出来ねぇだろうがよ。ナニわかり切ったこと言ってんだ。アホか」とバカにされるだけだ。

 私などは「何が憲法改正だ。改正などとは手ぬるい。最善は『破棄』である。それができないくらいなら、いっそ一切何も手を付けず、千年くらいこのままがよい」などと(うそぶ)いている。これを聞く人は「またこの変人佐藤が、キチガイみたいなこと言ってるぜ」と笑って流してくれるが、私は大真面目なのだ。

「何が『緊急事態の宣言』だ!ここは『戒厳令』と書かねばならぬ。条文もあんな臭い口語体ではダメだダメだダメだッ!『天皇ハ戒厳ヲ宣告ス 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム』にせんかァ!」

「おいおいおいおい佐藤さん、それは旧帝国憲法のパクりでしょうが」

「キミキミっ!今『旧帝国憲法』と言ったね!?『旧』とは何だ『旧』とは!まだ生きているものについて言うのに『旧』なんてつけなくていいんだッ!『大日本帝國憲法』、と言いなさい、この際、『国』という字は旧字体で『國』と書いたものを音読する気持ちで、さあ、言ってみよう、さん、ハイッ!!

「(……またはじまったよ、マジ面倒臭いオッサンだなあ) ハイハイ、わかりましたって(笑)」

……なぞという狂った会話を普段からしていれば、そりゃあ誰も相手になどしてくれないのは当然ではあるが……。

 だが、落ち着いて考えれば、癇癪を起して、喧騒(けんそう)、興奮、混乱、分断のうちに改定ないし破棄するというのも慌て過ぎだ。

 反面、喧騒や興奮などすれば、諸外国はそれに注目する。憲法に盛り込まれた文言は、内に向かっては、その縛ろうとするものが権力であろうとはた国民であろうと、外に対しては、日本が諸外国に向かって誓約する宣言としての機能が大きい。

 つまりは最高法規の姿をした強力な媒体(メディア)となることは疑いない。そう思う時、喧騒、興奮、混乱、分断もまたそれに期待される機能を自然に持つのだ、とも思う。