- Jetpackのパブリサイズ共有が全滅(1)(このブログ)
WordPressサイトのほうの設定の、「共有」で各SNSとの連携を解除してみたら、設定の画面は正常に遷移した。
さて、この投稿はうまくいくかどうか……?
しばらく様子を見てみたが、やっぱりダメみたいだ。
オッサンは生きている。
WordPressサイトのほうの設定の、「共有」で各SNSとの連携を解除してみたら、設定の画面は正常に遷移した。
さて、この投稿はうまくいくかどうか……?
しばらく様子を見てみたが、やっぱりダメみたいだ。
ネタの中に
「会社や事業所の公用パソコンを私用に使うことを認めれば、情報セキュリティが弱くなるように見えて、実は強くなる部分もあるのではなかろうか?」という、公私混同を奨励しかねない馬鹿々々しい着想を得たのだ。
以下、
「情報セキュリティは『C・I・A』だ」と
この「C・I・A」なる見事な
「JIS Q 27000」の標題を全部記すと、
JIS Q 27000『情報技術―セキュリティ技術―情報セキュリティマネジメントシステム―用語 Information technology – Security techniques – Information security management systems – Overview and vocabulary
……と、随分長ったらしい。
ともあれ、この標題にある通り、「JIS Q 27000」は情報セキュリティに関する国定規格だ。日本工業標準調査会(JISC)のサイトで検索すると閲覧できる。
参考までに、この「JIS Q 27000」は「ISO/IEC 27000」を翻訳し、
この文書を繰ると、その中の「2.33 情報セキュリティ」という項目に、情報セキュリティとは何か、という用語の定義としてこの「C・I・A」が記されている。
曰く、情報セキュリティとは、「情報の機密性,完全性及び可用性を維持すること」である、と。
この「C・I・A」についてはよく言われるし、情報セキュリティの勉強などしている者なら誰でも
ところで、この「C・I・A」には、実は忘れられがちな「付け足し」がある。前に揚げた用語の定義の後半に、次のように書かれているのだ。
「注記 さらに,『真正性』,『責任追跡性,否認防止』,『信頼性』などの特性を維持することを含めることもある。」
JISによる翻訳が成るよりも古い頃に、ISMSを直接翻訳する等して使用してきた企業や事業所などでは、この「真正性 Authenticity」「責任追跡性,否認防止 Non-repudiation」をそれぞれ「識別認証」「否認防止」という風に翻訳し、ルール化等している場合がある。
この「付け足し」、すなわち「注記」部分が実に味わい深い。この記事の着想の肝がこれである。
「C 機密性」「I 完全性」「A 可用性」という情報セキュリティの三つの主要素は、すべて目的指向である。ところが、場合によっては含めることとされている「注記」のいくつか、特に「真正性」「否認防止」は、目的を達成するためこれを支える「手段」を指向している。そうした手段指向の点でも、この付け足しは味わい深い。
「真正性」「否認防止」とは実際にどのようなことかを具体的かつ端的に言えとならば、例えば、利用者に固有のユーザIDとパスワードを必ず行使させる、ということなどがそれだ。つまり、
「X月X日XX時XX分XX.XXX秒に事務所の端末からログインし、許可されざるバイナリを外部メディアからコピーしたる
……という沙汰がはっきりと決定され、それを何某氏が
「いえ、私はそんなことはしていません、誰か知らない奴が私のIDを勝手に使ったんです、私じゃありません、そうでなければこれはシステムのバグ、そう、バグですよッ!!
などと言い逃れることが全く不可能な状態、つまり、
「ええい、その方のデジタル署名がなされたアクセスがログに残されておるッ!! しかも、その方のIDは、決して他人が行使することができない状態にあったことは、かくかくしかじか、これこれこうこうをもって技術上明らか!申し開きなど致すまいぞ、神妙にせい」
……という状態になっている、ということだ。
それがまた、情報セキュリティ上の不手際な使用を利用者にさせないための冷厳な抑止力にもなる。この抑止力は「C・I・A」を支える手段となる。
だが、「ユーザIDとパスワード」という、古くからある識別認証手段は、単純でコストが安いという大きな利点がある反面、それを適正に行使させるには、「ルールで利用者を縛り、ルールを守るという『人力』でシステム運用をするしかない」という欠点がある。社則や規則に「ユーザIDとパスワードは自分で管理し、特にパスワードは他人に漏らさないようにして、机の裏に付箋なんかで貼っておいちゃダメ」と書いておき、社員はそれを守る、という方式になってしまうのだ。この方式では、ルールを破る奴がいると、そこで識別認証の仕組み全体がまったくグダグダにダメ化してしまうということである。
多く見られることだが、ユーザIDやパスワードが「共用」になっていて、何人もの人が使いまわしていたり、個人IDになってはいても、それを貸し借りすることがある、などという場面もかつてはよくあった。今でも所によってはそんなシステム利用を漫然と続けている企業や事業所もあるだろう。私がかつて見た光景には、利用者は共用IDでログインするのだが、端末の前に記録簿があり、ログインの都度氏名と利用時間を記入捺印する、というのもあった。こんなの、記入をサボッてもバレないから、即、無意味である。まあ、その方式を採用した管理職が、
「いや私は、現状でできるだけの、精一杯の管理の仕組みを整えたんです。だから無罪です。記入をサボッた部下が悪いんですし、記入を徹底させられなかった中間管理職が悪いんです」
と、後で言い訳をすることができるという意味なら、あることはあるのだが。
もちろん、単純な「ユーザID・パスワード」でなしに、認証トークンとかカードとか、生体認証などを導入すれば、こういう「ダメ化」への相当な解決にはなる。しかし、こうした色々なデバイスは運用できる寿命が短かったり、値段が高かったり、適合するOSやハードウェアに制限があったり、導入は簡単ではない。
これら
合理的で安くつくのは「ユーザIDとパスワードの適正な行使を、利用者がどうしても自ら守らざるを得ない」という状況を作り出すことなのではなかろうか。「自分のパスワードなど、死んだって他人になんか教えるもんかい!」と、利用者自身が必死になる状況だ。
そのような状況とは、どういう状況か。
もし私が情報システム利用者で、自分のパスワードを上司にも同僚にも部下にも知られたくない、百歩譲って家族にも友人にも絶対知られたくない、自分以外の人間にユーザIDを行使されるなんて絶対嫌だ、……という理由があるとすれば、それは例えば
……などの、しょうもない理由だ。人によっては「浮気や性的嗜好などの、私行上の非行がバレるのが嫌だ」などという、オイオイオイおっさん大丈夫か系の秘密もあるだろう。女の人だったら、家族や恋人、あるいはスッピンとか
どれもこれも実にクダラネェが、しかし個人にとっては
しかし、上例は多分に冗談を含むものの、ある意味、人の世の真実ではないかと思う。スノーデンだのウィキリークスだののキーワードを散りばめるまでもなく、国や大企業の秘密が暴かれてざまぁ見ろと人々は溜飲を下げ、反面、プライバシーがネット流出すると青筋立てて損害賠償騒ぎになる、というのが現代の偽らざる世相であることを、誰でもが認めざるを得まい。昔とは違う。
これを単純に表現すると、
……なんである。
今はそんな世の中だ。いやまあ、これは人によるとは思うが。政治家や行政の
さておき、しかし、BYODで、「半分私物」のPCを仕事で使っていたら、そりゃもう、利用者はユーザIDやパスワードを全力で隠すと思う。恥ずかしいから。
そこで逆に、天下国家の秘密を隠すためには、「天下国家の秘密と俺の秘密」を
……という、そういう状況を作為してやればよいではないか。
簡単だ。会社や事業所のPCを私用に使わせましょう。私用メール、私用ネット閲覧、私用データ保存、バリバリ一緒くたに公私混同させちゃいましょう。
そうすると、もう、みんな必死で自分の情報と一緒くたになった会社の情報を守ってくれますよ。パスワードなんか、絶対に机の裏に付箋で貼り付けて置いたりしないでしょうよ、恥ずかしいですからね、浮気とかエロ写真とかスッピン顔とか2ちゃんに書き込んだ罵詈雑言とか盛ってない方のホントの乳のサイズとか色々とバレちゃいますからね、ええ、ええ。
……いやあ、こんなしょうもないこと書くのに、何も「JIS Q 27000」なんか持ち出す必要もなかったかなあ。途中から論がズコッ!っと音を立てて落っこちた気がする。うん。
世の中、まあ、色んな育ち方、生き方、嗜好、そういう多様性なんでしょうな、とは思うが、この場合はそんな小難しいことではなく、単純に世間をよく知らないだけだろう、と思う。
また、一般論だが、大阪では蕎麦湯はあまり使われない。昔からあることはあるが、頼まないと出なかったり、出さない店も多かった。理由は比較的単純で、大阪の麺
また、無料で振る舞うのではなく、別メニューとして誂える蕎麦湯を出すところもあると聞く。ごく薄い
実際のところ、関東でも、庶民的な値段の蕎麦チェーン店のカウンターに、ポットで置かれている蕎麦湯なんて、私は飲むけれども、「すごく旨い」とかいう
店にもよるが、場合によってはこの「ポットの蕎麦湯」を蕎麦
実際、「二八蕎麦」と言いながら、「八」は小麦粉のほうだったりする店もある。そういう色が黒いだけの細うどんに近いような蕎麦を出す店の茹で汁だと、溶け出しているものは小麦粉の澱粉やグルテン類の蛋白質ばかりであったりするから、旨いとか不味いとか、そういう話になるものではない。それをごまかすのに、蕎麦湯を出す際、蕎麦粉をちょいと足すような店もあるのだという。
これが、いい蕎麦屋になると、茹でている蕎麦が、たとえ「二八」でも「蕎麦粉が八」であり、また、
ところで、今日も図書館へ行った帰り、いつもの「室町砂場・赤坂店」へ行った。
永田町は変なデモ隊が繰り出して、寒々とした騒ぎになっており、人数は少ない癖にやたらと拡声器の音が大きく、耳の遠い私ですら鼓膜がつんざかれるようで、迷惑した。しかも、国会議事堂前を通って赤坂見附に出ようとしたら、整理に出ている警察官に「議事堂前はデモで混雑していまして……。遠回りで申し訳ないですが、行って途中で引き返すことになるというのもお気の毒ですので、迂回していただいたほうが結果的に速いと思いますが……。」と
迷惑であった。そのこと、別のエントリによく書いておきたい。
しかし、室町砂場の座敷に上がると、デモ隊の喧騒は嘘のように聞こえない。午後の蕎麦屋の座敷は閑静そのものだ。気持ちが良い。
凝ったものを頼むでもなく、いつものように焼海苔と通しもので一合。
しばらくすると、椅子席の方から、女客のおしゃべりが少し聞こえてきた。聞くともなしに聞いていると、この「はてな匿名ダイアリー」の一件が話題に上っている。なにか、このこと、テレビ番組でも話題になったそうな。
「ねえ、どうなのかしらね。飲まないものかしら?」
「普通のお店は出るわよね」
「でもほら、関西ではあんまり出さない、って」
……等々と、だいたい落ち着きどころの論に落ち着いているようだ。
私はと言うと、先日少しばかりSNS上でこの件に関する意見を開陳したりしていたので、それを思い出し、ふふふ、と、なにやら楽しく感じながら、今日は湯桶を1本半もお代わりした。
新越谷まで帰ってきて、駅ビルの「カルディ・コーヒーファーム」へ立ち寄る。去る11月17日は今年の「ボージョレ・ヌーボー」の解禁だったのを思い出したからだ。
店頭には「プレ・ペール・エ・フィス」という銘柄の「ボージョレ・ヴィラージュ・ヌーボー」が箱積みになって売られていたから、一本買う。袋の中に塩味の生
するどい味で、旨い。
自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足す。
これは素直には頷けんな。奨学金借りさせて貧困だなんだと煽り立て、社会人のプライドくすぐって入学させて、むしれるところから遠慮なく大金むしってる連中が「カネがねえ」って、使い方がおかしいんじゃねえのか。だったら高禄食みつつ学者ヅラして安穏と構えてないで、給料でも返上してもっとキリキリ働いたらどうか。
おお、コレか、悪のSNSは(笑)。誰だ社長は。なに、平石明?「子供に春を届ける」て、「子供に脅迫を届け」とるやないかい。(株)スプリックス?森塾?そんで、何?「担当者がヒートアップしてしまった」……って、社員の責任にして
へへ、オモロイから叩け叩け、わっはっは。
確かこの男も、天皇陛下注文事件とか「福島原発事故はラッキー」発言だとか、実はかつて結構な「暴言男」だったのだが、ずいぶん洒落のきいた大人になったモンだなあ。
おっそろしい、背筋が寒くなるような事件であった。
深刻に被害者の悲惨を思い、冥福を祈るとともに、一命をとりとめた方々の一日も早い回復を願う。
それにしても、思われるのはこの犯人のひどさである。報道によるともともと狂人であったという。SNSのアカウントが突き止められ、流布されている。
しかしいくらなんでも、FBのほうはさすがに利用できなくなっている。
ところが、Twitterのほうはまだ見られるようだ。
こういう狂人を外科的に安全化できないのか、などという意見も一部にあるようだが、それは問題が多すぎ、難しいだろう。
それは、40年程前、ある事件があって、重大な人権侵害の問題を
ライターの桜庭章司が強制的にロボトミー手術をされてしまったことから殺人事件に発展し、社会問題になったのだ。この事件はけっこう根が深く、当時の精神医学界の問題なども影響しているようである。また、少し検索すればわかる通り、この事件は最近になってからもまだ尾を引いており、どうにも解決のつかない因縁の深さを持っている。
この痛ましい事件もあって、こうしたことが問題とされるようになり、危険な狂人であっても強制的な手術などは行われなくなったのである。
しかし、今回のようなことがあると、
殺人鬼だけではない。狂人には強姦魔などもいる。強姦魔の人格・性癖を科学的かつ人道的に変更・改良し、被害者の補償に挺身させるようなことはできないものだろうか。
マウスの発明でよく知られる計算機科学者、ダグラス・エンゲルバート博士が何年か前に亡くなったことは記憶に新しい。
亡くなったのは3年ほど前だ。
この人は88歳で亡くなる直前まで、さまざまなコンピュータ・システムを研究し、コンピュータ雑誌のインタビューなどにもしっかりと答えていて、その斬新なテクノロジー・センスなど、とても老人とは思えなかったものだ。
昨日見た映画、「帰ってきたヒトラー」の中にもエンゲルバートの名前が少し出てくる。へえ、やっぱりフォン・ノイマンとかはユダヤ人だから出さないんだな、とは思ったものの、映画を見ている最中には何でエンゲルバート?と少し思った。
今、原作の上巻を読んでいて、あのくだりがよく分かった。原作の中では、エンゲルバートの祖父がドイツからアメリカへの移民であることが紹介されているのだ。初めてPCに触れた強烈民族主義者のヒトラーは、コンラッド・ツーゼやエンゲルバートの業績を大げさに激賞し、感動のあまり「かくのごとくゲルマン・アーリアンの子らは偉大なのだ!!」と鼓吹するのである。
Wikipediaの業績をほめちぎり、「これこそゲルマン民族のもたらした究極の発明だ」みたいなことを言うのだが、無論そんな事実はない。ここは原作者一流のギャグで、思わず吹き出してしまうところだ。
SNSの立役者が名前からしてユダヤ系のザッカーバーグだと聞いたら、総統閣下、泡を吹いてその場で死んでしまうだろう。
共産党の代議士、標記藤野
左翼主義者の肩など持ちたくないが、しかし、これは少し気の毒ではなかろうか。揚げ足取りというものだ。
私は、「防衛費は、究極、人を殺す予算だ。で?それで何が悪いの?」と思っている。人殺しと言われた程度のことで傷つくような自衛官は修行が足りない。防衛大や新隊員教育隊に入りなおして駆け足でもしてこい。
こんなのは、ものの言い方、気分の話だ。「何を言う、人を守る予算だ」というのは微細な話で、何によって人を守るのかと言うと、敵を殺すことで人を守るのだ。
以前、民主党(当時)の菅氏が「暴力装置」と言ってブッ叩かれたが、これも左翼が良く使う術語で、そんな目くじら立てるようなことではなかった。菅氏には天与のインテリジェンスが災いしたと言う所であった。
むしろ、こんなことで大慌てし、藤野何某ごときを叱りつけて責任を取らせる共産党の執行部には問題がないか?これはもう、すぐ眼先に控えた参議院選挙の一票に汲々としている哀れな姿と言うより他にない。
確かに、防衛省職員は自衛官だけでも22万を超える。これらには家族や親戚もおり、ひとり当たり5人ほども勘定すれば100万人近い一大票田である。これらの気分を損なって票を失うことが手痛いことだと言うのはわからぬでもない。
だがしかし、これしきで
与党もこんなことで大騒ぎしてると、「揚げ足取りの応酬」を呼んじまう。ウカウカしてると誰かの失言を針小棒大に取り上げられちまうぜ。気をつけなよ。
日米同盟の妙味。「ツー」と言えば「カー」というような絶妙な掛け合いですなあ。日本から中国にこんなこと言ったり、あるいは日本から米国に「そういうふうに中国に伝えてくれ」とは、それこそ口が裂けても言えない。平和主義が国是だ。そんな恫喝はわが政府にできるはずもないのである。
ところが、バイデン氏にはまるでテレパシーで伝わったかのようである。よくぞ言ひたり、ってなものだ。大統領その人に言わせるわけにもいかないし、まさに「言うのに適任」の人である。
なんというか、
あと、念のために書いとくと、これ、昔からよく米国が使ってた言い方なんですよね。特に核抑止ドクトリン全盛時代には。
韓国も熱い国で、しかも文明国なので、若者言葉が面白いようだ。「就職やくざ」とか、笑ってしまった。
韓国頑張れ。……以前と違って、私は実はあまり韓国が嫌いではなくなった。同源の友邦であるという気がしている。安全保障上、常備70万、動員で150万になんなんとする兵力は無視できない。……まあ、腹の立つ厄介親戚だが。
この件、なかなか味わい深い。
送信確認が印字出力の有無だけでなされていたのか?まさかそんなこともあるまい。多分、「それも使うようになっていた」のだろうけれども。
ささやかながら不肖・私こと佐藤、経済産業大臣認定「ITストラテジスト」以外に、「テクニカルエンジニア(システム管理)」の資格を持っている。(この資格、今は名称が変わり、「ITサービスマネージャ」と言う。)
その立場からの感想だが、この一件は単純なようで、その実、システム設計から運用管理に至るさまざまなところに考察要素がある。1万円の処理ではなく、1億円の処理ともなると無視はできまい。取り急ぎ短期の対策と長期の対策の二本立ては必要だろう。この役所ではとりあえず複数職員が立ち会うことにしたようだが、これは短期対策だ。
システムの運用管理には、この件に関係しそうなところを思いつくまま挙げれば、他にも「構成管理」「資産管理」「性能管理」「稼働管理」「変更管理」「問題管理」「障害管理」「マニュアル管理」「施設・設備管理」など、さまざまな分野がある。この一つ一つがまた、いろいろな手段からなる大分野なのである。石巻市のこの件は、こうした分野分野のどれにも、打つべき手が見出せるだろう。
はははっ、笑っちまった。そりゃそうだよなあ。親とか上司とか先生にず~っと見られてるような感じになるもの。
……と自分のFB友達をあらためて見てみると、私のFB友達は爺ぃと美熟女のオンパレードで、一番若い人でも30代後半だわ。大人やねぇ~。そんなに友達の人数いないんですけどね。
職場関係はそんなにフレンドにしてないんだけど、キッカリ線引きしてるわけではなく、例外も何人かいる。
いやぁ~、仰せ
思いもかけない有名技術者の社長にいじめられる、そのRuby On Railsのお兄ちゃんたちが哀れになって、逆に痛々しくて同情で涙が出てきた(笑)。
祈冥福。
10代の頃、「第三の波」と、もう一つ、ガルブレイスの「不確実性の時代」読んどけ、なんて上司や先生が言ったもので、あんな
「第三の波」が文庫で600ページ近く、「不確実性の時代」が同じく500ページ超。なかなか、そんな、ねぇ。
恐ろしい。引き続き要注目である。
ゲームのポーズ機能をサッと使い、少しの間中断して電車に乗り込み、落ち着いて再開すればいいようなものだが、大抵の人はここ一番、今一点取ればハイスコア!みたいな勝負がエンドレスで続いているのだろう、「ああ、電車!?わかってるよンナこたァけどもう0.1秒でこのステージクリアちょっとぐらい後ろで待っとけやそこのオッサンらええええええいゲームオーバー!ど畜生!!ぐああああ!腹立つな!」くらいのものである。
これが、本や新聞を読んでいる人だと、ゲームに比べて中断に躊躇がなく、さっさと歩き出すことがほとんどだから、そんなに邪魔ではない。
電車でのゲームを禁止しろ!!まったく最近の若い奴ァ!!……などと激昂しようというのではない。ドアの前で少しゲームを仕舞うくらいのことができねえのかよ小学生じゃあるまいし、邪魔な野郎(あるいは
若い人たちがどうしてもゲームで遊びたくなり、夢中になってしまうのは、反面これも人情というものだ。ゲーム会社も商売だから、それくらい人々が熱中するようなものを作ってナンボなのである。くだらん子供の遊びとはいえ、ゲーム業界はソフトウェア産業の重要な一分野でもあり、技術者ファームの様相をすら帯びているのであって、この業界の育成を
そこで、である。
軍事上、戦闘機などで一般化している「
バカでかいヘッドアップディスプレイつきヘルメットなぞをかぶるのはいくらなんでもファッショナブルではなく、通勤客には流行しないだろうから、何か、Google glassに類するような、安価で高解像度のヘッドアップ・ディスプレイがあれば、うつむいてゲームに熱中しているがために周囲の人に迷惑をかけるような者も減るのではなかろうか。まっすぐ正面を向いて、外界をきちんと視野に入れつつ、何面でも気にせずクリアしていくらでもボーナスポイントを貰い、かつ、さっさと電車に乗ればよろしい。
また、これにあわせて、ヘッドアップで利用できるような、何らかの巧妙な文字入力デバイスを考案すれば、頭を上げてメールを書くこともできるようになる。うつむき姿勢と凝視による眼精疲労を抑え、女性の悩みの頭痛や肩こりを緩和し、血行の改善により美容に効能を発揮するとともに、総合的なストレスの低減をもたらすことで精神疾患が減り、国民全般の健康増進に寄与するだろう。
これはまた、ゲームやメール、SNSへの熱中に起因する駅のホームからの転落を防止できるから、安全上きわめて有利であって、人命保護の観点からも効果大なるものがあるはずだ。また、ぶつかったの肩が触れたのといった利用客の間の無用のトラブルを防止することにもつながるだろう。
国民全般に
FBウォールにて、今日運動会と言う小中学校が多いことを知る等。
災害時に大切なことは、作業着を着こみ、額に汗をして働き、困っている人を助けるということである。
屁理屈や不平、非難、誹謗、批判などは全く必要でない。もっと言うなら、駆け引きも人気取りもいらいないし、スーパースターのようなものは出る幕ではない。
しかるに、そうした悪しき色彩のなんと濃く見えることか。
災害は決して政治的な表現の場などではない。また、SNSやツイッターで政治的な発言をして楽しむお祭りなどでは、断じてない。
自分が考えたことを発言するならまだしも、「政治的な発言をリツイートしたりシェアしたりするだけ」というような行動に首肯することは、私はできない。
例えばある人がSNSにログオンしたとする。その画面がこうした政治的鬱屈に塗りつぶされて見えるのは、そういう性向の人ばかりフォローしていたりFBフレンドであったりするからだと思う。類は友を呼び、さながら陰々滅々のシナジーとなって黒いわだかまりが増殖していくのであろうことは容易に想像しうる。
常々思うのだが、人間、偉くなってくるとだんだんと手段というものを軽んずるようになる。両手を使って薄汚れて働くよりも、情報だ企画だ管理だと言いたがるようになる。大工より建築士が偉いとするようなもの、基本情報技術者よりITストラテジストが偉いとするようなものである。
極端な話、実際上もそうなのだが、建築士だけがいても家は建たない。だが、大工だけがいる場合、家は建つ。
指揮者ばかり5人も6人も集めると、「音楽論」はできるかも知れないが、音楽を奏でることはできない。しかし、バイオリニスト一人いれば、指揮者がいなくても美しい音楽を奏でることができる。指揮者の目的は人が聴く音楽にあるのだが、指揮者だけでは音が出ないのである。
ヘッドクォーター不要論を唱えようというのではない。指揮者や企画家、経営者でも政治家でもなんでもいいが、そういう者は、自分の活動が何によって支えられているかと言うことを忘れてはならぬということが言いたいのだ。
トルストイは「イワンのばか」で、「頭を使って働くことが大切だ」と主張する悪魔を頭を下にして塔から転落させて見せた。無知蒙昧な農民たちは、ゴツンゴツンと頭を打ってひどい目にあう悪魔をさして、「ああ、頭を使って働くって、こんなひどい働き方なんだ、俺はごめんだね」というのである。愛あるトルストイは、頭を使って働くことこそ至上であるとするような考え方の愚かさを、文学上こうやってこき下ろして見せた。
こう筆に従っていくと、さながら共産主義者めいてくる。どっこい、私は共産主義者ではない。トルストイの貧者へ注ぐまなざしのやさしさは、しかし、彼が実は貴族の息子であるということもあずかって大きく影響している。だからあそこまでコテンパンに悪魔を痛めつけてみせることが、自虐として許されたのだ。
ともあれ、災害をネット祭りみたいな変なもののタネに使うのはよした方がいい。文字列には力があるが、文字列だけでは頭を使って働けと言ったトルストイの悪魔と同じだ。トルストイが悪魔に仮託した自虐によって表現したように、偉い人、企画家、管理者、政治家、経営者、そういう者にしてはじめて許される自虐によってこそ、手段のない、働きのない無為の知性が防がれる。