秋明菊(しゅうめいぎく)

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 蕎麦屋の帰り、葛西用水のほとりを歩いていたら、一叢(ひとむら)の花に行き当たった。

 なんという花か知らず、ともかく写真に撮り、持ち帰って調べたら「秋明菊(しゅうめいぎく)」という花だということがわかった。

 心ある人が植えているのだな、と思った。

玉簾(たますだれ)の花

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 千葉県での大停電など、記録的な被害を残した台風15号が過ぎた。一過後も暑熱が続いたが、2、3日を経てみると(そぞ)ろに寒さを覚えるほど涼しくなった。

 今の時季になると、折節路傍で見かける花があり、見かけるたび気になっている。

 その花の名を知らない。そこで写真を撮ってネットで調べてみた。

 この花は「玉簾(たますだれ)」というそうである。

 私の所有する歳時記には載っていない。未確認ではあるが、大きな歳時記には載っているようで、ネットで検索すると出てくる。

 どうやら夏の季語で、今は仲秋だから、当季ではない。

 英語で「レイン・リリー」と言い、直訳すると「雨百合(アメユリ)」となるが、これは文字通りひと雨ごとによく咲くからだそうである。「雨百合」とはいかにも切々たる情緒があって季語らしく感じられるが、残念ながら歳時記などにはこの名前では載っていないようだ。

 球根の花で、多少毒があり、放任でもよく育ち、咲くという。

 ……と、そこまで書いて、私も馬鹿である、去年の今頃、同じような記事をこのブログに書いているのであった。

 こうして調べ、記事まで書いたのすらもう既に忘れてしまっている。しかも、何年も前のことではない、たかだか去年のことである。

一杯

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 今年の台風は随分早い。

 だが、その早い台風、3号「セーパット」はそれほど大した威もふるわず、昨日の朝、太平洋岸の当たり障りのないコースを慎みやかに過ぎていった。今日はもう温帯低気圧に変わってしまっているが、それが北からの冷気を巻き込むのか、小雨(こさめ)模様で鬱陶(うっとう)しくはあるものの、涼しい土曜となった。

 植栽に心を込めている近所の家々の紫陽花(あじさい)額紫陽花(がくあじさい)が雨に濡れて美しい。

 ところどころ、蔓性の、(だいだい)色の鮮やかな、喇叭(ラッパ)形の大らかな花の咲く庭も見かける。この花は何というのだろうと検索してみると、これは「凌霄花(のうぜんかずら)」というのだそうである。

 最寄駅新越谷の南東、イオン(旧ダイエー)の北側に駐輪場があり、その車道沿いに赤い実の()る街路樹が植えられている。

 毎年変わらず実をつけているのだろうけれども、今まで気にしたことがなかった。居住20年になんなんとする今になって、ああ、赤い実が生るのだな、しかも大量に、今の時期に実をつけるのだ、と気づいたのだ。「この木は私の気にしない間、何十年とここで毎年赤い実をつけてきたんだな」と思った。

 少し調べると、山桃の木であることがわかった。食せば美味らしい。山桃は「山桜桃(ゆすら)」とも称するが、「山桜桃梅(ゆすらうめ)」とは別物のようである。

 さておき、今日は自家用車の6箇月点検で、午後遅く運転しなければならなかったので、このところの休日ごとの楽しみ「蕎麦屋のパトロール」はなし。

 自動車は特に悪いところもなく、エンジン油を換えた程度。

今日の酒肴・竹輪と茗荷と紫蘇の酒肴 運転の用事が済んでから、肴をこしらえて一杯。

 竹輪(ちくわ)茗荷(みょうが)紫蘇(しそ)を細く切り、塩を一(つま)み、檸檬(レモン)汁を適量、いつもの冷や酒を三合()む。

 今日はなんだか気分が乗らないので、動画はなし。

梔子(くちなし)

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 梅雨の晴れ間である。 天気予報によれば明日は大雨だと言うが、今朝は爽やかに晴れている。

 新越谷駅の(そば)にあるりそな銀行の前の歩道脇に、梔子(くちなし)の花が咲いている。

 植物に(くら)い私は、 毎年今の時期に咲くこの花の名前を長いこと知らずにいた。一度は調べたような覚えもあるのだが、わかったかわからなかったかも覚えておらず、忘れてしまった。

雨の降る翌日に撮影したその梔子

 今朝、ほのかに良い匂いの漂うこの花が気になり、通勤電車に乗ってから「六弁花」で検索してみた。すぐに写真が出てきて、梔子だとわかった。インターネット時代はなんと便利なことだろう。

 それにしても、この私ときたら。訳知りぶって俳句など()み、「俳句は季語を使って詠むものです」などと言っていながらこの(てい)たらくで、季節の花の名前をあまり知らない。いや、名前は知っていても、実物を知らないことが多い。それは多分、私が文字ばかり読んでいることとも関係しているのだろう。

 本から顔を上げ、外に出て花を見、ものを見、人と話さねばなるまい。しかし、良きにつけ悪しきにつけ、多くの読書が今の私を形成していることもこれは事実なのであるから、こちらも脱却したいわけではない。

(おぼろ)月の下

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 夕刻。十四夜の大きな(おぼろ)月が上がった。旧暦三月、晩春の夕霞(ゆうがすみ)の向こう、相応にあたたかな月が上がるのかと思いきや、ぼんやりした輪郭であるのにもかかわらず、意外にや、月は青く冷えた色をしている。

 退勤帰路、都会の喧騒。意外にスッとする月の青光に照らされて、花の散った桜の木々が緑ゆたかに葉を張り始めている。反対側の舗道には企業や官庁が立ち並び、その植栽の躑躅(つつじ)が赤白あざやかに咲き始めている。

 1時間半程の通勤電車の手慰みは読書だ。先月からウィル・デューラントの「哲学物語」を読んでいる。ようやく半分ほど読んだ。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、時代は飛んでベーコン、スピノザ、ヴォルテール、カント、ヘーゲル。今夕、やっとショーペンハウエルまで来た。

 50年以上、60年近く前の古書だ。赤い布表紙のそれを手に持ったまま電車を降りる。はや春月は中天にある。周囲の匂いも色も明度も、ベッドタウンらしいものとなってゆく。

 春燈ゆらめく住宅密集地の温気(うんき)の中、住み慣れた家に帰る。百花繚乱と書いてみて、文字通りの惜春である。

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 舗装道路の脇にひと(むら)の花が咲いている。水仙の種類かな、と思ったがさにあらず、これは玉簾(タマスダレ)という花で、毒があるそうだ。雨後にまとまって咲くそうで、さればこそ、今年の秋には似つかわしい。

 雨の多い秋だ。一雨ごとに涼しくなる。肉体は正直で、食欲を減退させる暑熱が去った途端、空腹を覚えるようになった。

 とはいえ、春に痩せ、夏に痩せ、秋に痩せして冬に痩せる、という(たち)の私は、まあ、食欲の秋でも(ふと)ることはない。(うま)年生まれではあるが、天高く馬肥ゆる秋、とはならぬ。これは簡単な理屈で、20代から40代、特に30代~40代を筋トレばかりして過ごしたからである。最近運動しないが、基礎代謝はなかなか落ちず、脂肪がつかない。

 コーヒーをよく飲むことも多分関係しているだろう。勿論無糖だ。コーヒーは脂肪を脂肪酸にし、中性脂肪を分解するという。

 ウィスキーを好むこともあるかも知れない。ウィスキーは糖が少なく、加えて酔うのが早い。早く酔うと体温が上がってむしろ痩せてしまう。

花筏(はないかだ)

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花筏(はないかだ)避けて水棹(みざお)の不慣れかな   佐藤俊夫

#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha

(平成25年に詠んだ俳句。……最初は「避ける」で読みました。)

近所の花皐月(はなさつき)

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 私の住む新越谷駅(そば)、市民会館のある「サンシティ」の植栽の花皐月(はなさつき)が満開だ。

 もうすぐ梅雨だな。

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 花の季節が終わったなあと思う。紫陽花(あじさい)はまだ咲き残っており、美しい株もあるが、もう長くない。

 梅雨が明ければ百日紅(さるすべり)がそこここの庭に咲きはじめる。

わがことをまたぼんやりと木の芽和へ

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 職場の建物の周りの植栽に、早春から今時分にかけて黄色い小さな花を咲かせる木本性のものがあり、なんという花か判らずにうちすぎていた。

 昨日、意を決して写真を撮り、図鑑などを繰ってみた。

 その結果、どうやら、「支那連翹(シナレンギョウ)」という花らしいとわかった。

 リアル、ネットを問わず、私を知る人は、私が日頃俳句をよく詠むものだから、私のことを季節や花に詳しい人だと思っているふしがある。だが、実際の私は逆で、植物や鳥に(くら)い。俳句も、天象や人事(行事や生活のこと)、時候、地理などはよく詠むが、植物は苦手で、あまり詠めない。せいぜい、春に桜や梅を詠むくらいだ。だから、この「支那連翹」も、私にはわかるはずもないのであった。

 私が育ったのは、大都会とまでは言えないものの、ある程度の街なかだ。つまり、そんなには自然に親しむ暮らしでもなかったのである。

 先日も、目白と鶯を間違え、「街路樹の梢に鶯を見た」などと言って憫笑をかった。鶯のような臆病な鳥が街路樹を飛び回るはずはない。少し自然の暮らしが身についている人なら知っているようなこんなことが、私にはわからなかったのである。

 昨日、帰宅すると、山椒のいい香りがする。キッチンのカウンターにゴマメを煎り付けた御菜の鉢があって、そこからの香りだ。これはどうしたの、と妻に聞くと、姑から「木の芽」が届いたのだと言う。見ると青い木の芽と一緒にからりと煎り付けてある。一つつまんで見ると、口じゅうに春の香りが広がった。

 姑は私の家から歩いて30分ほど離れたところに住んでいる。姑の住まいの庭に、去年なぜか山椒が小さな芽を出した。住宅密集地の小さな庭に、どうして山椒が生えたのかはまったく不明だ。ともかく、その山椒が一年たって少し育ったらしく、芽を採って分けてくれたのだ。

 この採りたての「木の芽」を煎り付けて御菜にしたのだから、美味くないはずがない。

 年寄りと言うのは、そういうところが素晴らしい。私なら、それが山椒とはわからず、雑草と一緒に引き抜いてしまったことだろう。姑は小さな芽であるにもかかわらず、香りと葉の形で「あら、こんなところに山椒が」と、むやみに引き抜くことなく、その芽を取り分けたのである。

 私は日常、日本人ぶったり、愛国者ぶっている。そのくせ、茶道も華道も知らないし、和服も着たことがない。と言って、今更あわててそれらの知識を渉猟したところで付けやいばに過ぎないから、すぐに馬脚が出てしまうだろう。

 日頃「ぶって…」いても、実は私は日本の四季と自然が身についていない、似非日本人なのかも知れない。

 だが、私のような人は、実は、多いのではなかろうか。

 私の姑のような、街中に暮らしてはいても、小さな山椒の芽に目をとめることのできる、四季と自然が気張らずに身についている、そういう人からよくものを学ばねばならない。年寄りは、失礼だがうかうかすると寿命が来てしまう。そうなる前に、なんとかその精神を引き継ぐことはできないものか。

 そうしていくうちに、身の回りの草花も、たとえば「支那連翹」と、覚えることができるのではあるまいか。