正月も三が日が明け、4日となった。
料理、とりわけ鍋物、饂飩、蕎麦などに使う薬味に、七味唐辛子は欠かせないが、切らせてしまった。
七味唐辛子は「浅草・やげん堀」に限る。
一日、浅草へ買い物に行き、七味唐辛子を買うついで、「並木・藪」と「神谷バー」で一杯やって帰ってきた。
楽しかったので動画を編集し、YouTubeにアップロードした。
オッサンは生きている。
正月も三が日が明け、4日となった。
料理、とりわけ鍋物、饂飩、蕎麦などに使う薬味に、七味唐辛子は欠かせないが、切らせてしまった。
七味唐辛子は「浅草・やげん堀」に限る。
一日、浅草へ買い物に行き、七味唐辛子を買うついで、「並木・藪」と「神谷バー」で一杯やって帰ってきた。
楽しかったので動画を編集し、YouTubeにアップロードした。
用もないのになんとなく秋葉原へ行き、磯丸水産へ入って刺身で一杯飲んだ。
出てきてガード下を通ったらすし屋銀蔵が開いていたので、これも何となく入って寿司を食った。浅利汁に茶わん蒸しがついて980円は安い。ここでも菊正宗を1合飲んだ。
秋葉原からは神田駅が見えるが、なんとなくそこまで行き、せっかく来たのだからと室町砂場へ入った。
突き出しの
それから、「もり」を1枚
疲れていたのか、3合程飲んだだけなのに酔っぱらってフラフラになった。
帰ろうと思って山手線へ乗ったら寝込んでしまった。そのまま2周か3周、ぐるぐる回ってしまったのだったか。
目を覚まし、秋葉原で日比谷線に乗り換え、そのまま何もせず帰宅。
最近はあまり飲み喰いをしない私としては、大食してしまったな、と思う。
承前、図書館で蕎麦の本など読んでいたら、
近所の蕎麦でもいいが、せっかく駅前にいる。私の住む越谷から上野までは電車で一本、30分ほどである。上野の藪蕎麦にでも行って見よう。
菊正宗を焼海苔で一合飲んで、それからのんびりと「せいろ」を手繰る。
ふと思いついて、名店・池之端藪蕎麦の跡地はどうなったかなと思い、行って見た。
すっかり更地になってしまっている。
旧正月も節分も過ぎた。まだまだ寒さ厳しい折柄とは言え、暦の上では新春、しかも今日は既に立春である。近所の日当りのいいお宅の庭では、そろそろふくらみはじめている梅の蕾もある。
時節、であろうか。
なにやら物の気配に誘われるような、そぞろ落ち着かぬ気持ちもしていたところ、日本ITストラテジスト協会で知り合いになったHさんからお声がかかる。ひとつ今度の休日を共に散歩でもして楽しもうではないか、とのお誘いである。Hさんは同郷の先輩でもある。
興が乗り、二人して数週間前から何をしようかと相談した。
Hさんは「池波正太郎的な世界観の散歩をしようよ」とおっしゃる。なるほど、よしきた、合点というものだ。私も池波作品については鬼平犯科帳から仕掛人梅安から剣客商売から、多少ほどは読んでおりますからね、ええ、ええ。
Hさんが「これは外せない」とする要素は、「池波正太郎」「舟」「蕎麦」「風呂」だという。
はて、「池波正太郎」「蕎麦」はよしとして、「舟」「風呂」はどうしたものかな、と考えあぐんでいると、Hさんが「今回はひとつ、噂に聞く『矢切の渡し』に乗ってみようよ」と言った。
なるほど、江戸のむかしから矢切の渡しというものは伝えられているが……。しかし、今でもあるのだろうか。……と、そんな風に不審を覚えるのは取り過ごしで、これが実は、まだあるのだ。江戸時代から伝えられたそのままの姿で、今も
Hさんと
それで、今日、2月4日の土曜日に散歩しようと言う事になった。
今日の散歩のスタートは「矢切の渡し」である。矢切の渡しというと、時代劇や細川たかしの演歌でも知られるが、知る人ぞ知るのは名作文学「野菊の墓」の舞台であることだ。
私は「野菊の墓」の題名は知っているが、実は恥ずかしながら読んだことがなかった。映画では、最も近いところで若い頃の松田聖子が主演したり、それ以前にも何作か別の女優で制作されていたことも知ってはいるが、これがまた、どれも見ていないのである。テレビドラマでは山口百恵主演のものをはじめ、他にも何作かあったように思うが、やはりどれも見ていない。
原作を読まなくっちゃいけないでしょう、こうなれば。
で、作者の伊藤佐千夫は没後長く経つので、既に著作権は切れており、青空文庫で読むことができる。無料だ。
青空文庫はKindleでも読める。そこで、Kindleで0円購入してこれを読みつつ、家を出発する。短編だから、2時間ほどもあれば読み終わるだろうとばかり、Hさんと落ち合う約束の10時に先立ち、8時に家を出、読みながら電車に乗る。
後 の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訣 とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余 も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持だけは今なお昨日の如く、その時の事を考えてると、全く当時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないではないが、寧 ろ繰返し繰返し考えては、夢幻的の興味を貪 って居る事が多い。そんな訣から一寸 物に書いて置こうかという気になったのである。僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、
矢切 の渡 を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈 での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎 の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森 で村じゅうから羨 ましがられて居る。昔から何ほど暴風 が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥 がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤 やら垢 やらで何の木か見別けがつかぬ位、奥の間の最も煙に遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目 も判らぬほど黒い。それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり銅の釘隠 なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁 であった。勿論 一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。僕の母なども先祖の言い伝えだからといって、この戦国時代の遺物的古家を、大へんに自慢されていた。その頃母は血の道で久しく
煩 って居られ、黒塗的な奥の一間がいつも母の病褥 となって居た。その次の十畳の間の南隅 に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場 で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓 の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮 って北を掩 うている。母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の
従妹 になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが
晩 いから、十五と少しにしかならない。痩 せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味 をおんだ、誠に光沢 の好い児であった。いつでも活々 として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
さすが、夏目漱石をして「何百編よんでもよろしい」と激賞されたというだけのことがある美しい文章である。少年と少女の清純な恋情を美しく、精密に、それでいて簡潔に描き出したすばらしい小説であり、泣ける。
さて、矢切の渡しの最寄り駅は北総線の「矢切」駅で、渡し場は駅から歩いて3~40分というところだ。
駅前でHさんを待つ間、野菊の墓を読み耽る。9割ほど読み終わり、物語の山場で感極まって涙目になっているところへ、丁度待ち合わせ時間の10時きっかり、Hさんが到着する。
挨拶もそこそこに「HさんHさん、渡し場に行く途中に『野菊の墓』の文学碑がありますから、是非寄って行きましょう」と誘い、Hさんも文学碑が気になっていたとのことで、さっそく出発する。
江戸川を西に見下ろす高台に文学碑があり、先に挙げた「野菊の墓」の冒頭の一節、「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、
この石碑の建つ場所は眺めが非常によく、遠く富士が望め、小説の中に登場する通り、上野・浅草のあたりまでが霞んで見える。今は東京スカイツリーが屹立しており、浅草・業平橋の方向はすぐにそれとわかる。
「野菊の墓文学碑」の丘を西に下り、地元の名物「矢切
「矢切の渡し」は高い旗が目印になっていて、すぐにそれとわかる。
江戸時代、川に橋を架けることや、勝手に渡しを営むことは主として軍事上の理由から幕府によって厳格に禁じられ、これを破る者は「関所破り」として厳罰に処せられた。しかし、川のそばで生活を営む農民たちが、営農のために小舟で細々と往来するようなものまで禁じられていたわけではなく、何か所かは渡し場が許されていた。これを「農民渡船」という。さもあろう、幕府の収入はすべて農業から得られており、ならばこそ農民を武士に次ぐ地位と位置づけていたのだ。営農を妨げることは自らの収入を制約することにもつながるのであるから、このようなものが許されていたのであろう。
明治維新後、架橋がなされたり鉄道が開通したりする中、渡し舟は不要となって
矢切側の乗り合い口には簡素な甘味品の露店があり、飲み物や焼き芋など売っている。
舟の運航はおおらかで、何分おきというようなものではなく、客がほどほどに乗れば随時出してくれる方式だ。手漕ぎの
船頭さんは若く見える人だったが、静かな口調で、多少の観光案内などもしてくれつつ、のんびりと
立春らしい陽気の下、まことにゆるゆると舟は対岸に漕ぎ進められていく。
柴又見物をする。
そりゃもう、「寅さん」「帝釈天」「門前で買い食い」、これでしょう。
帝釈天では燈明を上げ、唱えごとなどもモゴモゴと口ごもっておく。
通称「柴又帝釈天」は日蓮宗の寺で、本当の山号寺名は
「とらや」で団子を立ち食いし、「高木屋」でおでんにビールなんかをとる。
この「とらや」は、元は「柴又屋」という名前だったが、「フーテンの寅さん」の最初の方でロケ地に使われたので、それにあやかろうとてか、「とらや」という屋号に改名したのだそうな。そのせいか、映画の中では、寅さんの家の団子屋ははじめは「とらや」という名前だったのに、途中から「くるまや」に変わったという。屋号をめぐっての争いを避けるためだったのか、どうだか。
そして、現在の「とらや」でロケをしなくなってからは、その向かいにある「高木屋」をモデルにした撮影所のセットを使って映画が撮られたそうだ。そのため、二つの店がどちらも「フーテンの寅さんの団子屋はこちら」と言っているようだ。
柴又門前を抜け、京成柴又駅まで歩いて寅さんの銅像など写真に撮る。京成に乗って次に行こうかという時、Hさんが「ここはひとつ、『こち亀』を探訪しようよ。亀有公園へ行って見よう」と言う。
なるほど、これは面白そうである。
柴又から亀有公園までは3キロほどある。40分か50分程度、変哲もない街道沿いを西へ西へ進み、中川を渡って環七通りまで歩けば着く。常磐線葛飾駅の近くである。
亀有公園は取り立てて特別なこともない公園で、子供たちが元気いっぱいに走り回っている。ああ、日本にはまだまだ子供がいてよかった、などとも思う。
しかし、入ってみると、やはりゆかりということで、「両さん」の銅像なんかがベンチにドッカと座っている。
走り回る子供たちに入り混じり、「ひとつ『リア充写真』でも撮っておこうか」とでもいう風情の観光客が、てんでに撮影したりスマホを操作していたりするのも、いとをかし、である。……私たちもその例に漏れないが(笑)。
私も一応「お
漫画の舞台は「公園前派出所」だが、実際には公園前に派出所はない。その代わり、駅の南北両方に派出所がある。さして大きい駅でもないのに、2か所派出所があるというのは珍しい。
駅の南側には両さん一同の等身大フィギュアなどがあって、観光客が嬉々と写真など撮っている。
さて、柴又~亀有の散歩から、電車に乗って河岸を変える。常磐線亀有から電車に乗って西日暮里まで行き、山手線に乗り換え、秋葉原で降りる。秋葉原の喧騒を通り抜けて、神田
神田連雀町、とは言うが、連雀町という地名を地図で探しても見つからない。今は「須田町」「淡路町」と言う一画が、昔は連雀町と呼ばれていたのだ。背負子の肩掛けの「連尺」を作る職人がこの一画に住み着いていたところから、字を変えて「連雀町」と呼ぶようになったという。
「かんだやぶそば」は惜しくも数年前の火災で建て替わり、昔の古い建物ではなくなってしまったが、それでも、戦災で焼けなかった古い建物や店が連雀町にはまだいくつか残り、今も営業中であることは池波ファンならずとも知るところだ。これらの店を池波正太郎はこよなく愛した。
花野さんを「かんだやぶそば」をはじめ、「いせ源」「竹むら」「ぼたん」などの文化財建屋に案内する。
それから靖国通りへ回り、池波正太郎が愛したとっておきの蕎麦
まつやの通しものは固練りの蕎麦味噌だ。器の縁に塗って出してくれる。まずはそれを舐めつつ、焼き海苔に板わさでぬる燗を一合。
盃一杯ほど酒の残っている頃おい、「もり」を頼む。
いつもはあまり大きなものは頼まない私なのだが、少し歩いて腹も減ったので、今日は「大もり」を頼んだ。蕎麦の香りのいい、まつや独特の蕎麦を堪能する。
Hさんは「シビれるような熱い銭湯にヤセ我慢で入る、これがやりたいなあ」と言う。
神田連雀町付近で銭湯を探すと、「神田アクアハウス 江戸遊」というのが見つかる。銭湯で、入浴料も公定料金の460円だ。連雀町からはすぐである。
ところが、Hさんは「どうも小奇麗っぽくて情緒のないのがいかん。やはり『銭湯らしいところ』がいいかなあ」と言うのである。
そこでさらに探すと、10分ほど歩いた先に稲荷神社があり、そのそばに「稲荷湯」という銭湯がある。
稲荷湯は浴場内の「富士のペンキ絵」もなかなかそれらしく、「銭湯銭湯している……」ようなので、そっちへ行くことになった。
皇居に近いせいか、最近流行の「皇居ラン」の帰りにスポーツウェア姿でひと風呂浴びていく人が多いらしく、今日もちらほらそういう人の姿が見られた。
Hさんの希望通り、「なかなかシビれるような熱い湯」で、我慢して入るうち、ホカホカに温まるのであった。
稲荷湯を出て、神田連雀町へ引き返す。
もとは「池波正太郎的には、鬼平犯科帳に出てくる名物軍鶏鍋『五鉄』のモデルを探してそこへ行くべきだろう」というアイデアだった。「五鉄」のモデルは「玉ひで」という実在の店だ。だが、日本橋の方なので、ちょっと遠い。
そこで、池波正太郎が同じく愛した連雀町の老舗、「ぼたん」で鳥鍋をつつくことにしておいたのだ。
「ぼたん」の看板の品書きは「鳥すき」だ。一人前7,300円(税込)で、「ちょっと高い」ようにも思えるが、「払えぬというほどでもない」値段で、それよりもなによりも風情があって、一度は行かなくてはならない店の一つである。
実は私こと佐藤、連雀町の店は「竹むら」にも「いせ源」にも、「まつや」や、焼ける前の「かんだやぶそば」にも、何度も入ったことがあるのだが、この「ぼたん」だけは入ったことがなかった。なぜかというと、「お一人様はご遠慮ください」という店だからだ。さりとて、職場がらみの人を誘おうとすると、少し高いので値段が折り合わない。妻を連れて来ようとすると、妻は主婦の経済観念で「高いなあ」がまず出てしまうから興醒めである。そんなわけで一緒に来てくれる人がなかなかいない。
しかし今日は、「池波正太郎的な世界観」がテーマで二人は一致しているから、私もHさんを引きずり込むのに躊躇がない(笑)。
「二人なんですが、かまいませんか」と玄関を入ると、下足番の人が愛想よく招じ入れ、すぐに和装の仲居さんが出てきて案内してくれる。
静かな奥の方の座敷に通される。腰を下ろして、鳥すきを2人前にビールを頼む。風呂上がりのビールがうまい。街全体が広大な温泉旅館として楽しめるところであるような気がする。
銅板で葺いた炭櫃によく
煮えるのにほどよく時間がかかるから、ゆっくりとつつきながら話したり飲んだりするのにちょうどよい。
最後にお
そこで私たちも、卵を二つずつ、たっぷりととじて貰って、お櫃のご飯を全部平らげた。
ちょっぴり高いが、払えぬという程でもなく、意外に分量もあり、堪能できる。
電気ブランと言えば「浅草・神谷バー」で、神田からは少し離れているが、ここは再び河岸を変え、浅草まで電車に乗る。
神谷バーはいつもながら大変な混雑だが、人を掻き分け掻き分け、席を取って、「電気ブラン」を4杯、5杯。
以前に一度、物知りの人が「夜の浅草寺」を案内してくれたことがある。仲見世通りの商店が閉まってシャッターが閉じた後に行くと、開いている昼間には見られない「シャッターのペンキ絵」が見られるのだ。このペンキ絵は季節ごとに
これをぜひHさんにも見てもらおうと、神谷バーを出て案内した。
季節らしく、火消しの
それから、ライトアップされた伽藍を一回り見物する。
本堂はとうに閉まった後だが、いちおう賽銭を寄進して、少しばかり拝む。
もう、自分が知っているだけのものを総
最後に、やはりこの名店だけはHさんに把握していただきたい、とばかり、「並木藪蕎麦」と「駒形どぜう」の場所をご案内した。
もとより、老舗の店仕舞いは意外に早く、両店とも既に閉まっているが、どちらも建物が味わい深く、外から見るだけでも面白いのだ。
この2店をご案内したところで、もう上弦の月が西へ傾きはじめ、はや22時を過ぎる時間にもなった。
昼は早春らしい
飲み食いに散歩に、面白い一日を過ごすことができた。
昨日から泊まり込みだった。
いい蕎麦屋は日曜日には開いていないものだが、神田は例外で、「まつや」「かんだやぶそば」とも開いている。
じゃ、今日はひとつ、「かんだやぶそば」で気晴らししようか、とする。
いつものことだが混んでいる。臆せず並ぶ。なに、蕎麦屋の客の回転など速いものだ。10分も並べば入れる。
通しものに蕎麦味噌の一玉がついてくる。ここの蕎麦味噌は「まつや」や浅草の「並木籔」のような固練りとは違って、ふんわりと柔らかく仕上げてある。中に入っている蕎麦の粒も柔らかい。但し、味は鷹の爪が効いてピリッと辛い。これを少しづつ舐めながら呑む。
お
のんびりと半分ほども
「ああ、これですか、いや、これは、一番安い、メニューの一番上に載っている『せいろう』ですよ」
「そうなんですか。……いえ、ね、色が青いから、変わった、何か、茶蕎麦なのかな、と思ったんです」
ここぞ得たり、と私こと不肖・佐藤、「なるほど、これはですね……」と、ご婦人に講釈して差し上げる。
本物の新蕎麦はほんのりと緑がかるが、かんだやぶそばの蕎麦は、それに似せるよう、蕎麦の茎・葉を絞った汁で新蕎麦のような色・香りをつけてあるのだ。新蕎麦よりも強い緑に染まり、香りも新蕎麦に似る。そして、これなら新蕎麦の季節(晩夏~初秋)だけでなく、年中楽しめるわけである。
「へえ~、そうなんですか」
聴けばご婦人は長野の人で、旅行で来ているという。新幹線の発車までの間、噂に聞く「かんだやぶそば」を探して来てみたのだそうで、「長野も蕎麦の本場なんですけれどね」と言いつつ、なかなか通好みの「牡蠣蕎麦」を注文している。
御酒 | \770 |
せいろうそば | \670 |
税 | \115 |
計 | \1,555 |
サービス | -\5 |
合計 | \1,550 |
ご婦人が聞き上手なものだから、問われるままに、以前の火事のこと、近くの有名店「まつや」のこと、甘味処の「竹むら」、
ご婦人を見送り、ゆっくり蕎麦湯を飲む、
越谷まで各駅停車で帰り、新越谷駅「VARIE」の1階、カルディ・コーヒーファームに寄って、「ボジオ・ランゲ・シャルドネ」という白ワインを一本買う。
帰宅してワインを開ける。至福。
子母澤寛の「ふところ手帖」を読みに国会図書館へ行った。
なんで今更、子母澤寛の「ふところ手帖」なのか。
実は30年くらい前から読みたい読みたいと思っていたのだが、いつか読もう、今度読もうと思っては忘れてしまう。忘れるたびに先延ばしになっているうち、30年も経ってしまったのだ。
そうこうするうち、Amazonなどが出来て、古い本でも気楽に手に入るようにはなったが、値段が高いのでどうしても買うのを躊躇する。そんなことで、読んでいなかった。それがずっと気になっていたのである。
この本を読みたかった理由は、勝新太郎の「座頭市シリーズ」が大好きだからだ。実は30年前の頃でも、座頭市は既に古い作品群であったが、私はこれをビデオレンタルで借りては見ていたのである。
で、その「座頭市」の原作が、子母澤寛の「ふところ手帖」なのである。
30年ほど前、既に旧作となっていた座頭市を勝新太郎が久しぶりにリメイクし、新作として撮ったら、撮影中に勝新太郎の息子の奥村
ところが、あれほど長大な映画シリーズになり、後年にはビートたけしも取り組み、また別作に綾瀬はるか主演の「ICHI」も制作されるなどするほどなのに、子母澤寛の原作は、この「ふところ手帖」の中に、「座頭市物語」という題で、たった6ページしかないのである。
そのことは以前から映画評論などで読んで知っていたが、実際に読んだことがなかったのだ。
それをはじめて、やっと読めたというわけである。
実に面白かった。
勝新太郎があのたった6ページの短編から、どうしてあれほど構想を膨らまたせかもよくわかった。ふところ手帖の「座頭市物語」では、居合抜きの名人、
ただ、原作では座頭市には女房がおり、その女房と出奔するのであるが、勝新太郎の座頭市シリーズには女房は出てこない。そのかわりに、行く先々で色々ロマンスめく、というふうになっている。
さておき。
子母澤寛は古い作家だから、青空文庫あたりで読めないかな、とも思った。しかし、確かめてみると亡くなったのは昭和43年(1968)だ。著作権切れまでにはまだあと2年ほどある。
もしそうでなければ、たった6ページほどの分量だから、図書館で本を見ながら全部入力して、ここに載せてしまうところだった。法律上そうはいかない。「引用」と明記して載せる手もあるが、それはやりすぎというものだろう。
国会図書館にいくと、帰りはやっぱり蕎麦を
一緒に天婦羅蕎麦を頼むと、店員さんがちゃーんと「ちょっと間をあけて……」奥へ注文を通してくれる。
海老や貝柱がたくさん入ったかき揚げで、実にうまい。これに葱と山葵を少しづつ乗せながら啜る。
少し手繰っては、
ああ、やめられない。
私はキリスト教徒ではないから、クリスマスの本義とするところには無関係である。いや、もっとはっきり言えば、キリスト教なんか嫌いだ。
だが、そうはいうものの、
それにしてもしかし、日本社会一般のクリスマスの扱い方は、イエス・キリストの生誕をコケにしているとしか思えない。
もし、こうした日本でのクリスマスの実情を、ありのままにわかりやすくヨーロッパやアメリカのキリスト教徒に説明すれば、彼らは多分、自分たちが大切にしているものを汚されたと思って、「黄禍を今こそ絶ってくれよう」なぞと、例のヴィルヘルム2世の漫画を押し立てて、核戦争の火蓋を切るかも知れない。ああ、おそろしや。
そういうことがないようにするには、「理解をすること」、それができなければ「理解をしようと努力すること」、これだろうと思う。
クリスマスには、私の家もこれまでは子供たちが小さかったこともこれあり、楽しませてやろうとて、飾りをしたり、私が腕をふるって洋菓子を拵えたり、キリスト教の話をしてやったりもしてきたのであるが、最近は子供たちも大きくなってきたから、もっぱら私自身が「キリスト教を理解する努力をする日」ということに、自分ではしている。
今日も、愛蔵の古びた聖書を出してくる。私の持っているのは文語訳のこの一冊だけだ。
イエス・キリスト生誕の節は、一説だけではなく、「マタイ
これらはとうに著作権も消滅していることだから、以下に書き写しておこうと思う。
イエス・キリストの誕生は
左 のごとし。その母マリヤ、ヨセフと許嫁 したるのみにて、未だ偕 にならざりしに、聖靈によりて孕 り、その孕りたること顯 れたり。夫ヨセフは正しき人にして、之を公然にするを好まず、私 に離縁せんと思ふ。かくて、これらの事を思ひ囘 らしをるとき、視 よ、主の使、夢に現れて言ふ『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納 るる事を恐るな。その胎 に宿る者は聖靈によるなり。かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。己 が民をその罪より救ひ給ふ故なり』すべて此の事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言の成就せん爲なり。 曰く、『視よ、處女 みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱 へられん』之を釋 けば、神われらと偕に在 すといふ意なり。ヨセフ寐 より起き、主の使の命ぜし如くして妻を納れたり。されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。 かくてその子をイエスと名づけたり。イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來りて言ふ、『ユダヤ人の王とて生れ給へる者は、
何處 に在すか。 我ら東にてその星を見たれば、拜せんために來 れり』ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ、エルサレムも皆然り。王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處に生るべきを問ひ質 す。かれら言ふ『ユダヤのベツレヘムなり。それは預言者によりて、「ユダの地ベツレヘムよ、汝はユダの長たちの中にて最 小 き者にあらず、汝の中より一人の君いでて、わが民イスラエルを牧 せん」と録 されたるなり』ここにヘロデ
密 に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細にし、彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒 のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。 我も往きて拜せん』彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る。かれら星を見て、歡喜に溢れつつ、家に入りて、幼兒のその母マリヤと偕に在すを見、平伏して拜し、かつ寶 の匣 をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物 を献げたり。かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告 を蒙 り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ。その去り往きしのち、視よ、主の使、夢にてヨセフに現れていふ『起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ、わが告ぐるまで
彼處 に留 れ。 ヘロデ幼兒を索 めて亡 さんとするなり』ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき、ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ。 これ主が預言者によりて『我エジプトより我が子を呼び出せり』と云ひ給ひし言の成就せん爲なり。ここにヘロデ、博士たちに
賺 されたりと悟りて、甚だしく憤 ほり、人を遣し、博士たちに由りて詳細 にせし時を計り、ベツレヘム及び凡 てその邊 の地方なる、二歳以下の男の兒をことごとく殺せり。ここに預言者エレミヤによりて云はれたる言は成就したり。 曰く、『聲 ラマにありて聞 ゆ、慟哭なり、いとどしき悲哀なり。ラケル己が子らを歎 き、子等のなき故に慰めらるるを厭 ふ』ヘロデ死にてのち、視よ、主の使、夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ、『起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地にゆけ。 幼兒の生命を索めし者どもは死にたり』ヨセフ起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地に到りしに、アケラオその父ヘロデに代りてユダヤを
治 むと聞き、彼處に往くことを恐る。 また夢にて御告を蒙り、ガリラヤの地方に退 き、ナザレといふ町に到りて住みたり。 これは預言者たちに由りて、『彼はナザレ人と呼ばれん』と云はれたる言の成就せん爲なり。
その六月めに、
御使 ガブリエル、ナザレといふガリラヤの町にをる處女 のもとに、神より遣 さる。この處女はダビデの家のヨセフといふ人と許嫁 せし者にて、其の名をマリヤと云ふ。御使、處女の許 にきたりて言ふ『めでたし、惠 まるる者よ、主なんぢと偕 に在 せり』マリヤこの言によりて心いたく騷ぎ、斯 る挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻 らしたるに、御使いふ『マリヤよ、懼 るな、汝は神の御前 に惠を得たり。視 よ、なんぢ孕 りて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。彼は大ならん、至高者の子と稱 へられん。また主たる神、これに其の父ダビデの座位をあたへ給へば、ヤコブの家を永遠に治めん。その國は終ることなかるべし』マリヤ御使に言ふ『われ未だ人を知らぬに、如何にして此の事のあるべき』御使こたへて言ふ『聖靈なんぢに臨み、至高者 の能力 なんぢを被 はん。此 の故 に汝 が生むところの聖なる者は、神の子と稱へらるべし。視よ、なんぢの親族エリサベツも、年老いたれど、男子を孕めり。石女 といはれたる者なるに、今は孕りてはや六月になりぬ。それ神の言には能 はぬ所なし』マリヤ言ふ『視よ、われは主の婢女 なり。汝の言 のごとく、我に成れかし』つひに御使はなれ去りぬ。
その頃、天下の人を戸籍に
著 かすべき詔令 、カイザル・アウグストより出づ。この戸籍登録は、クレニオ、シリヤの總督たりし時に行はれし初 のものなり。さて人みな戸籍に著かんとて、各自その故郷に歸 る。ヨセフもダビデの家系また血統なれば、既に孕める許嫁の妻マリヤとともに、戸籍に著かんとて、ガリラヤの町ナザレを出 でてユダヤに上り、ダビデの町ベツレヘムといふ處 に到りぬ。此處に居るほどに、マリヤ月滿ちて、初子 をうみ、之を布に包みて馬槽 に臥 させたり。旅舍 にをる處なかりし故なり。この地に野宿して夜、群を守りをる
牧者 ありしが、主の使その傍らに立ち、主の榮光その周圍を照したれば、甚 く懼 る。御使かれらに言ふ『懼るな、視よ、この民一般に及ぶべき、大なる歡喜 の音信 を我なんぢらに告ぐ。今日ダビデの町にて汝らの爲に救主 うまれ給へり、これ主キリストなり。なんぢら布にて包まれ、馬槽に臥しをる嬰兒 を見ん、是 その徴 なり』忽 ちあまたの天の軍勢、御使に加はり、神を讃美して言ふ、『いと高き處には榮光、神にあれ。地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』御使等 さりて天に往きしとき、牧者たがひに語る『いざ、ベツレヘムにいたり、主の示し給ひし起れる事を見ん』乃 ち急ぎ往きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰兒とに尋ねあふ。既に見て、この子につき御使の語りしことを告げたれば、聞く者はみな牧者の語りしことを怪しみたり。而 してマリヤは凡 て此等のことを心に留めて思ひ囘 せり。牧者は御使の語りしごとく凡ての事を見聞 せしによりて、神を崇めかつ讃美しつつ歸 れり。八日みちて
幼兒 に割禮 を施すべき日となりたれば、未だ胎内に宿らぬ先に御使の名づけし如く、その名をイエスと名づけたり。モーセの
律法 に定めたる潔 の日滿 ちたれば、彼ら幼兒を携へてエルサレムに上る。これは主の律法に『すべて初子に生るる男子は、主につける聖なる者と稱 へらるべし』と録 されたる如く、幼兒を主に献げ、また主の律法に『山鳩一對 あるひは家鴿 の雛二羽』と云ひたるに遵 ひて、犧牲 を供 へん爲なり。視 よ、エルサレムにシメオンといふ人あり。この人は義 かつ敬虔にして、イスラエルの慰められんことを待ち望む。聖靈その上に在 す。また聖靈に、主のキリストを見ぬうちは死を見ずと示されたれしが、此 のとき御靈 に感じて宮に入る。兩親その子イエスを携へ、この子のために律法の慣例に遵ひて行はんとて來りたれば、シメオン、イエスを取りいだき、神を讃 めて言ふ、『主よ、今こそ御言 に循 ひて、僕 を安らかに逝 かしめ給ふなれ。わが目は、はや主の救を見たり。是もろもろの民の前に備へ給ひし者、異邦人をてらす光、御民 イスラエルの榮光なり』かく幼兒に就きて語ることを、其の父母あやしみ居たれば、シメオン彼らを祝して母マリヤに言ふ『視よ、この幼兒は、イスラエルの多くの人の或 は倒れ、或は起たん爲に、また言ひ逆 ひを受くる徴 のために置かる。――劍 なんぢの心をも刺し貫 くべし――これは多くの人の心の念の顯 れん爲なり』ここにアセルの
族 パヌエルの娘に、アンナといふ預言者あり、年いたく老ゆ。處女 のとき、夫に適 きて七年ともに居り、八十四年寡婦 たり。宮を離れず、夜も晝 も斷食と祈祷とを爲して神に事 ふ。この時すすみ寄りて神に感謝し、また凡 てエルサレムの拯贖 を待ちのぞむ人に、幼兒のことを語れり。さて主の
律法 に遵 ひて、凡ての事を果したれば、ガリラヤに歸り、己が町ナザレに到れり。幼兒は
漸 に成長して健かになり、智慧 みち、かつ神の惠 その上にありき。
いつもこのように聖書を書き写すなどしていて思うのだが、言ってみればおとぎ話みたいな荒唐無稽な話、例えばマリアが処女にもかかわらず神の威力で妊娠する、といった話の合間合間に、突然、夫のヨセフが「世間体から言って具合がわるいので、離婚しようと思った」とか、原文のままに書けば「ヨセフ
そんなことを小難しく考え込んだり書いたりしつつ、しかし夜に鶏肉を食ったりワインを飲んだりケーキを食ったりする。
キリスト教嫌いだとか言っておいて支離滅裂やなアンタ、と言われそうだが、そんなこと別にどうだっていいのである。
妻と話していて、どうしてだったか、ふとトルーマン・カポーティのことが話題にのぼる。それで、「おお、そういえば……」と、カポーティの「クリスマスの思い出」という作品の事を思い出す。
私の家にある本はわりと新しいめの本で、友達に薦められて買った村上春樹の訳のものだ。「クリスマスの思い出」は、「ティファニーで朝食を」の文庫に一緒に収められているのだ。
で、読んだ当時、「ティファニーで朝食を」よりも、この「クリスマスの思い出」のほうが深く心に染み入り、気に入ったものだ。カポーティが子供の頃に一緒に暮らした、スックという年の離れたいとこの女性の思い出だ。
妻はこれを読んだことがないという。そこで、二人でテーブルに並んで座り、一緒にページを繰った。何度読んでもいい話である。村上春樹の翻訳がいいというのも、効果があるのだろう。
この作品は、アメリカでは教科書に取り上げられたり、クリスマス時期にテレビやラジオで朗読されたり、あるいは朗読会が開かれたりする定番であるそうな。そういう理由もあってか、英文だと、アメリカのサイトなどにけっこう沢山貼り付けられたりしている。
ただ、米国法では著作権保護没後70年だったはずで、カポーティが亡くなったのは昭和59年(1984)だからまだ30年余りしか経っておらず、それをこんなにばんばん貼り付けるのは、多分、無断でやってるっぽい。
このスックという女性の写真は、「capote sook」あたりでググると、彼らが並んで写ったものを簡単に見つけることができる。ネットで多くヒットするこの写真こそ、実は作品の中に取り上げられている、通りすがりの若夫婦が撮ってくれたというカポーティとスックの唯一の写真である。
徘徊する。
と言って、今日は徘徊するつもりでもなかった。子母澤寛の「ふところ手帖」を読みたかったから、図書館に行って、いつものように赤坂の砂場で蕎麦でも、と思っていた。
その前に、床屋に寄る。正月用に調髪するにはまだ早いが、
行きつけの床屋さん「ファミリーカットサロンE.T 南越谷店」の、顔見知りの理容師の女性は私よりうんと若い人だ。明るい美女で、よく話しかけてくれる。今日はひとつ話題でも、と思い、自分の薄くなってきた頭髪をネタに、
「抜け毛、ハゲというものは、これは俳句の季語になってましてね、『
……などと、無駄な知識を押し付けて差し上げる。……理容師さんには意味が解らなかったかも知れないが、まあ、理容師さんという職業上、髪の毛ネタというのは多い方がよかろうと思ったようなわけである。
新越谷の自宅からは、半蔵門線に乗っていけば国会図書館のある永田町まで直通一本なのだが、通勤定期で市ヶ谷まで行けばそこから永田町まではふた駅で、この方が安くつく。それで、平日の通勤と同じように日比谷線経由で遠回りしていく。
日比谷線の上野まで来てふと、床屋に行って頭もスースーするし、そうだ、この前愛用のカスケット無くしたんだった、同じようなやつをアメ横の同じ店で買おう、と思った。
アメ横と言う所は、意外に店の入れ替わりが激しい。無くしたカスケットを買った店に行ってみたら、とうに別の、何か中華料理屋みたいな店に代わってしまっていた。
おっさん向けの帽子を置いているところというのは少ない。しかたなしに他の帽子店を探して入ってみたのだが、どうも、1万円とかいう値札が付いていて手が出ない。贅沢をして1万円の帽子なんかかぶったら、もったいなさのために頭皮がかぶれ、ツルッパゲになる恐れがある。
帽子を買うのをあきらめて、さてどうしようか、と思う。時間も中途半端である。昼近くなってしまったので、今から図書館へ行っても、文庫本1冊全部は読めないし……。
神田へ行って「やぶ」か「まつや」に行こう、と思い立った。上野から神田はすぐである。秋葉原で降りれば
ところが、いざ「やぶ」の前へ行くと、いつも以上の長蛇の列だ。辟易して、並ぶのをあきらめる。それでは、というので「まつや」に行って見たが、「やぶ」以上の行列で、更に気持ちが萎えてしまう。
うーん、どうしよう。目先を変えて、日本橋のあたりまで出て、虎ノ門・大坂屋砂場へ行って見ようか、と考えを変える。
新橋の駅で降りて、通りを歩いていく。
覗いてみると、「烏森神社」とある。幟には「心願色みくじ」と書いてあって、なんなんだろう、と惹かれた。
さほどゆかしいところでもないように見えたが、その実、創建縁起を
沢山の人が参拝していたので、寄ってみた。
さっそく名物らしい「心願色みくじ」というのへ初穂料を納める。神職さんの説明によると、祈願したいジャンルごとに色分けされた
「中吉」をひきあてた。頂いた
さて、そんなことなどありつつ。
そのまま通りをまっすぐ西へ行けば、数分で東京屈指の蕎麦
一度蕎麦に決まった口腹の欲求はなかなかひっこめられない。ではというので、スマートフォンでGoogle Mapsにアクセスして、すぐ近所の「巴町・砂場」を検索したら、これがまた、Google Mapsの優秀さ、「今から行っても閉まっています」と即座に警告してくれる。
うーん。
そうだ、浅草に行くと、仲見世に帽子専門店が何軒かあったなあ、と思い出す。それなら帽子を買って、それから浅草の並木で蕎麦を
着いてみると浅草は相変わらずの混雑っぷりだ。外国人の多いこと多いこと。紺碧の空にスカイツリーの屹立、そりゃあ観光にもってこいだ。
人をかき分けて新仲見世通りを歩いていくと、「銀座トラヤ帽子店」の浅草店があった。
こういう帽子専門店は値段が高い。だから立ち寄ってもダメかな、うーん、どうかな、と思ったのだが、年末らしく表に「2千円から」の札の出たワゴンがあって、形の古いものなどがたくさんある。二~三ひっくり返してみると、下のほうから軽くて黒いカスケットが出てきた。思いがけずなかなかいい品物で、縫製も布もしっかりしている。
カスケット(キャスケットとも)というのは、ハンチングの一種だ。普通のハンチングは前後にまっすぐ縫い目が通り、「3枚はぎ合わせ」が普通だ。ところが、この「カスケット」と呼ばれる帽子は、中心から放射状に6枚はぎ合わせになっているのが特徴だ。戦前の公務員などがよくかぶっていたこと、また、有名なところでは「レーニン」がカスケット好きで、これをかぶった写真が多く残っている。
乃木将軍と東郷提督が二人でカスケットをかぶった写真も有名だ。
で、おお、これこれ、こういうのが欲しいんだよな、と手に取っていたら、店員さんが出てきて、「お客さん、掘り出しましたねえ。これ、処分品なんですけど、カシミヤで、なかなか出てない帽子なんですよ。お安くなってますから、いかがでしょう?」と薦めてくる。もとより、これは大変気に入ったので、即決、3千円で買う。かぶって帰る旨伝えると、きちんと値札を切り取り、袋をつけずに手渡してくれる。
この帽子の型番は「BS249」というのだが、後でネットで検索したら、なんと1万6千円である。これはまったく、掘り出したものだ。
ボルサリーノのカシミヤのカスケットが3千円というのは安かった。
それから、並木通りの方へ出て、「並木藪蕎麦」へ行ったのだが、もう14時過ぎにもなろうというのに、
それでも、15分ほど並んでいたら入ることができた。
ぬる燗で酒を一本。ここの通しものは固く練った蕎麦味噌で、辛口の菊正宗によく合って、うまい。
いつもなら蕎麦屋の酒は一合くらいにしておくのだが、なんだか
一杯ほど酒の残っている頃おいに、「ざる」を一枚。並木藪蕎麦独特の塩辛い蕎麦
蕎麦湯をたくさん飲んで、ホカホカに温まって舗を出る。今日は
自作「東京蕎麦名店マップ」に写真を足す。
せっかく浅草にきたのだから、と神谷バーに寄る。
電気ブランを一杯。肴に枝豆を頼んだら、店員さんが「すみません、今日枝豆ないんです」と珍しいことを言う。仕方なしに、たまたま目についた「
酔っ払って帰宅。