さて、なんとしても、「
「野見の宿禰」~日本書紀より~
「
と、申し上げた。
垂仁天皇はこれを聞き、
「ほう。当麻の蹶速はそれほどに強いか。天下一の格闘家と申すようだのう。……どうだろう、当麻の蹶速の相手ができるような者は、国には他におらぬのか?」
と臣下たちに言われた。ある大臣が進み出てきて、
「私が聞き及んでおりますには、
と申し上げた。すぐに、
さっそく、当麻の蹶速と野見の宿禰の試合が行われた。
二人は向き合って立った。
それぞれ、蹴り技で戦い始めた。
大変な蹴り試合になった。当麻の蹶速は肋骨をへし折られた。ひるんだところを、野見の宿禰の
当麻の蹶速の領地は召し上げられ、すべて野見の宿禰に与えられた。
このことがあったため、野見の宿禰の領地の村には、「
野見の宿禰はそのまま、垂仁天皇の臣下となって、そば近く仕えることになった。
それから二十年以上が経った。垂仁天皇の弟の、
呼び集められた者たちは、すべて、陵墓の周りに生き埋めにされた。殉死である。生き埋めにされても、すぐに死ぬものではない。昼も夜も、生き埋めにされたその人たちが泣き叫び、苦しむ声が聞こえ続けた。そして、苦しむままにその人たちは死に、朽ちて腐乱死体となった。犬や烏が死体にたかり、死肉をむさぼった。
垂仁天皇はその声や、一部始終を聞き、大変心を痛めた。臣下たちを集めて
「いくら
と命令した。
それから更に5年後(当麻の蹶速と野見の宿禰が戦ってから26年後)、皇后が亡くなった。葬るまでにしばらく時間があったので、垂仁天皇は臣下たちに
「私は以前、殉死と言うのは良くないことだと悟った。それにしても、今度の皇后のとむらいは、どのようにしたものか……」
と言われた。
天下一の格闘家である野見の宿禰がすっくと立ち、進み出て垂仁天皇に次のように申し上げた。
「仰せの通り、主が亡くなったからと言って、人を生き埋めにすることは、私も良くないことだとかねがね思っておりました。こんなことをいつまでも後世に伝えることなど、できません。そこで、私に名案があるので、どうかお任せくださいませんか」
野見の宿禰は使いの者を出し、故郷の出雲の焼きもの師を百人、呼び集めた。そして、自分が指揮をして、焼きもので人や馬など、いろいろな物の模型を作った。
これを垂仁天皇に差し出し、
「これからは、この焼きものの模型を埋めることで、生き埋めの殉死の代わりにしては如何でしょうか。後世にはこのやり方を伝え残すべきだと思います」
と言った。
垂仁天皇は大変よろこび、
「野見の宿禰よ、お前の名案は、本当に私の気持ちの通りだ」
と仰せられた。こうした焼きもののことを「
垂仁天皇は
「これからは、陵墓には必ずこの『はにわ』を使うこと。決して生きている人を傷つけてはならない」
と命令された。そして、野見の宿禰の功績を大変褒められ、領地を下された。
このことから、野見の宿禰は焼きもの師(
このように、格闘家・野見の宿禰は土師一族の元祖とされている。
なお、この部分の白文は、次の通り。
七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤。恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各舉足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。
(中略)
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域。數日不死、晝夜泣吟。遂死而爛臰之。犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷。詔群卿曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。
(中略)
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。卽任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。