和田修司氏のこと

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 一昨日。8月9日の日曜日、中学校の同級生であった和田修司氏が亡くなった。53歳。

 私にとっては中学校の同級生の印象が強いが、世間では関西の格闘界で存在感を保持し続けていた格闘家として知る人ぞ知る。自ら「顕修塾」という道場を経営して多くの弟子を育成し、また「RKSプロモーション」という格闘団体の相談役もつとめていた。

 中学校の頃の和田氏は強面(こわもて)のするヤンキーであった。だが、「一般人」に迷惑をかけるような、弱い者いじめをする人ではなかった。同じヤンキー仲間の中で異彩を放ち、むしろヤンキーをシバき、当時の彼の口癖を真似れば「カタにハメて」いて、彼自身はまことに堂々たるもの、怖いものなし、不可侵の存在であった。

 さもあろう、彼は子供の頃からあの極真会館の道場に通って本格的に空手を修めていた。極真空手は素人目から見れば派手だが、やはり肉体を鍛える武道に違いはない。精神を鍛える手っ取り早い方法は肉体を鍛えることだが、まさしく和田氏は早くも中学生の時分から肉体を通じて鍛え上げられた精神を持っていた。だからこそ、弱い者いじめをしなかったのだと思う。

 中学校の修学旅行の時、余興に「試割り」をやって見せる、と宿泊先に瓦などを持ち込み、すさまじい鉄拳や肘打ち、足刀を披露してくれたことがある。どう考えても人間の肉体よりも堅いものを軽々と打ち砕く和田氏の鉄拳の威力にゾクゾクしたものだ。

 私は中学校を出てすぐに大阪を離れたので、和田氏との付き合いはそこで絶えた。それに、中学生の頃は仲良しというわけでもなかった。私には近づきがたい怖い人でもあった。

 ところが、私が18歳の時、正月明けの間もない、まだ寒い1月のこと。

 私の兄が事故で死んだ。年子(としご)の兄で、ヤンキーだった。十代で既に職を何件も転々とし、警察の厄介になったことも両度三度では足りない。知人と二人、堺市の港湾の岸壁から乗用車で突っ込んで海底に沈み、大方1か月ほども行方不明になっていた。用船が錨をひっかけて岸壁近くに沈んでいる乗用車を発見し、知人はその乗用車の中から、兄は乗用車から30mほど離れた海底から、腐乱して発見された。地方版の、ごく小さな新聞記事になった。

 私は急遽当時の居所から帰省し、通夜、葬儀に出たのだが、葬儀の時、なぜか和田氏が、女性を含む数名の知らない人たちと一緒に参列してくれた。ボールペンの、上手とは言えない、しかも誤字で「御()前」と書かれた香典を出してくれた。だがむしろ、逆に素朴な真心がこもっているように感じられ、胸に迫った。和田氏とその女性は「金岡の斎場(やきば)」と呼びならわされている地元の火葬場にまで来て、兄を見送ってくれた。

 だがしかし、「なんで和田君がわざわざ兄の葬式に来てくれるんだろう?」と思った。私と和田氏とは、そこまで親しくはなかったからである。

 私は当時の仕事の都合もあり、急いで戻らなければならず、そのことはそれっきり、そのままになった。

 それから30年以上経った。数年前、世間で流行しだした「Facebook」で、当時の同級生たちと再びささやかな付き合いが生まれた。その中に和田氏がいた。少しメッセージなどやりとりしているうち、和田氏と私の兄との深い付き合いが分かった。

 私の兄が死ぬ前に、珍しく泊まり込んでいたのが和田氏の部屋だったのだという。ギターやベースの趣味があった兄は、和田氏と音楽談義をし、そこに後に和田氏の妻となった人もいたのだという。

 「私達夫妻は本当に兄さんとは思い出を共有していまして」と、和田氏はメッセージに書いてくれた。そしてまた、「兄さんと最後の夜過ごしたのはおそらく自分だと思います 1度佐藤君と飲んでゆっくりとその日の話してみたいですね この年になるまで私自身誰にも話したことが無い兄さんとの話もあるんですよ」とも書いてくれた。

 葬儀や火葬場にまで来てくれていた女性が、後年の和田氏の奥さんだったということが、そこでわかった。

 いつか和田氏と会って、その話を聞こう、と思ううち、5年前、和田氏の奥さんが亡くなった。

 気の毒なことだ、と同情した。また、私の兄の死ぬ前のことを知るひとが亡くなってしまったわけでもある。

 だが、生活というものは容赦ない。私も日常に取り紛れ、和田氏に会わぬまま、ついつい、この5年が経過した。

 そして、一昨日だ。その和田氏が、亡くなってしまったのである。

 私の兄の死の前後や、もしかすると真相をも知る和田氏夫妻は、結局、数年をおいて、二人で秘密を棺桶の中に持って行ってしまった。それは、もう永遠に聞くことはできない情報だ。

 和田氏は多くの弟子をかかえ、育成してきた人である。だから、多くの人が様々に悲しむことだろう。だが、私は、上のような事情や様々の経緯(いきさつ)から、私だけの悲しみ方、私だけの悼み方で、和田氏の死を悲しみ、悼む。

 祈冥福(めいふくをいのる)

野見(のみ)宿禰(すくね)

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 さて、なんとしても、「野見(のみ)宿禰(すくね)」の話を書き留めておかねば面白くない。日本の総合格闘技「古式相撲」の創始者として知られるが、それ以外に実は、多くの人に知られていない話がある。それを不肖・佐藤の現代語訳で、ここに書きとめておく。底本は岩波文庫「日本書紀(二)」(ISBN4-00-300042-0)(著作権消滅)である。

「野見の宿禰」~日本書紀より~
(現代語訳・佐藤俊夫)

 垂仁(すいにん)天皇が即位されてから七年が経った秋のこと。垂仁天皇のおそばに仕える者たちが

当麻(たいま)村にものすごく強い格闘家がいるそうです。この人の名は当麻(たいま)蹶速(けはや)と言うそうですが、この男の強いのなんの。牛と戦って角をへし折り、鋼鉄でできた太い鉤を、素手で真っ直ぐに伸ばしてしまうと噂されています。いつも回りの人々に、『あちらこちらと歯応えのある奴を探しているが、俺より強い奴はどうもいないようだな、ふん。俺と互角の格闘家と、生き死にに関係なく、全力で戦ってみたいものだぜ』などと豪語しているようです。」

と、申し上げた。

 垂仁天皇はこれを聞き、

「ほう。当麻の蹶速はそれほどに強いか。天下一の格闘家と申すようだのう。……どうだろう、当麻の蹶速の相手ができるような者は、国には他におらぬのか?」

と臣下たちに言われた。ある大臣が進み出てきて、

「私が聞き及んでおりますには、出雲(いずも)に名の知られた格闘家がおります。『野見(のみ)宿禰(すくね)』という名だそうです。ためしに、この人と当麻の蹶速に試合をさせてみてはどうでしょうか。」

と申し上げた。すぐに、(やまと)一族の先祖と言われている長尾市(ながおち)が出雲に使いに発ち、野見の宿禰を呼んできた。野見の宿禰はすぐに都にやってきた。

 さっそく、当麻の蹶速と野見の宿禰の試合が行われた。

 二人は向き合って立った。

 それぞれ、蹴り技で戦い始めた。

 大変な蹴り試合になった。当麻の蹶速は肋骨をへし折られた。ひるんだところを、野見の宿禰の止めが容赦なく襲った。腰骨に踏み蹴りが決まり、当麻の蹶速は腰骨を粉砕されて、その場で死んでしまった。

 当麻の蹶速の領地は召し上げられ、すべて野見の宿禰に与えられた。

 このことがあったため、野見の宿禰の領地の村には、「腰折田(こしおりだ)」という地名が残っている。

 野見の宿禰はそのまま、垂仁天皇の臣下となって、そば近く仕えることになった。

 それから二十年以上が経った。垂仁天皇の弟の、倭彦(やまとひこ)(みこと)が亡くなった。桃花鳥坂(つきさか)に葬ったが、その折、倭彦の命に仕えた者たちが数多く呼び集められた。

 呼び集められた者たちは、すべて、陵墓の周りに生き埋めにされた。殉死である。生き埋めにされても、すぐに死ぬものではない。昼も夜も、生き埋めにされたその人たちが泣き叫び、苦しむ声が聞こえ続けた。そして、苦しむままにその人たちは死に、朽ちて腐乱死体となった。犬や烏が死体にたかり、死肉をむさぼった。

 垂仁天皇はその声や、一部始終を聞き、大変心を痛めた。臣下たちを集めて

「いくら(あるじ)の生前に一生懸命に尽くした人たちだからと言って、主と一緒に死なせなければならないなどと、こんな残酷なことはない。昔からのしきたりかも知れないが、良くないことはたとえしきたりでも良くない。そんなしきたりに従う必要はないと思う。これからは、こんな殉死の風習は廃止せよ。」

と命令した。

 それから更に5年後(当麻の蹶速と野見の宿禰が戦ってから26年後)、皇后が亡くなった。葬るまでにしばらく時間があったので、垂仁天皇は臣下たちに

「私は以前、殉死と言うのは良くないことだと悟った。それにしても、今度の皇后のとむらいは、どのようにしたものか……」

と言われた。

 天下一の格闘家である野見の宿禰がすっくと立ち、進み出て垂仁天皇に次のように申し上げた。

「仰せの通り、主が亡くなったからと言って、人を生き埋めにすることは、私も良くないことだとかねがね思っておりました。こんなことをいつまでも後世に伝えることなど、できません。そこで、私に名案があるので、どうかお任せくださいませんか」

 野見の宿禰は使いの者を出し、故郷の出雲の焼きもの師を百人、呼び集めた。そして、自分が指揮をして、焼きもので人や馬など、いろいろな物の模型を作った。

 これを垂仁天皇に差し出し、

「これからは、この焼きものの模型を埋めることで、生き埋めの殉死の代わりにしては如何でしょうか。後世にはこのやり方を伝え残すべきだと思います」

と言った。

 垂仁天皇は大変よろこび、

「野見の宿禰よ、お前の名案は、本当に私の気持ちの通りだ」

と仰せられた。こうした焼きもののことを「土物(はに)」と言う。皇后の陵墓には、この「はに」が、初めてずらりと並べて埋められた。輪のように並べたので、「はに」の輪であることから、これは「はにわ」と言われるようになった。立物(たてもの)とも言う。

 垂仁天皇は

「これからは、陵墓には必ずこの『はにわ』を使うこと。決して生きている人を傷つけてはならない」

と命令された。そして、野見の宿禰の功績を大変褒められ、領地を下された。

 このことから、野見の宿禰は焼きもの師(土師(はじ))の監督官として任ぜられることとなった。それで、姓も変えることになり、「土師臣(はじのおみ)」と名乗るようになった。土師の一族が、後世も天皇の葬儀をとりしきるようになったのは、こうしたことがあったためである。

 このように、格闘家・野見の宿禰は土師一族の元祖とされている。


 なお、この部分の白文は、次の通り。

七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤。恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各舉足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。

(中略)

廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彦命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彦命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域。數日不死、晝夜泣吟。遂死而爛臰之。犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷。詔群卿曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。

(中略)

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。卽任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。