同じ季節に同じ季語で
なのに、その時の私は、やはりそこに写し取られている。
季節は千古不易に何度も巡ってくるが、今日の汝は今日しかいない、汝をこそ見よ……と、誰かに耳元で
しかし、観念を直接詠むのは普通の俳句ではない。
一方、季節はよほどの長寿の人でも、せいぜい100回程しか来ない。たった100回の春、たった100回の桜の開花なのである。
それを惜しむ、ということなのだろう。惜しむ気持ちを直接文字にしては駄目で、自分の見たものを文字にしたら自然とその目線が写し取られているのがよい。
悲しくても惜しくても、「悲しい」とか「惜しい」とかいう言葉を使って詠まないことだ。