バイキン良き(かな)

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 そういえば……。

 さっき、「人類の多様性は(いさか)いの元凶だから、多様性のもとになっている多細胞性を滅却し、全人類の細胞を混和して、いっしょくたにしたらどうか。全人類、あらたな生物ステージ、『黴菌(バイキン)』に進化するのだ!」みたいな妄想を書いた。付け加えて、「俺はだが、バイキンになんかなりたくない」みたいなことも結論として書き加えておいた。

 一方、まだ私の愚娘どもが小さい頃、夕食後の家庭の団欒かなにかで、こんなことを話したことがある。

長女 「ねえねぇ、おとうたん。おとうたんは生き物に生まれ変わるとしたら、なにになりたい?ユキはねえ、猫」

妻  「あらそう、ユキちゃん猫すきだもんねえ。じゃあ、お母さん、犬になろうかしら」

次女 「ちいちゃん、子豚ちゃんになるーw」

一同 「お父さんは!?」

私  「お、お父さんか。……お、お父さんは、お父さんはな……。お父さんは黴菌(バイキン)になりたい」(ヌドォーンw)

一同 「な、ななな、なによ、バイキンって!どういうこと!?」

私  「黴菌は命が尽きて死んでも、寸分違わぬ複製を永久に増やし続け、ほぼ永遠の命があると言って良い。人間の命を延命すれば、かえって悩みや苦しみも倍増するが、黴菌には悩みや苦しみもなかろうが。なにしろ、黴菌には悩みや苦しみのもととなる脳味噌がないからな。日々幸せに、自分の任務であるところの細胞分裂を繰り返して居ればよいのだ!すばらしい!すばらしいじゃないか、黴菌の人生!」

妻  「ちょっと、お父さん、私、お父さんが黴菌とか、イヤよ!?だいたい、除菌スプレーをピューってかけられたら、死んじゃうじゃない」

私  「ふふ、ジュンコよ、一箇所でワクチンや除菌スプレーによって死のうが、同じような寸分違わぬワシの複製がだな、別のところで永遠の命を保っておるのだよ。」

長女 「だめだよー、お父さん、黴菌なんかなったら」

私  「いや、ユキ、父がもし死ぬことがあったら、父は星や風になるなどと詩人ぶって気取ろうとは思わんぞ、『お父さんは黴菌になった』と思うが良いわ、ぐははは」

妻  「あー、漫画に描くとすると、お父さんが死んだあと、みんなで話してて、『お父さん、あの世でどうしてんのかな』って思ったら、部屋のあちこちに『父→』『↑父』って添え書きしてあるってのも、まあ、面白いかもね……黴菌になって部屋のあちこちに付着してンのよ」

私  「ジュンコよ!さすがは我が妻っ!わかってくれるのはお前だけだあああ!」

妻  「……わかれへんッっちゅーとんねんっ!!!」

心霊ソースコード

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 デジタルと霊魂とのシームレスな融合、ということを考えてみた。

 かつて写真は、画期的な技術的ブレイクスルー、人類の文明を劇的に前進させるハイパーメディアであったはずである。

 しかし、当時の科学技術の粋を集めた写真技術にすら、いにしえの神秘主義は待て(しば)しというものがなく、「心霊写真」という一大ジャンルがいまだ絶えることなく人々を惑わせている。

 写真に霊魂が写るのならば、デジタルデータにも霊魂の作用があってしかるべきである。

 すなわち、「心霊mp3」「心霊csv」「心霊プレゼン」「心霊ソースコード」「心霊web」「心霊html」「心霊パケット」「心霊名前解決」などがそれである。

 写真に霊が写るというのならば、通るはずのないコンパイルに心霊の作用したソースコードが通るとか、解決されるはずのないfqdnがなぜかIPアドレスになる、などということもあってよい。

魂で選ぶ

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 変化、変容、変身、メタモルフォーゼズ、レボリューションやイノベーション、なんでもいいが、つまり、「良い激動」と、その真反対の、「ボス、あるいはアホなオッサンのキチガイみたいな気まぐれ妄言」とは、どうやって区別したらいいんだろう。

 「ボス、あるいはアホなおっさんのキチガイみたいな気まぐれ妄言」が、妄言であるかそうでないかは、その妄言に従ってやってみなくちゃわからないんだから始末が悪い。で、やってみている間に、食いっぱぐれたり死んだりした日にゃあ、まったく我と我が身とわが魂が浮かばれない。

 「データの投入量が多ければ多いほど、それは妄言ではないかもしれない」という仮定もある。しかしそれは、かつて人口に膾炙した「ストレンジラブ博士…」とか、核戦争後のアメリカを真剣に研究した「RAND」報告のような帰結になりはすまいか。つまり、「データにしたがって結論を出せば、会長一家が今日の12時ちょうどにガス自殺してくれることが経営上最も合理的である」とかいうような数学的結論が出てしまう。そして、私たちは往々にしてそういう結論が出てしまうことを本能的に知っている。

 思うに、これはもう、「魂」で弁別するしかないのである。

 魂ほど正確な、そして、「知能の低い者にも等分に分け与えられているセンサー」は、ない。

 ただ、魂も、時として頓狂だ。

 アホなオッサンのキチガイみたいな気まぐれ妄言……大西瀧次(以下略

 以下略、で、そんで、次々と突っ込む若者。

 こうなってくると、センサーであるところの「魂」が不滅で、ずっと何かを見ている、それは後世にわたって審判をする、とでもいうような、宗教じみた何かを信じない限りはどうしようもない。

ルバイヤート集成

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 大して良い酒が飲めるほどの金持ちではないのにもかかわらず、あいかわらずだらしのない酒飲みの私だ。

 そのくせ一人前の格好だけはつけていたくて、花鳥の色につけ酒の味につけ、何か詩句論説講釈のたぐい、能書きの一つも(ひろ)げて見せてからでないとはじまらないというのだから、まず我ながら見栄坊もいい加減ではある。

 さて、だからと言うのではないが、文学というものの数ある中に、酒飲みが引用するといかにも賢そうに見えるという、そういうネタがあるということを開陳しておかねばなるまい。

 ネタ強度の点では、まずランボォだのヴェルレーヌだの、このあたりで能書きをタレておけばいいのではないか。なにしろ酔っぱらいそのもの、頭の中に脳味噌のかわりに酒粕でも詰めておくと多分ああいう詩が書けるようになるだろうというほどのものであるから、まずこれで知識人ぶることができるのは間違いはないだろう。

 西洋が嫌なら、東洋文学だ。「唐詩選」あたりから何か引っ張るというのもテだろう。「葡萄の美酒夜光の杯、酔ふて沙場に臥すとも君嗤ふこと莫れ…云々」、なんぞと微吟しつつ飲んでおれば、いっぱしの知識人に間違われること請け合いだ。

 そんなアホな引用のコツに凝る似非(えせ)知識人の私としては、ワケの分からない異文化の手触り、エキゾチシズムの香りで周りをケムに巻けるという点で、この詩人、アラビア・ペルシアの誇る四行詩の泰斗にして同時に極北、オマール・ハイヤームを挙げておくのがもっともピタリと来る。なにしろ、のべつ酔っ払って酒をほめると言う点では世界に並ぶものなしだ。

 オマール・ハイヤームの詩集「ルバイヤート」は、現在簡単に入手可能なものとしては岩波の小川亮作訳がある。また、これは著作権切れで青空文庫にも収録されており、無料で読むこともできる。

 ただ惜しむらくは、この岩波の小川訳は口語体で、しかも味わいの上から韻文に遠いことだ。それが格調に制限を加えている。

 実は、そのように思わせる原因は、岩波文庫のあとがきにある(岩波のあとがきはまだ著作権が切れていないので、青空文庫では読めない。)。あとがきにはフィッツジェラルドの訳業のあらましと一緒に、我が国におけるルバイヤートの訳出のあらましが記されてあり、無視すべからざる翻訳として、矢野峰人という文学者によって大正時代から昭和初期にかけてなされた文語体の名訳がわずかにふたつだけ紹介されているのである。

 小川訳も、もちろん良い。だが、矢野訳のしびれるような訳は、どうしても捨てがたいのである。

【口語訳】

この壺も、おれと同じ、人を恋う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。

【文語訳】

この壺も人恋ひし嘆きの姿
黒髪に身を囚われの我のごと
見よ壺に手もありこれぞいつの日か
佳き人の肩にかかりし腕ならめ

(若干の解説をするなら、人は死んで土になる、王も賎民もいっしょくただ。こうして土になった人々は、何千年もしてから焼物師の手にかかって粘土としてこねられ、壺になる。だが、出来損ないとしてその壺は打ち砕かれることもある。焼物師よ、ちょっと待て待て、その壺は、昔々美女だったかも知れぬではないか、打ち砕くのをちょっと待ってやれよ…というような含みが前提としてある詩である。)

 文語訳のほうがやっぱりピシリと締まった格調の高さが感じられるのである。

 私は22、3歳のころだったか、岩波の小川訳にシビれ、だらだらと酒を飲む口実にしてきた。だが、そのあとがきにある2篇ほどの文語訳が心に残り、これを忘れたことがない。

 しかし、長らく文語訳のルバイヤートは絶版で、読むことはできなかった。

 そうして長い年月が打ち過ぎた。ところが、である。つい先日のことだが、インターネット時代というのはなんと便利なことだろう。暗唱していた文語訳の詩文をGoogleに入力してみたら、瞬時をわかたず、出るではないの、出版元が!

 10年ほど前、この文語訳のルバイヤートが国書刊行会から出ていたことがわかったのだ!。

 しかしそれにしても、1冊5千円は、た、高い。

 それで、今日は国会図書館へ行き、じっくりと読んできた。

 以下に、書き写してきた文語体のいくつかを摘記する。著作権はとうに切れているから、特に問題はない。


第三十四歌

生の秘義をばまなばんと
わがくちづくる坏の言ふ——
「世にあるかぎりただ呑めよ、
逝けばかへらぬ人の身ぞ。」

p.43
第三十九歌

如何にひさしくかれこれを
あげつらひまた追ふことぞ、
空しきものに泣かむより
酒に酔ふこそかしこけれ。

p.47
第四十三歌

げにこの酒ぞ相せめぐ
七十二宗うち論破(やぶ)り、
いのちの鉛たまゆらに
黄金に化する錬金師。

p.52
第四十八歌

河堤(つつみ)に薔薇の咲ける間に
老カイヤムと酒酌めよ、
かくて天使のおとなはば
ひるまず干せよ死の酒を。

p.56
第五十二歌

人のはらばひ生き死ぬる
上なる空は伏せし碗、
その大空も人のごと
非力のままにめぐれるを。

p.61
第五十七歌

わが行く道に罠あまた
もうけたまへる神なれば
よし酒ゆゑに堕ちんとも
不信とわれをとがむまじ。

p.63〜
第五十九歌〜

新月もまだ見えそめぬ
断食月(ラマザン)果つるゆふまぐれ、
土器(かはらけ)あまた居ならべる
かの陶人(すゑびと)の店訪ひぬ。

言ふも不思議やそのなかに
片言かたるものありて
こころせはしく問ふやうは——
「誰ぞ陶人は、陶物は?」

次なるもののかたるらく——
「われをば土器につくりてし
『彼』またわれを()となせば、
なぞ(あだ)ならむこの身かな。」

また次の言ふ——「悪童も
おのが愛器をこぼたねば、
なじかは神がみづからの
つくりしものをこぼつべき。」

()もいらへせず、ややありて
かたちみにくき(かめ)のいふ——
「かくわがすがたゆがめるは
陶人の手やふるひけむ?」

次なるは言ふ——「『(あるじ)』をば、
あしざまに言ひ、てきびしき
試煉をおづるものあれど、
『かれ』こそは()(をのこ)なれ」

次なる甕の嘆ずらく——
「乾きはてたる身なれども
なつかしの酒充たしなば
日を待たでよみがへるらむ。」

かくかたるとき、待かねし
新月のかげ見えしかば、
肩つきあひて甕のいふ——
「酒をはこべる軽子(かるこ)見よ。」

 なんというか、茫然自失するような訳だと思う。

1億倍で言わないと消滅する。

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 以前、「中国人13億人と日本人1億3千万とが全力で殺し合いをしたら、秒殺で日本人全滅。戦い方で工夫をして勝つなら、あらゆる能力が100倍優れてないとダメ」みたいなことを、ランチェスターの二次則にからめて書いた。

 簡単な理屈で、100倍というのは勢力比の自乗である。

 もう一度書くならこういうことだ。ランチェスターの2次則によれば、損耗は勢力比の自乗で作用する。

{B_0}^2 - {B_t}^2 = E({R_0}^2 - {R_t}^2)

 ここに、
  B 青軍
  R 赤軍
  B0、R0:  青・赤両軍の最初の兵力
  Bt、Rt:  ある同じ時点での青・赤両軍の残存兵力
  E:  兵力の質の比。赤軍の質が青の倍であれば2、半分であれば0.5。

 式を変形すると、例えば、

{B_t = \sqrt{{B_0}^2 - E({R_0}^2 - {R_t}^2)}}

 このR0に日本の人口、Rtにはゼロを、B0に中国の人口、Eに1.0を代入すれば、つまり「日本人が全滅を期して捨て身の特別攻撃をしかけて、中国にどれだけの損耗を強いることができるか」という冷厳な計算となる。

 言うまでもないが、この計算はするだけムダだ。それでもあえて計算してグラフを描けば、こうなる。

Photo_3

 日本人の人数の、10分の1の損耗すら、与えることが出来ない。一人十殺どころか、10人がかりで1人殺すこともできないのである。

 これを互角にするには、兵力の質の比「E」を高めることだが、これも計算するだけムダである。100倍以上という数字が出るだけだ。

E=\cfrac{{B_0}^2 - {B_t}^2}{{R_0}^2 - {R_t}^2}

 この式にそれぞれ中国と日本の人口、互角となるようにBtとRtにゼロを代入すれば、約106という途方もない数字になってしまう。

 これが、先日私が書いた、じつにお粗末で簡単な理屈である。だがしかし、「殺し合い」なぞと物騒な書き方をしたから、どうにも老幼婦女子に刺激が強すぎたと言おうか、まず「穏当でなかった…」のは否めない。

 だが、殺し合いまでは行かない、例えばあることに関する意見や主張、ということではどうだろう。

 「昭和10年~20年(1935年~1945年)までをリアルに過ごした全ての日本人は悪魔で殺人鬼で血も涙もない許すべからざる鬼畜で、レイプ大好きな人類の敵だった」

…ということを、13億人の中国人が全員で言い、そして、かたやの日本人の、まあ、せいぜい100万人ほどのかわいい勢力が、小さな声で

「そ、そんなことないよぉ…当時の日本人にだって、いい人はたくさんいたんだよぉ…」

と、ボソボソ口ごもるとする。まあ、大声の大合唱と、小さな声のつぶやきとの戦いだ。そうすると、どうなるのだろう。

 この際、10億ナンボという土台に対して、朝鮮半島の5、6千万なぞ、計算の埒外、誤差というか、ゴミのようなものであることをあらかじめ言っておく。

 13億人の中国人全員が全力で100%の力を出し切ってこんなことを言うというのも、非現実的だ。中国人の中にだって、「いやいや、それは言い過ぎだって。日本だって、当時当時の情勢ってものもあったわけだから」と、一定の理解を示す知性のある人も少なからずいるだろう。だから、方程式の入力に「13億」と叩き込むのはよろしくない。また、全員が100%で主張するというわけでもなく、かなりラジカルな活動家でも、1%ぐらい「日本人だって人間なんだから」と心の片隅で思っていなくもないだろう。そういったところをあれこれ差し引きして、

「13億人中の10億人が全力で『A』と主張する」

…とでもしようではないか。

そして対する日本が、「100万人のかわいい勢力が小さな声で言う」というところを置き換えて

「10万人の勢力が全力で『非A』と主張する」

とでもしようではないか。

 先日の私の遊びのように、13億対1億3千万をランチェスターの二次則に代入するなど、代入する前からわかりきった馬鹿馬鹿しいことだった。それが10億対10万である。これは馬鹿馬鹿しいを通り越して頭脳の目方を疑われるような無意味なことだ。

 それでも、あえてグラフを描こう。

Photo_4

 横軸の、中国の10億が、まったく変化していないことに注目しよう。実は変化しているのだが、桁が小さすぎて表示できないのだ。つまり、ただの一人たりと、日本の意見に同意してもらうことなど出来ない。

 では、これを互角にするにはどうしたらよいのだろう。互角にするためには、交換比Eを計算すればよい。

E=\cfrac{{B_0}^2-{B_t}^2}{{R_0}^2-{R_t}^2}=\cfrac{10^2}{0.001^2}=\cfrac{100}{0.000001}=100000000

 1億倍である。

 こちらの主張を、日本人特有のおくゆかしさでもって、「いつかはどちらが正しいかをちゃんと天が見定めてくれる」とわけしりぶって小さな声で言っていることには、数値上の意味はまったくない、ということだ。

 正しいとか、正しくないとかはこの際置こう。おじいちゃんおばあちゃん、ひいおじいちゃんひいおばあちゃん、我々を産み育てた父祖の世代が、「クズでカスで大便みたいなゴミだった」という認定が、世界的定説になるかならないか、それをどうするのかということなのだ。

 それを互角に保つには、キチガイ右翼の街宣車のボリュームがやかましいなどという、そんなどころの騒ぎではまったくダメで、「1億倍の強度でそれを言わなければならない」ということである。

 「1億倍の強度で言う」ということは、簡単なことではない。これは例えではないからだ。

 例えではない、ということはどういうことか。具体的に書けば、中国人一人がネットに

「日本カス。死ね。」

…と8文字ほど書いたら、互角に対抗するために、10万人の日本側は

「日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です

~(中略)~

日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です日本はよい国です」

…と、8億文字ほどの情報をネットに流せ、ということなのだ。そうしないと、「日本人は昔から罪深い糞でアホでカスだった」という認定が、朝夕に迫るのである。

 そんなことは、到底できることではない。

法定冷涼

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 まことに申し訳ないけれども、私は、日本と言う国が再び力を得て、人類と文明全般に対する責任と言うものを果たすためにはグローバル化などではなく、「核武装」が必要であって、100年かかるか200年かかるかわからないけれども、いつの日か欧米白人の頭上に神罰の鉄槌を炸裂させて奴ばらの非を悟らしめるためにも、原子力発電所は必要であると考えるような非道なオッサンである。

 どうか、そのことをなんとでも責めてくれたまえ。

 ただ、今日と言う今日は、そこを、百歩どころか、万歩、億歩ほど譲ろう。

 譲りに譲って、原子力発電所は、全廃しようという、そういう主義になりましょうよ、ええ、ええ。

 それであるならば、キミたち。この夏場の、電力がなんとかフクシマがどうとか、したり顔でヌカすわりには、この、冷房のための電力需要はどうしたことか。

 これは、わけもなく厚着をしているのが悪いのである。服なんか脱げ。脱いで、パンツ一丁になってしまえ。

 クールビズなどと言っているが、何を甘いことを言っているのか。

 あらゆる職場における、男の「パンツ一丁」を法制化すべきだ。

 女性は、これは、薄着にすると性犯罪が増えるし、女は冷え性と相場が決まっており、ただでさえ女性が職場に増えている昨今、冷房の温度設定が低すぎると男女間のトラブルの原因にもなっているから、オーバーでも毛布でもなんでもかぶって、暖かくして勝手にすればよろしい。ただ、オッサンは、総員、職場における全裸を許可、いや、許可などと甘ッちょろい、義務とすべきだ。

 フォーマルの場合はパンツ一丁にビーチサンダル、首にはネクタイを結ぶ。カジュアルはフリチンか、パンツ一丁だ。

 こうすることによって、体感温度は人によるとはいうものの最大5℃ほどは下がり、夏場の電力需要を著しく低下させることができるにちがいない。

 品とか見た目がどうとか、そんなのは気分の問題で、「全裸法制化」ののち、5年ほどもガマンすれば、なに、全員慣れるに決まっている。

 見た目を気にするキザな連中は「筋トレ」を始めるなどして、体脂肪が減少して健康になり、生活習慣病が激減して、健康保険問題が劇的に改善されるであろう。

 あと、夏場に湯など使うのは、罪深いことだ。男は全員、4月から11月まで風呂のかわりに「(みず)垢離(ごり)」をすべしと、エネルギー消費制限法というようなものでも作って強制すればよろしい。ぜいたくをやめさせろ。そうすると、原子力発電所の半基ぶんくらいは廃止できるのではあるまいか。ナニ、冷たい!?アンタらの言う、子孫のため、地球のためだ、ガマンせんかい。

 女性は、まあ、冷え性だから、湯でも何でも好きなだけつかえばよろしい。

まったくだ!!

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 まったくだ!!私が言いたいのも、まさにこれだ!!よくぞ言ってくれた。

「子ども」「障がい者」 漢字が悪いわけじゃない
http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1255339529

10月12日11時5分配信 産経新聞

 政権交代して、新聞にやたら「子ども」の表記が目立つようになった。民主党が掲げる「子ども手当」による。筆者に言わせれば「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。

 なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。

 「子ども」表記にこだわる人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるが、事実は右のように「子ども」の方がよほど子供の人権をないがしろにした書き方なのだ。

 子供の「供」は当て字だから「子ども」と書くのだという人には、こう言おう。「あなたは仕事を『し事』、乙女を『おと女』と書きますか」と。

 国語表記の基本は漢字仮名交じりだ。青空、恋人、場合、芝生のような純粋和語をもあたかも漢語のように漢字2字で表す工夫をしたのは、それが最も読みやすく理解しやすいからだ。それは長い時間をかけて出来上がった先人の知恵の集積であって、おかげで現代人はその恩恵に浴しているのである。妙な理屈をこねて、国語表記を毀損(きそん)する交ぜ書きを広めることに強烈な異議を申し立てたい。

 同じような理屈で、民主党の障害者の書き方は「障がい者」である。「障害者」ではまるで“人に害を与える人”みたいではないかと、これも多分“人権派”の、ある人が思いついたものであろう。それを自治体の幾つかが使用しだし、それが徐々に広がりつつある。

 「障害」は昭和31年の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」に例示された「障碍(しょうがい)」の書き換えで、その後急速に広まった表記だ。だから、筆者はこれを「障碍者」に戻すことに異議は差し挟まない。しかし、「障がい者」と交ぜ書きにすることには反対である。

 なぜなら「がい」は音声を表すだけで意味を持たない書き方だからだ。「障害者」の「害」は“そこなう”という意味を持つ。「障碍者」の「碍」は“さまたげる”という意味を持つ。漢字ならそれがありありと見える。そういう人は心身が正常に機能するのにさわりや、そこない、さまたげを持つ人と理解するのが常識というものだ。“人に害を与える人”などというのは為(ため)にする議論である。

 「障がい者」は、障害者のハンディに目隠しをする書き方であり、非障害者が障害者を見て見ぬふりをするのに都合のいい書き方とさえいえる。

 文字はもとより、人の世を映して、それを表す手立てにすぎない。人の世には善があれば悪もある。美があれば醜もある。光があれば闇もある。「供」であれ「害」であれ、決して漢字が悪いわけでない。「子ども」「障がい者」と漢字隠しをしても、問題は一つも解決しない。けしからんのは漢字ではなく人間の方なのだから。新政権はそこをよくよく考え、国語表記の襟を正すべきだ。(塩原経央)

酒が旨いのも如何なものか

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 よく飲む。

 酒量を誇ってうれしい歳でもない。むしろ酒量を控えたり、「カミサンに酒を隠されちゃいましてね」などと言ってみたりするほうがチト滑稽なシブいめの自慢になるだろう。

 だが旨いものは仕方がない。

 こう虫の声が響くと、夜が長くなってくると、どうしようもないのだ。

 昔持っていた開高健の「シブい」というハードカバーの初版本には、「まれにウィスキーを冷蔵庫に冷やしておくと言う仁を見かけるが、あれは大変聡明なやりかただ」というようなことが書いてあったように記憶する。

 私も若かったから、当時それをそのままマネしたものだ。だが、あまり旨いと思わなかった。青二才だったから、水で薄くなったウィスキーじゃないとダメだったのだ。氷にぬるいウィスキーを注げば、氷が解けて中途半端な水割りみたいな味になる。そのほうが旨いと思っていたのだ。

 ひとりの頃は、分不相応に高い酒をマズい飲み方で飲むようなアホなことばかりしていた。味も分からぬクセに、恥ずかしい自分だったと思う。ワイルドターキーだのメーカーズマークだの、中曽根内閣からあと、税制が変わる前、1本1万円もするようなものを、怪しいスナックで不味い氷に注いでもらって、今思えば爆笑もののツラで呷っていた。

 今ドラえもんかSFか魔法か、なにか天変地異でもあって、当時の酒場に突如降り立つことが今の私に許されたなら、そして都合よく私の手にコルトかスミスアンドウェッソンでも握らせておいてもらえたなら、躊躇なく全装弾数を若い自分に撃ち込むだろう。

 自宅の冷蔵庫で冷えているのは、無論そんなエエカッコシイの酒ではない。近所の薬局兼スーパーで買いこんできたものだ。小遣いで買ったに決まってますよ、ええ。サントリーに決まってるでしょ、問うまでもなく。いや、普通角瓶か「富士」でしょ。・・・角瓶買うくらいの見栄はまだワタシにもありますよ。

 それにしても、なんでこんなに角瓶は旨いのだ。

供養

投稿日:
職場にて

 私 「定年後も働かなければなりませんな」

同僚 「まったくで。お互い年金なんか貰えないでしょうからね、このぶんだと。」

 私 「何かいい商売か仕事でもないもんですかねぇ。老境でもラクに儲かるような。」

(しばらく沈黙)

同僚 「ないですね、ハッキリ言って。アナタも私も、大して学があるわけでもないですしねぇ」

 私 「やっぱり、私ら、間違いでしたよねえ、もっと人の上前をハネて生きている連中のマネをしとけばよかったですねぇ、金貸しとか株屋とか。ま、今更ナンですけど。」

同僚 「う~ん、しかし、今からでも脳漿を絞れば、なにかなくはないでしょう、元手の少ない、ピンハネ系の儲け話なんかが。」

 私 「果たしてあるでしょうかねぇ、そんなウマい話が。トレーダーなんて言ったって、言い換えれば『プー』ってことですからねぇ。」

同僚 「『百姓百層倍、薬九層倍、坊主マル儲け』ってねぇ。ボロい商売って言うと。」

 私 「なるほど、結局、付加価値をいっぱい付けて売るか、あるいは、値打ちがないかもしくは不明なものに値段を付ける、ってことでしょうかねぇ、『薬九層倍、坊主丸儲け』ってところは。」

同僚 「元手が少ない極北っていうと、やはり、『坊主丸儲け』、つまり宗教でしょうかねえ、定年後は。」

 私 「ああ、なるほど、教祖になるわけですね。儲かるでしょうね。」

同僚 「まあ、でも難しいでしょうなあ。みんなから祭り上げられないと、儲けにはなりませんからな。」

 私 「既存の宗教で、もっともらしい人の道だのなんだのは、経典やらなんやらでもう大概論述済みですからねえ」

同僚 「既存の宗教の経典のいいとこ取りで、ツギハギのもっともらしい経典を作るのが手っ取り早いでしょう。インターネットでテキストはいくらでもコピペ可能ですし」

 私 「そうするとあとは、何か目立つ新機軸を中心に据えるだけですな。思うに、人々の不安を煽って、カネを集めたり支配したりするのが宗教ですから、なにか不安要素をネタにすることでしょうねぇ。」

同僚 「古典的なところだと、『この木切れだか石ころだか掛け軸だか、なんだかわからないけどそれを拝まないと地獄へ落ちて死ぬより苦しい目にあうぞ』とかね。頭の悪い奴に根拠のないことを吹き込んで不安を煽って、そんでカネにしてますよね」

 私 「そうやって改めて考えると、前生とか後生とか、まったく何の根拠もない不安を捏造したり、『地獄』などとバカみたいな妄想を煽り立ててて人々を制御しようってんだから、宗教ってあざといですよね。なんかハラ立ってきた。」

同僚 「お腹立ちはもっともですけれど、そこをうまいぐあいに取り入れて、定年後ラクに儲けることを考えましょうや。」

 私 「う~ん、う~ん・・・あっ、一つありますよ。」

同僚 「ほう、ありますか、宗教のアイデアが」

 私 「ありますあります。いや、元ネタは以前にどっかで見たことがあるモンなんですけどね。だから完全オリジナルじゃないですけど。」

同僚 「ほうほう、で、どんなアイデアです?」

 私 「まあ、慌てず聞いてくださいよ。今や、インターネットやパソコン、携帯電話、すなわちITだの情報通信だのは、社会に広く浸透していて、必要欠くべからざる、ま、いわば社会インフラになっているワケです。ま、アンタも私も、だから食っていけている。ITは私らのメシのタネでもありますからな。」

同僚 「ふむふむ」

 私 「で、ところがですよ、ITとかインターネットがこれだけ社会を支えていながら、バカな奴にはその細部はウッソリとした雲みたいなもので隠されて見える。なにか、根拠のない、漠然とした不安なんかをそこから覚えるわけですよ」

同僚 「不安って例えばどんな?」

 私 「すぐわかるところでは、ウィルスとかハッカーとか。あるいは、ネットを通じて官憲によって私生活が監視され、特高警察に逮捕されて軍国主義になっちまう、とか、アホな官公庁が情報を流出させて、善良な市民のすべての私生活が白日の下に晒されて恥ずかしくて生きていけなくなるとか、そんなことばっかり言い立ててる連中がいるでしょ。」

同僚 「ああ、なるほど。ウィルスなんて、トレンドマイクロがマッチポンプで作ってんじゃないかとか、よく冗談で言いますもんねえ。ま、ある種、不安を煽ってカネにしてますよね」

 私 「で、ウィルスにやられたり、ハッカーにやられたり、情報が流出したり、ま、私らが言うセキュリティリスクですけど、でも、ぶっちゃけ、こんなもん、『運』ってものもあるじゃないですか」

同僚 「ああ、運は大きいですよ」

 私 「それでね、インターネット上のそういう、困ったインシデント、しかも運が左右するような、こういうのにですね、もっともらしい、祟りとか怨念とかいう理由をつけるわけですよ」

同僚 「う~ん、でも、どんな理由をですか?」

 私 「ソコですよ。つまりね、インターネットってのは、所詮パケット通信じゃないですか」

同僚 「ふむふむ」

 私 「で、インターネットでは、常時、何千兆という数のTCP/IPのパケットがですよ、グルグルグルグル、ルータやらスイッチやら、地中を潜り海を越え空を超え、宇宙を経由すらして、飛び交いつづけているワケです。」

同僚 「ははぁ、トラフィック交換所なんかになると、もう、東京とかニューヨークどころじゃないですねえ、パケットの海みたいなモンになって。」

 私 「この、無数の、名もなく従順なパケットたちの努力によって、インターネットは支えられておるワケですよ。」

同僚 「ふーむ・・・」

 私 「ま、決まった任務を果たすか、寿命が来れば、パケットには『TTL』があって、ルータなんぞに捨てられてしまいますわな」

同僚 「なるほど」

 私 「で、ね、こうやって日々、生まれてはまた黙々と死んでいく何千兆というパケットもね、数が数だけに、中には果たせぬ渇望とか、恨み、怨念なんかを残して、通信障害なんかによって、あたら若い命を散らす奴もいないとは限らないと思うんですよね」

同僚 「おっ、なにやらスイッチが入ってきましたな、得意なヘンなところに」

 私 「そういう無念な死を遂げるパケットは多くはないとは思うんですけど、でもほら、数が数だけに、積もり積もるとかなり大きな怨念が蓄積する。」

同僚 「それはちょっと怖いかもしれませんな」

 私 「そういうパケットの怨念が積もり積もって、あるスレッショルドレベルみたいなものを超えると、大規模なシステム障害に見舞われたり、コンピューターウィルスの流行などが起こったりするワケです」

同僚 「はは~ん、古い話ですけど、みずほ銀行のシステム障害とか、パケットの怨念のせいにすればカンタンですな。」

 私 「で、だ。こういうパケットの怨念を捨てておくと、今や社会インフラとすらなっているインターネットに霊障が出てしまう、なんとかしなければなりませんよ、そこで、当寺が仏縁なくして亡くなった寄るべなきパケットの魂を手厚く回向し、責任をもって永年供養いたします、と、こうやるワケです」

同僚 「おっ、これはカネが取れそうですな!」

 私 「でしょ?で、月々供養料というか香華料みたいなものを集めるわけです。あと、さっき言ってた、コピペで適当に作った経典にもっともらしいどっかで聞いたような人の道みたいな警句のクッサいヤツをめいっぱい盛り込んで、これも値段を付けて売りましょう。当然、ダウンロードPDF販売。紙代がもったいないですからな。読経とか法事はストリーミング映像配信で手っ取り早くイっちゃいましょうや。」

同僚 「宗教ですから、税金もいりませんな」

 私 「あと、どっかの宗派がタイコ叩いたりしますけど、こっちはウェブ上の本尊の画像かなんかを100万遍クリックすると修行になるとか、テキトーに行法を作るわけですよ」

同僚 「なかなかキビシイ教えですな」

 私 「でしょでしょ?そんで、供養料を納めなかったり、経典PDFをダウンロードしないような不信心なネットワーカーには、『祟りが来るぞ、情報流出してしまうぞ、捨てたパソコンが地獄に落ちて、お前の恥ずかしいデータやネットバンキングのパスワードなどが晒されてしまうぞ、2ちゃんねらーがブログに大挙してやってきて炎上してしまうぞ、いいのかオイ』みたいな不安をどんどん煽るワケです。」

同僚 「なるほど、『パケット供養寺』ですなっ?」

 私 「いかがなもんでしょう。定年後、一緒にやりませんか?」

同僚 「いや、お断りします。」

 私 「なんでですか?このアイデア、ダメですかね。」

同僚 「ええ、ぜんぜんダメです。っていうか、クダラネェです。」

 私 「・・・。」orz

応用曲「エリーゼのために für Elise」その0.11

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 最初っから指づかいを間違えて練習していたのに気がついた。3小節目左手である。

 ミミ#ソ、 というところを5・2・1、すなわち小指-人差し指-親指、というふうに弾いていたのである。

 なんだか弾きにくいなァ、変だなあ、とは思っていた。3月からこっち、既にふた月もこれで練習してきてしまったのだ。あんまりにもなんだかヘンで、特に2→1というところで人差し指の爪が黒鍵と白鍵の間に突き刺さって爪が折れそうになり、「はうぐッ!」と呻きつつ「ぬぅ、一体コレは・・・?」などとつぶやいていたのだ。

Photo_3 よく見たら、ハッキリと「1 2」と書いてあるではないかい!!(左図)

 「指またぎ」風に親指をまたいで、人差し指で#ソを弾くのだったのだ。一度「1 2」を「2 1」だと思い込んでしまうと、もはやその部分を改めて認識しようなどとは思っても見ず、固く固く「2 1」と信じ込んでしまっていたのである。

 おっさんというものの一般特性は思い込みが非常にハゲしいということである。「アイツが悪い」とか「これが原因だ」とか「これは良くならない、原因不明」などと思い込んでしまうとガンコこの上なく、ちょっとやそっとでは意見を変えないし、よしんば自分の間違いに気づいても、前後の見境もなくブチ切れたりして、始末に負えない。つまり私もそうである。

 俺ってやっぱりアホやなァ、などと思う日曜の午後なのであった。