Facebookアプリ調子悪い

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 Android用のFacebookアプリ、調子が悪い。起動するたび、2回に1回はOSを道連れにして異常終了し、携帯電話全体が再起動するので、手間がかかってしょうがない。

 先月頃のアップデートから変になった。その後、更に1回アップデートがあったが、全く改善されていない。

 知っている人のアドバイスで、フィードバックを送るなどしてみたが、全然ダメである。

 「キャッシュ」や「データ」を削除してログインし直してみるなどしたが、ログインした途端OSごとリブートされてしまう。

 うーん、どうにかならんのか。

こりゃあ驚いた

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 なるほど、なあ……。今度は指紋か。デジカメもおっそろしく高解像度化してるもんな。

 今まではネットに写真を出すのに、人の顔が写り込んでいたらモザイク消しにしたりするのが一つのたしなみでもあったが、今度は手の写り込みにも慎重にならなくてはいけなくなってきたわけだ……。

 スマホの内蔵カメラは言うに及ばず、先頃私が購入したコンデジ「IXY 190」などもそうだが、これくらいの普及価格のコンデジですら、カメラからサクッとクラウドに繋がり、ヒョイヒョイSNSに写真を上げることができる。勿論Exif情報にはGPSデータ付きだ。今時Facebookなどの無料SNSでも、顔はパッパッと認識され、ビシビシとタグ付けされる。Facebookでは手動で許可しなければタグ付けされないが、これが仮にクラウドの向うで全部自動顔認識されていたとしても、こちらにはそれを確かめる術はない。

 ま、だからと言って、コレは如何なものかと思うが(笑)。

ARuFa氏

 あと、この人なんかもうかれこれ10年くらい顔認識できないようになってますよ。

 そのうち、何か分光分析のようなことで画像から血液型までわかるとか、そんなことにならんだろうねえ。あるいは、極端な高解像度化により、画像からDNAまでわかる、とか。千年くらいかかるかなあ、そうなるには。……いや、意外と100年とか、50年でできるかも?

教師非難・学校教育批判は胸糞が悪い

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 去る11月頃からであったか、子供の算数のテストの、ちょっとした回答に×を付けたのなんのと教師非難や学校教育批判をしているネット風説が見られるようになった。いわゆる「9.0の件」だ。

発端となったツイート

 発端は、この、一般人のツイッターへの投稿なのだが……。

 だいたい、自分の子でもない、親類の子のテスト答案だ。御本人も「姪」と明記している。

 私にも、自分の子供もいれば甥、姪もいる。甥、姪に対する責任感と自分の子への責任感の軽重など、簡単に想像もつく。また、甥、姪はいたが自分の子供はない、という時代も私は経てきているから、そういう状態でどれほど子供の教育について責任を持った発言ができるかも、おおよそ察しはつく。

 このツイートをした御本人は、その子の教育・養育に厳しい責任を負うているわけでもないのだろうと思われる。つまり、それが悪いとかどうとかいう事ではなく、このツイートそのものが、まあ、単なる「話題()き」に過ぎないのだろう、ということだ。釣り、とまでは言わない。この方の投稿自体は他意もないもので、技術者らしくチクリと話題を提供しただけ、つまり、「気楽なツイート」の範囲を少しも出るものではない。だから、この話題の発端の投稿者には、何の罪もない。もっと言えば、それを取り上げてワアワア騒ぐような要素など、何もないのだ。

 そう思いたいから、実はこの話題に触れるのも馬鹿々々しく、これについて考えることもしたくなかった。だが、こうも長い間引っ張られ、SNSのタイムラインに延々頻々(ひんぴん)と書き込まれていると、少しばかり感想を書きたくもなる。

 私は、多くの人が言っている傾向、「日本の学校教育はおかしい」「この教師はおかしい」「このテストは『○』で間違いない!!」……という傾向には、反対だ。

 指導上のルール、規範、ガイドラインというのも当然ある。だが、それだけではあるまい。一つのテストには何問も設問があって、そのテストも、一人の子が何度も受けることを考えると、年間にわたって、自然、その子供の指導上の傾向と言うものが出てきて、教員は当然これを考慮するはずだ。

 そこからして、ひょっとすると、この小学校の先生の採点には、ルールの遵守ということに加えて、何らかの事情や、指導上の流れがそこにあったのかも知れないではないか。なぜ、そう考えないのだろうか。どうして、そういう状況、教師と生徒、また保護者と言った当人たちの間でしかわからないコンテキストが全部切り外されているということに着目しないのだろうか。しかもなお、その採点をした時の、そうしたなんらかの事情や状況をよく確かめようとか斟酌しようと言うのでなしに、その部分だけ持ってきて

「日本の学校教育は全部間違っている!」

などという極端な方向へ、いい年こいた大人が気炎を上げている。変じゃないだろうか。それが、テストで×のついた、その部分だけを撮影した一般人の与太(まが)い投稿を発端にしてのことなのだ。おかしいと思わないのだろうか。

 哀れや、小学校の先生は槍玉に挙げられ、衆はまるで鬼の首でも取ったような勢いである。衆をもって個を囲み、叩く。いわばネットスクラムの状況とはこれだ。発端の一般人は「おじ」であって、その子供の保護者でも何でもなく、局外者に過ぎないのだから、小学校からのこの件に関する抗議めいた照会は届くまい。

 こんなバカな話、ネットで盛り上がっているだけなのであれば微笑ましいくらいのものだったが、それが、テレビや雑誌まで参入し、学校教育批判を繰り広げるとなると、ますます話は異様だ。どうでもいいタレントが何か少しコメントでもするというくらいならまだしも、高名な教育者や大学の教授、著名な数学者まで、知性も教養もある大の大人、斯界の権威者連が血眼になっている異様さは、これは一体、なんだ。

 その権威者たちがおかしいわけでもないだろう。実はその権威者御本人たちもこんなことを評論するのは馬鹿々々しいと思っているのだろうが、テレビや新聞に引っ張り出されれば、「世間様は多分こういう答えを期待するだろうな」という、そういう忖度(そんたく)でもって人々にウケるような見解を述べざるを得ない。権威者とて、これからもギャラ貰って生きていかなくちゃならない生活者なのだから。そう考えてくると、テレビ番組制作陣の内部に瀰漫(びまん)する、誰とも知れぬ妖怪のような反社会的空気の薄気味悪さが容易に想像される。

 だいたい、その権威者たちだって、「.0」を消して、澄まし返った答案を出すようないけ好かん「お利巧馬鹿」だったからこそ有名大学に入って威張ることができているのである。彼らは、世界に冠たる日本の学校教育システムの、いずれ劣らぬ寵児達なのだ。彼らがポピュラー受けを狙って言いそうな、「こういう学校教育の悪弊はすぐ改めろ」なんてことをすれば、それは巡り巡り、繋がり繋がって、「去年の大学入試では合とされた回答が、今年は否とされる」という時系列的な不公平を惹き起こす、ということだって考えなくてはならないだろう。すなわち、自分の今日の地位はたまたまテストで○×式に判定されて得たもので、実は過去○だったが現在は×である、したがって自分の今の権威と名声は「×」であって、テレビや新聞で高説を垂れ流すような資格なんぞ実はまったくありません、……なんてことにもなりかねないのである。

 テストの学問的な内容だけが採点されるべきだというなら、「テストに名前が書かれていなかったら0点」なんてのもおかしいということになる。答案を集める時に席に順番があるのだから、どれがどの子の答案かなんて、誰でもわかる。内容だけを採点すればよい。それでも名前は書かせる。それは、「ルール」なのである。「.0」を消すようなものだ。

 まったく、多くの(なま)の子供や父兄と日々向き合い、しかもお(カミ)の示すところも重々しっかり守って職務を遂行している現場の教員には頭が下がる。お疲れ様と労いたい。

 人々は本当に、学校の教師、警察官、公務員、ルール、政府、役所、こういうものを心底から嫌い抜いていること、また、そういうものを嫌わせようとする何らかの意図が何者かから働いていることがよくわかる。もはや、「それらをよくしよう、改善しよう」なんて気持ちは全く見られない。「お前らはアホだバカだカスだこんなこともできねえのかクズ」と言う意味のことを誠に丁寧な言葉で言い換えて(わめ)き続けているだけにしか見えない。

 不思議なのは、みずから嫌い抜いている職業に我が子を就職させようと血眼になったりすることだ。

 普通、嫌いなものからは遠ざかるものだ。なのに、寄っていくばかりではなく、それを求めたりする。マゾじゃあるまいし。「それは不況だから」などと言うのだろうけれども、ゼニカネの問題で公務員になろうなどと言うのは、「高い時に株を買う」ようなもので、馬鹿のすることだ。

 ルールや権威に頼らず、自ら考え、行動を律したいというのなら、何もルールずくめ、権威ずくめの、法治国家である日本や米国その他自由主義国でそんなことをする必要はない。アフリカの原野か、北朝鮮の悪名高い教化収容所ででも自由に生きればいい。大学の教授や高名な教育者や数学者、経営者、権威中の権威なんかを引っ張り出してくる必要はないのだ。もっと言うなら新聞やテレビ、Twitterその他SNSすら、自ら是と認めた原理こそ至上とする人には全く必要あるまい。チラシの裏にでも自分の見つけた原理を記して、それを守って生きればよい。新種の教祖にでもなれるのではないか。

 私はそうではない。部分部分に少々変なところがあっても、トータルバランスのとれた社会システムの中に身を置く。そうして生きてきたし、その「部分部分の少々変なところ」が、「全体を適正にするためにどうしても必要な皺寄せ」であるなら、それに自らがたまたま大迷惑を被っても、我慢するし、これまでも我慢してきた。それが嫌なら、山庵(さんあん)(こも)って世捨て人の暮らしでもすればよい。学校と教師と文部科学省と政府と役所と法律と行政がそんなに憎いのなら、子供も学校にやらず、犯罪人も敵もいない山中で、「アルプスの少女ハイジ」みたいに、山羊と高山植物とお経だけを相手にさせて清らかに育てればよい。……できるもんなら、だが。

Jetpackのパブリサイズ共有が全滅(3)

投稿日:

 などと言っていたら、今朝の投稿が今頃になって突然ポコポコポコッ、と連続ポストされた。

 なんなんだろ。

 いずれにせよ、「私の問題」じゃなくて「他人の問題」、他人の問題の中でも「アッチの問題」じゃなくて、「コッチの問題」っぽいな。他のSNS、TwitterやGoogle+も今頃になって投稿されてるから、Jetpackの問題か、wordpress.orgの問題か、あるいはサーバ会社のロリポップの問題だろう。

 詳しいログなどがほとんど手に入らないから、調べようがない。

Jetpackのパブリサイズ共有が全滅(2)

投稿日:

 WordPressサイトのほうの設定の、「共有」で各SNSとの連携を解除してみたら、設定の画面は正常に遷移した。

 さて、この投稿はうまくいくかどうか……?

 しばらく様子を見てみたが、やっぱりダメみたいだ。

Jetpackのパブリサイズ共有が全滅(1)

投稿日:

 なんだかわからないが、今朝からJetpackのパブリサイズ共有が全滅している。

 クロスポストしている4つのサービス、Facebook・Twitter・Google+・LinkedIn、どれも一つもポストされなくなってしまった。

 Jetpackのパブリサイズ共有を一度無効にしてもう一度有効にしてみたり、WordPressサイトのほうの共有をいじってみたりしたが、ダメである上に、自分のサイトに戻ってくると、Facebookからの連携許可ダイアログが連続して表示され、止まらなくなるなどした。

 どうも、先日のJetpackのアップデートあたりが原因であるような気がするが、一昨日は異常なくクロスポストできていた。

情報システム利用者に個人認証情報を正しく行使させるための着想

投稿日:

 ネタの中に一掬(いっきく)の真実を混入して書いてみよう。

 「会社や事業所の公用パソコンを私用に使うことを認めれば、情報セキュリティが弱くなるように見えて、実は強くなる部分もあるのではなかろうか?」という、公私混同を奨励しかねない馬鹿々々しい着想を得たのだ。

 以下、陳者(のぶれば)

 「情報セキュリティは『C・I・A』だ」と巷間(こうかん)よく言われる。「Confidentiality(機密性)」「Integrity(完全性)」「Availability(可用性)」の略である。

 この「C・I・A」なる見事な頭文字語(イニシャリズム)の出典を権威性のある文書に求めるなら、例えば「JIS Q 27000」というものがある。

 「JIS Q 27000」の標題を全部記すと、

jis_q_27000_1
JIS Q 27000『情報技術―セキュリティ技術―情報セキュリティマネジメントシステム―用語 Information technology – Security techniques – Information security management systems – Overview and vocabulary

……と、随分長ったらしい。

 ともあれ、この標題にある通り、「JIS Q 27000」は情報セキュリティに関する国定規格だ。日本工業標準調査会(JISC)のサイトで検索すると閲覧できる。

(直リンクを張りたいところだが、ダウンロードや印刷を制限するためのスクリプティングが施してあり、リンクを張っても無効になるので、検索ページに「JIS Q 27000」を入力して検索するのが手っ取り早い。)

 参考までに、この「JIS Q 27000」は「ISO/IEC 27000」を翻訳し、(わず)かな部分を削除したものだ。「ISO/IEC 27000」と言ってピンと来ない向きも、「ほら、『ISMS』のことだよ」と言うとパッと合点(がてん)がいくだろう。

jis_q_27000_2 この文書を繰ると、その中の「2.33 情報セキュリティ」という項目に、情報セキュリティとは何か、という用語の定義としてこの「C・I・A」が記されている。

 曰く、情報セキュリティとは、「情報の機密性,完全性及び可用性を維持すること」である、と。

 この「C・I・A」についてはよく言われるし、情報セキュリティの勉強などしている者なら誰でも(そら)んじているものだ。

 ところで、この「C・I・A」には、実は忘れられがちな「付け足し」がある。前に揚げた用語の定義の後半に、次のように書かれているのだ。

jis_q_27000_3「注記  さらに,『真正性』,『責任追跡性,否認防止』,『信頼性』などの特性を維持することを含めることもある。」

 JISによる翻訳が成るよりも古い頃に、ISMSを直接翻訳する等して使用してきた企業や事業所などでは、この「真正性 Authenticity」「責任追跡性,否認防止 Non-repudiation」をそれぞれ「識別認証」「否認防止」という風に翻訳し、ルール化等している場合がある。

 この「付け足し」、すなわち「注記」部分が実に味わい深い。この記事の着想の肝がこれである。

 「C 機密性」「I 完全性」「A 可用性」という情報セキュリティの三つの主要素は、すべて目的指向である。ところが、場合によっては含めることとされている「注記」のいくつか、特に「真正性」「否認防止」は、目的を達成するためこれを支える「手段」を指向している。そうした手段指向の点でも、この付け足しは味わい深い。

 「真正性」「否認防止」とは実際にどのようなことかを具体的かつ端的に言えとならば、例えば、利用者に固有のユーザIDとパスワードを必ず行使させる、ということなどがそれだ。つまり、

否認防止の図
否認防止の図
「X月X日XX時XX分XX.XXX秒に事務所の端末からログインし、許可されざるバイナリを外部メディアからコピーしたる何某(ナニガシ)、これにより今般(こんぱん)端無(はしな)くもウィルスをバラ()き、(あまつさ)えこれを因とする情報漏洩インシデントを惹起せしめ、会社に損害を与えたる段、誠に()って不届至極(ふとどきしごく)。よって切腹申し付くるもの也。仍如件(よってくだんのごとし)、上意ッ!」

……という沙汰がはっきりと決定され、それを何某氏が

「いえ、私はそんなことはしていません、誰か知らない奴が私のIDを勝手に使ったんです、私じゃありません、そうでなければこれはシステムのバグ、そう、バグですよッ!!何卒穏便(なにとぞおんびん)寛恕(かんじょ)下されたくお願い(たてまつ)りまするッ、上様お慈悲を」

などと言い逃れることが全く不可能な状態、つまり、

「ええい、その方のデジタル署名がなされたアクセスがログに残されておるッ!! しかも、その方のIDは、決して他人が行使することができない状態にあったことは、かくかくしかじか、これこれこうこうをもって技術上明らか!申し開きなど致すまいぞ、神妙にせい」

……という状態になっている、ということだ。

 それがまた、情報セキュリティ上の不手際な使用を利用者にさせないための冷厳な抑止力にもなる。この抑止力は「C・I・A」を支える手段となる。

 だが、「ユーザIDとパスワード」という、古くからある識別認証手段は、単純でコストが安いという大きな利点がある反面、それを適正に行使させるには、「ルールで利用者を縛り、ルールを守るという『人力』でシステム運用をするしかない」という欠点がある。社則や規則に「ユーザIDとパスワードは自分で管理し、特にパスワードは他人に漏らさないようにして、机の裏に付箋なんかで貼っておいちゃダメ」と書いておき、社員はそれを守る、という方式になってしまうのだ。この方式では、ルールを破る奴がいると、そこで識別認証の仕組み全体がまったくグダグダにダメ化してしまうということである。

 多く見られることだが、ユーザIDやパスワードが「共用」になっていて、何人もの人が使いまわしていたり、個人IDになってはいても、それを貸し借りすることがある、などという場面もかつてはよくあった。今でも所によってはそんなシステム利用を漫然と続けている企業や事業所もあるだろう。私がかつて見た光景には、利用者は共用IDでログインするのだが、端末の前に記録簿があり、ログインの都度氏名と利用時間を記入捺印する、というのもあった。こんなの、記入をサボッてもバレないから、即、無意味である。まあ、その方式を採用した管理職が、

「いや私は、現状でできるだけの、精一杯の管理の仕組みを整えたんです。だから無罪です。記入をサボッた部下が悪いんですし、記入を徹底させられなかった中間管理職が悪いんです」

と、後で言い訳をすることができるという意味なら、あることはあるのだが。

 もちろん、単純な「ユーザID・パスワード」でなしに、認証トークンとかカードとか、生体認証などを導入すれば、こういう「ダメ化」への相当な解決にはなる。しかし、こうした色々なデバイスは運用できる寿命が短かったり、値段が高かったり、適合するOSやハードウェアに制限があったり、導入は簡単ではない。

 これら諸々(モロモロ)を沈思黙考するうち、ふと考え付いた。

 合理的で安くつくのは「ユーザIDとパスワードの適正な行使を、利用者がどうしても自ら守らざるを得ない」という状況を作り出すことなのではなかろうか。「自分のパスワードなど、死んだって他人になんか教えるもんかい!」と、利用者自身が必死になる状況だ。

 そのような状況とは、どういう状況か。

 もし私が情報システム利用者で、自分のパスワードを上司にも同僚にも部下にも知られたくない、百歩譲って家族にも友人にも絶対知られたくない、自分以外の人間にユーザIDを行使されるなんて絶対嫌だ、……という理由があるとすれば、それは例えば

  • 「他人に自分のお金を使われてしまう」
  • 家族などのプライバシーに関する情報が見られてしまう」
  • 「ディレクトリの深いところにエロ写真を隠している」
  • 「ネットの変な閲覧履歴を見られたくない」
  • 「FacebookやTwitterなど、SNSのパスワードがバレると嫌だ。ライバル社員に俺の友達限定タイムラインを盗み見られてしまう」
  • 2ちゃんに書いたあの誹謗中傷、実は俺!!」

……などの、しょうもない理由だ。人によっては「浮気や性的嗜好などの、私行上の非行がバレるのが嫌だ」などという、オイオイオイおっさん大丈夫か系の秘密もあるだろう。女の人だったら、家族や恋人、あるいはスッピンとか変顔(ヘンがお)で写っている自分の写真データなどを見られるのが死ぬほど嫌だったり、もっと言えば乳だの胴だのの寸法とか体重、歳が明らかになるのなんて言語道断もってのほか、なんてのもあるかも知れない。

 どれもこれも実にクダラネェが、しかし個人にとっては喫緊(きっきん)の重大事である。クダラネェことばかりではない。病歴犯歴など、シャレにならないプライバシーだってあるだろう。

 しかし、上例は多分に冗談を含むものの、ある意味、人の世の真実ではないかと思う。スノーデンだのウィキリークスだののキーワードを散りばめるまでもなく、国や大企業の秘密が暴かれてざまぁ見ろと人々は溜飲を下げ、反面、プライバシーがネット流出すると青筋立てて損害賠償騒ぎになる、というのが現代の偽らざる世相であることを、誰でもが認めざるを得まい。昔とは違う。

 これを単純に表現すると、今日(きょう)び、

「天下国家の秘密なんかより俺の秘密」

……なんである。

 今はそんな世の中だ。いやまあ、これは人によるとは思うが。政治家や行政の首長(クビチョウ)さん、あるいは会社の経営者だったら逆に、「馬鹿野郎、俺の秘密なんかより天下国家の秘密にきまってンだろがボケッ!」と思うだろう。

 さておき、しかし、BYODで、「半分私物」のPCを仕事で使っていたら、そりゃもう、利用者はユーザIDやパスワードを全力で隠すと思う。恥ずかしいから。

 そこで逆に、天下国家の秘密を隠すためには、「天下国家の秘密と俺の秘密」を()()ぜにして、「天下国家の秘密をバラすような奴は、『俺の秘密』も同時にバレる」というふうな状況、つまり、

「俺の秘密が情報セキュリティの『人質』にとられている」

……という、そういう状況を作為してやればよいではないか。

 簡単だ。会社や事業所のPCを私用に使わせましょう。私用メール、私用ネット閲覧、私用データ保存、バリバリ一緒くたに公私混同させちゃいましょう。

 そうすると、もう、みんな必死で自分の情報と一緒くたになった会社の情報を守ってくれますよ。パスワードなんか、絶対に机の裏に付箋で貼り付けて置いたりしないでしょうよ、恥ずかしいですからね、浮気とかエロ写真とかスッピン顔とか2ちゃんに書き込んだ罵詈雑言とか盛ってない方のホントの乳のサイズとか色々とバレちゃいますからね、ええ、ええ。


 ……いやあ、こんなしょうもないこと書くのに、何も「JIS Q 27000」なんか持ち出す必要もなかったかなあ。途中から論がズコッ!っと音を立てて落っこちた気がする。うん。

池の端藪蕎麦の写真があった

投稿日:

 自作の「東京蕎麦名店マップ」。ここには、東京の蕎麦屋さんを訪ねては自分で撮った写真を載せている。

 しかし、一店だけ、何度か訪れて写真を撮ったはずなのに、どうしても見つからないものがあった。今取り壊されている「池の端藪蕎麦」の写真である。

 以前まだ盛業のおりに撮っておいた写真があるはずだったのだが、どこかへ紛れてしまい、どうしても見つからなかった。訪れた日にちも記憶が曖昧で、よくわからない。

 ところが、今日、Facebookの自分のタイムラインを繰っていたら、不意にその写真が見つかった。

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 この写真によると、平成26年の8月に訪れていることがわかる。

 早速名店マップに写真をアップロードしておく。

秋だ目黒だ秋刀魚(さんま)だガーデンプレイスだ

投稿日:

 昨日「室町砂場」の事など書いて「蕎麦自慢」をしていたら、Facebookで三十年来の旧友F君からコメントがつき、「明日は『目黒のさんま祭り』だ、一緒に行かないか」という。

 実は私は、以前、目黒の職場に10年ほどもいたことがあり、この「さんま祭り」のことには「ちょっと詳しい……」のである。当時は職場の古株だったので、このさんま祭りの事は人によく紹介した。

 ところが……。

 白状してしまうと、私はこのさんま祭りに一度も行ったことがないのだ。さんま祭りは例年日曜日にあるが、自宅から目黒の職場は遠いため、日曜日にわざわざ出かけるのが面倒だったのである。しかし、更に加えて面倒だったことには、望まずして職場の古株だったものだから、しょっちゅう「さんま祭り」のことを他人から尋ねられたのだ。

 で、「私自身は行ったことは実は一度もないんですが」と前置きしたうえで、自分の知る限りのことを調べては人に教えた。それが運悪くというか、「さんま祭りのことなら佐藤さんが詳しいから、聞くといいよ」みたいなことを誰かが言ったらしく、自分が行ったこともないさんま祭りの事を案内紹介しつづける羽目に陥ったのだ。

 さておき、そんな風だった目黒の職場から離れてもう8年経った。さんま祭りの記憶も次第に薄れていたが、畏友F君の誘いとあればこれはもう行かないわけがない。

 改めて記せば、例年目黒では落語の「目黒のさんま」にことよせて、「目黒のさんま祭り」が行われる。主催主体の違いで、二週にわたって似たさんま祭りが二つ催される。いずれも本場宮城沖のさんまを取り寄せ、香ばしく焼き上げたものが無料でふるまわれる。

 今日のさんま祭りは目黒区が実施主体で、「目黒区民祭り」の中に組み込まれているイベントである。

 旧友F君と目黒駅で待ち合わせる。連れだって目黒川沿いの受付窓口へ行くと、手首に整理券になるバンドを巻いてくれる。色分けされ、時間が書かれてあって、私達は正午からの順番になった。

 正午まで暇だから、F君を爺が茶屋のあった場所に案内した。

名所江戸百景・目黒爺々ヶ茶屋
名所江戸百景・目黒爺々ヶ茶屋

 目黒川沿い、「目黒のさんま」の噺のもとネタとなったといわれている「爺が茶屋」という丘がある。安藤広重の「名所江戸百景」の中に「目黒爺が茶屋」という有名な絵があるが、これがまさしくその場所だ。

 現在の地名は「茶屋坂」だ。丘のふもとには清掃工場、丘を登り切ってしばらく行くと、恵比寿ガーデンプレイスがある。

 次のような話が残る。


 目黒は当時、景勝地で、馬の遠乗りや鷹狩の場所でもあった。

 この地に住まいしていた百姓の彦四郎じいさんは、峠近くに茶屋を設け、百姓仕事の傍ら店を切り盛りしていた。

 三代将軍家光が目黒で鷹狩りを行うという。彦四郎は粗相があってはならぬと、その日は茶屋を閉め、ひっそりと家に閉じこもっていた。鷹狩が始まり、にぎやかに勢子(せこ)の声がし、やがてそれも()んだが、どうしたわけか茶屋の前に人声がし、多くの人がたむろしているようだ。

 そうと見る間に、茶屋の戸をがらりと開けてつかつかと入ってきたのは征夷大将軍徳川家光その人であった。驚きいぶかしむ彦四郎に、将軍は親しく「茶を所望する」と声をかけた。

 しかし彦四郎は困惑する。百姓町人に供するような渋茶しかないのだ。どうしようかとまごまごしていると、将軍は「よい、(じい)、普段出しているのとおなじ茶でよいのだ」と闊達(かったつ)なことばを彦四郎にかけた。

 それでも、いつもより丁寧に茶を淹れ、おそるおそる差し出せば、将軍もこだわりなく、喉が渇いていたのでもあろう、熱い渋茶をうまそうに飲み干して、

 「爺、これからは遠慮なく、鷹狩の時も店は閉めずともよいぞ」

 と言って立ち去った。

 それから家光はあるじ彦四郎の純朴さを愛してたびたびこの茶屋を使ったという。

 また、八代将軍吉宗の時代にも、この茶屋はあった。家光の頃から50年~60年以上も経過しているから、茶屋の主彦四郎も、息子か、孫であったのだろう。吉宗も彦四郎にことばをかけては、茶代に銀1、2枚を下し置くのを例とするようになった。歴代の将軍や大名も、それにならい、目黒筋の狩猟や参詣にはよくこの茶屋を利用するようになった。

 十代将軍家治も親しくこの茶屋を使った。

 あるとき、いつものように将軍が茶を喫していると、なんとも言えぬ良いにおいがただよってくる。

 「(じい)、このよいにおいは何か」

 「はい、これは手前どもの昼餉(ひるげ)の、『田楽』の味噌が焦げるにおいでございます」

 「ほう、『田楽』とは聞きなれぬ。どのようなものか知らぬが、いかにもうまそうな香りである。どれひとつ、これへ持て。」

 恐縮しつつも焼きたての熱い田楽を差し上げると、うまそうにそれを平らげた将軍はその味をほめ、ことのほか満足の(てい)で茶屋をあとにした。

 ところが、その後の鷹狩の際、「あのうまい田楽なるものをば、この(たび)はぜひ供の者どもにもふるまうべし」と将軍の仰せである。その数たるや、なんと100串。

 彦四郎は大慌てで、方々からかき集めて豆腐をあがない、必死になって田楽味噌を摺り、囲炉裏の火をかきたてて、汗だくになって次から次へと田楽を焼き、やっと将軍の思し召しに(たが)わずにすんだという。


img_4678 落語の「目黒のさんま」は、この田楽の話を秋刀魚(さんま)に翻案したのではないかと言われている。

 どちらかというと海から遠く、鷹狩りを催すほどの丘にあった当時の目黒で、秋刀魚が名産であるわけがないのだが、そこをうまく使って落とし噺にしたのが「目黒のさんま」だ。

 このあたりの実際の話は、右リンクバナーの「東京今昔探偵」という本の中に、爺が茶屋の(あるじ)彦四郎の子孫、島村七郎氏から聞き取った、ちょっとした実話が載っている。

 ガーデンプレイスでコーヒーなぞ飲んで時間をつぶし、またゆっくりと会場に引き返す。おりから小雨交じりの曇天ではあったが、会場からはさんまの煙が威勢よく立ち上っている。

img_4680 整理方法が計画的に工夫されているようで、大して並ぶわけでもなく、整理券さえちゃんと貰っておけばスムーズに会場に入れる。

 地域の人たちが何百もの秋刀魚をどんどん焼きたてていて、その様子は壮観だ。

img_4682 焼き立ての秋刀魚をひとつ貰う。

img_4683 うまい。実にうまい。(はらわた)まで全部平らげてしまった。

 ビールを飲み、至福の見本のようになる。

img_4707 すっかり出来上がって、F君とフラフラほっつき歩き、再び茶屋坂を登って、恵比寿駅前の「おっさんホイホイ」系居酒屋の前あたりなんぞをひやかす。

 そうするうち、それはそうとビールならこうでしょう、というわけで、再び恵比寿ガーデンプレイスまで、JR恵比寿駅「atré」のエスカロードに乗る。

img_4697 ガーデンプレイスでは「恵比寿麦酒祭り」というのを開催中で、これがまた、さんま祭りの客を大いに取り込み、大変な盛況である。

 F君と雑談などしつつ、ヱビスビールをたっぷり楽しむ。店をかえ、更に飲んだ。

 日暮れ。一日、少々ぐずついた空模様ではあったが、傘なしでも濡れるというほどではなく、日に照られずに済んでかえって涼しくて良かった。

 旧友F君の誘いで、秋の一日を楽しく過ごすことができた。

WordPress+JetpackのTwitterへの二重投稿

投稿日:

 WordPressからTwitterへのクロスポストをプラグイン「Jetpack」を使用してやっていたのだが、いつ頃からかTwitterへ二重投稿されるようになってしまっていた。

 JetpackでFacebookへのクロスポストも使っているので、Facebook→Twitterへの連携のために二重投稿になってしまうのかな、とも思い、FacebookとTwitterそれぞれの連携を削除してみたのだが、状況は同じで、やっぱり二重投稿されてしまう。理由が分からなかった。

 よく調べてみてやれと思ってTwitterのほうを見ると、「設定」のうち、「アプリ連携」に、なぜかWordPressがふたつ許可されている。ははあ、これだな、とやっと見当がついた。

 二つの連携許可を削除し、あらためてJetpackの共有設定でTwitterの「連携」ボタンをクリックすると、今度は、あれ……?エラーメッセージが表示され、二度と連携できなくなってしまった。うーん。

 ハテ、ひょっとしてコレかな……、と、WordPress.comの方へ行き、ソッチのほうの「共有」からTwitterへの連携を許可してみた。

 投稿してみるとうまく行っている。……同じようなことで悩む人もいるまいけれども、いちおうここに書き記しておこう。誰か参考にするかもしれない。