時計を買い替える

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左はGW-600DJ、右はこの度新調したMTG-M900DA-8

 先ほど、Amazonで買った腕時計が届いた。

 カシオの「G-SHOCK」。

 「G-SHOCK」はなかなか頑丈であり、性能も高く、機能に不足はない。ラインナップも豊富で、オッサン向けだけではなく、女性向け、子供向け、カジュアル、フォーマル、ヘビーデューティなど、さまざまなデザインや値段のものを選ぶことができる。素材も樹脂、メタル、チタンやカーボンまである。しかもちょっとしたブランドでもあって、これを手首に巻いていて極端に(あなど)られるということもそんなにない。そもそも、ロレックスだのウンタラだの、「机の(かど)っこにぶつけて泣きが入るようなしょうもない時計」には、私はハナッから興味がない。

 それで、15年ほど前に「GW-600DJ」という型番のものを購入し、長年愛用してきた。

 これはG-SHOCKでは珍しい、「デジタル表示、かつ金属バンド」のデザインのものである。

 私はガテンなDQN(ドキュソ)職場(笑)で働いているので、時刻を書き取ったり、伝えたりすることが多く、できればデジタルの時計を選んでおいた方が間違いがない。

 そしてまた、ガテンなDQN(ドキュソ)職場の悲しさ、樹脂バンド・革バンドの時計はどうしても汗・皮脂でバンドが(いた)み、腐って変色したり、(ぜい)化して切れたりするのだ。加えて、嫌な話で恐縮だが、バンドが臭くなるのである。左手で机に頬杖をついたら、ぷぅ~ん、と臭いがして、誰だこの臭味(クサミ)を撒き散らしている野郎は、出てこい、などと勢い込んで周囲を見回す。ところが、それが自分の腕時計のバンドの臭いであったりして、こんな場合はもう、自己嫌悪と言うか、暗澹たる気持ちになるのだ。かつまた、この(クッサ)イ左腕で他人に触れたりしていなかっただろうかと思うと、消え入ってしまいたくもなる。

 だから、腕時計はできれば丸ごと洗浄できる防水のもので、かつ清潔な金属バンドのものを使いたいのだ。

 それで、当時もG-SHOCKでは珍しかった「デジタル・金属バンド」デザインの、この「GW-600DJ」を選んだ。

 この「GW-600DJ」、買ってからというもの、実に快調そのものであった。7~8年ほど前に充電不調となり、一度電池を交換したことはあるものの、その他にはなんら不足もなく、また、風雨、泥濘(でいねい)、寒冷、酷暑等、過酷な状況に度々(たびたび)(さら)してまったく故障することもなしに動き続け、堅牢(けんろう)そのものであった。これはまことに驚嘆かつ特筆すべきことと言える。

 かつて液晶の寿命は5~6年と言われ、私などが若い頃のデジタル時計はそのとおり数年でダメになったものだ。だが、若い頃の5~6年というのは(ほぼ)「永久」と同義であったので、気にしたことはなかった。ところが、歳も知命(五十)を回ってくると、5~6年というのはついさっき、という感じがして来るのもさもあろうか。

 それはさておき、調子は怪しくなってきてはいるものの、液晶の表示については鮮明度・確実度ともになんら低下の兆しのない愛用のG-SHOCKの耐久度たるや。カシオの液晶技術は、もはや激賞に値すると言っても過言ではない。

 ここまで使うと愛着も湧くというものである。既にこの時計は私の腕の一部となっており、眼をつぶっていてもあらゆる操作が可能であって、暗夜、多忙、激動下、酩酊、あらゆる状況で過不足なく私を支えてきてくれたのである。こうなると修理して使い続けたいのがやまやまだ。だがしかし、私は貧乏人でもあって、単なるノスタルジーにお金をかける余裕はない。さすがに愛用15年目までくると、修理代に1万円以上かかるのであれば、新しいものを求めた方が経済的である。

 こんなに長持ちしたG-SHOCKであるから、次もまたG-SHOCKにしたい。

 古い「GW-600DJ」は、当時三郷市にオープンしたばかりであったヤマダ電機の大型店舗で買ったが、今回はAmazonでポチることとする。

 依然、「デジタル、金属バンド」のものは少ない。カシオの公式サイトで全部の製品を検索すると236もの製品が表示されるが、「デジタル・金属バンド」だと、5種類しかない。

 15年前と比べると、G-SHOCKも貪欲に時代の趨勢を取り入れ、スマホとのBluetooth接続をはじめとした「Connected」機能、バイブレーション機能、長波標準電波による時刻較正(こうせい)だけでなく、GPSによってもこれを可能とするなど、便利そうな機能のオンパレードであり、目移りする。

 ともかく、私の身の丈に合った「MTG-M900」というシリーズから、逆輸入品の「MTG-M900DA-8」というものを選ぶ。

 これはスマホとのBluetooth接続やGPS較正とは無縁で、ただただ、腕に巻いて正確な時刻を知るということに忠実な堅牢(けんろう)時計である。なによりも、「安いこと」、これである。

 国内向けの真っ黒な仕様の、「MTG-M900BD-1JF」というのが気に入りはしたが、これはそのイメージのみの影響であろう、値段が(ほぼ)倍となってしまうことと、黒い塗装が剥落(はくらく)しそうなこととで見送った。

 古いものより一回り大きい。さすがに、逆輸入品だけあって、アメリカ人の体格に合わせてあるのか、バンドは「コマ詰め」をしないとそのままでは使えない。

 かつて時計のバンドのコマ詰めというと、時計店に持っていくしかなかったが、ネット時代のありがたさ、情報を渉猟するとすぐにコマ詰めの仕方もわかった。ネット上では電池交換の仕方などもわかるようである。

 この機種の場合、ごく細い精密ドライバーを準備する。バンドの裏をよく見ると、小さな矢印がいくつも描いてあり、ちいさな隙間がその矢印の先にある。隙間にはコマにはまったピンが覗いている。矢印は「その隙間からピンの先の突起を矢印の方向に押せ」という意味である。

 小さな精密ドライバーの先で押すと、バンドのコマは簡単に外れる。自分の手首に合わせてコマを外し、長さを詰める。

 時計店ならさっさとやるのだろうが、そこは素人の悲しさ、ピンのバネが()ねてどこかへ飛んで行ってしまい、それをアタフタと探すなどして、30分ほどもかかってしまった。だが、自分の手でコマ詰めは上手(うま)くできた。

 ともあれ、これはなかなか、買い物であったと思う。安く買えたし、性能・機能・デザイン、ともに満足である。

 古い「GW-600DJ」は38歳の時に買い、15年ほど()った。そこからすると、今私は53歳だから、今度の「MTG-M900DA-8」は、68歳までは使えるかもしれない、ということになろうか。……70歳まで使うことができれば、まことに嬉しいことである。

目線の高さを合わせる

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 子供に話しかけるなら、しゃがむなり、腰を(かが)めるなりして、子供の顔に目線の高さを合わせてやることが大切だ。子供も子供なりに人格を認められたと感じることだろう。

 難しいのは、「背伸びをしてこちらの高さに合わせようとしている子」の目線の高さに合わせることだ。背伸びをしなくていいようにこちらの目線を少し低くしてやると、子供は「バカにされている」と感じるし、かといって背伸びした高さに合わせると、つま先立ちの不安定さからやがて子供はよろめき、あるいは立ち転び・居転びしてしまうかもしれない。

 どの高さに目線を合わせてやるべきかは状況により様々であり、正解はないが、いずれにしてもこういう子供は慎重に扱ってやらなければならないことは確かだろう。

 が、時間が経てば、子供の背は伸びる。せいぜい20年で、対等に喋ることができるようになる。つまりは、単純に時間が必要なだけだ。

 ……言うまでもないが、上記は社会人における人間関係の例え話である。

素直に取り組む

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 今日、7月1日は、私にとっては、感慨深い日です。

 徹底的に頑張り抜くとか、死ぬまでやります、どんなことがあろうと負けずに完遂します、私が死にさえすれば皆のためになるからそうします、五体尽きるともなお撃ちてし止まん……というような、そんなことは、すみませんが今の私にはできません。それが私に期待されていることだというのなら、申し訳ないですがご期待には沿えません。

 これまで知らずにしでかしてしまった数々の失敗を全て糊塗できるならそうしたいですが、それは無理というものですから、糊塗もしません。口先でお詫びしたって、それは詮無いことです。責は甘んじて受けますから、責めてください。

 それよりも、素直な気持ちで、人の気持ちや努力に報いたい、どうにかして、なんとか上手に整えたいのです。下手糞のくせに上手に整えたいなどとは、言う人に言わせれば笑止千万でしょうが、でも、それが今の私の正直な気持ちです。

 なれるものなら、空っぽの湖のような、完全に澄んだ素直な気持ちになりたいのですが、五十歳過ぎの、色々と引きずっているオッサンには、そうした完璧な気持ちになり切ると言うのは困難です。でも、そういう中にも、追求できる素直さはあると思いますから、なんとか素直にします。

 バカにされようと、頑是ない子供のように教えを請いたいと思うのです。なんでも聞きまくる子供の素直さを真似たいのですが、本当にそうしたら、私は笑われてしまうでしょうし、面倒くさいおっさんだと思われるでしょう。それでも、本当に子供の真似をしましょう。

 これまで私は、大人のふりをして、知ったかぶりをしてきました。何かを始めることは難しいですが、何かをやめるということは、わりあいに簡単にできます。それなら、私の悪い癖である、知ったかぶりをやめたいと思います。

こどもの日

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天皇陛下万歳

 祝日「こどもの日」である。玄関に国旗を掲揚する。

 民主党政権時に「子供の日」から「こどもの日」に表記が変更された。いわく、「『子供』というのは差別語である」という、サッパリ理解できない理由だった。「子供」という単語が差別なんだったら平仮名(ひらがな)で書いたところで差別は一緒だろう、と思う。「支那人」を「しな人」と書いたって、朝日新聞流に言わせればやっぱり差別だろう。

 自民党政権に復した時にこの「こども」や交ぜ書きの「子ども」が、清々と「子供」表記に戻らないかな、と思ったが、わずかに「こども手当」が「子ども手当」に変わったのみである。半分だけ戻す、て、一体もう、もはや何が言いたいのかしたいのか、全然わからない。交ぜ書きも気持ちが悪い。

 しかし、祝日法を改正までして法定の名称を律しているのであるからには、どうにもしようがない

 繰り言はさておき。毎年同じことを書いているが、この「こどもの日」は、実は法定の「母の日」でもある。祝日法には次のように記されてある。

祝日法第2条抜粋

こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。

 自分の子供たちの母である妻に感謝したいと思う。

デデ・たま

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 長女が「お父さん、『デデデデ』の新しいの、読んだんだっけ?」と聞いてくる。

「おう、そういやアレ、出たんだったか?」

「そうそう、この前5巻出たよ、……お父さん4巻読んだっけ?」

「いや、えーっと、どうだったかな……」

「じゃ、……ほら、これ」

……と、4巻と5巻を両方とも出してきて並べてくれる。

 長女は、自分の好みの仲間を増やしたい気持ちもこれあり、私と一緒に面白がることができそうなものを推奨(リコメンド)してくるようになった。

 そうかと思うと、先日などはゴソゴソとロフトを漁っている。何しているのかな、と思ううち、私が昔購入して大事に仕舞っておいた「たま」のアルバム「さんだる」を引っ張り出してきて、「お父さん、これ、何、何?!」と聞いてきたりする。初盤限定オリジナルカード付きの逸品だ。

「おう、これ、お父さんが時々カーステレオでかけてる、『♪今日~人類がはじめてェ~……』って曲あるだろ、アレの入ったやつだ」

「あ、あれ、これだったんだ!?」

「お前が生まれる前、お父さんとお母さんが知り合うよりもまだ前で、お父さんは20代だったがな。『イカすバンド天国』っていう深夜番組があって、ロックバンドが勝ち抜き戦で競うんだけど、ある年の最強チャンピオンがこの『たま』だったんだよ。……割と最近、何年か前まで活動してたけど、解散しちゃったんだよな」

「へえ……これ、貰ってもいい?」

「……。お、おう。やる」

 長女は熱心に古いCDを聴いては「たまは天才だー!」「何か新しい~」などと言っている。我が娘ながら、なんだか変わっているとは思う。

 子供というものも好みや趣味はだんだんと変遷するもので、まあ、長女は今そういう時期なのだろう。

目標通り人口の増加は止まったが、出口が……

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 驚いた。この記事なのだが……

 今、私たちは少子化、人口減をなんとかしようと血眼になっている。しかし、昭和49年(1974)には、世界人口の増加を食い止めるため、政府の方針で人口を減らそうとしていたのである。このこと、うっすらとは覚えていたが、忘れてしまっていた。

 そう、私が小学生の頃の事なのだが、実際、私より3、4歳上の人たちの頃、子供が非常に増え、小学校などが大急ぎで増設され、教員が大量採用されていたのである。

 今、女性の自尊心をくすぐって働かせようとしているが、これは、子供が減った分を手っ取り早く埋め合わせ、納税人口を増やそうという政府の作戦である。

 政府もいいところへ目を付けたもので、女性たちも「働いて税金払え」と言われると「なによう!!そんなこと言うんだったら戦争法案なんかやめて人殺しのための予算を減らせばいいじゃない!」と怒り出すが、「これからは女性が光り輝く時代、活躍する女性ほど美しいものがあるでしょうか。アメリカもヨーロッパも既に女性こそが外交・経済・軍事・文化の中心になってますよ、遅れているのは日本の惰弱な男どもの考え方だけですよ!それを改めさせないと!」と言われると「うふふふ、そうかしら、働かなくっちゃ!」と張り切り出すと言うものだ。

 女性が働くのは本人の幸せのためにも良いことだと思うし、また、家族や、ひいては社会の活力、また経済などにも好もしい影響を及ぼすとは思うが、新聞やテレビに紛れ込ませてある「くすぐり」にウッカリ乗るのは、それは、「皆さん騙されてまっせ」ということである。

手作りアイスクリームの白玉小豆(あずき)

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IMG_4176 次女が昨日から台所でなにやらゴソゴソしているな、と思っていたら、「お父さんおやつゥ~」と、アイスクリームの白玉小豆(あずき)を出してくれた。

 アイスクリームは卵や生クリームを合わせて、自分で手作りしていた。小豆も炊いたらしい。チョコレートは湯煎にかけて手作り。抹茶入り白玉も、全部手作り。

 アイスクリームは何度も冷凍庫から出してかき混ぜなくてはならないので、なかなか手がかかったようだ。

ふざけ二分木

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 「結婚したい/したくない」「子供ほしい/ほしくない」とかいうのも、男/女でいろいろと組み合わせが出てくるなあ、と思った。それぞれいろいろと考えるところがあり、たったこのくらいの事でも、相当たくさんのタイプになる。

 ははあ、これは二分木的なロジカル・シンキング・ツリーだなあ。

 というわけで、「男/女」「結婚したい/したくない」「子供ほしい/ほしくない」「仕事したい/したくない」「容貌美/醜」で全列挙し、それぞれがどういう人なのか考えてみた。

ふざけ二分木

  •  スプレッドシートはコレ

 うーん、やっぱり、男女とも、結婚したくなく、子供ほしくなく、仕事したくなく、……ってあたり、無理があるよなあ。

貧困など増えていない

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 先日のことだ。見るともなし、つけっぱなしになっていたテレビから、NHKの人気番組の惹き文句が耳に入ってきた。

 「子供の6人に1人は貧困である」という。

 私の知人にはデータに取り組んでいる人も多く、統計に詳しい人もたくさんいる。この人たちは、おそらくであるが、この番組の惹き文句を聞いて、私と同じように「やれやれ…」と思っているに違いない。

 所得の分布が正規分布に従うとしよう。

 もう、こう書いた時点で、私の友人知己のみなさんは、「ああ、わかったわかった、言わずもがなのわかりきったことを言うなよ佐藤よ。ばかばかしいじゃないか」と言うだろう。だが、痛々しく、かつくだくだしく、書かずにはおれない。

 仮に、「国の貧困基準」なるものを、平均から1σ下げたところに決めるとしよう。残差自乗平均だの分散だのということは今さら解説すまい。計算するまでもなく、1σより下が貧乏人だというなら、ざっと17、8パーセントは常に貧困だ。そりゃ、6人に1人は、貧乏に決まっている。

 施策を打とうがなにしようが、貧困というのが他者との比較に基づく相対的なものである以上、そうなる。

 テレビって、なんでこういうものの言い方をするんだろう。

まったくだ!!

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 まったくだ!!私が言いたいのも、まさにこれだ!!よくぞ言ってくれた。

「子ども」「障がい者」 漢字が悪いわけじゃない
http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1255339529

10月12日11時5分配信 産経新聞

 政権交代して、新聞にやたら「子ども」の表記が目立つようになった。民主党が掲げる「子ども手当」による。筆者に言わせれば「子供」と「子ども」とは別の概念だ。小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方だ。

 なるほど「子ども」と書いても、この「ども」に複数を表すという意識はもうほとんど薄れている。だからといって、この接尾語「ども」が完全に滅んだかといえばそうではない。野郎ども、アホども、子供どもといえば複数概念がちゃんと生きていることが分かろう。この「ども」には、相手を見下すニュアンスがある。だから、「子供」よりもよほど子供を侮った書き方なのである。

 「子ども」表記にこだわる人に、「供」はお供の供で、子供を供え物のように扱う人権無視の書き方だという人がいるが、事実は右のように「子ども」の方がよほど子供の人権をないがしろにした書き方なのだ。

 子供の「供」は当て字だから「子ども」と書くのだという人には、こう言おう。「あなたは仕事を『し事』、乙女を『おと女』と書きますか」と。

 国語表記の基本は漢字仮名交じりだ。青空、恋人、場合、芝生のような純粋和語をもあたかも漢語のように漢字2字で表す工夫をしたのは、それが最も読みやすく理解しやすいからだ。それは長い時間をかけて出来上がった先人の知恵の集積であって、おかげで現代人はその恩恵に浴しているのである。妙な理屈をこねて、国語表記を毀損(きそん)する交ぜ書きを広めることに強烈な異議を申し立てたい。

 同じような理屈で、民主党の障害者の書き方は「障がい者」である。「障害者」ではまるで“人に害を与える人”みたいではないかと、これも多分“人権派”の、ある人が思いついたものであろう。それを自治体の幾つかが使用しだし、それが徐々に広がりつつある。

 「障害」は昭和31年の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえ」に例示された「障碍(しょうがい)」の書き換えで、その後急速に広まった表記だ。だから、筆者はこれを「障碍者」に戻すことに異議は差し挟まない。しかし、「障がい者」と交ぜ書きにすることには反対である。

 なぜなら「がい」は音声を表すだけで意味を持たない書き方だからだ。「障害者」の「害」は“そこなう”という意味を持つ。「障碍者」の「碍」は“さまたげる”という意味を持つ。漢字ならそれがありありと見える。そういう人は心身が正常に機能するのにさわりや、そこない、さまたげを持つ人と理解するのが常識というものだ。“人に害を与える人”などというのは為(ため)にする議論である。

 「障がい者」は、障害者のハンディに目隠しをする書き方であり、非障害者が障害者を見て見ぬふりをするのに都合のいい書き方とさえいえる。

 文字はもとより、人の世を映して、それを表す手立てにすぎない。人の世には善があれば悪もある。美があれば醜もある。光があれば闇もある。「供」であれ「害」であれ、決して漢字が悪いわけでない。「子ども」「障がい者」と漢字隠しをしても、問題は一つも解決しない。けしからんのは漢字ではなく人間の方なのだから。新政権はそこをよくよく考え、国語表記の襟を正すべきだ。(塩原経央)