「春は花、花は桜」という。
愛用の歳時記、角川の合本の「花」の見出しを見ると、傍題季語には、
花明り
花影
花時
花過ぎ
花朧
花の雨
花の山
花の昼
花の雲
花便り
花の宿
花月夜
花盗人
……と、ゆかしい言葉が並んでいる。花そのものでなければ、「花疲れ」「花
今年の桜は既に咲いたが、今日は雪が降っている。「花の雪」という言葉は歳時記に載っていないが、あってもおかしくないな、と思う。
傍題ではなしに、見出し季語で「花冷え」という言葉もある。そこからすると今日などまさしく花冷えと言える。
オッサンは生きている。
「春は花、花は桜」という。
愛用の歳時記、角川の合本の「花」の見出しを見ると、傍題季語には、
……と、ゆかしい言葉が並んでいる。花そのものでなければ、「花疲れ」「花
今年の桜は既に咲いたが、今日は雪が降っている。「花の雪」という言葉は歳時記に載っていないが、あってもおかしくないな、と思う。
傍題ではなしに、見出し季語で「花冷え」という言葉もある。そこからすると今日などまさしく花冷えと言える。
三春九十日と言う。立春
ところが今日は冷え込み、太平洋側に低気圧が現れて、思いもよらぬ春の雪となった。昼にますます気温が下がり、手先が冷える。それと共に雪の
躑躅に春の雪、とはなかなか
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
さえずり季題【486】は(桜)です。冬の桜や山桜、ソメイヨシノや八重桜。花も種々あるけれど、時と所を弁えて、津々浦々に笑顔満開。例句(さまざまの事おもひ出す櫻かな 芭蕉) #jhaiku #saezuriha #saezuriha_odai pic.twitter.com/CgrrsMDGNj
— 平坂謙次 (@hedekupauda) March 27, 2020
そんな折にあっても、春は深まり、梅も桃も桜も咲く。
微生物禍などどこのことだとでも言いたげな快晴、暖かな風の吹く青い空の下、読みかけの本を持ってお気に入りの蕎麦店「SOBA満月」へ行く。
街の八百屋さんやスーパーの店先には春野菜が出ているから、今日のSOBA満月では、天婦羅を頼めば何かおいしい春野菜が揚がっているかな、と思ってメニューを見ると、季節メニューで「
新潟の銘酒「
旨い。蛍烏賊の香り、歯ごたえ、軽い味。「鶴齢」を含みつつ、
酢味噌の味噌は濃い味付けに調えられている。
なにより、付け合わせの「菜の花」の程よい茹で加減、歯ごたえ、香り、申し分なしである。
飲みかつ喰い、持ってきた本を10ページばかり読む。
香り、歯ごたえ、味、のど越し、何をとってもこのお店の生粉打ちは旨い。
帰り、自宅を通り過ぎて、小一時間ばかり歩く。自宅の東の方にある「
桜は六分咲き、今が一番見頃であろうか。
青天白日、桜を見上げながらゆっくりと歩き、SOBA満月で飲んだ鶴齢の
世間の騒ぎをよそに、私の家の周囲は、かくも静謐・平和である。
「
薬喰と言えば無論、冬の
だが維新後、明治大帝におかせられては「ひとつ
ともかく、薬喰は冬の季語とて、今日も寒い。高校3年生は今日センター試験であるという。このところ毎年のことだが、センター試験と言えば東京周辺は雪と決まったもので、今日も雪交じりの冷たい
読みかけの古書、平凡社の世界教養全集第5巻「幸福論/友情論/恋愛論/現代人のための結婚論」を携えて、行き付けの蕎麦店・南越谷駅傍「SOBA満月」へ足を運ぶ。
今日の蕎麦前は、新メニューの「白子ぽん酢」に新潟の銘酒「吉乃川」をぬる燗で2合。「白子ぽん酢」は昨日から始めたばかりの肴メニューなのだという。この店で魚介の生ものは珍しい。新鮮でみずみずしくクリーミーで、紅葉おろしと
読書しつつ酒を飲み、飲み終わったら蕎麦にする。今日は寒いから、「卵とじ蕎麦」にする。
熱々のかけ蕎麦に、フワフワのとじ卵がたっぷりかかり、三つ葉と葱のアクセントがおいしい。ふうふう吹きながら手繰り込み、半分ほど食べて、やおら七味唐辛子を効かせると、寒さなどどこへやら、芯からホカホカと温まってくる。
飲み喰いしつつ、本を読む。
「現代人のための結婚論」は、結婚ということそのものについては勿論のこと、結婚後の夫婦の日常生活についても多く言及している。それが、夫婦間だけではない、職場の人間関係などにも大いに参考になる、強く共感を覚える示唆を
p.438から
そこに相互性のない愛情を私たちは愛情と呼ばないことにしよう。たとえば、私はイヌを愛する、なぜならイヌも私を愛しているから、という場合はよい。けれども、私は着物を愛するという場合には相互性がない。だが、これだけでは愛情の規定としては充分でない。親子間、夫婦間、恋人間の愛情は相互性をもってはいるが、この相互性ということだけで、「私は愛情のために結婚した」という場合の、愛情の性質を説明することはできない。愛情は人間がちがえばちがった事がらを意味する、というのは、その人々の生活の背景や経験や年齢によって愛情の意味がちがってくるからだ。
成熟した人間は服従をとおして真の自由を見つけ出す。ところが未成熟な人間は不服従によって自由をかち取ろうとする。
成熟した人間はその行動をコントロールする。
これはわかりきったことだ。だが、たいへん重要なことだ。自分をコントロールするとは、手っ取り早く言えば、将来のために現在の苦痛や不満を我慢するということだ。自分の現在の欲望や衝動だけを行動の原理とする人間は成人になっていないわけだ。子どもというものは現在の欲望をコントロールすることができないからだ。多くの学生結婚はこうした未成熟の結果であることが稀ではない。彼らは待つことができなかったのだ。自分をコントロールするとは、「待つ」ことができるということだ。
つまり、自分をコントロールする人間の行動は、苦痛とか快楽とかいったものではなく、むしろいろんな原則に基づいて決定されるわけだ。若い人はしばしば、成人になれば何でもかってにできるのだと考えたがる。言いかえれば、自分の行動を制限するものがいっさいなくなること、それが成人になることだと考える。けれどもそんなふうに考えることは、彼がまだ成人になっていない、未熟であることの証明でしかない。成人とは成人の行動原則を自分に課する人間のことだ。たとえば、子供は他人の思想や行動のプライヴァシイ(私的な性質)をいっさい認めようとしない。だが成熟した成人は他人のこのプライヴァシイを充分認める。
とにかく、なぜある人間が現在あるような人間であるのか、このことをもし私たちが理解するならば、たといそのような彼を変えることができなくても、私たちと彼との関係をいくらかでも気持よいものにさせることになるだろう。つまり私たちは彼の行動を変えさせることはできない。しかし私たちは彼の行動について私たちの解釈を改めることはできる。そしてこの事自体、意義のあることなのだ。
上の部分、実に、職場での人間関係においても適用可能な示唆に富む。
忠告 もむずかしいものだ。相手が忠告を求めていないときに忠告するのは、無用であるどころか、有害かもしれない。それに忠告は命令ではない。だがしばしば、私たちは忠告と命令とをとっちがえる。命令だったら、相手がそれを守ってくれるか否かを見守る必要がある。だが忠告は、相手がこれを受け入れようが受け入れまいが、本当はこっちの知ったことではないのだ。世の中には何かをさせようとこちらから働きかければかけるほど、しりごみする人がいる。劣等感がそうさせるのだろう。こういう人に対しては、こちらが相手にしてやる、あるいは相手を助けてやるよりも、相手をしてこちらの手伝いをさせるように仕むけることだ。相手がこっちのために何かを自発的にするように仕むければ、やがて劣等感という心のシコリはほぐれるだろう。
この部分も夫婦間ではなく、職場における上下関係などにおいても適用可能な示唆に富む。
夫婦は大いに話し合い議論し合った方がいいという意見がある。だが、本当はそういうことはむずかしい。なぜなら、議論というものは表面上は理性と論理の上に立っているように見えるが、じつは
感情 の上に立っている場合が多いからだ。
議論のきっかけが相手の行動や考え方に対する反駁であるとすれば、へたな議論をしないためには、この反駁や反論を中途でやめるというか、「反論はできるのだが、今はしたくないのだよ」という態度を示すことがいい。反対論をしばらく括弧の中にくるみこんでしまう態度、それが「寛容」といわれるものだ。
上の箇所も前の箇所と同じく。
相手につまらぬことで干渉しないことだ。
さらにまた、もし諸君が小さなつまらない事がらで相手と意見が一致している、そして一致していることをお互いに気持よく認め合うことができれば、大きな事がらで意見が一致しなくても、諸君は平静にまた効果的に相手を動かすことができる。反対に、諸君が日常の小さなつまらないことでいつも妻と意見を異にしているとすれば、重大な問題で、意見を一致させることはたいへんむずかしくなる。
上の箇所も前の箇所と同じく。
勿論、読んで字の如く、明け方の星のことであるから、「数が少ないこと」を言う。
外から与えられるものを素直に受け取って、そのままそれを実行するような従順な、あるいは個性のない人間なんて、いまどき、暁天の星ほどにもおるまい。
#kigo #jhaiku #haiku #saezuriha
(平成25年に詠んだ俳句。……最初は「避ける」で読みました。)
花筏避ける水棹の不慣れかな 佐藤俊夫 #kigo #haiku #jhaiku #saezuriha (花筏、春。散った桜の花弁がひとかたまりになって筏のように川や池を流れていくようすのこと。)
— 佐藤俊夫 (@SatoToshio) April 2, 2013
ホーキング博士と言えば、思うに私などが子供の頃から活躍していた。何分学究の間の事は私などにはよくわからないから、その宇宙論がどれほどのものであったのかなど理解できない。
しかし、体の不自由をものともせず多大の研究成果を残したのだ、ということは、理解できる。
祈冥福。
ざまぁ見やがれ。こいつら如きの死刑執行は、遅れれば遅れるほどいい。拷問のように苦しみは倍加だ。思うに、50年くらいはいつ執行されるのかもわからない無明の闇の中に放置したほうがいい。
その際、変なジャーナリストなどが獄中からの声などを中継しないようにしたほうがよい。忘れ去られ、誰からも尊重されず、誰にも自分の言葉を届けることができないまま、死刑を待つのだ。
だって、アメリカだってリビアにCIA送り込んでカダフィ暗殺してるぜ?同じだろ。
今年はずいぶん早いようだ。
今日は外出していたが、もう梅は最後、桃は散り始め、という印象もあった。
ところが少し肌寒く、なのに青空が広がり、気持ちの良い一日だった。
図書館へ本を読みに行く。この前から読みかけの「蕎麦通・天婦羅通」という戦前の本の復刻だ。
最近珍しい本を読むことが多く、市立・県立の図書館にはないようなものに限って読みたくもなるもので、それで国会図書館へばかり行っていた。
国会図書館には古今のあらゆる本があり、漫画や雑誌まで含めて全て読むことができる。だが、ただ一点の難は借り出しができないことだ。なので、文字の多い本を数日かけてじっくり読むと言う事ができない。
この本、「蕎麦通・天婦羅通」は、先日たまたま市立図書館で見つけた。市立の図書館なので、この本は借り出すことができる。
読み始めた時には拾い読みする積もりで、借り出す気はなかったのだが、面白いから全部読みたくなってしまい、結局、今日になって借り出した。
こういう本を読んでいると本当に腹が減ってしまう。蕎麦の本だから蕎麦を
前々から気になっていて、だが入ったことのなかった、上野・池之端、仲町通り入り口に近い「蓮玉庵」へ行ってみることにした。
上野・池之端と言うと「池之端藪蕎麦」に限ったくらいのものだったが、残念ながら先頃閉店してしまった。今は店も取り壊されて、すっかり更地だ。
だがこの「蓮玉庵」も、なかなかどうして、江戸時代創業の有名店なのである。
樋口一葉の日記や野村胡堂の作品などにも登場する古い蕎麦
上野・池之端の仲町通りはピンサロなどの客引きが多くて閉口するが、そんな中、この蕎麦屋は貫禄のある古い店構えで、ひときわ目立つ。
表の店構えは相当に古びているのだが、一歩店内に入ると、美しく調度されており、非常に清潔な店内である。壁の造り付け棚に
品書きはそれほど多くはない。酒の銘柄がいろいろ揃っているというわけでもない。だがそれだけに迷わず楽しめるのだ。
酒をぬる燗で一合、肴に焼海苔をとる。
焼海苔はシンプルにお皿に乗せて出してくる。通しものは煮豆だ。やさしく、かつ味わい濃く煮てあって、これは酒に良い。
盃一杯ほど酒の残っている頃おい、蕎麦をたのむ。私は蕎麦屋に入ったら、いつもは大抵、「もり」や「せいろ」、あるいは「かけ」をたのむことにしているのだが、今日はこの店
1枚目と3枚目は新蕎麦風味の
2枚目に、季節ごとの変わり蕎麦が入っており、今の時季は「桜切り」である。写真の左側のものだ。馥郁と桜の香りがする。桜の花と葉が練り込んであるのだ。
実に旨い。
蕎麦
酒 一合 | 700円 |
焼海苔 | 400円 |
古式せいろそば別打ち入り三枚重ね | 1000円 |
合計 | 2100円 |
本当に東京の蕎麦屋らしい蕎麦屋で、のんびりと飲みかつ
この前まで不忍池の周りは工事中で、東京オリンピックや外国人観光客の誘致を狙ったものか、舗装などを相当直したようだ。
今日は工事が完成していて、沢山の人で賑わっていた。
桜は七分咲きというところだが、折
折角だから弁天に詣でる。
布施をして、「融通守銭」というのを頂き、お香も寄進する。
花見の時季を当て込んでか、相当数の露店が出ていて、美味しそうな匂いをふりまきつつ、焼いたり煮たり、声を枯らして客を呼び込んでいる。昔の風景と違うんだろうな、と思うのは「ケバブ」の店が何店かあることだ。それに、縁日などを見物に出かけていつも思うことだが、寺の境内で肉類の露店、豚焼きや焼き鳥などがあるのも面白い。これは関東の特色だろうか。
弁天堂の参詣列にヒジャブを被ったイスラム教徒が並び、手を合わせている。……いや、コッチはいいんですがね。正月に皇居の一般参賀に行った時にも思ったことだが、あなたがた、イスラムのバチが当たるんじゃないですかと、他人事ながら心配してしまう。
弁天島からボート乗り場に隣り合う堤を歩いて行って、池之端の方に戻り、ふと思いついて「下町風俗資料館」へ入ってみる。
昔の長屋の暮らしが再現されており、座敷へ入ってみることもでき、大変面白かった。
小雨の桜もいいものだな、と思った。